五、
前話より更に長くなります。お気を付け下さい。
風に舞う枯草や小柴の向こうに、黒ずんだ靄が立ち込めていた。
半分は細かな砂が舞い上がったもの、半分は戦場に流れた血が、霧となったものだ。
徐庶は黙ったまま、物言わぬ兵士の身体をまた一つ、城壁の内まで引きずり運んでいった。
城内へ足を踏み入れても、そこには惨憺たる光景が広がっている。死臭と血生臭さが漂い、怒号と雑踏の喧騒収まらぬ中、徐庶はただ機械的に足を前へと運び続けた。
途中、駆け寄ってきた兵士の一人に、貴方の任ではありません、お止めくださいと声を掛けられる。
門のそばに延々と並べられた骸の列。その一番端にそっと兵士の体を横たえ、虚空を睨む一つしかない瞼を閉じてやった。
「人手が足りぬ」
尚も追いすがり、止めようとする士官にそれだけ告げると、徐庶は連綿と続く遺骸の連なりをまた遡ってゆく。どうせ、今は他に出来ることはないのだ。
辺りに漂う死の気配は濃い。弱風が運んだむわりとした臭気に、徐庶はつい袖で鼻と口を覆いかけた。だがその手は何かに打たれたように、すぐに脇へと下ろされた。
遺体は頭髪を一房ずつ切り取られ、名を記した木冊と共に、家族の元へと送られる手はずになっている。城壁の端から端まで及び連なる、もう動かない戦友の間を縫うようにして、疲れきった顔の兵士達が淡々とその作業を進めていた。
検分と遺髪回収の済んだ遺体には、次々と莚が掛けられてゆく。その為の莚は有り余っていた。こんなことに用立てる為のものではなかったはずだ。徐庶は人知れず、奥歯を噛み締めた。
ある兵のなきがらの前で、歩む足が唐突に止まった。見開いた目に飛び込んできた、血と埃塗れの顔には、確かに見覚えがあった。うっすらと開いた瞳の白い部分が、暗がりでぼんやり浮き上がって見えた。
二百の軽歩兵で八百の騎兵を迎え撃った時に、陣の中にいた兵士だった。低い声で「来ますぜ」と言った黒い顔が、ぴくりとも動かない姿でそこにあった。
石になったように動けないでいる徐庶の前で、その兵士の白髪の交じった毛髪が手際よく切り取られた。係の兵はあっという間に遺髪を紙に包んで縛り、横の同僚に手渡すと、忙しなく次の遺体に取りかかった。
黒い顔は程なく、莚に覆われ見えなくなった。
徐庶は踵を返し、その場を立ち去った。
三十六番閭(りょ・百人単位の部隊)を包括する七番部曲は、西門の端に駐屯していた。
日が落ち、炬火がぱちぱちと火の粉を上げ始める頃、行き交う兵士に時折肩をぶつけられながら、足早にそちらを目指す者があった。
黒衣粗冠に白い布を頭に巻いた、一風変わった姿の男は、向こうから来る兵を捕まえては七番部曲は何処かと訊ねて回っていた。兵の方も異装の男が誰かを分かっているようで、丁寧に応対している。男は、兵が指を差した幕舎へ駆け寄り、あたふたと慌てふためいた様子で扉を開いた。
「部曲長。梁部曲長はいるか」
突然の闖入者に、幕舎内が一瞬静まり返る。黒装束を認めた兵士がばらばらと拱手するのをよいと短く制して、男は何かを探すように辺りを見渡した。
「軍師殿、こちらです」
兵の一人が慇懃な口調で、堂の奥へと男を導いた。奥の人だかりが割れ、敷物の上で半身を起こす一人の若者の姿が現れる。片腕を粗布で吊った青年はすぐにこちらに気付き、息を飲んだ。
黒衣の男の、ややそびやかし気味だった肩がほっとしたように落ちる。
「梁信、無事だったか」
「徐庶殿、こんなむさっ苦しいとこに」
若者は無造作に自身の手を重ねようとしたが、直後にいってえと悲鳴を上げて、思い切り顔を顰めた。腕の怪我を失念していたようだ。外見より余程元気そうな姿に、黒衣の男は気が抜けたように大きな溜め息を吐いた。
第七部曲は右軍の中程に配置されていたと、若者は語った。戦端が開かれた直後に、部隊の者ほぼ全てはなすすべもなく馬に蹂躙されたのだという。
