間章2 新米貴族は、姉弟喧嘩に手をこまねく。6
タングリングの屋敷に戻ったライアンは、まだ外で色々と文句を言っているホールの声を微かに聞こえながら屋敷の奥へ歩く。
「あれ? エリーはどこに行った?」
てっきり屋敷の玄関辺りで待ってくれていると思っていたが、彼女はそこには居ず、掃除を終えた使用人の談笑が聞こえるだけ。
(……少し、というか結構マナを使ったのかな?)
学園を卒業してからすぐ、ライアンとエリザベスの婚姻と取り決めていたことが、まだ自身のマナを扱え切れていなかったエリザベスの一言で延長された昔を思い出した。
『これから貴族の一員となる私は、自分自身のマナが制御しきれておりません。ですので――』
デミストニアのライフアリー商会で話し合えばいいものを、父親のザノアール・ライフアリーを連れてタングリングの屋敷まで来て話した彼女を、ライアンは三年前のことでも昨日のように憶えていた。
『弟への折檻。……あの夜のことを見ていらっしゃったお二人もご存じの通り、しっかりできておりません』
三年前の『深窓の令嬢』シリーズがゼクラット書店で取り扱われる前に起こった、ライアット通りの小商会との小競り合いの発端になった時だ。
エリザベスがファビオを、本気で顔を殴り瀕死にした夜のこと。
あの日の彼女の衣装に気をとられたライアンは、その美しさと強い魅力に足がすくんで、明らかに異常な興奮状態だった彼女に対して静止するよう注意すらできなかった。
その日から数日、ファビオの容体が安定し、彼女はこの屋敷の応接室で俯いて話す。隣で目を瞑ったザノアールが申し訳なさそうに彼女の声を聞いていた。当時まだタングリング家の当主だったデービットは、その仰々しさに顔を引き攣らせていたことも、ライアンは憶えていた。
『……それで申し訳ありませんが、父とも相談した上でお願い事があって伺った次第です。ライアン様との婚姻の件、改めてになりますが、私の不出来によって破談させてもらいませんでしょうか?』
屋敷での一幕は、ライアンにとって初めて気が遠くなることでもあった。
自らが言い出した婚約破棄を、今度はエリザベスが言い出した。
彼女がなにか変なものでも食べたんじゃないか? と勘ぐってしまうもの当時のライアンの心中では無理などなかった。
顔を上げても目を合わせない彼女に『まさか、体調が? ……マナの制御ができないから?』と聞いたデービットのこともライアンはその動揺から出た言葉を理解した。それが、彼女の体質について偏見も甚だしい内容でも止められなかった。
ただ、黙って聞いていたザノアールが『大丈夫です。娘は健康です。末弟は瀕死ですけど』と困ったように笑って答えていた顔も懐かしく思えて、厳しい教育で笑いもしないことで有名だったライフアリー商会の商会長が、人らしく『まぁ、エリザベスのことで婚約破棄をなされるのはデービット様とライアン様次第でしょう。うちの末弟とエリザベスの喧嘩を見た結果の話です。破棄されても製紙工場の件は続けていきますので、沙汰の熟考のほどお願いします』と頭を下げて早々に帰ったことを(まるで、今日のことと同じみたいだ)とライアンは思い出す。
言うだけ言って判断を迫られたあの日と同じで、ファビオの泣き言——もとい、相談を受けて彼が力になれることを提案した訳だが、彼の都合のいいように話がまとまった感がしつつも、ライアンは自室に向かって歩く。
外にいた時も感じていた昼の暑さは和らいで、廊下に吹き込む風は一度目に応接室へ向かって歩いた時よりも、数段と冷たくなっている。
「旦那様、こちらにいらっしゃいましたか。奥様をお捜しでは?」
エリザベスの機嫌を直そうと彼女を探すライアンへ、応接室で水を運んだ使用人の彼女が後ろから声をかけた。
