最終話『吸血』
ようやく、帰ってこられた…。
マグロ漁船に乗せられて、早三ヶ月…たくさんのマグロと共に住み慣れた街に、俺は帰ってきた。
漁船での生活は大変だった。
とりわけ、男だらけの閉鎖された空間がもたらした危険な行動。
俺と同じような境遇で漁船に乗った若い男達は、女性の全くいない空間で、少しづつ追い詰められていった。
毎夜の如く行われた、狂喜の宴は、まさに悪魔の儀式だった。
俺は生贄と称されて、男達は欲望を満たそうとしたのだ。
それにしても、まさか、男に襲われるとは思わなかった。
そりゃ俺は、金髪に碧眼…整った端正な顔立ちだ。
見ようによっては、女性に見えない事もないが…。
毎日が危険と隣り合わせだった。
俺は吸血鬼の能力をフルに使って、男達から逃れた。
本当に良かった…貞操を奪われなくて…。
ああっ、涙が溢れて、前が見えないっ!
さて、ようやく帰ってこれた訳だが、これからどうしよう?
まずは、この格好をどうにかしないとな。
俺は、洗面器に、タオルと石鹸とシャンプー…そして、アヒルの玩具を入れて、銭湯へ向かった。
近くにある銭湯で、番台に座るおばさんと適当に言葉を交わして、中に入る。
ササッと服を脱いで、準備を終わらせた。
「ふぃー」
久しぶりの熱いお湯は気持ち良かった。
ついつい声が洩れてしまう。
漁船では水浴びしかしなかったからな…。
ちなみに、俺は水は苦手ではない。
吸血鬼の中には綺麗な水が苦手な仲間もいるが、俺は別に平気だった。
「ふぅ…気持ち良かった」
温まった身体が冷えないうちに手早く着替えて銭湯を後にした。
街灯のない夜道を、歩いてすぐの家まで帰る。
途中、自販機でジュースを買う。
「あら…?」
硬貨を三枚投入しようとしていると、背後で声がした。
振り返ると、あの日以来会っていなかった彼女が立っていた。
彼女には色々言いたい事や聞きたい事があった。
「お前っ…」
「この前は…ごめんなさい」
先手を取られた。
頭を下げて謝られたら、前回の事を責める訳にはいかなくなった。
「うぐぐ…」
「お詫びに…吸血鬼のあなたの為に用意したの」
お詫び?
何を用意したんだろう…?
そういえば、この前会った時に、意味深な事を呟いていたな。
『あなたにとって吸血は生きる為の食事だもんね』
もしかしてっ!
俺に血を吸わせてくれるつもりなのか?
いやいや、結論を出すには、まだ早い。
前回も、吸わせてくれると思い込んで、あの結果だ。
早とちりは、スクリューアッパーの餌食になるのは間違いない。
でも、彼女は、吸血鬼の俺の為に用意したと言う。
それは何だ?
も、もしかして…。
『何を用意したんだ?』
『それは…』
『それは…?』
ゴクッと喉が鳴る。
次の言葉が気になって、緊張してしまう。
『わ・た・し』
しなを作って、俺を挑発してくる。
俺の中の欲望が、今にも弾けそうだ。
『いや、まずいんじゃないか?』
『まずくなんてないわ…ダメ?』
火照る頬…。
潤んだ瞳…。
俺の中で、必死の抵抗を試みていたガラスの理性が、木っ端微塵に砕け散った。
もう、辛抱堪らん!
『いただきまーす』
『いやん』
「ありえねぇーっ!」
現実に戻ってきた俺は、力の限り叫んでいた。
いかん…またもや、妄想の世界を爆走してしまった。
しかも、彼女のキャラ変わってるし…。
『いやん』とか、絶対言わないだろう。
「?」
突然、叫び出した俺に、彼女は訳がわからずキョトンとしている。
「コホン…それで、お詫びに用意したものって何だ?」
取りあえず、咳払いで話を本題に戻す。
呆然としていた彼女は思い出したように、鞄の中から缶ジュースを取り出した。
「トマトジュース?」
「はい、どうぞ」
渡された俺は、プルタブを開けて、口をつける。
喉を鳴らして、一気に飲み干した。
腰に手を置く事も忘れない。
微妙な塩加減が何とも…。
「じゃなーっい」
「きゃっ」
俺のツッコミに小さく悲鳴をあげる。
「何んだ、これ?」
「トマトジュース」
顔をしかめて呟く俺に、彼女はアッサリと言い放った。
「それは、わかるけど…」
「美味しくなかった?」
そんな問題ではない。
いや、それも問題かもしれない。
何故なら、全く冷えてないからだ。
ぬるいトマトジュースは、凶悪的に不味かった。
まあ、それは取りあえず、置いておこう。
でないと、話が進まない気がする。
「何で、吸血鬼がトマトジュース貰って喜ぶんだよ」
「だって、漫画とかの吸血鬼は、血の代わりにトマトジュース飲んでたよ」
何だろう…。
無性に切なくなってきた。
彼女の吸血鬼に対する認識の低さに愕然としてしまう。
俺の中で切なさが怒りに変わっていく。
「ええいっ!ごちゃごちゃ言わずに、血を吸わせやがれ」
怒りで我を忘れた俺は、実力行使に出た。
スーッと目を細めると、彼女の全てを凍り付かせるような殺気が一気に吹き上がる。
しまったっ!
俺は、またもやミスを犯してしまった。
我に返った俺は、目の前で一歩踏み込む彼女に後悔した。
強烈な踏み込みから、身体全体を捩るようにして生まれた力を、拳の一点に集約させていく。
避ける間もなく、俺は一気に吹き飛ばされた…。
空に見えるキラリと光る星に、母親の笑顔が見えた。
空腹と痛みで意識が遠のいていく。
………。
……。
…。
口の中に、甘美な味が広がっていく。
それは、シロップのように甘くて、高級なワインのように深みがあった。
まさに甘露。
「…ッ!」
俺は、そこで完全に意識を取り戻した。
目の前には、彼女が屈み、俺の口に指を咥えさせていた。
「目が覚めた?」
彼女の問いに、指を咥えて話せない代わりにコクコクと頷く。
「じゃあ、離して」
またもや頷き、口を離す。
離した指からは、血が赤く滲んでいた。
俺が味わったのは、血だったのだ。
「えっと…」
「仕方ないでしょ…あなた、一向に目を覚まさないだから」
「あ、ありがと…」
恥ずかしそうに、目を逸らした彼女に、俺は戸惑いつつも頭を下げた。
こうして、俺の初吸血は、情けない形で幕を閉じた。
それから、俺と彼女がどうなったかと言うと…。
「頼む。首筋を噛ましてくれ」
「まだ早いわよ」
相変わらずだった。
進まない関係に、まだまだ受難の日々は続きそうだった。
でも…。
「我慢できないんだ」
「この…っ!」
いつものように繰り出されるスクリューアッパー…。
「ぐは…」
こんな受難な日々も悪くないかもしれない。
悪戯っぽい笑みを浮かべて舌を出す彼女が、やけに眩しかった。




