表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/13

四、

長いです。お暇なときにご覧ください。

 ああ、困ったことになった。

 城壁沿いをふらふらと、覚束ない足取りで歩きながら、徐庶は悄然と天を仰いだ。

 頭上に広がる異土西域の空は、本日もまた抜けるような晴天だ。燦々と降り注ぐ陽光が、一睡もしていない目に痛い。

 くだんの軍議の後とりもなおさず、敵味方の概況や付近の地理などを記した要覧書全てに目を通し、結局夜を徹した徐庶であった。一夜漬けでは少々無理のある分量だったのだが、昨夜幹部らの前で大見得を切った手前もあり、意地と根性で読み切った。

 だが、勝手の分からない軍や不慣れな地域について、初見の文書のみで全体をまんべんなく把握することなど、出来ようはずもない。膨大な情報をいくら頭に叩き込もうと、どうしても実際に見聞して確かめねばならない事柄が、次から次へと持ち上がってくる。

 全ての文書を読破し一番鶏の声を聞いた時には、今度はそれらの保留分が、山積みとなっていた。

 更に、通常なら下位の文官が担当するはずの物資の差配という雑務も、気が付けば何故か押し付けられている。押し付けた者にわざわざ反駁しに行く気力も、もはや失せていた。

 そうして内外全ての懸案事項を一人抱え、徐庶は仮眠の間も惜しんで、しおしおとさ迷いつつ、兵舎付近までやってきたのだった。

 全く、どうしてこんなことに。その原因は正しく、まんまと挑発に乗ってしまった己の、軽率さと愚かさと脇の甘さのせいなのだが、徐庶は未だ忸怩たる思いを断ち切れないでいた。

 もう二度と戦の指揮を執ることはしないと、冷たくなった母のそばで、あれ程誓ったではないか。中原の覇者の前でさえも、誓った。それなのに一体、何をやっているんだ、俺は。

 一旦蓋の開いた自嘲と後悔は止まるところを知らず、黄色い膿のように、ぼたぼたと流れ落ちてゆく。

 人の上に立つということは、多数の命を預かるということだ。以前は軍を率いるのなら、ただ勝てばよい、勝ち続けて生き残ればよいと、単純に考えていた。

 しかしそうではないことを、徐庶は劉備軍の軍師に任じられて、初めて思い知らされた。

 多数の命を預かるということは、敵の生を排して、味方の生を選びとることだ。そしてその為には、自他の別なく個の情や命を、時には無慈悲に捨て去る覚悟と度量とがなくてはならなかった。

 手段を選ばず、必要とあらば義や信を切り捨て、ひたすらに勝利に邁進する。人の情に援けられ、人の信義に護られて生きてきた徐庶にとって、それを為すことは耐え難い苦痛だった。にもかかわらず苦痛を圧し殺した結果、忠も孝も失ってようやく、己は人を指揮する器ではないと、悟ったのだった。

 そして、悔恨を重い戒めとし、徐庶は曹操のもとに下ってからは殊更に、権勢や派閥の作り出す渦から身を遠ざけていた、そのはずだった。

 なのに成り行きとはいえ、あれよあれよという間に、決して負けられない戦いの責を、再び負うことになってしまった。またしても。俺は何度同じことを繰り返せば、気が済むのだろう……。

 とりとめなく無益な長考の果てに、強い既視感に襲われ、徐庶はええい、と口の中だけで気合いを入れ、纏わりつく懊脳と眠気を振り払った。そして、居並ぶなかで一際大きな兵舎に見当を付け、大股に近付いていった。

 途中、糧秣や武具、日用品を備蓄してある天幕の横を通り過ぎる。その中に収まりきらなかったのだろう、うず高く積まれた茶色の物品の前で、上役とその部下とおぼしき二人の兵士が、何やら話し込んでいる様子だった。

「何だこれは」

むしろです。目録には二十とありますが」

「二十どころではないではないか。このように大量の莚を、一体全体どうしろと言うのだ」

「ざっと見積もって二千はありましょう。どうやら手違いがあったようですな」

「弱ったな。この状況だ、今から送り返すこともままならん」

「はあ。全く不要という訳ではありませんし、取り敢えずここに置いておく他ないかと」

 ふと耳にした些末な事件に、徐庶は他人事ながら同情した。平時なら誰か(自分でもよい)を付けて運ばせるなどして、気軽に簡単に取り計らえることだろうに。

 しかしまあ、規模の大小はあれども、どこも厄介事は尽きんのだなと、何とはなしに慰められた心地になりながら、徐庶は目的の兵舎の出入口をくぐった。

 

