第1羽 鳥の詩
「――飛びたいなぁ」
その声が、アタシの口からこぼれたのか、それとも風が運んできた誰かの願いだったのかはわからない。
夏の盛り。湿り気を帯びた琵琶湖の風が、頬を撫でていく。
ガードレールに身を預けて、アタシはただ、眼前に広がる聖地を見つめていた。
湖面に突き出した巨大な建造物、通称プラットホーム。そこは、アタシたち『トリ娘』の憧れの場所。
――トリ娘とは。
ハルピュイアやラクシャーサ、ガルーダなど、恐怖もしくは崇拝の対象として世界各地に伝承が伝わっている、人間に似た種族。
その特徴は、両腕や腰についた翼と見た目にそぐわない筋力、そして体の軽さ。
そのトリ娘と呼ばれる少女たちが、その腕に宿した翼を広げて空を飛び、距離やスピードを競い合う一大祭典が『トリ娘コンテスト』――通称『トリコン』だ。今や年に4回行われるようになり、大会の様子はテレビ番組としても放映されて知名度も高い。
「……本当なら、アタシもあそこにいたはずなんだけどな」
思わず独り言が漏れる。
腕に生えた青白い羽を、無意識にさすった。
事前選考落選3回。それが今のアタシの実力。岩沼の家から仙台の学校まで毎日往復40キロを走り込んだり、腕立てなどで翼の力を強くしたりして鍛えてきたつもりだったけれど、独学のトレーニングなんて何の証明にもならないことがようやく分かってきた。
「飛びたくても飛べないのは、つらいわねぇ」
突然隣からかかった声に、心臓が跳ねた。
いつの間にか、横に一人の女性が立っている。涼しげな目元に、仕事ができそうな凛とした佇まい。チラッと腕を見たが翼は生えていない。普通の『人間』だ。目線を顔に向けると、目が合った。さっきの声は間違いなくアタシにかけたものだと、微笑むその目が語っている。
「……まあ、そうですね。でも、怪我とかじゃないんです。ただの力不足。……何度も申し込んでるんですけど、全然通らなくて」
「見たところ、スカイスポーツ学園の生徒じゃなさそうだけど?」
女性がちらっと振り向いた視線の先には、ジャンパースーツ形の制服に身を包んだ学生たちの姿があった。翼を通しやすいのでトリ娘を専門で受け入れている学校では定番のスタイルだ。
アタシは首を振る。
「地元にトリ娘専門の学校がないんです。だから、自分なりに走ったり筋トレしたりして……。本物を目の前で見たら気持ちの整理ができるかなって、お小遣いで在来線乗り継いでここまで見に来たんですけど」
「……そっか」
「……でも!」
続いたアタシの言葉に、彼女は顔を真っ直ぐこちらに向けた。
「やっぱり、この舞台で飛んでみたい。育ててくれたバァちゃんや、お世話になった地元の人たちに、アタシが飛ぶ姿を見せて恩返ししたいんです」
顔を向けて彼女の目を見返すと、彼女は少しだけ目を見開いた。そして、じっとアタシの目を見たあと、こう告げた。
「話を聞いた限りでは、今のままでは出場のチャンスはあっても運任せね。本気で飛びたいのなら、然るべき場所で、然るべき技術を学ぶべきよ」
「そっか。……そりゃそうですよね」
確かにそれが理想だけど。そうなるとどこかのトリ娘学園に編入しないといけないし、そもそもバァちゃんは離れたところで暮らすのをいいって言ってくれるのか。
「……もし、あなたにその気があるなら。富士川にいらっしゃいな」
「え、それって」
『素晴らしい記録が出たようです!』
二人の間に割り込むように、興奮した場内アナウンスが響いた。テレビで幾度となく聞いた、好記録が出たときのテンプレアナウンス。思わず湖の方に顔を向ける。隣の女性も全く同じ動きをした。
『只今の、富士川スカイスポーツ学園、トーワさんの記録は、――300メートル36でした』
『出たぁーっ! 300メートル超えの大記録! トーワ選手、滑空部門史上初の三連覇に大きく前進!』
湖上、遥か遠くに小さな人影が見える。
圧倒的な、王者のフライト。
「……すごい!」
「あの子も、富士川の生徒よ」
女性は微笑み、アタシに手を差し出した。
「私は青葉萌夢。富士川トリ娘スカイスポーツ学園のトレーナーよ。――あなたの名前は?」
「……ウイングノーツといいます」
「ノーツ、ね。覚えておくわ。最終的にどうするかはあなた次第ではあるけれど、できれば次は学園で会えるのを楽しみにしてるわ」
その握手の力強さに、アタシの胸の奥で何かが熱く羽ばたいた。
「さっきのアナウンス。あなたのフライトでも聞けるようにしたいわね」
