第七話 東雲から曙
その日、花影はやたらとにこやかな瓊花に起こされた。
「まだ東雲では……?」
外はほんのりと白んでいる。
曙にはまだもう少し。
ぼんやりする頭で問い掛けても、瓊花はにこにこと支度を促す。
「寒く無いよう袿を適当に引っ掛けておいでなさい。私が抱えていくので寝ていても構いませんが」
「……はあ?」
「見せたいものと、飲ませたいものがあるのですよ」
まだ頭は働かない。というか眠い。
「春は曙と申しますからね。ほら、掴まって」
ぼんやりしながら瓊花の首に手を回し、抱き着く。
寝ぼけていなければ、嫌味の一つや二つは浴びただろうし、そもそも瓊花に抱きかかえられてくれる花影ではないのだが。
「なるべく、揺らさぬように参りますので」
「はあ」
通い婚であれば、本来男君が身支度を整え帰る時間帯である。
いや、少し遅いか。
さて、それはさて置き。
花影と瓊花は一応同じ室で寝ているものの、両者の間には几帳があり、隔てられている。
夫婦ではあるが、まだ契は交わしていない。
別室で構わないのにと花影は思うのだが、瓊花が許さなかった。
花影には話して居ないのだが、警備上の問題でもある。
菖蒲邸は警備が厳重であることは間違いないが、それでも夜に紛れて訪れる、招かれざる客は多い。
そんなの月白邸でもそうだった、と花影なら一蹴するだろうけれど、あの頃とは立場が違うのだ。
危険は段違いに跳ね上がる。
菖蒲の北の方、という肩書はそれ程までに重い。
覚悟はしてきたと花影は言った。
だが甘い。
きっと花影は気付いていないが、既に闇討ちの危機があった。
無論、花影に至る前に、警備の士や影たちに片付けられ、瓊花は翌朝に報告を受けるだけなのではあるが、瓊花に報告が上がるだけで五回。
未然に防がれたもの、瓊花への報告が上がる程度ではない襲撃も多い。
つまりは四六時中狙われているに等しいわけで。
まだ腕の中でうとうとしている花影に、瓊花は少し罪悪感を覚えた。
できるならば穢れに通じることはすべて、花影に触れる前に取り除きたい。知らないままで居てほしい。
きっと、聡い彼女に知られるのも時間の問題であろうけれど。
それまでは好きな書物に囲まれ、幸せ絶頂の無垢な姫君であってほしい。
「で、どちらまで?」
少しばかりしっかりとしてきた声に、瓊花は意識を引き戻された。
「釣殿へ」
「夜明けが美しいのですか?」
「格別ですとも」
一等夜明けが美しく見える釣殿へ。
そして日の出の他に趣向も凝らしてある。
気に入ってくれるといいのだけれど。
「目も覚めてきました。歩けます」
「いいえ、足が冷たいでしょうから」
「重たいでしょう」
「それ程でも」
そういえば中将と言えば武官であったな、となんとなく思った。
きっと瓊花は弓馬の鍛錬も欠かさぬのであろう。
先程から花影を抱えた腕はびくともしない。
多少恥ずかしさはあるものの、一応夫婦であるのだし、と屁理屈を捏ね、自分を納得させる。
意識するとどんどん恥ずかしくなっていくので、思考はそこで止めた。
「着きましたよ」
畳と茵が用意されていて、花影は流石に笑った。
「円座で宜しいのに」
「座り心地は茵の方が良いでしょう」
「わざわざ畳まで」
「だって、板敷に直に茵では硬いでしょう」
過保護、と花影は笑う。
瓊花はにこにこと花影の隣に腰を下ろす。
「お寒くは?」
「大丈夫」
「ほら、もうすぐです」
ゆっくりと、世界が色付いていく。
白から朱へ。
ゆっくりと紫に染まっていく雲がたなびいて。
空はじわりじわりと青みがかって。
この曖昧で不思議な色合いは、本当に美しい。
「これをお見せしたかったのです」
