第35話 ケルベロスとプルートー
主な登場人物
ダンテ・アリギエーリ
48歳 1265年生、イタリア・フィレンチェ出身
栃辺 有江
24歳 梶沢出版編集者
西藤 隆史
36歳 調世会調査員、亡くなっている
さらに坂を下り、第三の圏にたどり着く。
空は一段と暗くなり、大粒の雨が絶え間なく降っている。
有江たちは、大きく弧を描くぬかるむ足場の悪い路をゆっくりと進んだ。
有江たちが歩く路には、魂たちが折り重なって倒れていた。魂たちは一様に泥にまみれている。
今、踏んだものが、泥なのか、泥にまみれた魂なのか、見分けるのも難しい。
少し離れた場所で、突如、ひとりの魂が起き上がる。
その魂は、何事か話そうと口を開いた。
しかし、その瞬間、背後から獣の鋭い爪が魂を引き裂く。
魂は倒れたまま動かず、また路の一部となった。
三つの頭を持つ地獄の番犬ケルベロスが咆哮する。
有江の背丈よりも大きく、開いた口は真っ赤に染まり鋭い牙が見える。眼は黄色に鈍く光り、それぞれの額に「6」という数字が刻まれている。漆黒の毛並みは、モフモフしていた。
可愛くはない。
モフ狼は、うなり声をあげ、ケルベロスと対峙している。
「まったく面倒だな。ダンテさんも有江さんも、泥団子を作ってください。私だけ手が汚れるのも嫌ですから」
西藤さんは、足元の泥を丸め始めた。
できた三個の泥団子を、ケルベロスの三つの口に放り込む。
「ダンテさんの『神曲』をなぞりますが、これって、なんの儀式ですかね」
西藤さんが尋ねるが、わかりませんとダンテは答える。
そのやり取りの間にも、ケルベロスは静かになった。
有江たちは、ケルベロスを後にし、泥か魂かを慎重に見分けながら進む。
第三の圏を半周ほど進んだところで、ダンテは「3」と送信した。
第四の圏に降りる場所に着く。
そこには、大いなる敵プルートーが待ち受けていた。
プルートーは、鎧を身にまとい、二叉の槍バイデントを左手に持ち、仁王立ちになって行く手をふさぐ。
「パペ・サタン、パペ・サタン、アレッペ」
プルートーは、悪魔を賛美する呪文を唱えた。
「先ほどは、我が愛犬ケルベロスに、よくも泥を食らわせてくれたな。貴様らの目的はわからぬが、ここから先に通すわけにはいかぬ」
「これは、展開が違いますね」
ダンテは、言う。
「プルートーは、ローマ神話に登場する冥界を司る神ですが、もとはギリシャ神話のハーデースなんですよね。『神曲』では、ここで活躍されても困るので、あっさり論破される役どころでしたが、ここでは違うようです」
そう話すダンテの鼻先を、バイデントがかすめる。
「ごちゃごちゃと、うるさいわ。立ち去るがよい」
「私たちの目的も知らないようですし……どうします? 戻りますか」
西村さんは、すでに半身を翻している。
「ダンテさん、プルートーの弱点を知っていますか」
有江は、期待するが、
「弱点は、ないですね……いや、あるかな」
ダンテの歯切れが悪い。
「この世界に招かざる者たちよ、これ以上留まるのであれば、どうなるかわかっているだろうな」
ダンテは、やれやれといった表情で一歩前に出る。
「プルートーよ、私たちが深淵に向かうのも理由あってのこと。おまえこそ、これ以上じゃま立てするのであれば、おまえのメンテーへの想いを、今一度ペルセポネーに話し、彼女の心に波立つ様を一緒に見ようではないか」
プルートーは、ダンテの言葉を聞き、黙り込む。
有江たちは、プルートの脇を通り、第四の圏へと降りた。
「メンテーとは誰ですか」
「プルートー、つまりハーデースは、ペルセポネーを誘拐して結婚したにもかかわらず、メンテーという女性を気に入って、こちらも誘拐しようと企んだのです。浮気ですね。しかし、ペルセポネーに気づかれてしまいました。怒ったペルセポネーは、メンテーを草『ミント』に変えたのです」
「その話を蒸し返すぞと、脅かしたのですね」
「人聞きが悪いですが、そのとおりです」
ダンテは、悪びれることなく答えた。
崖が途切れた岩間から、第四の圏の全景が見える。
ここでは、強欲と浪費の相反する罪を罰している。
反対側が霞んで見えないほど広大なこの圏の縁を、魂たちは全身を使って重りを押して進んでいる。
魂たちは、互いにぶつかると向きを変えて取って返す。圏の反対側で再びぶつかると、同じように向きを変えて戻ってくる。
滑稽だが、その動きを永遠に続けている。
「大玉転がしですね。勝負が決まれば魂たちもひと休みできるのに……難儀なことです」
西藤さんは、茶化して言った。
圏の反対側まで歩き、泉が湧き出す場所に着いた。
ダンテは「4」と送信する。
湧き出した水は、下の層へと流れ込んでいる。
有江たちは、流れに沿って道なき道を下りていった。
第五の圏は、一面が沼となっている。
ここでは、怒りに我を忘れた者たちが、怒りに満ちたまま魂となり、沼に沈められている。
沼は、靄が立ち込め、異形の虫や鳥が空を飛び回り、巨大な怪物が岸を闊歩する影が映る。
「さあ、怪物に襲われる前に、先に進みましょう」
西藤さんは、すたすたと先に行ってしまう。
有江たちは、崖と沼の間のわずかな陸地に沿って歩き、高い塔の下にたどり着いた。
塔から沼に向けて桟橋が張り出している。頑強な桟橋には、クルーズ船が停泊していた。
「ダンテさんと違って、有江さんの船は豪勢ですね」
西藤さんの言葉に、ダンテは顔をしかめた。
三人と一匹を乗せた船は、汽笛を鳴らし出港した。
甲板から、小さくなっていく塔を眺める。湖面には、スクリューに巻き込まれ、ちぎれちぎれになった夥しい数の魂たちが浮かんでいる。
「有江さんは、この地獄絵図を見ても平気なのですか」
ダンテに聞かれ、不思議なくらい落ち着いている自分自身を分析してみる。
「酷い罰も、目を覆う惨状も、自分が創り出した地獄だという安心感があります。『これは夢だ』と認識している夢を見ているのに似た感じですね」
「私は『神曲』で怖気づいていましたよ。安心感まであるのですか」
ダンテは、笑った。
「私が安心しているのは、死んじゃっているからですね」
そう言って西村さんは笑うが、有江とダンテは笑えない。
気まずい雰囲気の中、タイミングよく、モフ狼がウォンと吠えた。
岸が近づいている。
ディースの都に着いた。
着岸した桟橋は、固く閉ざされた鉄の城門を備える城壁へと続いている。
城壁の上には無数の悪魔がとまり、有江たちを見下ろしていた。
「この後、いよいよ、天使が登場して私たちの旅の目的が明かされるのですね」
西藤さんは、ダンテに遠慮することなく『神曲』のあらすじを披露してしまう。
有江はダンテを見るが、そんな西藤さんに苦笑いしているだけだった。
ダンテは、天使を待つ間に「5」を送信した。




