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手繰り寄せた運命

 

 美歌が透旋を無視し始めてから二週間。


 透旋が学校に来るとは思いもしていなかった美歌は、降り積もる雪のように胸中へと溜まっていく罪悪感に今日もまた気付かない振りをして、いつも通り登校した。


 ここ最近になって隣が空いたままの道中にも慣れ始め、何をするにも何処へ行くにも身軽なことにも慣れてきた。最初こそ落ち着かなかったが、今ではすっかり当たり前になりつつある。

 しかし、最初と違う部分はそれだけでは無かった。


 いつも、うんざりしていた。やっと自由になれたのだと清々しい思いだった。けれども次第に清々しさは憂鬱へと変わっていく。


 透旋の顔が、声が、全てが脳裏に蘇る。


 今頃、寂しくて泣いていないだろうか。


 人付き合いが極端に苦手で、いつも一人ぼっちだと思い込んでいる透旋はひとりという状況があまり好きではなかった。


 それでも、寂しいと悲しいと誰にも言えない。

 言っても満たされないことを、透旋自身が知っているからだ。透旋が望む温かさは透旋を慕う人間からはどうやっても得られない。透旋が欲しいのはちょっと乱暴でも叱ってくれて、間違っていることは間違っていると教えてくれて、透旋を思い切り抱き締めることが出来る人間だ。


「……やっぱり、私がおかしいのかな」


 美歌は何度となくそう思ったことがある。周囲ではなく自分こそが何かおかしいのではないか、と。


「ううん。そんなことない。……だって、透旋は“尊い方”なんかじゃない」


 やはり、周囲の透旋を見る目にはフィルターがかかっているとしか思えない。


 透旋を同じ存在として受け入れていない、輝いた眼差し。確かに、ほうっと思わず息を吐いてしまうほどに透旋は綺麗な顔をしている。しかし、美歌にとっては透旋はただの透旋で、小さい頃はよく鼻水を垂らしていた無邪気でちょっぴり変な幼馴染みなのだ。


「だめだめ。考えたら、引き摺られる。……離れるんだから」


 決意したのだ。

 もう透旋のおまけでいるのは絶対に辞めるんだと。


 わだかまりを振り払って――否、気付かない振りをして、美歌は靴を履き替えた。


 教室までの道のりも、前より随分短く感じるようになっていた。透旋のマイペースな歩みに合わせる必要がない。サボりたがりの透旋を、美歌が引き摺って連れていくこともない。スタスタと進む自分の足が、妙に軽くて美歌は泣きそうだった。すれ違う生徒達の視線が美歌を責めているように思えて、足が軽くなった分だけ自分が透旋を傷付けたように思えて。


 ぐっと拳を握り締めて、美歌は教室の扉を開けた。するするとスライドする扉は、流石は寄付金の多い私立校というだけあって立て付けが悪いということもなく、美歌の力で簡単に開く。

 既に登校していた十数人の生徒が、扉を開けた美歌に目線を向けた。


「……おはようっ」


 無理やり笑って挨拶をする美歌に、困惑しながらも挨拶を返してくる数人はあまり花崎透旋に執着のないクラスメイトだ。透旋に好意を抱く生徒はあからさまに美歌へ不満気な顔をするので、案外見分けやすい。


 席につくなり美歌は顔を伏せて、ひっそりと目を閉じた。


 何も見ない、何も触れない。

 今の美歌は、ただジッとしているだけで“何も起こらない日常”を選び取る事が出来る。


 自分さえ動かなければ何も起きない。透旋との繋がりを無くした美歌は、まるで――がらんどうのようだった。


 戸羽美歌という人間には価値などないと言わんばかりに、空っぽで何もない。いっそ笑ってしまうほど、本当に何も起こらなかった。それは、確かに美歌本人が望んだ、輝かしいまでの自由だった。





