第15話 錯乱
◆第15話 錯乱
ー 2024年10月21日(月曜日) ー
生気を失った虚ろな目には満月が映っていた。
瞼には力がなく、開いているのかいないのかわからないような半目の状態で窓の外をぼんやりと眺めていた。
座る気力もなく、引力に吸い寄せられるかのように、ベッドの上に張り付くように横たわっていた。
あれから何日経っただろうか……。青年の頭の中からはすっかり曜日感覚が失われていた。
というのも、ここ数日は家から一度も出ることもなく、ただ喉が渇けば水を飲み、お腹がすけばインスタント食品を食べ、そしてまた床に就くという生活を繰り返していたためだ。
もっとも、少量のインスタント食品でさえ喉を通すことがやっとであった。空腹感は感じているものの、食べ物には全く味がせず、どれも砂のようなパサついた触感で、体が食べ物を胃袋に入れることを拒んでいるようであった。
青年はみるみる衰弱していった。頬はこけ、血色は悪く、目の下には真っ青なクマが浮かんでいた。
床には外出先から帰宅した後の衣類が洗濯にかけられず乱雑に散らばり、テーブルの上は彼が愛好していた漫画類の書籍が雑然と広がり、不要な郵便物やコンビニで購入した菓子パンやインスタント食品、それから病院で処方された薬などが無造作に置かれていた。
『神々に愛せらるるものは 夭折 す――』
誰の言葉だったか――。青年の頭にはふとそのフレーズが頭を過った。
なんだそれは。神に愛されることによって、早逝させられる必要があるとでも言うのか。
ふざけている。あまりにも不条理すぎる。
彼女は必死になって生きることを全うしようとしていた。そしてもっと長く生きしたいと、言葉には発しなかったものの、彼女の思いはひしひしと伝わってきていた。
もし長生きをすることができたのであれば、未来に希望を抱きながら輝く人生を歩んでいたに違いない。
そう、彼女は死ぬ『べき』ではなかったのだ。
生命は有限であり、いつか必ず死が訪れることは自然の摂理であり、自明であることは当然に理解している。
だが、今である必然性は全くない。彼女自身がそれを望んだでいたのならまだしも、まるで逆であるにもかかわらず、死は訪れた。
おかしい。もし神が存在するというのなら、この事象についてもっと合理的で納得のいく説明が用意されるべきである。何の取り柄もない、凡庸な自分になどではなく、彼女に訪れたその理由をだ。
なぜ神は、我々人間に、否、生物に生死の選択権を与えないのか――。
青年はその理不尽さに無性に腹が立った。
だが、『死』に関してだけは、神が予め用意していた筋書きとは違う展開を自らの手で選択する方法がひとつだけ存在する――。
(いっそのことこのまま……)
青年は一抹の反発心を胸に抱きながら静かにそう思った。
この精神状態ではまともに働くことは難しいだろう。このまま欠勤を続けていればいずれ貯金が底をつき、生活ができなくなる。職場には風邪をひどくこじらせてしまってとだけ伝えている。
親にも頼りたくない。両親から受けた予言の通りの事態となり、本人たちは励ましたつもりであったのだろうが、ほら、と言わんばかりの追及ともとれるような発言をいくつか受けたからだ。
それらの数々の言葉を受け止められるようなキャパシティはもう彼の中に残っていなかった。
だから、彼らとは距離を置きたかった。
そのようなことを逡巡していると、不意に、棚の上に並べてある『2つの』結婚指輪とシロツメクサのネックレスが視界に入ってしまった。
毎回のことながら、それらを目にするたびにフラッシュバックのような強烈な発作が条件反射的におき、胸が強く締め付けられ過呼吸となった。
そのため、意図的に視界に入れないように心掛けていたが、別の考え事をしていたせいで、その注意が一瞬削がれてしまった。
うぅっ……。はぁっ……はぁっ……。苦しい……。
青年は重い体を何とか反転させ、震える手をテーブルの上に散らばる処方箋の袋に伸ばして薬の包装シートを取り出し、錠剤を2錠手のひらに乗せて勢いよく口の中に放り込んだ。
そして、テーブルの上に置かれている半分ほど減った、ぬるいペットボトルを手に取り、飲料水を薬と共に胃の中に流し込んだ。
ふぅっ――。ふぅっ――……。
過呼吸となった際の対処法については医師から指導を受けていた。
大方、このゆっくり長く息を吐く呼吸方法と、薬を飲めば過呼吸は2分程で収まるのだということを既に数日連続で経験して学んでいる。
ふぅ……。
呼吸の乱れは落ち着いてきた。が、依然として彼の精神状態に変わりは見られなかった。
この過呼吸を止めなければ、いよいよ『実現』できるのであろうか――。
青年は苦しみから逃れるために無意識にとってしまったことを少し悔いた。
スッ――。
青年の前に唐突に小さな緑色の閃光のような光が横切った。
(蛍……?こんな時期に?)