 

 

 

************

 

 

 

 

 更に、三日が経った。

 

 この数日、城壁の内外に響き続けていた、こおんこおんという槌の音も大分まばらになった。砦の周辺一帯に、夜に日を継いで設置を進めていた柵や堀のたぐいが、ようやく完成に近付いているらしい。

 酸塢の砦は、衝き固めた土壁が内部をほぼ正方形に囲む構造となっている。外壁の東西南北にそれぞれ門と楼閣が設けてあり、高さ二丈余り(約5m)の城壁の上からは、黄河の北に広がる大平原を一望することが出来た。

 西方のまつろわぬ騎馬民族に対し睨みを利かせるべく造られた、城市を持たない、中規模だが堅牢な城塞である。

 しかしこの度の涼州連合軍襲来に際しては、砦の北に移動式の物見櫓を新たに五つ配し、城壁周辺には陥穽を兼ねる空堀や馬防柵を幾重にも張り巡らせるなど、徹底して更なる防備が固められた。また、城内にも数多の落石や硫黄、投石機などが用意され、来るべき敵軍を迎え撃つのに余念がない。

 あまりに露骨で仰々しい防備は、敵に侮る隙を与えるのではという意見も出た。しかし「万全な備えの何が悪い。人事を尽くして天命を待つ、の言葉もあろう」という総大将臧覇の主張により、この三日の間、ひたすらに敵を迎え撃つ支度を整えていたのだった。

 幾度か小規模な斥候軍との小競り合いはあったものの、本格的な軍旅同士のぶつかり合いがないのは、曹軍にとって幸いだった。

 

 徐庶は今、北側の城門の上にいた。

 手元の図面を睨みつつ、側の兵と共に、人員や兵器の配備について、今一度妥当かどうかを吟味している。その目は疲労と寝不足で充血し、まぶたの周りは黒い隈に縁取られていた。

「徐庶殿」

 一心に図面と城外を見比べていた時だった。唐突に声が掛かり、徐庶は顔を上げ、まぶしげに目をしばたたかせた。周囲を見渡すが、それらしい人物は見当たらない。

 再び徐庶殿、と呼び掛けられる。声の主を探して付近に何度も視線を巡らせ、ようやく城壁の下で手を振る人影に気付くと、徐庶もおお、と胸壁から身を乗り出し応えた。

 若者は軽やかな身のこなしで階段を登ってくると、徐庶の前で拳に掌を添えた。白い歯を見せて屈託なく笑う表情に、以前のような不審の色はない。

「梁信か。何だか久々に出会ったような気がするな。元気そうで何よりだ」

「お陰さんで。徐庶殿の方は……まあ、かなりご精が出てるみたいすね。ちゃんと飯食ってますか」

「見ての通りだよ。今は少々立て込んでいるのでな。

 それより、千人長に昇進とか。たいしたものだ」

 聞くところによると、梁信の部隊の兵は、軍の重鎮を寡兵で守り切った功により、それぞれに恩賞を与えられ、殊に隊長格の梁信は卒伯(百人長)から部曲長(千人長)へ、異例とも言える抜擢を受けたらしい。流石曹操の軍と言うべきか、信賞必罰が末端の方まで徹底されていると、徐庶は少なからず感銘を受けていた。

「あの時の働きは、確かに素晴らしいものだったからな。お前達のお陰で、私も命を救われた」

 徐庶の率直な称賛に、梁信は頭の後ろを掻きながら、自慢げに鼻を膨らませた。

「いやいや、礼を言うのは俺の方すよ。どう考えても徐庶殿の功績でしょ、あれは」

「それを言うなら、お前たちの命を危険に晒した原因も、私ではないか」

「あ」

「ははは。と言う訳だから、おあいこだ。礼はいらないし、私も言わないよ」

「そういうことなら、仕方ないすねえ」

 張りつめた雰囲気漂う城壁の上で、束の間の談笑が交わされた。

 久々の屈託ない軽口に、徐庶はここに来てからの締め付けられるような緊張が、わずかに解れるのを感じた。

 長い間、こんな風に誰かと明るく雑談などしたことはなかった。そのことに改めて気付く。

 と同時に、胸にかすかな痛みを覚えた。母が亡くなってからこれまで、人から受けた無数の親切やいたわりを、どれほど蔑ろにしてきたのだろう。だが徐庶は、滲みかけた苦い思いを、今は胸の奥に押し止めた。