「まぁ、そうなんだけど、部屋にいる気がしたから戻ろうとしただけさ」
彼を探していた彼女の言い方に、彼は振り返って「それで? どうしたんだい?」と続けた。
「奥様が応接室にいらっしゃいまして、旦那様をお呼ばれに」
「……応接室の方だったか。すぐ行くよ」
「お願いいたします。そこそこ荒立っていらっしゃいますので」
頭を伏せて「それでは」とライアンに返す彼女は、背筋を伸ばしたまますれ違うようにライアンの後ろを歩いていく。
彼女の後ろ姿を目で追う彼は、「そこそこ荒立って? ……いやぁ、厳しいな」と平穏無事に過ぎ去ったはずの不安がまた芽吹いた気がした。
* * *
不安だからと逃げる訳にはいかなかったライアンは、応接室で待つエリザベスがこれ以上不機嫌にならないことを願いながら今日一番に重い足を引きずって、もう一度、応接室の前に着いた。
「ねぇ。私っていいお姉ちゃんよね」
ゆっくりと扉を開けて中に入った彼へ、エリザベスは独り言のように話し掛ける。
彼女の問いにどう返せばいいか迷うライアンは、ファビオが座っていた椅子に腰かける彼女の、自信なさげに髪を解いて顔を俯かせる様子を見て明らかに不機嫌というより、何かに打ちひしがれたみたいだと感じた。
使用人の彼女が言っていた不機嫌そうな雰囲気が一切感じなかった彼は、エリザベスの様子を横目に自身が座っていた椅子に腰かける。
彼女の独り言であれば返事すら間違いなのだが、先ほど以降、話さない彼女にライアンは意を決して口を開く。
「……そうだね。あのファビオ君が軽口を言える数少ない人の内の一人だから」
「そうよね。私はあいつのお姉ちゃんなんだから……って、軽口って何? 罵ってもいいって思われてるってこと?」
独り言ではなくライアンへの問いかけだったことはあっていたが、言葉の綾というよりこじつけに等しいエリザベスの解釈に、座った彼は俯いたままの彼女の機嫌が落ちていく気がした。
「そうは言っていないじゃないか。ただ——」
言い訳よりも誤解してそうなエリザベスに向けて正そうと言葉を紡ぐライアンに、頭を揺らして「いいの」と力強い赤い瞳が彼の目の前で輝いた。
「優しい私だから許されるのよ? あんたも失言には気をつけなさい。舎弟のあいつにそう思われるのは癪だけど許してあげられるわ」
俯いた時の話し方と違って、いつもの様子で話すエリザベスは「大人の余裕ってことよ」と戸惑った彼に、それはライアンへの問いかけではないと言わんとして足を組んだ。
彼女の流れる水のような仕草一つにライアンは魅了されたが、閉じた口を開いて、吐いた息を吸って声を出す。
「……舎弟って、なかなか」
「舎弟よ。あいつより、私の方が早く生まれてるのがその証拠よ」
暴論だと言うだけなら簡単だが、髪を耳にかけて彼を見るエリザベスはそれが当たり前だと心の底から思っていた。
「……うん、そうだね。確かにそうだ」
故にライアンもエリザベスに肯定した。
暴論が暴論のままもう、二十年以上経っているのだ。当事者のファビオ以外が指摘したところでそれが是正されることも金輪際ないだろう。
彼は言わなくてもいいことは言わないことをファビオから学んだおかげで、ただ、「はは」と渇いた喉を鳴らす。
「でも、楽しそうなあいつの顔は悪い気はしないわ」
「楽しそう? ファビオ君が?」
「分からないの? あなた、あいつのこと全然知らないのね」
座っていた椅子から立ち上がったエリザベスが、ゆっくりと彼が座る椅子まで歩く。
慈しむようにライアンを見る彼女の目に気恥ずかしさすら込み上げた彼は、眉を下げ困り顔をして息を吐くついでに声を出した。
「……ごめん、分からなかったよ」
(分かる訳ないんだけど。……今のエリーに言い訳したら、それこそか)
