学習院
窓の外が明るくならないうちに目が覚めてしまった。
悪い夢を見た。
絶叫する幼い子供を押さえつけ、大人が二人がかりで、その腕を⋯⋯
⋯⋯ああ、これはきっと、
「ナァー、ナォン」
猫が顔の上に座り込んできた挙句、しきりになにかを喚いている。
「なんだよ、言いたいことあるなら人間の言葉でも喋ってみればいいだろ」
言ってしまってから慌ててやめてくれと思った。街に買い出しに出たとき、日用品を『長靴の猫』が売っていたが、人間の言葉をあんなふうに流暢に話されるとなにか怖い。
もう一度寝ようと布団を被ったが、あの人のベッドだから微妙に煙草臭い。朝がくればアルテミスに会わなきゃいけない。⋯⋯ストレスなのか余計に目が冴えてきた。
寝ることはもう諦めて身体を起こすと、薄暗がりの中、ソファに小さくなって寝ているレグルスが見えた。いつ帰ってきたんだろう、本を片付ければ少しはマシだろうに、狭そうだな。自分はもう使わないので、毛布をかけてやって、キッチンの前に放置されている木の小さい椅子に腰掛けた。
猫はまだ喚いている。腹が減っているようだ。机の上に置いてあったパンをちぎって口元に持っていってやると、実に不本意そうにモソモソと食べた。
⋯⋯しかし、ケータイがない生活は慣れるまで案外退屈だな。そこまで使う方ではなかったと思うのだが、弥生や勇矢(特に弥生)はSNSでずっと喋っているので、どうしようもなく暇になったときはそれを眺めて暇をつぶしていた。そうでなくても、生きていたときは学生だったし、教科書でも読んでいるフリをしていれば時間なんてあっという間に過ぎたのだけれど。
ここには本が氾濫しているが⋯⋯読めるだろうか。ためしに数冊手に取ってみると、記号めいた謎文字が並ぶ本。かろうじてアルファベットだが英語読みもローマ字読みもできず、ロシア語でもフランス語でもない、なんだこれは、というような言語で書かれた本。めくってもめくっても白紙の本⋯⋯、なんだこれは。いちばん最初に開いた本のような、文字として認識できないくらいの読めなさならまだなんとも思わないが、読めそうなのに読めないのがこんなにストレスに感じるとは思わなかった。ここの本はもしかして全部こんななのだろうか⋯⋯。ちょっと嫌になって本を閉じ、顔を上げると、レグルスと目が合った。
「⋯⋯早起きさんですね、」
彼は眠そうな声でゆるっと微笑し、立ち上がった。
「目が冴えてしまったので⋯⋯読めるかな、と思ったんですけど、ちょっと⋯⋯」
持っていた本を手渡すと、パラパラと数ページずつ目を通して、困ったように眉根を寄せる。
「⋯⋯なるほど、⋯⋯流石ですね。これは読めないと思いますよ、必要なひとにしかその内容を読ませてくれない『生き書物』ですからね⋯⋯。こっちになさい、これは、なんていうんですかね、物語? ⋯⋯神話? ⋯⋯とりあえず読み物です、」
自分の枕元に転がっていた本を適当に拾い上げて手渡された、ように感じる。
「⋯⋯言語は、ほら、やったでしょう君に、あんな感じで調整したら読めますよ。⋯⋯トイレに起きただけなんで、あの、給仕さんがご飯持ってきたら起こしてください⋯⋯」
そう言って、またソファで小さくなって寝てしまった。俺より10センチくらい長身だから、やたら狭そうに見えて、こっちまで身体が痛くなってくる。ベッドで寝るように促したが、うー、とか、んー、とか言って、深く寝てしまったらしい。