部隊長たる梁信も、構えていた楯ごと突進してきた馬群に踏み砕かれ、気が付いた時には地面に倒れ伏していた。その時は死を覚悟したが、運良く右腕を骨折しただけで、同様に足を怪我した者を抱えほうほうの体で砦に引き上げたのだそうだ。
「すんません、徐庶殿。しくじりました。何があっても、あんたについて行くって言ってたのに」
「いや、よく生きていてくれた」
徐庶は深く頷くと、沈痛な表情を浮かべ面を伏せた。
「梁信。お前の部隊にいた兵で、五十がらみの、えらの張った」
「楊のおやっさん、ですよね。さっき聞きました」
言って、梁信は悔しそうに無事な方の手の拳を、ぎゅっと握りしめた。
「あの人は青州兵が黄巾を巻いてた頃からの古株なんすよ。刀剣も使えて頭も切れて、もっと出世を狙えたのに、自分は命令を聞いてるほうが楽だからって。
あんま喋らない人だったけど、俺が同郷だと知って、軍や武器のことなんかを色々教えてくれました」
握りしめた拳が、額に強く押し当てられた。かけがえのない部下であり、先達でもあった者を亡くした若い部隊長の言葉に、男は黙って耳を傾ける。
「……一番下はまだ七つなんだって、嬉しそうに言ってました。郷里に帰ったら、一応部下のことだし、やっぱ俺がじかにお内儀さんに会わなきゃすよね。参ったな、どんな顔してたらいいんすかねえ……」
僅かにも笑いに紛らそうとした顔が、失敗してくしゃりと歪んだのが見て取れた。
「すんません、すんません。みっともねえとこ、見せちまって。
けど徐庶殿、逃げるにしてもその前に一度、一度だけでいいんす。
後生っすから、あいつらに目に物見せてやる策を、どうか。一兵卒がこんなこと、言う筋合いねえってのは分かってます。でもこのままやられっ放しじゃ、黄泉にいるおやっさんに顔向け出来ねえ。
どんな無茶なことでも、つらいことでもやります。だから、この通りっす。あんたなら、思い付くでしょ、少ない兵で大軍を破れる作戦、あんたなら……」
若者は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔をうつむけ、震える声を詰まらせた。
その肩に、ぽんと手が乗せられた。
「済まん」
期待したものと真逆の言葉に、梁信は弾かれたように相手を見上げた。
痛ましげな、しかし堅く強張った表情で、男は若者の肩に置いた手に僅かに力を籠めた。
「本当に済まん。もはや私では、役に立てないようだ」
すがるように見つめる者の視線を振り払い、黒衣の男は立ち上がる。
身体を大事にな、と言いおいた言葉が、相手に届いたかどうか。
待ってください、と掛けられた声を一顧だにせず、男はその場を後にした。
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開け放した戸口から差し込む月の光が、燭台の灯りが不要な程明るい。手元の木簡に筆を走らせるのにも、不自由はなかった。
徐庶は書き終えた文にもう一度目を通し、間違いがないことを確かめると、ほっと息を吐き筆を置いた。
しばらく、瞑目する。しんと冷たい夜風に乗って、遠くの点呼の声がかすかに聞こえた。
こんこん、とはっきりした物音が、唐突に耳朶を打った。瞼を開き瞳だけを音のした戸口の方に向けると、胡麻塩髭を生やした壮年の男が、ひと抱えもある瓶子を手に立っているのが見えた。
「よう、天才軍師。一献お付き合い願おうか」
「臧将軍。わざわざお越し下さるとは」
臧覇は勧められもせぬのに、卓を挟んで房(部屋)の主人と向かい合い、どっかと腰を下ろした。
そして素焼きの盃を二つ、卓上へごんごんと乱雑に置き、勝手に瓶子を傾け始める。
「お前もやれ。弔い酒だ」
「いたみいります。ですがその前に」
今しがた将軍のところに伺おうと思っていたのですと続けつつ、徐庶は卓上に置かれた二つの書簡を手に取り、総大将の前に差し出した。既に盃に口を付けていた臧覇は、甚だ面倒くさげにじろりとそれを見遣る。
「何だそれは」