 今はただ、この局面を無事に乗り越え、皆に再会することだけを考えよう。し損ねている感謝も謝罪も、生きて帰ってこそ出来るのだから。

 部下達の近況を、嬉しげに語る梁信の前で、徐庶はほんの一瞬、瞼を閉じた。再び開いた瞳に、精悍な千人長の姿と、城壁上に居並ぶ兵と兵器の群れ、そして砂にけぶる彼方の地平線が映った。

「……しかし、考えてみるとお前達にとっては災難な話だな。辺境に遣わされた直後に、立て続けの戦さとは」

 改めて兵達の様子を聞き、しみじみと徐庶がそう言うと、梁信は事もなげにひらひらと手を振ってみせた。

「いやあ、こんなもんすよ。むしろ今回は、準備も十分出来ましたしね。

 ……それに今回の戦には、徐庶殿がいますから」

 梁信が、小童のように瞳を輝かせる。何とはなしに気圧されるものを感じ、徐庶は鼻白んだ。

「私がいるから、とは。どういうことだろうか」

「そのまんますよ。劣勢を必ずひっくり返す、無敗の策士。

 聞いたときはまさかと疑いましたが、噂は本当だったんすね」

 思わず上げそうになった叫びを、徐庶はすんでのところで飲み込んだ。引きつった笑みで取り繕えられたのも、奇跡に近い。

 煮え湯を飲まされた心境の徐庶を尻目に、梁信は尊敬と信頼の眼差しを噂の策士に注ぐ。

「敵さんの総勢を聞いた時は、流石の俺も故郷に逃げ帰ろうと思いましたが。目の前で実際に、二百で千騎を撃退されちゃあね。士気も上がるってもんです。部隊の連中も言ってましたよ。徐庶殿がいたら、大丈夫だって」

「…………」

 真っ向から違うのだと否定するのは、容易いことだった。本当は騎馬兵の数は八百程だったとか、相手が本気ではなかったから助かったのだと、この場で言い訳がましく弁解出来たら、どれほど楽だろう。

 やれやれ、と徐庶は、酸塢についてから何度目か分からない慨嘆の吐息を、胸中でやり過ごした。

 きっと梁信の中ではもう、軍師殿は常勝の智将だということになってしまっているのだろう。意図していなかったとはいえ、その虚像を作り上げてしまったのは、徐庶自身の責。

 そしてやはり、己は策士の柄ではないなと痛感する。このようなとき、古人ならばどうするだろう。常に学ばんと欲してきた希代の兵家、張良や孫臏などの名に入り混じり、年若い友人の姿がふと思い浮かんだ。

 孔明。お前なら、敵味方の思惑を利し、思うがままに操ることもまた謀才のうちだ、と澄ました顔で言ってのけるのだろうな。白羽扇のひらめく様子まで、目に浮かぶようだった。

「随分と買ってもらっているのだな。期待に添えるよう、努めるよ」

 徐庶は曖昧な笑みを浮かべたまま、梁信の言葉を肯定も否定もしなかった。見ようによっては、任せておけ、という頼もしい微笑みに見えることだろう。

 それでも、きりきりと心の臓を搾られるような痛みを覚えた。罪悪感を誤魔化すように、徐庶は城外へと視線を逸らした。その耳朶に、どこまでも朗らかな若者の声が覆いかぶさる。

「まあ、戦の勝敗のことは、俺がどうこう言ってもしゃあないことすね。でも覚えといてください、この軍で、俺と三十六番隊だけは、何があってもあんたに付いて行きますから」

 そんでまた俺らに手柄を立てさせてください、頼んますよと、梁信は大きな口を開けて破顔した。

 徐庶も、思わずその笑みに釣られ、髭の伸びた口許を緩めた。岩から滲み出る清水のような笑みだった。

「時に、梁信。つかぬ事を訊くが」

 素直な心持ちに誘われ、徐庶はふと思い付いた疑問を口にした。

「はい。何でも訊いてくださいよ」

「お前は、この城砦やこの地について、どう思う」

「どう、ですか……いえ、特に何も」

 いきなり投げ掛けられた要領を得ない問いに、弾んでいた声は急速にしぼんでいった。徐庶はふむ、と唸り顎をなでると、更に言葉を重ねる。

「砦の構え、人の流れ、この地での困り事、何でもいい。何か気が付いたことがあったら、聞かせてくれないか」

「はあ……」

 今度は、梁信が腕を組み、ううんと唸る番だった。

 ひゅうひゅうと鳴る風音の調べを、幾度聞いた頃だろうか。痺れを切らした徐庶が、ないならいいんだと告げようとした矢先だった。

「──なあんにもないすね、ここは」

「何も、ない」

 はい、と深く頷くと、若者は腕を伸ばして、眼前に遼遠と広がる大地をぐるりと差し示した。

「中原には当たり前にある、山も河も谷も崖も全然ないなって、思いました。生えてんのも灌木や草ばっかりで、林どころか背の高い木は一本も見当たらない。柵や櫓を組むのも、全部持ってきた材木を使わなきゃならなくて、難儀しましたよ」

