第34話 世界の素はホラーの香り
主な登場人物
ダンテ・アリギエーリ
48歳 1265年生、イタリア・フィレンチェ出身
栃辺 有江
24歳 梶沢出版編集者
西藤 隆史
36歳 調世会調査員、亡くなっている
「『OK』と返信しますか」
ダンテは、通信機に表示された「AROK?」を見ながら、有江たちに尋ねた。
「そうですね……わたしのことを『AR』と省略してきたので、多くの文字は送れないのだと思います。必要な情報を最小限の文字数で伝えるようにしましょう」
そうだねと西藤さんも同意した。
差しあたって、調世会に一番知らせたいことは、これだろう。
「SAITO」と返信した。
「では、地獄の門をくぐって行きますか」
西藤さんが一歩前に出たところを、ダンテは止めた。
「他の道を探してはどうでしょう。『神曲』では、この先、魔獣や悪魔が数多く登場します。安全な道を探すべきです」
しかし、西藤さんは首を横に振る。
「他に道があれば、ここに『地獄の門』は登場しないはずでしょ。これは、有江さんが最適化したルートか、神が示すルートかのどちらかなんですよ」
神と同列に語られ畏れ入る。
そうかもしれませんがと、ダンテはぶつぶつ言いながら西藤さんに続く。
有江も、尻込みするモフ狼を押し、遅れまいと門をくぐった。
門を抜けた先は、大河の岸辺だった。アケローン川か、三途の川か。
水は悠々と流れ、ときおり風に吹かれた場所が白く波立つ。空は薄暗いが、大きく渦を巻いた雲の合間から、光が大地に注ぎ神々しい。地獄らしからぬ光景は、有江のイメージが反映されているのだろう。
風に運ばれる魂はなく、遠くに列をつくり一方向に歩く魂たちが見える。
「有江さんが描く地獄がこれで、安心しました」
ダンテは、ほっとしたようにつぶやく。
しかし、有江は気がついていた。
「ごめんなさい。わたし、ホラー映画マニアなんです」
有江たちは、岸辺を歩いているが、魂たちの列に近づくほどに、引き返したい気持ちが強くなる。
列をなす魂たちの歩き方は、ぎこちなかった。手と足は棒のように固く、一歩踏み出すたびにバランスを崩して身体が揺れている。
「あれ、ゾンビですよね」
有江が遠慮して言わなかったことを、西藤さんは口にする。
「たしか、ゾンビって生きている人間の脳を食べるんですよね。ダンテさんと有江さんは喰われるにしても、私はどうなんだろうな、死んでるしな」
「試してみましょうか」
呑気なことを言っている西藤さんに、ダンテがチクリと言う。
「そうですね。でも、喰われて痛いのも嫌だしな」
西藤さんに厭味は効かないようだ。
「気がつかれる前に川を渡る場所を探しましょう」
有江がそう言ったとき、川の中ほどから岸に近づいてくる小舟が目に入る。
小舟には、上半身も露わに櫂をこぐ男が乗っている。男がひと漕ぎするたびに、腕の筋肉は盛り上がり、小舟のスピードが上がった。
男は、ホッケーマスクを被っている。
名前は、ジェイソンに違いない。
岸辺を歩く魂たちが、小舟に気がついたようだ。列は一斉に向きを変え、有江たちに向かって歩き始めた。
「これはピンチですね」
正体を知らないダンテでさえ、この状況はわかるようだ。
小舟は、間近に迫ったところで、川底につかえて止まる。
向かってくる魂たちは、口から緑の何かを吐き出している。
小舟の男は、櫂を置き一歩踏み出した。
「モフ狼、行け!」
ウォンと吠えながら、モフ狼は男に飛びかかる。
男はバランスを崩し、後ろ向きに川に落ちた。
「今です!」
有江の合図とともに、三人は小舟に乗り込みながら岸を蹴り、川の流れへと押し返した。
小舟は、有江たちを乗せ、滑るように岸から離れる。
「モフ狼~やるな~」
有江は、モフ狼を抱きしめ、顔を埋めた。