「出来うる限り犠牲を抑えて撤退する方策を、記しておきました。またこちらは、新たに着任した従事中郎の職務懈怠、横領及び賄賂受領等、素行不良の罪状を列挙した告発状です。
許都に無事戻られた際は、これを丞相に」
神妙な面持ちで二巻の書を捧げ持つ若い軍師の顔を、臧覇が細い目をますます細くして眺めやった。総大将の鼻の頭に不愉快を示す皺を見つけ、徐庶はいぶかしみ僅かに首を傾げた。
程なくふん、と盛大に鼻を鳴らし、壮年の将軍は一気に盃を呷った。
「そこまでではあるまいと思っていたが、お前、俺が思った以上のど阿呆だな」
「何と」
絶句する軍師の前で、据わりかけた細い目の奥がぎらりと光った。
徐庶は束の間言葉を失ったが、すぐに気を取り直し、臧覇をはったと睨み返した。
「これは心外な。軍議であれ程の挑発をなされたのは、全責任を私に被せる為ではなかったのですか。
明らかに無謀であった此度の出陣も、その布石と察し申し上げるからこそ……」
「馬鹿たれ」
びぃんと、強い弓を引き放ったような一喝が、宵闇を叩いた。
「見損なうのも大概にせい。こんな時に、誰が少ない味方を失ってまで保身を考えにゃならんのだ。
では聞くがな、今回の戦にちょっとでもお前、関わっていたか」
「……おりませんが、それはどうとでも」
「そうだろ。出陣を命じたのも俺なら、あの布陣を取れと命じたのも俺。軍師殿の意向は何一つ反映しとらん。
いいか、此度の敗戦は、誰がどう見ても総大将たる俺の責任だ。そのことは皆も十二分に承知しとる。万が一にもそんな訴状を出してみろ。あの馬鹿正直な部下共が即刻上に報告して、俺の首が飛ぶわ」
いささかくだを巻きつつ一気にまくしたてた臧覇は、早くも三杯目となる盃を、ぐいと傾けた。
喉仏が何度も上下に動き、盃がぷはあという声と共に、かさついた唇から離れる。徐庶はその一連の所作を驚き呆れつつ見守った。
「……では、何故あのようなことを」
「ああ、ああ。味方は精鋭でも少数な上に地の利になじまぬ歩兵、前門には虎より恐れられた西涼騎馬軍、後門からの援けはない。おまけに最後の頼みの綱の軍師は、頭でっかちのとんちんかん野郎と来たものだ。幾ら俺でも、やさぐれたくもなろうというものよ」
徐庶の問いには答えず、ゆらゆらと酔眼を漂わせながら、これだから軍師と言う奴は、などとぶつぶつ誰に言うともなく呟き続けた。
はあ、と酒臭い吐息を吐いた壮年の男の様子を改めて窺えば、顔色は青ざめ、目は落ちくぼんでいる。常より軽薄で食わせ者の佇まいを崩さない男が、今は明らかに疲れを滲ませていた。
定まらぬ目線がふと徐庶に向けられ、その眉間が狭められた。しばしの後、渋々と言った風に、臧覇が口を開く。
「……お前の主張で、全てに先んじて砦の周囲を固めたのは、いい選択だった。お陰で未だ彼奴等は城壁にたどり着けもしておらん」
「恐れ入ります。しかしそれも、臧将軍のお力添えがあったからこそ」
「謙遜は止せ。俺こそ、お前が言ったことを皆に命じただけで、他には何もしとらん。
ただ、出来た仕掛けがあまりにも壮観だったのでな……つい、色を付けたくなった」
「将軍、それは」
「砦に到達されたら、そこで我らの負けは決まったようなものだ。その前に出鼻を挫き、あわよくば彼奴等にひと泡、ふた泡ほど食らわせる思惑だった。
ほぼ全軍で迎え撃つと見せてすぐに退き、勢い余った騎馬を馬防柵や陥穽の海に引きずりこむ。歩兵でも何とかぎりぎり、砦に逃げ込める機を見計らったのだがなあ」
「………………」
「結果はこのざまだ。彼奴等の攻め来る速さもさることながら、うっかり踏ん張りかけたのが悪かった。逃げるよりつい、剣を振るう方を選んでしまうのは、こりゃ武人の悪い癖だ。
……やれやれ、やはり慣れんことはするものではない。お前の真似など、するべきではなかったな」
徐庶は、まじまじと総大将の日に焼けた顔を見つめた。
乾いた笑いを浮かべ、再び盃を干すその飄々とした横顔に、徐庶は痛ましさに加えて、不思議と何か懐かしいものを感じた。