――それが、アタシと青葉トレーナーが出会った、数ヶ月前の出来事。
◆
「っ……あっつ……!」
新幹線のドアが開いた瞬間、暴力的な熱気がアタシを襲った。
東海道新幹線、新富士駅。
あの日から、アタシの世界は目まぐるしく回り始めた。
バァちゃんへの相談。予想外に快い「行ってきな」の言葉。
そして、商店街の人たちによる岩沼駅での万歳三唱。みんなで見送ってくれるのは有難いけど、ホームで万歳とかいつの時代だよ。でもそれだけみんなアタシが飛ぶのを楽しみにしてくれているのかなとも思う。
期待をそのまま乗せたような重さのリュックを背負うと、駅の階段を駆け下りた。
駅の南口には、既に大きな翼と『SSS』のロゴが踊るバスが待っている。学園の送迎バスだ。
アタシ一人だけを乗せたバスが、富士川に架かる橋を渡っていた。右手に雄大な富士山。左手には、太陽を反射して銀色に輝く駿河湾。
そして河川敷に敷かれた滑走路の向こう、堤防に沿って建つ白い校舎。
富士川トリ娘スカイスポーツ学園。
日本でも有数の、トリ娘に特化した教育機関。トリ娘の特徴や強みを生かしてスポーツだけでなく航空宇宙産業にも人材を輩出している学園だ。
今日から、ここがアタシの舞台になる。
「こんにちは。今日から編入されるウイングノーツさんね」
正門で迎えてくれたのは、アクティブガルと名乗った事務長さん。トリコン出場経験があり、今もどこかで飛んだりしているらしい。
ピシッと折りたたまれた見事な翼。ノースリーブのスーツとタイトスカートの着こなし。彼女の後について校内を歩きながら、アタシはその大人のトリ娘の洗練された美しさに、思わずため息をついた。
「はい。これで手続きは終わりですが、何か質問はありますか?」
事務的な手続きがいろいろあったけど、期待と緊張でドキドキしていたから何だかあっという間に終わってしまっていた。
「あ、じゃあ、えと、青葉トレーナーの部屋はどちらですか?」
アタシが尋ねると、事務長さんの目が悪戯っぽく輝いた。
「あら。青葉ちゃんが言っていた『期待の原石』って、やっぱりあなたのことなのね?あの子、これまでスカウトみたいな真似してこなかったクセに」
「……へっ?」
期待の、原石?
ただ琵琶湖にいただけのアタシが?
驚くアタシを置いて、事務長さんは「明日以降会えるから、今日はまず寮に落ち着きなさい」と笑顔で校内地図を渡してくれた。
◆
学生寮、339号室。
あらかじめ送っておいた段ボールを台車に載せ、新しい鍵を回す。
「失礼します……今日から同室になる、ウイングノーツといいますが」
「どうぞ〜」
おっとりとした、けれど芯のある声。
ドアを開けた先にいたのは、燃えるような赤髪をなびかせた、切れ長の目の少女だった。
「……シャイニングスタァ、先輩!?」
「おや、うちの顔を知っててくれてるん? 光栄やわぁ」
トリコンを毎回テレビで観てる人には有名な、京都出身のシャイニングスタァ。滑空ではなく、自らの力で羽ばたく『ディスタンス部門』の常連だ。
まさか、こんな有名人と同室になるなんて。
「編入試験の成績、すごかったらしいやん? これからよろしゅうな、ウイングノーツはん」
「あ、ノーツでいいです。こちらこそよろしくお願いします!」
彼女の物腰の柔らかさに、緊張でガチガチだった肩の力が少しだけ抜けた。
そして翌朝。
翼のついた腕を通す部分が広く取られた、トリ娘専用のノースリーブの制服。まだ糊が効いているそれを身につけたアタシを見て、スタァ先輩は腕を組んで大きく頷いた。
「準備はええな? ほな、行きましょか」
「はいっ!」
スタァ先輩に案内され、教室棟へと向かう。廊下ですれ違うトリ娘たちは、誰もがキラキラしているように見えた。
「1-Aはあそこや。担任は乾センセ。……あ、もう来はったわ」
スタァ先輩が指差した先。
廊下に立っていたのは、人間の女性だった。
「あなたが、ウイングノーツさんね。担任の乾美也子です。――準備はいいですか?」
はい、と短く答える。自分の胸の鼓動がはっきりと聞こえてきた。
いよいよだ。
憧れた琵琶湖の空で飛ぶための、第一歩。
乾先生の手が、教室のドアにかけられる。
「さあ、あなたはどんな風を吹かせてくれるのかしら」
ガラリ、と音を立ててドアが開く。
一斉に注がれる、数十人分の視線。
好奇、期待、そして——ライバルとしての、鋭い光。
アタシは、その中へと一歩を踏み出した。




