十一、
本日二話目の投稿です。
唐突な放言に、しん、とその場が静まり返った。
一拍置いて、こちらの考えを図るように目を眇めた馬騰が、口を開いた。
「曹操に降れ、と。そう申されたのか」
「そうだ」
徐庶は傲然と、首肯した。
鼻をほじっていた韓遂が、すかさず哄笑を放つ。
「ぶわっはははは、聞いたか皆の者。ついに尻尾を出しおったわ。端から詭弁を弄し、俺等を懐柔する腹だったのだ。ようやくこの話に漕ぎ着けられて、さぞ満足なことだろう。いやしかし、言うことに欠いて曹操に降れとは。くくく、笑い過ぎて腹が痛い」
笑いが止まらぬ風情の韓遂を無視し、徐庶はもの問いたげにしている馬騰に、更に訴えかけた。
「馬騰殿、貴方は尋ねられた。この先涼州軍が中原に覇を唱えることが出来るのかと。
俺は答えた。力のみを以てしても否、盟を以てしても否と。ここ西涼から中原までの道程は遠く、破らねばならぬ城関は数多。これを破るには、今の西涼軍の数乗の兵をしても、容易いことではない。遼遠と堅牢、両難を一挙に消せしめるには、ならばどうするか――懐に入り込めばいい」
はっと息を飲む気配があった。対照的に、韓遂の口許には歪みが戻る。
「曹操に降り、服従の姿勢を見せれば、兵の幾ばくかは必ず許都に近付けるだろう。許都は曹操にとっての要地であると同時に、只今の漢の都でもある。帝室を尊ばぬ曹操に反感を持つ者、虎視眈々と覇者の座を狙う者も、多く存するはず。そ奴等と密かに手を結び、兵を興す機を窺うのだ」
ふと、背後にいるはずの梁信の存在が気に掛かった。主公への造反を声高に語る徐庶に、割って入るでもなく沈黙する若者は、今どんな顔をしているのだろう。
「簡単に降る、と言うが」
懸念に逸れかけた徐庶の意識を、当惑しきりの馬騰の声が引き戻した。
「西涼諸軍がそろって帰服すると言って、易々と信じられるものだろうか。今まで我等は曹操だけでなく、漢室に対しても度々反旗を翻してきた。俄かには、受け入れ難い話だろう」
「いや、曹操は受ける」
徐庶はきっぱりと、断言した。
「何より才を好むのが、曹操という人物。才子を得る為なら、その者が逆心を持とうが仁に反しようが、大して固執はすまい。剛壮と名高い西涼軍を併呑出来るとあらば、寧ろ諸手を挙げて歓迎されるだろう」
「そこが気に食わんのだ、あの矮は」
徐庶の言に覆いかぶせるように、鼻毛を抜いていた韓遂が吐き捨てた。
「唯才是挙、か。ふん、要するにあいつは天下の什宝全てを集め、己の懐にしまいこんでおきたいだけなのだ。種々の甲虫を集める童子と何が違う。
俺は、嫌だ。あれの玩物の一つになるなど、考えただけでも虫唾が走るわ。あいつの下につく位なら、猪を頭首として頂いた方がましだ」
今にも唾棄せんばかりの、嫌悪に満ちた表情で言い切った韓遂を横目で見遣り、徐庶は口の端に不敵な笑みを浮かべた。
獲物が絡む網を、今少しで手繰り寄せられる。予感を確信に変えるまで、もう一手。
「そこまで言うなら、仕方ない。この案は取り下げよう。
……だが、西涼の武を以て天下を制す、先程のものとは似て非なるもう一つの策がある――と言ったら、あんた達は聞く気があるか」
徐庶の問い掛けに、将の幾人かが躊躇いがちに視線を交わし合った。
馬騰が横の韓遂にちらと視線を送る。次いで韓遂が、傍の従者をぎろりと睨んだ。従者はびくびくと怯えながら首を振る。韓遂はちっと舌打ちし、顎をしゃくってみせた。
刻限までは、まだ少し余裕があるようだった。だが、長くはあるまい。
「続けてくれ、徐庶殿。貴殿の腹案、全て聞かせて欲しい」
「心得た」
短く吸い込んだ息に、またひと筋、竹林を通る爽やかな風が混じった気がした。そうだ、あれは確か初夏の頃だった。
――戦乱二十年。この二十年、群雄麻の如く入り乱れ、もはやどれが主たる縦横の糸か、誰も分からなくなっている
――誰か一人、強靭な覇者が出て来ればいいのにな。始皇帝や高祖劉邦、光武帝のような