そっと瓊花が囁くと、花影はうっとりと目を細めた。
「言葉にするのは難しいほど、美しいですね」
そっと寄り添う瓊花に、逆らわず花影も凭れ掛かる。
仲睦まじい夫婦に見えるだろうか。
なんとなくそんなことを考えて。
もう少し余韻に浸っていたいけれど、と少し残念に思いながらも瓊花は手を打つ。
音も無く現れた女房達に何事か言い付け、瓊花はまた花影の頭に頬を寄せた。
「少しくっつきすぎでは?」
「人目があると、すぐに離れたがりますね」
少し唇を尖らせた瓊花に、花影はぴしゃりと言い放つ。
「人目があるからです」
「夫婦なのに」
「夫婦でもです」
やれやれと瓊花は名残惜し気に少しだけ身を離した。
少しだけ。
視線で咎めれば、風除けと言ってのける瓊花に、花影もそれ以上は言い募らなかった。
やがて釣殿に運ばれて来たものに、花影は目を丸くする。
雑色らが抱えてきたのはどうやら持ち運びできる竈の様なもので。
「え、炭櫃とかでなく? というか必要な寒さです?」
「ふふ。貴方に差し上げたいものの為に、沸かし立ての湯が必要なのですよ」
「は? 湯? 白湯ではなく?」
意味が分からず困惑する花影を他所に、雑色らは竈らしきものを組み立て。
そう、釣殿の上に組み立てて。
続いて女房らが窯と水とを運んで来た。
「何するんです?」
「茶、というものをご存じですか」
「昨今、異国より渡来したとかいうものですね。ええ、名だけは」
「それを味わって頂こうと思って」
ぎょっとしたように花影は瓊花を仰ぎ見る。
物凄い高価な品の筈だ。
それこそ王族でなければおいそれと手が届かない、とまで考えて、そういえばここは菖蒲なのだと思い至る。
月白も上位貴族ではあるが、菖蒲はやはり別格なのだ。
「主上に分けて頂いたのですよ」
さらりと出てくる王の名に、花影は嘆息した。
格の違うお坊ちゃま。
「では、ご覧になっていてください」
瓊花は袖を捲り、紐で括って。
「え、まさか手ずから?」
「他の者よりは上手ですよ。義姉上には負けますが」
窯で沸き立つ湯を銚子に注ぎ、何やら黒っぽい塊を小刀で削る。
「餅茶というものです。餅に似た形だからだそうですよ」
説明しながら、瓊花は手早く粉末を先程の銚子に加える。
「土器を。熱いのでお気を付けください」
杯では手を火傷するのだと言い、瓊花は香り立つ液体をそっと花影に差し出した。
「これが、茶……。良い芳香ですね」
「清しいでしょう」
「ええ」
「ほんの少し、口に含んでみてください」
そうっと唇を寄せれば湯気が熱い。
ふうふうと息を吹きかけ、花影は一口含んだ。
目が丸くなる。
美味しい。
「なんとも、変わった味! でも爽やかで、なんというのでしょう、苦みもまた趣深い。表すのが難しいですね。美味しい」
「鼻に抜ける芳香がスッキリとしませんか?」
「ああ、わかります。目が覚めるよう……。まさかそれで?」
「そういう訳でも無いのですが、朝陽を眺めつつ飲むのは格別だろうと思いまして。貴方にも是非味わって頂きたかった」
素晴らしい景色。
素晴らしい飲物。
横に居るのは麗しい男君で我が夫。
「これはもう、完敗としか申せませんね」
満点である。
「よくわかりませんが、気に入ってくださったのなら良かった」
瓊花自身も茶を味わい、満足そうに目を細めた。
「うん。美味しい」
横目で瓊花を見遣り、朝陽に照らされる庭に視線を遣り、花影はうっとりと吐息を零した。
嫁いで良かった。
瓊花で良かった。
きっとこれを幸せというのだろうなと陽に目を細めつつ、花影はしみじみ感じ入った。
なんでもない。
けれど、特別な朝のこと。




