終
この話が最終話となります。
蜀漢、建興六年(西暦228年)、涼州、隴右。
手にした木簡を読み終え、蜀の丞相、諸葛孔明はそのまましばらく、瞑目した。
しばらく、の間があまりにも長かった為か、侍従が心配して丞相、と躊躇いがちに声を掛ける。
ややもあって、ああ、という低い慨嘆が、薄い唇から漏れ出でた。
「元直は右中郎将、御史中丞。広元(石韜)は郡守、典農校尉どまり……魏はやはり、多士済々なのだね。あの二人がその程度にしか、用いられぬとは」
目を閉じたままで、諸葛亮は卓上をとん、とんと指で叩きながら、嘆息した。
身体の中に留まり続ける疲れのせいで、頭上から岩を乗せられているが如くの重圧が、常に全身をさいなんでいる。それからしばしの間逃れようと、諸葛亮は目を閉じたまま、眉間を強く押さえた。
まるで、頭痛持ちと聞いていたあの人のようだ、と思わず笑った。不倶戴天の敵と思い定め、打倒を誓った雄、曹操。今はもう、その宿敵はいない。曹操だけではない、皆、逝ってしまった。劉備も、関羽も、張飛も、その息子等までも。残された者も、粛々と老いてゆく。自分もまた。
疲れたなあ、と近頃度々、思うようになった。そして昔のことも再三思い出す。隆中、臥竜岡。ぼろぼろの陋屋で、多くの友と語り合い、時には殴り合いの喧嘩もした。無邪気で無責任で、本当に楽しかった。
皆がここにいてくれれば。願っても意味のないことと了解しつつ、諸葛亮は夢想する。ぎりぎりで真価を発揮する徐庶には荊州を、人柄穏やかな石韜には鎮撫したばかりの南方を、崔州平は、元直と特に仲が良かったから荊州の補佐を、任せられたら。
どんなにか容易く、あの策、天下三分を展げられただろうか。
――面白いなそれは、孔明
――俺もその案に、一役買わせてくれよ。俺達の手で、この広い広い天下をばっさり分けてやろう
――だがちょっと広すぎるな。だから確かに、いつまでも一緒には居れないだろうが
――お前の言うとおり、お互い離れ離れになって、別々の国に仕えることになっても
――同じこの志を抱き、同じところを目指して進んでいる、その為に各地で動いているのだと、そう信じることにしようか
ああ、分かっているよ、元直。それが、君の選んだ道なんだろう。
君はかつて侠の道にありながら、兵法などを懸命に学びながら、実は血が流れることを心底嫌っていたね。政は、決して血は流れない戦いだ。それが君に、本当に相応しい道だったのだね。
微かに口元に笑みを刷き、諸葛亮は、ゆっくりと目を開けた。
その刹那視界いっぱいに、こぼれおちんばかりに双眸を開き、今将に声を発さんと口を半開きにした二人の将の姿が、飛び込んできた。あまりの見事な左右対称ぶり、あまりの間の抜け方に、束の間茫然とした諸葛亮は次の瞬間、堪え切れずに吹き出した。
「丞相」「丞相」
次いで掛けられた言葉も全く同じ、更には調子まで全く一緒だったのが折悪しく、更に諸葛亮は笑い転げる破目に陥った。
「何故笑われるのです、丞相。私は貴方を心配して」
「あんまり動かれずにおられるから、具合でも悪いのかと」
次の言葉も図らずも同時となり、二人は顔を見合わせ、又しても同時に憮然とした顔付きになり、同時に視線を逸らした。
「ぬしら、仲が良いな。その調子で、互いに精進し合えよ」
矍鑠たる白髪の老将が、二人の様子を見、笑いながら言った。
「こやつがもっと先達を重んじるなら、そうしますがね」
「先達が新参で若輩の私を、もっとお助け下さるなら左様にいたしますが」
視線だけで熾烈で不毛な争いを繰り広げる二人を尻目に、ようやく笑いの波が収まった諸葛亮が、ぽん、と一つ手を打った。不承不承黙り込んだ二人の後ろに、軍議に参じる他の将が、続々と集う。
皆が一堂に会すのを待ち、諸葛亮はぐるりと左右を見渡した。殊に古参の勇士に交じる、若く力強い将らの顔を、つぶさに見遣る。
「方々、そろわれたようですね。
此度の敵は、魏の練達の将、張郃。この先、街亭の山上に陣を張っていると、報せを受けています。
ですが恐れることはありません。我々は今、勝利の波に乗っている。各々がた、奮起されよ。この北伐は、皆が力を尽くせば、必ずや成功する。我等の力、存分に見せつけてやりましょう」
応、応と鬨の声が上がる。諸葛亮の、祈りを込めた鼓舞の詞が、少しく功を奏したようだった。
私も、私の道を行くよ、元直。天下三分の道が如何に険しく、危うくとも、この道を往くと君達に告げたのは、他でもない、私なのだから。
諸葛亮は瞬きする間、再び目を閉じた。開いた目に、錚々たる蜀の顔ぶれが真っ直ぐに映り込む。
壮年を経て尚つやつやしいかんばせを不意に、青々とした竹の香りが立つ風が撫で、過ぎ去っていった。
(了)
ここまでお読みいただき、本当に本当に、ありがとうございました。
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最初の投稿から一年余り、長々だらだらと引き延ばしたことにお詫び申し上げるとともに、ここまで温かくお見守り下さった読者の皆様に、重ねて深く感謝を述べさせていただき、終わりの挨拶とさせていただきます。
それではまた、どこかでお目もじの機会を得ることが出来ましたら、よろしくお願いいたします。