――もう曹操がいるだろう。今更どんなに他が暴れようと結局、天下はあの者に帰趨するに決まっている
――いや、誰か一人で収まるには、今世の漢土は分断され過ぎたように思うよ。一とき誰かが覇者として君臨しても、他の誰かがすぐに取って変わる。ああ、いつになったら天下は安んじられることやら。況んや安んじられてもその安寧、幾年続くことやら
――他人事みたいに言うんだな、孔明。では当世、覇者でなくしてどうしたら天下を制し平らげられると言うんだ
――ううん……僕なら、たとえば
「内に潜り込むのが嫌と言うなら、外から攻めるしかあるまい」
響いた声は、驚くほど平静なものだった。眼前の男が漂わす静閑の気に当てられたのだろうか。今までになく、徐庶の心は穏やかに凪いでいた。
「だが当然、今のまま決戦に持ち込む訳にはいかん。先程も言った通り、西涼の兵馬全て合わせても、曹操に痛打を浴びせる位は出来ようが、滅ぼす迄には到底至らぬからだ」
天幕の内に入った当初と異なり、将達も己の弁に耳を傾けているのが、ひしひしと伝わってくる。
「曹操を凌ぐには、曹操と同等の力を得る必要がある。あんた達は先ず、中原の他に勢力を伸ばす地を求めねばならん」
――中原の覇者が、以前の漢室の如く全土を統一するのは……ううん、少なく見積もっても後五十年はかかるかなあ。その間、耕す田畑を失った流民は増え、野党暴徒の類が横行し……想像するだにぞっとしない話だよ
――手っ取り早く天下をまとめてくれる人が居ればいいけれども、どうも難しそうだ。ならいっそ、天下の方を統一し易くすることを考えてみては、どうだろう
「その地をどこに求めるか。今回一方的に盟を申しいれた内、江東は如何にも遠い。ならば残るは漢中と、巴蜀。向かう先を東から南に替え、涼・益二州、適うなら荊・雍の一部も併せた勢力を築き上げる」
――どうやったら、天下はまとめやすくなるのかな。例えばの話だけれど、この碁石。片付けるのにかかる時を短くするのに、仕舞う場所をいくつかに分けるというのは
「一方で、東南の地に君臨する者と手を結び、共闘体制を確立するのだ。打倒曹操の包囲網を作り上げ、じわりじわりとその輪を縮めていけば、時はかかるが確実に、曹操を潰すことが出来る」
――仕舞う場所の数は……二つでは大して効果がないだろうし、多すぎると散らかっているのと変わらないな。やはり、三つだ。三つ位がいい
――うん、これを国に置き換えてみたら。一つが欲を出して他に攻め込んでも、もう一つが背後を突くのか。ああ、やはり古人の言われたことは貴いな。今まで桃は一つだったから、それを巡って争いが起こった。二つだったとしても、もう一つがほしくなるのは人の性だから、やはり争いは続く。桃が三つなら争いは起きにくい……そもそも起こらなかったのかもしれない、というのは妄想が過ぎるかな
「中原の曹操、江東の孫権、そして西涼のあんた達。この三つ巴を成せるか否かが岐路を分けるだろう。あとは、天意が添うことを祈るだけだ」
――ああでも、この方法では、百年の泰平は望めない。危うい均衡が崩れたらそれまでの体制だから
――でも、たった十数年程でも百姓の民が安らげるなら、大地が潤い息を吹き返す時を稼げるなら、悪くない考えと思うのだけれど
――百年の争乱の後の、百年の安逸と、三十年の争乱の後の、三十年の平和
――君はどちらがいいと思う、元直
ああ、孔明。徐庶は深く息を吐きつつ、心の内で朋友へと呼びかけた。
やはりお前は、天下の鬼才なのだな。壷中の天に過ぎなかったあの草庵で、いつ如何なる時と場においても援用できる、長大な構想を練り続けていたのだから。
どう足掻いてもお前に及ばぬ凡庸の身が口惜しく、また情けなく思え、ひとり焦燥に煩悶したこともあった。一方で彼の、他から理解され難いその性分と知とを解する、数少ない友人の一人であることを、誇らしく嬉しくも思っていた。