篝火の元で勝利に歌い騒ぐ部下の姿を、穏やかな瞳で眺めながら、静かに酒を嗜む、かつての主君。決して弱みや疲れを他人に見せず、ただひたすらに仲間や民を案じ、端然と座すその姿が、小さな泡のように浮かんだ。
劉備殿も、そうだったのだろうか。あの森閑とした微笑みや乱れぬ口ぶりの内に、常人では耐えきれない程の激情や苦悩を秘めておられたのだろうか。
いや、と徐庶はすぐに思い直した。けだしそれこそが人を率いる者、人の上に立つ覇者と呼ばれる人々の背負う、業のようなものなのだろう。己には決して、至れない境地だった。
「臧将軍」
うん、といぶかるような相槌を待たず、徐庶は拝領いたしますと声を掛け、さっと目の前の盃に手を伸ばした。既に濁酒がなみなみと注がれた盃を両手で持ち、こぼさないように低い位置で啜る。香ばしい液体が喉を通ると、熱さがじわりと臓腑に広がった。
作法も礼もあったものではない。だがここでそれを言うのは野暮というものだろう。
徐庶は黙ったまま、上官が手ずから注いだ二杯目を、飲み干した。
「もしやとは思いますが、まさかこちらに来た当初より、斯様に飲まれておいでではありますまいな」
酒が回ってくるにつれ、珍しく徐庶から軽口が滑り出た。
無言で杯を重ねていた臧覇がふんと鼻を鳴らす。
「うちの軍規は知らんのか。酒で騒ぎを起こせば打ち首だ」
俺の軍に酒を過ごすような頓馬はおらん、と自慢気に言い放ち、又ぐっと杯を呻る。つまり臧覇だけでなく、皆酒を常より喫していたということだ。徐庶は酸塢に着いてから後、酒を味わうどころか寝食忘れて働き詰めだった己が身を思い返し、少し情けなくなった。
「おい、天才軍師」
低く嗄れた声が、きんと冷えた夜半の空気を伝って、徐庶の耳に届いた。徐庶は顔を上げ、はい、と応えた。
「急かすわけではないが、立策の案はどうなった。あれだけ気炎高く放言したからには、もう十や二十は出せるんだろうな」
束の間、徐庶は身体を強張らせた。座した膝へ視線が落ち、躊躇いがちに脇に除けられた二つの木簡にたどり着く。
今、提示出来る唯一の策に。
傍目にも明らかに、臧覇の肩が落ちた。
「お前、軍議の席で言ったよな。俺らを死なせんと。その為の策を百が千でも講じると」
「……はい」
戸惑い混じりの詰問にも、かつて師に非を質された少年の頃のように、ただ背を丸め、膝を見つめることしか出来ない。大言壮語を覆した己が身を消してしまいたくない男は、この世にいないだろう。
「……もう、どうにもならんのか」
逃げるしか出来んのか。ぽつりと漏れ出た、絞り出すような弱々しい声は、どんな誹謗より鋭く、徐庶の胸を抉った。
「参ったのう」
それきり軽妙多弁の口をつぐみ、ただ黙って盃を傾け始めた男に、徐庶は掛ける言葉を見出せず、己もまた注がれた酒を干し続けた。
「……ちなみに、その退却作戦の中身はどうなっとる。退くとなれば、どういう算段になる」
ついでのような口調で、臧覇が唐突に訊ねてきた。ぶっきらぼうで曖昧な物言いだが、徐庶には何を問われているかがはっきりと分かった。
「追撃は今までより格段に厳しく、激しいものになるでしょう。それに対峙するには、殿軍(最後尾にあって敵の追撃を防ぐ軍のこと)は、少なくとも三千は必要です」
「おい、気休めはいらん。はっきり言え、このぽんこつ軍師」
「……敵、六万の軍勢全てが追撃に参じるなら、六千は下らないかと」
卓上にある皺の寄った手が、何かを堪えるかのように、ぐっと握り締められた。
退却の際の殿軍は、移動しつつ敵の攻撃をただひたすら受け先行の軍を守る、重要だが過酷な役目を負っている。この兵力差では反撃らしい反撃など出来ず、殿軍の兵のほとんどが命を落とすだろう。
軍の半数以上が、ここで散る。だが半数が何とか無事に金城を発ったとしても、撤退戦が終わるわけではない。酸塢と金城を捨てれば、二万の兵が残る長安で防衛を行うことになるだろうが、そこでもいつ来るか分からない援軍を待つばかりの、防戦一方の籠城戦となるのは明らかだった。