正直なところ、その正体についてはどうでもよかった。
それを明らかにしようという気力など微塵も起こりえなかった。
青年はただその光の行方を、力のない目で追うだけであった。
無害な虫だ。早くこの部屋から出ていって欲しい。ただそう思った。
光は棚の方へ向かって飛んで行った。
そうして段々とよろしくないものへと近づいて行ってしまっていることに気づいた。
するとその光る虫はダイヤモンドがついたリングの目の前に止まった。
「くそっ!!!」
青年の目は一瞬にして血走った。
そして勢いよく立ち上がり、その虫を撃退するには余りある凄まじい勢いで手を叩き、虫を叩き潰した。
「触るな……。彼女が大切にしていたものを汚すことは絶対に許さない。それを守るためなら、仮に無害な命であっても容赦はしない」
青年は恨めしさを含んだ低い声でそう言った。
すりつぶした虫の死骸を確認しようと、一度合わせていた両手を離した。
するとひらひらと、ちょうど閃光花火が落下するかのように光は床へと落ちた。
(まだ死んでいないのか……?それとも光が消えるまで時間がかかるのか。どちらでもいい。この虫を外に放り投げるという後始末の方法には何の変わりもないのだから)
青年は地に落ちている光を見ながらそう思った。
「イテテッ……。頭がくらくらする……。とんでもない衝撃でヤンス……」
青年はぎょっとした。空耳……?今確かに人の声が聞こえたような……。いや、そんなはずは……。
青年は無意識に地面に落ちている光から一歩後ずさりした。
念には念だ――。
そう思うとテーブルの上に散らばっていた広告紙を手に取り、筒状に丸め始めた。
「許してくれ」
青年はそう言うと、紙の筒を勢いよく振り上げ、地面の光に向かって思いっきり叩きつけた。
〔パンッ!!!〕
筒の先端に目をやると、光はなぜか叩いたはずの場所から5センチほど離れた所に移動していた。
(よけられた……?それとも筒を振り下ろす風圧で吹き飛んでしまったのか……?)
次こそは確実に――。
そう決心すると今度は慎重に狙いを定め、必要最低限の動きで虫を仕留めにかかった。
〔パンッ!〕
もう一度試みた。しかし、結果は同じであった。
なぜ当たらない……?
