自分の部屋
レグルスの部屋に帰りついたのは午後六時だった。部屋の中は足の踏み場がある、という程度には片付いていて、部屋の主はソファで仮眠中だった。リゲルが部屋に入った途端、声を上げてキオンが足元にすっ飛んできた。
「ただいま、キオン。いま美味しいのあげるからな」
侍女たちの詰所の簡単なキッチンで、冷凍のマグロを解凍し、すき身にしてきた。マグロのすき身を包んだ紙を広げると、キオンはくんくんと匂いを嗅いで、すぐさま舐めはじめる。
「こらこら、いまお皿に入れるからちょっと待てよ」
カラカラと音を立ててキャットフードを陶器の皿に入れてから、一食分のマグロをその上にのせた。キオンはハグハグとすごい勢いで食べている。
「レグルスさん、帰りましたよ」
キオンが食べているのを安堵しながら見て、ソファに伸びている長身のボサボサ男に声をかけた。
「ん……ああ、リゲル君。おかえりなさい」
「たばこ買ってきましたよ。ジーナさんがカートンでくれました」
ビニールに包まれている十箱のたばこを、そのままレグルスの腹の上に置いた。
「ちゃんとキャメルの十ミリですか?」
レグルスは腕を目の上に置いたまま、箱を見もしないで尋ねた。
「自分で見りゃいいでしょ。……いつもの青い箱ですよ」
「ありがとうございます」
寝起きのガサガサした声で礼を言うレグルスに、ちょっと可笑しみが湧いてきた。
「ひとりで片付けてたんですか?」
「もちろん」
レグルスはのろのろと起き上がって、ソファの目の前の積まれた本に置かれたメガネをとった。
「いやあ、慣れないことはするもんじゃないですね」
へらっと笑う彼の顔が、とても無邪気だ。
「次は十日後に来いって言ってましたよ」
「ジーナが?」
リゲルは無言で頷く。
「……一日一箱ですか、辛いなあ」
レグルスはぼりぼりと乱れた頭を掻いて、ため息をついた。
「いやまあ、僕はヤニが切れてもイライラしない質なので、別段問題はないんでしょうけど。でもなあ、一時間に一本でギリって感じですよね……うーん参ったなあ」
「そんなに吸ったら身体に悪いですよ」
レグルスはとても神妙な顔になってリゲルに向き直った。
「リゲル君、真面目に聞いてくださいね。たばこは一時間に一本くらいじゃ吸いすぎではないです。一日に十箱吸うくらいで初めてヘビースモーカーなんです。僕はすごく健康的な喫煙者です」
それでも普段はいつ見ても吸っている。充分にヘビースモーカーだと思う。
「なんですか健康的な喫煙者って。元気な病人くらい意味分かんないですよ」
「それにね、リゲル君。僕らは“あちら側”なので、もう病気になることもないんです」
「……たしかに?」
“あちら側”は現世から死者として転移してきた者なので、フェリアにおいては不老不死だ。病気になることもないと考えられている。しかし怪我をすれば、生前より鈍いがちゃんと痛い。そしてちゃんと治る。リゲルはそれ故、身体はしっかり生きているのだから、大病することも可能性は皆無ではないだろうと感じている。実際風邪は引くのだから。病気にかかっても死なないというわけにはいかないだろうし、まだ“あちら側”の者が誰も病気になっていないからデータがないだけで、実は完全な不死ではないかもしれなかった。
レグルスが頑張って片付けたとはいえ、まだお世辞にも綺麗な部屋とはいえない状態なので、二人は片付けを再開することにした。
書類はあらかた片付いているので、本棚に本を収め、煙草の吸い殻を片付け、ゴミをまとめ、居住スペースの服をたたみ、床をほうきで掃く必要がある。
黙々とふたりが片付けていると、控えめにドアがノックされた。
「どうぞ」
レグルスが返事すると、ドアが開いて、そこには珠春が立っている。
「珠春さん、いらっしゃい」
レグルスは片手を上げてへらりと笑った。
「そろそろ夕食だが、ご一緒してもいいだろうか」
珠春は、どこに立っていればいいかわからないといった様子で、ふたりをちらちらと窺いながら言った。
「もうそんな時間ですか」