『本当にそれでいいの?』





「よしかちゃん」


 その声は異常なまでに、震えていた。


 美歌の肩がぴくりと動く。


 顔を上げてはいけない。

 きっと、顔を上げたら自分は泣いてしまうと美歌は確信していた。


「……よしかちゃん」


 今にも消えてしまいそうな、か細い声で美歌の名前が切なく呼ばれる。


 だめ、だめだ。だめだよ、ぜったいに――


「美歌」


 どうして。なんで。そんな風に。

 わたしの、名前をよぶの。



 食い縛った歯がきしりと鳴った。

 それは美歌が必死に何かを堪えていた証拠だった。


 見てはいけないのだと、顔を見てしまえば後戻りはもう一生できないのだと、美歌は不思議と“知って”いた。


 ――それでも。


 不器用で人見知りで、誰にも心を開けなくて、泣き虫な透旋が、透旋だけが、美歌の名前をいつも大事そうに呼んだ。


 美しい歌。

 人の心に何かを響かせられる子になって欲しいという願いを込めて、つけられた美歌の名前。


 今はもう両親でさえ、省略してしまう自分の名前を透旋だけがきちんと呼んだ。

 いつもと同じ安易な呼び掛けではない。呼称ではなく個人として、透旋は美歌の名前を紡ぐ。


 ゆっくりと振り向いた。

 何かを覚悟するような、何かを諦めるような、そんなゆっくりとした動作だった。


「よしか」

「……ばか、鼻水でてる」


 ――ああ、なんて果敢無(はかな)い笑み。


 くしゃくしゃになって涸れてしまった透旋の金色の髪は、いつもあった天使のわっかをすっかり無くし、まるで普通の人間だ。

 目の下の隈も、痩せこけた頬も、蒼白い顔色も、すべてが透旋を“普通”に見せていた。艶っぽい目はただ虚無を映し、柔らかそうな頬は骨張って、蒼白く光を反射させる肌はかさついて荒れ気味だ。その上、鼻水も垂らしたまま。


 なんて汚い天使だろう。なんて――醜い神さまだろう。



「信者が泣くよ、透旋」

「どうでもいい。もう、なにもいらない。美歌ちゃんがいてくれるなら、ほかにはなんにもいらないんだ」

「……いらないってねぇ、あんた」

「おれ、なおすから。悪いとこ全部、なおすから」

「――うん」

「ひとりにしないで」

「……うん」

「ひとりにしないで、よしかちゃん」


 あまりにも鼻水を垂れ流すので美歌がティッシュで拭いてやると、透旋は我慢の糸が切れたように大声をあげて泣いた。

 子供が癇癪を起こすみたいな金切り声で一頻り泣くと、透旋はそのまま床に倒れ込み安堵した表情で眠った。呆気に取られていた周囲は透旋が眠った事を知るなり、ざわざわと騒ぎ出す。美歌は小さく溜め息を吐いて、透旋の足を持ち上げた。


「先生」


 いつの間にか到着していた担任は、美歌に呼ばれ挙動不審に反応する。


「保健室に連れて行って来ます。三時限目までに透旋の目が覚めなかったら、家に連れて帰りますので――」

「早退届を二人分、だね。分かりました、用意しておきましょう」


 その時になったら早退届を頂けませんか、と続けるはずの言葉は引き継がれる。心なしか嬉しそうに微笑む担任へ、苦笑して美歌は透旋を引き摺った。


「――あ。それから」

「はい!吹奏楽部の顧問への連絡もしておきます」


 楽器を触ることも出来ないだろうから部活は休みに、と続けようとして吹奏楽部の部員に遮られる。


「お騒がせしました。……でも、透旋への用事は出来るだけ透旋にお願いします」


 そこは譲れない、と頑なに告げた美歌にそれぞれが頷きを返す。


 ――もう二度とこんなことはごめんだ。

 それは満場一致の生徒達の内心であった。


 花崎透旋と戸羽美歌の決別で起きた波紋は留まることを知らず、一気に広がった。そのせいで被った被害は数えられないほどだ。


 ――戸羽美歌は怒らせるな。

 透旋と美歌が卒業するまで、その暗黙のルールは続いた。当の本人達の知らないところでひっそりと、しかし確実に。



「ねぇ、美歌ちゃん」

「なーに」

「俺ね、小さい頃、美歌ちゃんと出逢ったとき、思ったんだ。――この子は俺の為の女の子だって」

「……なにそれ、私は私の為の私よ」

「うん。でも、思ったんだ。確かに、思ったんだよ」

「透旋」

「なぁに、美歌ちゃん」

「私も思ったよ。――この子は私が直さなきゃって」

「なおす?」

「そう。別に信じなくても良いけど、直してあげてって誰かに言われた気がする」




『壊れかけてしまっている』

『このままでは、完全に壊れてしまう』

『直してあげて。抱き締めてあげて』

『あなたにしか、できないことよ』




 今はもう、遥か遠く。

 ずっとずっと前の記憶。


「だから、まずは鼻水を拭いてあげたの。他におかしいところがなにも見つからなかったから」


 こわれかけている。

 その意味が昔は正しく理解できなかった。


 だから美歌は透旋の鼻をぐしぐしと乱暴に拭って、鼻水を拭いてあげた。

 それでなおる気がしたから、それがなおすということだと思ったから。


「……うん。多分、直してもらったんだ」


 透旋は懐かしむように、何かを噛み締めるように、目を細めてくすりと笑った。



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