男は、川から立ち上がり、まとわりつく魂たちを払いのけながら、こちらに向かって雄叫びを上げていた。
対岸の第一の圏には誰もいなかった。
有江の地獄には「原罪」はない。
暗がりの中、坂を下っていく。
明かりのある場所へ出た。
第二の圏なのだろう。
そこには、見上げるほどの背丈の、おそらく、ミノスが立っていた。
ミノスは、立ち並ぶ魂たちを順に裁き、堕ちるべき圏を決めている。魂たちは、ミノスの前では恐怖のあまり生前に犯した罪を正直に話す。ミノスは、骨のような尾を自らの身体に巻きつけ、その回数で堕ちるべき圏を示していた。
有江たちに気づいたミノスは、裁きを中断し、嚢胞のような頭をもたげ、有江の前に突き出した。目の前まで迫った口から、さらに小さい口を伸ばし、粘液を垂らしながら言う。
「グガガック、グガガッガアグア……」
何を言っているのか、わからない。
「ジャンルは、ホラーではなくSFだと思うんですよね」
呆れたように、西藤さんは言う。
「それにしても、有江さんの構築能力が強すぎて、冥界の住人でさえもイメージを変えられていますね。もっと力のある者が、本来の姿で現れて、言葉を発してくれないことには、なんのヒントも見つかりません」
さあ進みましょうと、西藤さんはひとり先に行ってしまった。
ミノスを無視して西藤さんの後を追う。
第二の圏は、肉欲に溺れた者が、風に飛ばされていた。
魂たちは、風にさらわれ、地上から上空までいっきに連れていかれると、円を描いて互いにぶつかり合っては落ちていく。
昇っては落ちる動きを、永遠に繰り返していた。
「だれか、呼んでみましょうか」
ダンテは「神曲」でもしたように魂を呼び寄せるか尋ねたが、西藤さんは首を横に振る。
「ここの魂に話を聞いても、ゴシップや艶話しか聞けないでしょう。重要なことを知っているのであれば、同じ意識体である私に、真っ先に共有されるはずです」
「そうですか」とダンテ。
「盛り上がりませんね」
小さくつぶやいた声が、有江には聞こえた。
空を飛ぶ魂たちが見えなくなったところで、ダンテは通信機を取り出した。「2」とだけ送信する。
有江もまた、スマホを取り出し、この世界の様子をメモした。
「記憶がなくなってしまうのなら、記録しておけばいいと考えますよね」
西藤さんは、有江に話し掛ける。
「しかし、神が冥界のことを知られたくないと思えば、神はメモする前の有江さんを元の世界に帰すのですよ。元の世界に帰れるとしても、ですが」
さらりと話すが、最後の「帰れるとしても」が重い。
「帰り方を探るには、どこに向かえばいいのでしょうね」
有江の言葉を聞き、ダンテも不安を口にする。
「『神曲』の中では、私は神の意志によって冥界を巡りました。ウェルギリウスに導かれ、ベアトリーチェから理を学びました。しかし、ここでは西藤さんが現れました。有江さんが生まれ変わりなら、ベアトリーチェも現れることはないのでしょう。この旅の針路がわかりません」
ダンテは、うつむく。
厭味の効かない西藤さんが口を開く。
「だいじょうぶだと思いますよ。悪魔に取り入って冥界に入り込んだおふたりですが、その後も滞在し、こうして話していられるのも、神が許可しているからだと思うんですよね。神って、ここの統治者で、なんでもできるのだから、意向に沿わないなら、現世に戻すか、私と同じようにしてしまうとか、いくらでも排除できるはずなんです」
「神様は、わたしたちを見逃しているということですか」
「そうです、そうです。見逃すにも理由があるので、今に、あちらから接触してくると思います。それまでは、ダンテさんの『神曲』をなぞって、有江さんの『地獄』巡りをするまでです」
西藤さんの説明はいつも軽いが、妙に説得力がある。
有江もダンテも反論できず、頷いた。