 それに、と梁信が鼻の頭に皺を寄せた。

「見晴らしがいいのは悪いことじゃないんすけどね、見えてるところにたどり着くのに、意外に時間が掛かるんすよね。

 こないだの巡回の時も、四刻(約1時間)も駆けてんのにまだ砦が見えるって、どんだけ俺らのろいんだよって話ですよ。こりゃ馬も要るわってんで……涼州の馬が強いのは、そのへんもあるんすかね」

「うん、なかなかいいところに気付いたな。馬でないと移動が難しいから、必然この地に、たくましく丈夫な馬が育つことになるんだろう」

 よっしゃ軍師殿に褒められた、と梁信が小躍りしている。その姿を苦笑しつつ眺めながら、徐庶は別のことを考えていた。

 寡を以って多を破る。その為の策をこの数日、徐庶はずっと考え続けてきた。

 が、考えれば考える程によい案は浮かばず、正直なところ完全な袋小路に突き当っていた。

 理由は多々挙げられるが、目下一番の問題は、この西涼という地そのものにあった。

 何しろ、絶望的なまでに地の利がない。

 ただ単に、地理に不案内と言うだけではない。先ほどの梁信の言葉ではないが、移動の仕方ひとつ取っても、中原人と西涼人とではものの見方、考え方が根本的に異なるところがあると、徐庶も感じるところがあった。

 恒常的に馬を用い、地理を知り尽くすがゆえに、西涼軍にはあのような、恐るべき迅速即応の攻防、進退が可能なのだろうと推察出来た。対して、いかに百戦錬磨だろうと、移動速度や範囲に劣る歩兵主力の軍では、おのずと打てる手も限られてくる。

 致命的なのが、かの精強の騎馬軍に対峙するこちらの騎兵が、一万五千のうち二千足らずしかいないという事実だった。元よりこの派兵は、西涼の情勢を探ることが目的であり、万が一戦となっても援軍が来るまで持ち堪えられる、ぎりぎりの数しか配されていない。

 見通しが甘かったと言えばそれまでかもしれない。しかし赤壁に主力を注ぎ込む曹操の軍に、それ以上の余裕はなかったことは、臧覇以下の将は重々承知の話だ。むしろ自らの流した虚報が現実になってしまった徐庶が、おそらく軍の中で今最も狼狽している者だろう。

 そして頼みの綱の計略も、この独自の地形が手強くそれを阻んでいた。

 重なる不利を覆し、少ない人員の勢いを補う最も有効な手段は、水や火、地や風など天地自然の力を利することである。だが、この地には兵を伏せる山陰、峡谷はあってもごく僅か、堰き止められるような河川は遥か後方、燃やすものと言えば五寸(約13cm)程の短い草木が繁る他は、もう砦自体しかないという有様で、とてもではないが立策の余地など垣間見えもしない。

 百の献策どころの話ではない。事態は一刻を争うというのに、思案は堂々巡りを繰り返し、途方に暮れていた、その矢先だった。

 そんなところに、不意に梁信が顔を出したのだった。大した期待を掛けたわけではない。状況打開の糸口でも掴めればと、徐庶は努めて軽い気持ちで、ひとりの兵の目から見た戦場の様子を、訊ねてみた。