ここに来たばかりのとき、レグルスが言葉を通じるようにしてくれた。そのときに読み書きのほうもいじってくれればよかったのに、彼いわく『忘れて』いたそうである。あのときは一瞬で、彼の指が鳴った直後には言葉が通じていた。俺のほうはといえば、なにかされた感覚がまるでないのだから、手本にしようがない。⋯⋯本を片手にいつまでも途方に暮れていても仕方がないので、とりあえずやってみることにする。
やはり制御装置があると、力が必要になる。例えるなら、眼鏡なしで黒板の字を、教室の最後列から読むような、あの地味な疲労感。
たぶん、目の前にある文字を、自分の知っている言葉だと自分に認識させる魔法を使えばいいんだろう、わからないけど。根本をいじるやり方はまったくわからないから、しばらくこれで凌げればいいと思う。
思っていたよりこの作業は十分に大変だった。『レイニア人形夜話』という題が読めたとき、肺の底から感嘆の声が漏れた。
この本は、“オートドール”と呼ばれる人形の生産を主要産業とする国―レイニア(雨の国)を舞台にした短編集のようだった。そういった人形が実在するかどうかはわからない。機械というわけでもなく、魔法生物のような得体の知れなさもなく、人間と呼ぶには倫理観が欠落しすぎていた。漫画みたいな話だ。けれど、慣れない読書を始めるには、上々の本だった。
気付けば周りが明るくなってきた。平べったい皿から、一心不乱に水を飲み続ける猫を観察していると、いきなりドアが蹴破られた。殺される、と思って机の下に転がり込む。
「⋯⋯兄上? 起きていましたか」
顔を覗かせたのは珠春だった。
「死ぬかと、」
「小心ですね」
「いや、いまのはお前の入り方がおかしい」
「ああ、両手が塞がっていて」
ちゃんと見ると、確かに朝食がのったお盆を持っていた。その後ろには給仕さんがふたりほど、青ざめた顔で控えていた。
「⋯⋯自分の部屋で食べないの?」
給仕さんが食事の準備をしてくれている間、ドアを直しながら珠春に尋ねた。自室があるのに、なんだってこんなむさ苦しい部屋に来てまで一緒に食事をとろうとするんだろう。
「ああ⋯⋯それは、置いていかれると思って、」
「置いて⋯⋯?」
「⋯⋯学習院の見学に、でしょう。いいですよ、⋯⋯もともと君を迎えに誰かやるつもりでしたし」
レグルスがあくび混じりに言いながら起きてきた。幸いドアの修理は彼に見られる前に終わっていた。⋯⋯こういうとき魔法って便利だと思う。冷や汗なのか手汗が止まらない。
「やった、おれも連れてってくれるんですね」
「もちろん」
「よかった⋯⋯心強いよ、」
なぜか俺がいちばん喜んでいる。珠春がこっちに来た理由は、他にあるんだろうな、と、なんとなく察したが、黙っておいた。
「本はどうでした? 読めましたかね」
「ああ、なんとか読みました。⋯⋯そういえば、『生き書物』って、そんなにあっちこっちに落ちているものなんですか?」
お茶を飲もうとしていたレグルスの手を震えさせてしまった。そんなに変な質問をしたつもりはない。珠春をちらっとみると、珠春もにやにやしていた。
「それは私の部屋が特殊なだけですよ⋯⋯ふふ、ああ、そうですよね、普通はみんなちゃんと読める本しかないです、学習院では詳しく教えてくれると思いますよ。その辺りは王女さまの得意分野ですしねぇ」
リゲルの動きがピタッと止まった。⋯⋯これは昨日脅しすぎたか? あの三姉妹ときたら、同世代の男子と接点がないから、きっとこの異世界から女神が呼び寄せた少年が可愛くて仕方ないのだ。女神のものだから、当然自分たちに近いところにいつもいるし、まだなにも知らない、新鮮な反応が新しい玩具を手に入れた子供みたいな気持ちにさせるのだろう、わからなくもない。
「あの方も、授業をするのですか⋯⋯」
「しますよ、時々。レア授業なので毎回満員で」