退却の選択は、更なる不利を招くだけであるという事実が、二人の前に厳然と立ちはだかっていた。
「なあ、天下の奇才」
「はい」
ざらりとした手触りの盃が、卓上にことりと、微かな音を立てて置かれた。酒杯を離した者の目は、盃も徐庶も素通りして、ずっと向こうを見つめているようだった。
「今のままここを動かねば、最後の一兵まで戦うことになる。文字通りの、死守だ。かといって撤退するにも、重大な被害をこうむることは免れんらしい。
俺たちは、武人だ。何時でも、どんな瑣末な戦場に於いても、死ぬ覚悟は出来ている。だが」
節くれだった両手が組み合わされ、そこに強く額が押し付けられる。
「叶うならば、その死は僅かばかりでも、意味あるものでありたいのだ。いや、俺は犬死しようと構わん。だが俺に信を寄せ、ここまで付いてきた連中はどうだ。このままでは戦おうと退こうと、何の益にもならん死しか、与えてやれんではないか。
負け戦をしたのは手前のくせにと、武器を振り回すしか能のない者が何を言いおると、思っとるのだろ。それを承知で、頼む、徐庶殿。今少し智恵を絞り、これ以上の犠牲を払うことなく、あいつらを無事都へと帰らせてやってはくれまいか。
俺に殿の前で恥をさらせと言うなら、そうする。首一つ差し出せと言うなら、持っていくがいい。それで、この騒乱を収められるなら」
「臧覇将軍、何を」
徐庶は、己より遥かに年長の武将が土下座する様を、生まれて初めて目の当たりにした。
内心大きな驚嘆と怯懦を覚えつつも、舌も身体も氷柱になったかのように固まって動かない。
臧覇の依頼は、言語を絶する理不尽な要求だった。
一割近くの兵を失った状態で、これ以上一兵も損なうことなく、尚且つ追撃の虞を完全に断ち切って、全軍を帰還させよ。それは戦わずして敵を即刻消し去れと言われているのと、ほとんど変わらない。神仙の類いでもなければ、そんなことが為し得るはずがない。
言下に一蹴してしかるべき懇願を、だが徐庶はそうはしなかった。出来なかったという方が、より正しい。
「だが、どう足掻いても無理と申すなら、早めに言ってくれよ。心の芯が定まらぬ男に、いつまでも命を預けておきたくはないからな」
青ざめた顔にいつもの人の悪そうな笑みを浮かべ、臧覇が再び瓶子を抱え上げた。軍議で煽った時とは違う、明らかな虚勢だった。
心が定まらぬ男と、以前曹操にも言われた。その通りと肯定しつつも、そこから進む道筋を見失い、矢も盾もたまらず逃げ出して来た。
そしてその後もまた、同じことを繰り返してきた。黒い顔の男の無言の訴えにも、梁信の必死の頼みにも背を向けてきた。しかし、今回ばかりは逃げ道は何処にもない。断れば、無惨な死、それも己だけではなく、命を預かる多数の死が待ち構えている。
「……ひとつ、伺わせてください。この酸塢の砦、今のままならあと如何程、持ちこたえられるでしょう」
からからに乾いた喉から出た声は、かすれて途切れがちだったが、夜の静寂の中では確と相手に伝わったようだった。
「ひと月」
ぴしゃりと即答が返ってきた。あまり嬉しくない即妙さだった。
「明日から籠城戦に移り、連日彼奴等の襲撃があると仮定しての話だ」
ひとつき、と小さくひとりごちるように繰り返したのを落胆と受け取ったのか、臧覇が弁明するかのようにそう付け加える。
「ひと月なら、兵の損失はほぼ押さえられると」
「……嫌味な言い方をしおって。いや、純粋にこの砦に籠れる期間だな、ひと月というのは。
兵士の損耗と言うなら……ふむ、半月が境となろう」
再び半月、と唱え返した徐庶に、半白髪の頭がはっきりと縦に振れた。
「そこまでは俺の沽券に掛けて、何とか死傷者を押さえつつ、ここを守ってみせる。
……ふふ、笑えるな。一年が十年でも守り通せるなどと抜かしてみせた俺も、この体たらくだ」
「本来の臧将軍なら、小手先で追い払えましょう。ただ、此度は少々敵に塩を送り過ぎましたな」