誰も考え付かないような発想を為す天賦の才を、この身は持ち合わせてはいない、それゆえに。
お前の奇想を、今この存亡の秋に、ほしいままに借り受け、用いることを、どうか許して欲しい。
きっと今この時も、劉備の許で同じ大計のため奔走しているだろう彼の者へ、徐庶は心から請い願った。
すると三たび、微風が頬を撫でた。通り過ぎた風は振り返り、確かな力で、徐庶の肩を押した。
――朋あり遠方より、とは古人もよく言ったものだ。楽しいものだね、こうやって様々のことを君たちと論じ合うというのは
――今のたのしみだけでなく、きっとこの先、皆がそれぞれの道に分かれ、よしんば敵と味方になったとしても
あの時語り、分かち合った志を心に抱き、もがきくるしみながらもお互い、自らの道を歩んでいるのだと、そう思えるのだろうね
そうか。そうだったな、友よ。
徐庶は下ろした瞼を開けた。その時にはもう、眼裏で微笑む、丈高い無二の友人の姿は、きれいに掻き消えていた。
「おおい、御託は終わったかあ。一刻はとうに過ぎておるが、おまけで待ってやったぞ」
「ああ」
抜いた鼻毛を吹き飛ばしながら、韓遂が怒鳴る。徐庶は短く答えたきり、黙然と口をつぐんだ。
言うべきことは、全て言った。為すべきことは全てし尽くした。あとは、ただ向こうの出方を待つのみ。
己が命の行く末には、もはや関心はなかった。己が弁を受けて西涼軍がどう動くかだけが、唯一の懸念だった。その結果を見届けることが出来ないのが、僅かな心残りではあった。
その様子を訝しげに見遣っていた韓遂だったが、いい態度だ、とぼそりと言い放つと、左右の兵を呼んだ。再び黒衣の使節は拘束され、天幕の外に向かって連行される。
徐庶は、今度は抵抗しなかった。捲られた出入り口の幕から、ひゅうと強い風が入り込み、顔を打った。
牛、と呼ばれた西涼の名将が、いいことを思いついた、と同盟者に持ち掛けたのは、使者とその従者に縄が打たれ、刀剣がひたりとその両頸に当てられた、その直後だった。
「馬騰殿、いい加減にしてくれ。俺はもう待つのに飽いた。新たな問題を持ち込むのは、一つ仕舞ってからにしてくれんか」
「申し訳ない。だが、私にしては面白い提案だと思う。聞くだけ聞いてはくれまいか」
「面白い、だと。ふうむ」
「何、ちょっとした賭けをしたいのだ」
「賭けか。くそ真面目なお主にしては、確かに珍しいな」
賭けと聞いて、人生を享楽と同義に考えているらしい韓遂の耳がぴくりと動いた。その様子を確かめ、馬騰は天幕の隅に歩み寄ると、しゃがんで何かを手に取った。
そして今、天幕の外、陣中の広場に、馬騰の手によって取り出されたそれは、寒風に吹きさらされるまま、所在なさげに置かれていた。
「…………大丈夫ですか、徐庶殿」
すぐ横に控える片腕を吊った若者の顔面は、蒼白を通り越して土気色に近い。他人を気に掛けるには程遠い様相だったが、問わずにおれない気持ちは痛いほど分かる。きっと己の面も、同様の状態だろうから。
「うむ…………何はともあれ、やってみるしか、ないだろうな」
手の内にある素朴な作りの、三本の矢に目を落としつつ、徐庶は大変歯切れ悪く答えた。
天意を投壷で問うてみよう、と言い出した馬騰の言は、二、三のやり取りの後にあっさりと受け入れられた。
――ずっと疑問だったのだ。武、強勢を誇り、義、明々たるはずの我らが、永年にわたって中原の者に遅れを取っているのは何故なのか
そこに天意という漠々たる要因が介在するかどうかを問う、良い機会ではないかと馬騰が告げると、それまで食傷を絵に描いた様な顔付きだった韓遂も、興を魅かれた様子を見せた。
天意などはどうでもいいが、こういう博奕めいたことは、嫌いではない。悪くないではないか。
話が終わる頃には、俄然瞳の輝きを取り戻した老将は、わくわくした面持ちで矢を奪うようにして受け取った。