少年は微妙にため息をついた。⋯⋯ああ、さっき珠春がついてくると知って誰よりも喜んでいたのは、そういうことか。
いつも朝はパンとサラダとベーコンがプレートにのってくるが、珠春のプレートにだけフルーツがのっていた。下がるように言いながら、改めて給仕たちに目を遣ると、アテナがいた。王族つきの侍女長だというのに、なぜこんな雑用をしているのか? 彼女と目が合って、目で尋ねると、胸に手を当てて、とびっきりの笑顔と軽いお辞儀を返された。なにがなにやら、意味を取り損ねる⋯⋯。
「⋯⋯レグルスさん、まだ眠いですか?」
「はい?!⋯⋯ああ、いや、ちょっと考え事を」
思わず頓狂な声が出た。考え事をしていなくても朝はボーっとしてしまうが、同居人ができたから、二度寝して遅刻することは減るだろう。
「それで、学習院ってどんなところなんですか?」
食後、改めて尋ねると、身支度をしながら、眠そうにレグルスは言葉を探した。
「そうですね、職業訓練学校、とでも言いましょうか⋯⋯。
基礎教育が初等、中等、とあって、高等教育の場でありながら、志す職種ごとに違うカリキュラムをこなす⋯⋯みたいな、」
「まあ詳しいことは道々アタシが説明してやろう」
⋯⋯。しれっと知らないひとが部屋の中にいた。どうなってんだここの防犯システム。快活そうな、若い女の人だ。
「お嬢、ノックはしなさいとあれほど⋯⋯」
「やあ、坊や。アタシはポラリス。とって食ったりしないから安心しな。そこの眼鏡野郎の同僚のひとり。なぜか“お嬢”って呼ばれてる。⋯⋯フェッカの言った通りだな、細くて白い」
啓は気恥ずかしさで顔が熱くなった。
「姫様に頼まれてね、アタシが今日はガイドをすんのさ。早くおいでよ、姫様がやたらウキウキして待ってるからさ」
ああ、なんだか悪い予感が的中してしまったような軽い絶望感。思わず深いため息が出た。
ポラリスはエルゲと並んで、魔導軍の主戦力とも言える、切り込み部隊の隊長をしているのだという。だが、ここは比較的平和で、戦場に出ることなど、十年に一度くらいなもので、暇な時間はスクールで教官をすることにしたら、本業のようになってしまっているということである。
学習院というのは、国立の教育機関で、国内に数か所の施設がある。フェリア城下では、宮殿の隣に配置され、軍人、魔導士、役人、医師など国家公務員の養成所のような場所になっている。年制ではなく、卒業試験だけパスしてしまえば一年目であろうと卒業することができる。よって学年やクラスなどはなく、必要な授業にさえ出ればいい。逆に言えば、卒業試験がパスできなければいつまでも卒業できず、七年間の在籍可能期間を焦りとともに過ごし、その期間を終えてしまうと、落第生のレッテルを貼られ城下で生きていかなければいけない。
卒験も、コースによるが、一筋縄ではいかないのがほとんどだ。レグルスが『早くて半年』と言ったのは、受験の機会が与えられるのは、という意味であり、本当に半年で出るには相当な運と実力がなければならない。
道中、ポラリスが慣れた言葉で説明してくれるのを聞きながら、啓はにわかに不安になった。これで七年かけて卒業できなければ? 俺になぜか信頼を寄せているらしい女神さまはどう思う? 期待に応えられなかったら俺は、俺がああやって死んだ意味は⋯⋯
「兄上、到着のようです」
啓の不安を知ってか知らずか、珠春が袖を引いた。
顔を上げると、昨日とはまるで違う、威厳ある佇まいで、第三王女が立っている。
「よくぞ来ましたね、女神の愛し子たち。身構えずとも結構ですよ、さあ参りましょう」