くか、と喉の奥からくぐもった笑い声が零れた。まったくだ、とぼやいた声とともに、新たな美禄(酒)が総大将の胃の腑を満たした。
「それにしても、何故今、西涼軍は攻めてきたのでしょうか。赤壁の敗戦を聞いて、ここぞとばかりに留守居を狙って来た、と考えるのが妥当とは存じますが……」
「さてな。お前も分かってるだろうが、それにしちゃ行動が速すぎる。俺達でさえ、報告を受けたのはつい先日だぞ。かといって、焦って遮二無二攻め立てて先を急ぐ風にも見えん。
今窺えるのは、俺達の出現は想定外だったが、じっくり平らげて次の動きに移る余裕はある――といったところか」
「不気味ですね」
己がふと漏らした言葉に、徐庶は慄然とした。西涼軍は何かを待っているのかもしれない、という考えが、頭にひらめいた。
「まあ、ここで話していても詮無いことだな。今は眼前の敵をどう料理するかに専心するとしようや」
ここに及んで尚そううそぶく男に、徐庶は苦笑いを浮かべた。
それからまた酒が一巡し、徐庶が仕えていた主である劉備の話になった。臧覇はかつて、徐州に駐屯していた頃の劉備と、会ったことがあるという。
呂布の配下にあった時の臧覇の同僚が、曹操に反旗を翻したことがあった。劉備と提携して捕らえたその者等の助命を希ったのだそうだ。
「仁徳の将軍と聞いておったのに、縄を打たれたそやつらに眉一つ動かさず、あっさりと斬りましょう、と言い放ちおったぞ、あの男」
だが臧覇が理と誠意を尽くして説き伏せると、劉備は躊躇うことなく曹操に、背いた者を受け入れるように進言した。君子は豹変すと言うが本当だったな、と臧覇は愉快そうに笑った。
「ぱっと見はぬぼーっとしておるが、確かにあれはひとかどの男だった。あの肝の太さと器量は嫌いではない。殿がいなかったら、俺は劉備の下にいたかもしれんなあ」
徐庶は、一見穏やかで控えめな劉備がそのような一面を持っていたことを聞き、軽い驚きと同時にああ、と腑に落ちるものもあった。かつての主君は時折、人から隠れたところで、大きな獣のような底の知れない目をすることがあった。
徐庶はそう臧覇に声を掛けたが、返答がない。慌てて卓の向こうを覗き込むと、男は大きな瓶子を高すぎる枕にして、軽いいびきをかいていた。
何度か呼び掛けても起きる気配がなく、仕方なく手近の牀(寝台)に苦労して引きずり上げる。よほど疲れているのか、臧覇は何事かを口の中で呟きつつ、今度は瓶子に抱きついて眠り続けた。
とてもではないが眠る気になれず、徐庶は陣の中をそぞろ歩くことにした。篝火の間を渡るように、足の赴くままに歩みを進める。
今日は本当に月明かりが強い。炬火の光から遠ざかっても、爪先まではっきりと見えた。
いつの間にか、砦の外れ、資材置き場にたどり着いていた。数日前、確認事項を携えて兵舎に向かおうとした時に通り過ぎた場所だった。
多くの兵の躯を覆っても尚、嵩が減ったように見えない莚の山を、徐庶は暗澹たる心境で見上げた。
後ひと月でこの砦は落ちる。半月以内に、夢幻のような起死回生の策を講じない限り。
そのような奇想天外な策を、俺ごときが考え出せるはずがない。やはり己には、荷が勝ち過ぎたのだ。徐庶は莚のざらつき綻ぶ端を指でなぞった。
己もまた、この莚と同じだ。手違いで運ばれて来た、場所を取るだけの役立たず。いや、遺体を包む役目を与えられた分、莚の方が余程役に立っただろう。
視線を巡らせた向こうに、小さく篝火が見えた。火の始末を恐れて、なるべく燃え易いものの傍から遠ざけてあるのだろう。
振り返り天を仰ぐと、濃い藍色の緞帳の内に、玻璃の玉を散りばめたような星の瞬く夜空。そしてその中央に、闇を煌々と照らす光源はあった。
見開かれた目に、全きの真円を描く月がくっきりと映っていた。
どうやら、今夜は満月のようだった。
お読みいただき、ありがとうございました。
誤字脱字こんな表現おかしいよ等ありましたら、ご指摘いただけますと嬉しいです。