「やめるでヤンス……」
今度は確実にその光の方から今耳にした声が発せられていることを認識した。
青年は恐ろしくなり、みるみる顔が青ざめていくことがわかった。
「一度落ち着くでヤンス。何か悪いことをしに来たわけではないでヤンス。というより、まず何でアチシのことが視認できて触れることができるのかが全くもって不明でヤンスが、つい数日前にも同じ事象に遭遇したでヤンス」
青年の額には脂汗がにじみ出ていた。
その光から目を背けるように、テーブルの上に置かれている、『抗精神病薬』と大きく書かれている未開封の処方箋の袋に目をやった。
ごくりと唾を飲み、医師から言われたこの薬の服用のタイミングについて思い出した。
「もし万が一変なものが見えたり、変な音が聞こえると感じたら、すぐにこのお薬を飲んでください。過度の寝不足や食欲不振が続くと、幻覚や幻聴が起きることがまれにあります」
今がそのタイミングかもしれないな――。
そう思い、薬袋の方へ手を伸ばしかけた瞬間、また先ほどの緑色の光が浮き上がり、指輪の方へ近づいていく姿が視界に入った。
「こいつっ!またっ!!!」
青年は手に持っていた紙筒をブンッと勢いよく横に振り、光を打ち落とそうとした。
しかしやはり当たらなかった。
「しつこいでヤンス……。これじゃぁ仕事にあたれないでヤンス。邪魔するのやめてもらえヤセンか?」
「し、仕事……?」
思わず言葉が口からこぼれ出た。
はぁっ――――。
光が大きくため息をついた。
光が青年の目の前にゆっくりとやってきた。
すると一瞬その光が強烈に明るくなり、青年は思わず目を腕で覆った。
目を開けた次の瞬間、先ほどまで対峙していた丸い緑色の光が、何か人間によく似た小さな生き物へと姿を変えていた。依然としてその生き物は光をまとっていたが、体積が大きくなった分、少しだけ明度が落ちたように感じられた。
「う、うわぁっ――”””!!」
青年はこの世で見てはならざるものを見てしまった時のような大きな声でそう叫び、思いっきり尻餅をついた。
「お、お前は何ものなんだ……?こんな虫を今まで見たことがない……」
「虫だなんて失礼な!アチシは気高き大天使様からの遣い、『フェアリー・ミツハ』でヤンス!」
「ふ、ふぇありー……?」
青年の体はわなわなと震えていた。しかし同時にこの現実離れした存在を自分の妄想が作り上げたものだとしたら、ひどく稚拙で滑稽なものだと思えた。
怯える必要はない……。
青年はすかさず先ほど手を伸ばしかけた薬袋を素早く手に取り、薬を1錠取り出して勢いよく口の中に放り入れ、ペットボトルの水を垂直に飲んだ。
「さぁ……、フェアリーなんとかと言ったな、妖精さん」
先ほど飲んだ薬が早く効いて欲しいと願う傍ら、それまでの間、目の前に現れた自分が作り出した『幻覚』を少しからかってやろうという反骨心のような感情が芽生えた。
その妖精は、きょとんとした表情をして首を傾げ、青年の顔を見つめていた。
「あんたは一体何をしにここに来たんだい?それに、僕が大切にしている、いや彼女が大切にしていた指輪持ち出そうとしたり、汚そうとしたりする真似はやめていただけないかな?」
青年はまるで悪ふざけをしている子供を諭す時のような口調でそう言った。
はぁっ――――。
再びため息をつくと、やれやれと言わんばかりに首を何度も横に振っていた。
「まず、その指輪を持ち去ったり、汚したりするようなことはしないでヤンス。ほんの少し、そうでヤンスね……、1時間ほどだけその大切なものから『念』を抜く作業をさせてほしいでヤンス」
「『念』を抜く……?」
何を言っているか全くわからず、困惑の表情を隠せなかった。
「そうでヤンス。だから、少し見守っておいていただけヤセンか?この仕事は、君、イマガワサトシ君の身を守るためのものでもあるんでヤンスよ」
「どうして俺の名前を……。それに俺の身を守るって、一体どういう……?」
青年はちらりと時計を見た。服用してから2,3分は経過している。後少しの辛抱だ――。
そう言い聞かせた。
「仕方がないでヤンス……。アチシがちゃんと説明したら、作業の邪魔をしないという約束をしてくれるでヤンスか?」
内容次第だ、と言いたいところであったが、少しだけその話に興味が沸いた。
どの道後少し、時間の問題だ――。そう心の中で呟き、一呼吸おいて返事をした。
「あぁ、わかったよ――」