投壷は、古代から伝わる、宴会においてよく余興として催される遊戯だった。一尺(約24cm)程の高さの、両側に耳輪の付いた独特な壷に、決まった距離から交互に専用の矢を投げ、壷に入った点数を競う。
概ね屋内で行われるこの遊戯だが、西涼の流儀で戸外で催すことになり、投げる距離も一丈半(約3m)と少し長めに定められた。
競者は韓遂と、徐庶。それぞれ三矢ずつ、交互に投げる。
そして勝負に先立ち、敗北した方が相手方に提供する、賭け質が取り決められた。
韓遂が勝利した場合は、馬騰から絹布一千匹、良馬百頭が贈られる。そして徐庶が勝利したあかつきには、天意この軍旅に非ずということが判じたとし、涼州軍六万は全軍撤退する。
徐庶はこれを聞き、喜ぶよりむしろ慄然とした。馬騰の要求を聞き、一瞬嫌な顔をした韓遂も「ま、賭博は賭ける物が大きい方が燃えるしな」と易々と承諾したのを見、さらに肌が粟立った。斯様な大きな決断を平然と為してしまえる様に、底知れぬものを感じた。
だが、これ以上ない、貴重な機会であることもまた事実だった。もし勝てば、不可能とさえ思えた西涼軍の撤退が、実現する。
今は、為し得ることに尽力するのが肝要のようだ。心を定めたその時、そろそろ始めようや、と韓遂が声を掛けた。
「……健闘、祈ってるっす」
かすれた声で梁信が呟いたのに、徐庶は小さく頷き返し、定められた場所に歩みを進めた。
投壷の場は、既に涼州軍兵によって人だかりが出来ていた。中には、独特な節をつけ、囃し歌を吟じる者まである。敵対していた者達の、人らしい側面を見て、徐庶はいささか不可思議な気持ちになった。
一投目、先攻は韓遂。
衰えを見せぬ強靭な肩から繰り出された矢はしかし、壷の僅か右横に逸れて落ちた。
後攻、徐庶の一投目。
放たれた一矢は、緩い放物線を描き壷の口に見事に吸い込まれた。僅かに、どよめきが起こった。
「ふふふ、こうでなくては面白くない。おいお主等、この極上の一戦、とくと見ておれよ」
不敵に笑う韓遂の向こうに、むっつりと黙り込む馬騰の姿があった。
二投目、韓遂の矢は今度は逸れることなく、壷に収まった。対照的に、徐庶は二投目を外す。
「くうう、これだ、このぎりぎりの戦い。血沸き肉躍るわい」
炯炯と輝く目で、韓遂が喜びに口許を戦慄かせる。ああ、ここにも生粋の武人がいると、徐庶は思った。馬騰の傍に控えつつ、こちらを凝視する馬超の姿が、唐突に目に飛び込んできた。表情までは、窺い知れない。
三投目、要領を得たのか、韓遂の矢は危なげなく壷口に飛び込んだ。あちこちから韓遂を称える歓声が上がる。もはや、勝負は決まったかのような浮き立ちぶりだった。
やばい。やばいでしょこれは。真冬なのに大量の汗をかく梁信の顎に、また一粒、雫が流れた。徐庶が次の一投を成功すれば再度の勝負に持ち込めるが、失敗したらそこまでとなる。
徐庶殿、と上ずった小さな声を漏らす。崇拝する無敵の軍師は、泰然と壷を狙い定めているように見えた。無造作にその腕が動き、黒袖がひらめく。矢が放たれた。
徐庶殿、と梁信は再度呼び掛けた。梁信の背に冷たいものが走った。矢の行く先は、壷の口を捕えきれないように思えた。
梁信の目にゆっくりと、矢が落ちていくさまが見えた。その先端は、壷の口を確かに外れて――両脇の耳輪の片方に、行儀よく収まった。
難易度の高い耳輪に入った場合の役は、通常の壷口に入った場合の、倍となる。
この日最も大きい鯨波が、冬空に谺した。韓遂はけっと傍に痰を吐いた。
お読みいただき、ありがとうございました。
誤字脱字、こんな考証間違ってるなどありましたら、感想欄に書き込みくだされば幸いです。
一話編成で考えていましたが、長くなったので二話に分けました。
作中の唯才是挙、曹操の求賢令はこの翌年(西暦210年)らしいのですが、創作故の便宜とスルーしていただけたら幸いです。多分前々から似たような命令出してた気がします。あの曹操のことですから。




