第六話 夫の兄の寡婦
「我が息を早々に手懐けるとは、月白の方は見事な手腕をお持ちの様だ」
御簾の向こうの春の日差しはまだ淡く、空気には冬の名残がひっそりと漂う。
紅梅がほころび始め、ほのかな香が風に乗って漂ってくる。
そんな中、花影は只管に、両手をつき首を垂れ、畏まっていた。
まるで夢物語の姫君の様な可憐で美しい女性だが、気圧される。
梅花の香がこれ以上なく似合う方。
眼を合わせるなど、畏れ多くてできる訳が無い。
前の菖蒲中将楝の寡婦初霜。
王の従姉妹姫であり、虹霓国の内外に知られた美貌の持ち主でもある。
「面をあげられよ。その様に縮こまっていられては、話もできぬ」
「は……」
恐る恐る顔をあげ、息を整え、花影はゆっくりと一つ瞬いた。
「ご挨拶が遅くなりまして、ご無礼致しました。月白より参りました、花影と申します。御方様に置かれましては、どうぞよしなに」
ぱちん、と扇が鳴る。
花影は見えない程度にではあるけれど、びくりと頬を引き攣らせた。
だが、初霜には見通されている。
「何をそのように怯える。わたくしは何も其方を取って喰おうなどとはせぬぞ、花影殿」
「は、申し訳……」
「謝罪はよい」
「は」
「大体、先日より其方が菖蒲の北の方。わたくしではない。心得られよ」
「畏れ入ります」
初霜はふん、と鼻息荒く頬杖をついた。
「其方もわたくしの色々な噂を耳にしておるのだろう。全く、若い頃は無茶もしたが、今のわたくしはただの隠居であるぞ。怯えずともよい……とは申せ、まあ、少々は仕方ないとは思う。旦那様との婚姻に際して色々やったのでな。若気の至りだ。恋に浮かれた可愛らしい謀と流せ」
可愛らしい謀で、国中引っ繰り返るような騒ぎを起こした美貌の姫、初霜。
「其方には申し訳なくも思っておるのだ。わたくしたちの我儘に巻き込んだようなものであるしな」
「畏れ入ります。ですがその点お気遣いは無用に願います」
「うん?」
花影は胸を張り、顔を上げる。先程の様子とは打って変わって堂々と。
口元に笑み。目はきらきらと輝いている。
「私も私の益があり、嫁いで参りました。そして、その端緒は既に我が手の内に入りましてございます」
そう、図書殿。
なんと有り難いことに今後は出入り自由だそうだ。
徹夜をしないこと。
休憩を挟み、倒れるまで集中しないことなど。
細かな注意はあるものの、生涯手に出来ぬと諦めていた宝の如き書物が、読み放題。
「もう、私は幸せで幸せで、なんと申し上げたら良いのでしょう、天にも昇る心持ち。龍神様に毎日毎晩感謝を捧げております」
「ああ、うん。書物狂いの御方とは聞き及んでおる」
若干引いた感じで、初霜が苦笑した。
「花影殿が苦渋の日々を送らざるを得ない状態でないのならば、良い」
「苦渋どころか天国です」
初霜が扇の先で少し頬を掻いた。
「瓊花とは上手くやっておいでか?」
花影は少し眉を寄せると、視線を庭の方へと投げた。
柳の枝先には淡い緑が芽吹き、風にやさしく揺れていた。
小鳥が枝から枝へと渡り、軽やかなさえずりが聞こえている。
「私に不都合は無いのですが、あちらがどうかは存じません」
「自分の夫に興味は無い、か」
「はあ、まあ」
即答した花影に、初霜は思い切り苦笑した。
花影は肩を竦めて続けた。
「貴族の娘と生まれたからには、家の手駒となるが必定。私もそのつもりでおりました」
意外な台詞だと言わんばかりの初霜の表情に、花影は少し睫毛を伏せた。
「勿論出来うる限りの抵抗は致しましたし、打てる手は全て打ちましたが、叶うとは思っておりませんでした。私が思っていたよりも、父は私に甘かったようですね。嫁した先が此処ならば上々。おまけに条件は願っても無い物でした」
「秘蔵文書の閲覧許可」
「はい。もう、なんと申し上げましたら良いのやら、あの様に貴重な品々を我が手に取り、存分に堪能できるだなんて、龍神様からのお恵みとしか思えぬ程。幸せな日々を送らせて頂いております」
「ご自分の部屋にいるよりも、図書殿に籠っておられる方が長いそうだが」
「左様でございましょうね」
「読み尽くしたら用は無いと、出て行かれそうだと瓊花がぼやいていた」
「約定破りは致しません。勿論、こちらの書物が私の一番の目的でございますが、我が実家、月白の命運も多少なりとも掛かっておりますれば、私の一存でどうこうするつもりは毛頭ございません。ご安心ください。それに」
花影は、少し冷めた笑みを唇に乗せた。
「あと十年も経てば、藤波様が元服なさいましょう。私の役目はそれまでです」
初霜が、意外な言葉を聞いたように目を瞬いた。
「瓊花もわたくしも、其方を使い捨てる気は無いぞ」
「いいえ、契約は契約。割り切って参りましょう。藤波様が菖蒲の当主に座すまでの間、瓊花殿の北の方として他所に付け入られる隙を作らぬための盾、と心得ております」
花影は淀みなく、言葉を続ける。
「私が子を為さず、瓊花殿が他所に胤を落とさず、藤波様の、菖蒲の未来を守り抜きましょう」
そして、用済みとなった我が身は尼寺へ。そこでは経典を読み尽くそうと思う。
なんと盤石な人生設計だろうか。
「——花影殿、好いた殿御は居らなんだのか」
静かな初霜の問いに、花影は綺麗に微笑んだ。
「居りませぬ」
「そうか」
「はい」
花影は秘密を打ち明けるように、そっとそっと睫毛を伏せた。
優しい表情は、それこそ恋をしているような。
「私は書物を通して、世界に焦がれているのかもしれません」
宝物を見せるように、大事に大事に紡がれる言の葉。
「世界、或いは龍神様。この世を織り成す全てのこと。書物を通し、私はその一端に触れることができる。それが何よりも、幸せです」
他は全て些末なこと。
「という訳で初霜様」
「うん」
「貴方様の若き時代の武勇伝も、とても惹かれるものがございますので、もし宜しければお話し頂けたならと思うのですが」
「恋物語に興味は無かったのでは?」
「我が事となれば別ですが、恋物語は好きですよ。それこそ頭中将歌物語も、龍神絵巻も幼き頃から何度も読みました」
「意外に俗っぽいものも嗜まれるのだな」
「はい。文字ならば何でも。ですが、流石に初霜様と楝様のことは、噂話や人の日記程度のことしか存じませんので」
初霜の目がうっすらと細められた。
「……誰の日記に書いてあったと?」
「前宰相殿の日記だったと思うのですが、記憶が不確かですので、明言は出来かねます」
「あの狸爺めのか。あれは、わたくしも幾らか目にしたことがある」
「やはり実際とは違ったものでございましたか?」
初霜は少女の様に頬を上気させ、ずいと花影に顔を寄せた。
「話し始めると長くなるが、聞かれるか?」
悪戯っ子の様に目を輝かせ、花影は頷いた。
「是非に」