厄介な置き土産を置いて帰ったファビオのことは、彼にとってはもうお決まりのことであって気にしても仕方がない。
ただ、ゆっくりとライアンの隣の椅子に腰かけるその時まで、彼女の目の奥が笑っていないのは、手に取るように分かった。
「別に謝ることじゃないわ」
口ではそう答えるエリザベスだが、ライアンが聞く意訳では『あんたは分からなかったの? あんなに分かりやすかったのに? それでも貴族?』と彼女の目が言っている風に聞こえた。
不機嫌というよりも、消化不良らしい彼女の心境を察した彼は(そこまで気をつけることもないか)と判断してエリザベスへ顔を向ける。
「さすがファビオ君のお姉ちゃんなだけあるよ。さすがエリー」
「おだてたって良いことなんてないわよ」
それでも少しだけ口角が上がった彼女に、それを見たライアンは(嬉しそうだけどね)と声には出さず微笑んだまま胸の内で囁く。
少しずつ機嫌が上がってきた彼女へたたみかけるように続けた。
「そうかな。エリーの機嫌が良かったら、この屋敷が華やぐんだよね」
「……調子の良いことを言って」
ライアンの言葉にまんざらでもなさそうなエリザベスは座ったまま彼から顔を背けて窓を見る。
外はまだ明るく、微かに彼女の顔が反射して見えた。
優しげに目尻を下げ、口角は上がって小さなえくぼを作っている。
そんな彼女に(もう大丈夫そうかな)とライアンは今日も気負いすることなく眠れそうなことに安堵して肩の力を抜いた。
他愛のない話を応接室で繰り返す二人は、少しばかり外が暗くなりだしたことに気づいたライアンが椅子から立ち上がって「もう戻ろう。夕食も近いだろうし」と腰かけたままのエリザベスに手を出して言う。
「……そういえば、大丈夫なの?」
「大丈夫? なにが?」
彼の手を取って立ち上がったエリザベスは体が固まっていたらしく、彼の手を離してから腰を回した。
続けざまに「ディオネちゃんと話すんでしょ? まとまって空いた時間なんてあるの?」と今度は首と肩を回して言う。
「あぁ、それは工場で対応すれば——」
「だから、この私がディオネちゃんの対応すればいいのよ」
ファビオがまだ応接室にいる時、すでに話をつけたことを彼女も見ていたはずだった。
ライアンが背筋を正して返そうとしたが、エリザベスに被せられる。まだまだ元気そうな彼女は、ライアンを試すように目を細めて彼の言葉を待っている。そんな彼女にライアンは考えてから、腕を組んで言った。
「……『深窓の令嬢』が終わるから?」
「なに? そのことの腹いせとか考えてるかもって? 私がそんな矮小な人間に見える? このエリザベス・ラ・タングリングが?」
間違えた返答をしたライアンは、どこか得意げだった目を一気に眉間にシワを寄せたエリザベスの追撃を覚悟したが、彼女の言った婚姻による名前の変更後の言葉にドキリと胸が高鳴った。貴族に嫁いだ者は家名を貴族のものに変えて前の家名の頭文字をその間に入れることが決まっている。故に、エリザベス・ライフアリーがエリザベス・ラ・タングリングとなっているのだが、当のライアンはその名前が二人をより直接的に繋いでいることにまだ慣れていない。
「なにその顔。最近は見なかったけど変な顔よ」
「ディオネちゃんのこと考えておいて」とすれ違いざまに言って、エリザベスはツカツカと音を立てて応接室を出て行った。その後ろ姿を見てライアンは「ふぅ」と息を吐く。
「熱いな」
自分の顔が赤くなったことを確認した彼は、「もう一年だぞ。慣れないと」と自らに言い聞かせた。
未だにライアンは、初めて見た彼女の自画像から惚れていた赤い瞳に艶やかな黒の髪を携えたエリザベスが自身の妻になったことに慣れていない。