壁掛け時計を見ると、もう七時半になる。あと数分で侍女が食事を持ってくるだろう。
「もちろんいいですよ、ちょうど机も片付きましたから」
「そう言ってもらえると思って、部屋の扉にメモを残してきました」
「用意周到じゃん」
リゲルは思わず笑ってしまった。
やがて侍女が三人分の食事を持ってきて、三人は食卓についた。
食べながら珠春が口を開いた。
「……そういえば、アルラとミストはどうしているだろう」
「ああ、あの二人な……」
アルラは、ネメシスとの戦闘で、思ったように戦えずみんなの足を引っ張ってしまったのではないかと、気に病んでいる様子だった。
ミストはサウンを手にかけ、ネメシスにとどめを刺したという、「確実にこの手で人を殺めた」ということに、ショックを受けていた。
今日街で会ったのは、ピルクとメイの二人で、きっとアルラとミストは外に出られる状態でもないのだろうということは想像に難くない。
「明日、様子を見に行くか」
「おれも行く」
珠春は即答した。
「あの二人は悩んでいるのですね……。まだ戦闘慣れする段階でもありませんし、新人の通過儀礼とも言えます。それを乗り越えられずに辞めてしまったり、悩みが深すぎて自ら命を絶つ人もいるので、注意深く見てあげてください」
レグルスは重い声で二人に告げた。あんなに明るかったミストが悩んでいる様子は、たしかに見ていられなかった。アルラも学習院にいた頃から劣等感を抱いていたが、同じ机について勉強していた仲間がいなくなるのは寂しい。自分たちになにができるかはわからないが、顔を見せることで安心させることはできるかもしれない。
「おれは、学習院にいた頃みたいに、みんなで笑って過ごしたい」
「俺もだよ」
「だから、サウンがいなくなったのが、とても辛い」
珠春の表情は沈痛だった。
「サウンは、おとなしの森で死んでしまったのでしょう。有翼の五芒星たちの死亡率は高いですが、全員で生還できたらよかったのにと、僕も思います」
レグルスは軍人候補生たちの命を、ひとりの人間の命として重く捉えている、稀有な上官だった。
「ミストやアルラまで死んでしまったら、おれの心も耐えられない」
「死なせねえよ。だから明日、会いに行くんだ」
リゲルは自分の心に言い聞かせるように言った。
食事を終えて、珠春が自分の部屋に帰ると、ふたりは片付けのラストスパートをすることにした。ほうきやモップは魔法を使ってショートカットすることにして、リゲルはコーヒーのコップをシンクで洗っていた。
「リゲル君は、戦闘で心に傷など負っていませんか?」
レグルスがリゲルの隣に立って、心配そうに顔を覗き込んできた。煙草に火をつけて、リゲルに煙がかからないように顔をそむけて煙を吐き出したとき、リゲルはコップを洗い終えて、レグルスに向き直った。
「俺は、あまりショックでもなくて、それが自分で怖いんです。もちろんサウンが死んだこと、ネメシスに襲われたこと、確かに怖かった。でも、思ったように魔法が使えたことの高揚感のほうが強くて、俺このままダークサイドに行ってしまうんじゃないかとか、考えることもあって」
ダークサイドという言葉にレグルスは笑った。
「コイネに寝返るということですか?」
「いやわかんないけど、魔法をよくない方向に使ったらどうしようって」
「リゲル君のような道徳愛好家が、そんなことになるわけないと思いますけどね。大きな魔法を使いたいと思ったら、学習院の敷地内の薬草を冬場に生やすとか、なんか負荷の強い魔法で誤魔化せばいいですし。ただ戦闘で興奮していただけだと思いますよ」
そしてリゲルの頭を、レグルスの大きな手が撫でた。
「リゲル君が思い詰めてたらどうしようと、僕も心配だったんです」
あんまり静かな声でレグルスが言うので、リゲルは少し泣きそうになった。
「紅茶でも飲んで休憩して、そしたらシャワー浴びちゃってくださいね」
「はい」
「よし、僕は少し仕事します」
レグルスはシンクを離れて、仕事机の椅子に歩いていった。