 結果、新たな発見はなかったのだが、己の考えがそう的外れなものではないことに、不思議と安堵をおぼえた。

 それが分かっただけでも十分だと、徐庶はやや控えめに思う。何より、親しい会話というものがこれ程心を潤すものだと、実感出来たのだから。

 徐庶の思考が一巡したところで、梁信が何かに思い当ったらしく、ぴたりと体を強張らせた。振り返った顔に、不安が張り付いている。

「え、だとすると人だけじゃなくて馬も少ないって俺ら、やばくないすか。大丈夫でしょうかね、大丈夫すよね」

 徐庶は再びほろ苦く笑った。

「心配は無用だ。臧覇殿やその他の将軍達は、ここまでお前たちを率いてきた歴戦のつわものだろう。そして……この私もいる。――吾が胸中に策あり、だ」

 あくまで何気ないふりを装い、躊躇いのある言葉を、絞り出すようにして口から放つ。一旦得た信望を、離さぬように。信望を利して、勝利に繋げる為に。

 梁信がほっと肩の力を抜いた。表情が明朗なものに戻る。

「そうすよね。俺こそ、徐庶殿を疑うようなこと言って、すんませんした」

 再びずきりと良心が痛むが、力任せにねじ伏せて、徐庶は鷹揚に相槌を打った。

「妙な質問をしてしまったな。ただ、他人の目を通して、この地はどのように映るのか、訊いてみたくなったんだ。不安を煽るような真似をして、済まなかった」

 はあ、と珍しく気の抜けた返答があった。怪訝に思い目を向けると、梁信が妙な顔をして、徐庶をまじまじと見つめている。

「……前から思ってたんすけど、あんた変なお人っすね」

「変。そうだろうか」

「ええ。偉い人ってもっと、何つうかこう、澄ましてるもんだと思ってました。

 あんたは雲の上の人のはずなのに、俺みたいな下々の兵とも普通に喋るし、励ますようなことまで言うし、ちょっと違うっていうか……俺は嬉しいけど、将軍としてこう、威厳とかあるでしょ。いいんすか」

「ははは、確かに。それもそうだな。分かった、胆に銘じておこう」

 念を押そうとしたのか、開きかけた梁信の口が、ふと横を向いて固まった。

 砦外に向けられた視線の先、横たわる大地のやや東の方角に、一すじの白い糸が、天へと上ってゆくのが見えた。

 蒼空にたなびく糸は、見る間に二本、三本と数を増やしてゆく。徐庶の体幹を、叩きつけるような電光が走った。白色の狼煙。敵が今まさに襲い来ることを報せる、最も緊急性の高い符牒だった。

 横に控えていた連れの士官兵の一人から、軍師殿と声が掛かるのと同時に、梁信がさっと身を翻した。

「じゃ、そういうことなんで。俺の戦働き、見ててくださいよ」

「武運を祈る。死ぬなよ、梁信」

 階段を駆け下りてゆく背中に、それだけ投げ掛けるのが精一杯だった。

 程なくして、どどどうという戦鼓の音が、大気を震わせる。城外を見遣ると、東西の門から騎兵が、続いて歩兵が、隊伍をそろえつつ瞬く間に北側正面に陣構えを整えてゆく様が見えた。哨戒の任に当たっていた騎馬の一団も、程なくして合流した。

 戦が始まる。

 側付の兵に急かされるまでもなく、徐庶も速やかに砦の中央へと向かった。将校の宿所を兼ねた、二階建ての城閣の一室には、臧覇を始めとした緒将が既に集まっていた。

「……は右翼、俺と尹礼は左翼を率いる。騎兵は中央、左右の歩兵は部隊ごとに魚鱗の陣を取り、それを横に五、いや三列だ。彼奴らの側面からからちくちく押せるだけ押して、各個撃破を狙え。だが無理はするな。押し返されたらすぐに引けよ。

 それとな孫観、お主は……おお来た来た。我らが軍師殿と、この砦を守ってもらう」

「何だと」

 着いた早々、不穏な空気にひやりとする。のんびり言い合いをしている時間はない。

「頼む、後詰はお主にしか頼めん」

 束の間躊躇い、孫観は不満そうな唸りをあげながらも不承不承に頷いた。それを確かめるや否や、臧覇は差し出された兜を着け、大股に出口へと歩み出す。

「臧将軍」

「というわけだ。留守居は任せたぞ。俺らの戦いぶり、特上席でとっくりと拝んでおけよ」

 声を掛けた徐庶に、すれ違いざまにそれだけ言い置くと、臧覇は戸外に用意されていた栗毛の馬に跨った。他の将もそれに倣い鞭の音を響かせると、一陣の風を残し、皆あっという間に駆け去って行った。

 徐庶は奥歯を噛み締め、その姿をただ見送った。

 行くぞ、と短く声を掛けられる。先を急ぐ孫観の後に続き、徐庶も北門の望楼へと向かった。

お読みいただき、有難うございました。そしてお疲れ様でございました…。

誤字脱字、表現おかしいなどありましたら、お教えいただけますと幸いです。時代考証については、どうかご容赦を。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