第一話「『初心者は距離を取れ』は間違いでした」
午後二時。
就職に失敗して二年。俺は今日も実家のベッドの上で、スマホを天井に向けながら攻略動画を見ていた。
画面の中では登録者三十万人のトップ配信者、通称〈銀翼のカイ〉が、初心者向けダンジョン「菫野洞」をソロ攻略しながら、視聴者に語りかけている。
「いいですか、みなさん。初心者のうちは絶対に敵から距離を取ること。これがダンジョン攻略の基本中の基本ですから」
爽やかな笑顔。完璧な滑舌。再生数は四十二万。
俺はその言葉を聞いて、三秒ほど天井を見つめてから思った。
(……どこの距離の話だ?)
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違和感は、前からあった。
就職に失敗してからの二年、俺がやってきたことといえば、毎日何時間も攻略動画を見ることくらいだ。最初はただの暇つぶしだった。現実を見るより、ダンジョンの動画を見てる方が楽だった。
でも、人間は同じものを見続けていると、そのうち妙な引っかかりを覚える。
今日の引っかかりは、さっきのカイの言葉だった。
初心者は距離を取れ。
たしかに、それは業界の常識だ。攻略サイトにも書いてあるし、ギルドの入門講習でもまず最初に教わるらしい。
理由だってわかる。ダンジョンが出現したばかりの頃は、装備も訓練もまともじゃなかった。なら、近づくな、逃げろ、距離を取れ、は正しい。生き残るための教訓としては、たぶん間違っていない。
でも、それを十五年経った今も、そのまま呪文みたいに繰り返しているのは雑じゃないか、と俺は思う。
俺が引っかかっているのは、距離を取れという教えそのものじゃない。
どこまで取ればいいかを、誰も言わないことだ。
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ここ数週間、俺は初心者がやられる瞬間の動画ばかり見ていた。別に趣味として健全ではないと思うが、気になり始めると止まらなかった。
スロー再生して、止めて、戻して、また見る。
すると、不思議なことに気づく。
初心者の大半は、中途半端な距離でやられている。
遠すぎる場所でもない。近すぎる場所でもない。
五メートルとか六メートルとか、そのへんの微妙な距離で突進を食らい、壁に叩きつけられて終わる。
俺はスマホを操作して、菫野洞に出るブルーボアの攻略動画を五本続けて見た。
突進。角の振り払い。体当たり。
ブルーボアの攻撃は、だいたいその三つだ。
そして、一番強いのは突進だ。
さらに、その突進が一番きれいに刺さる距離が、四メートルから七メートルのあたりに集中している。
そこが、一番やられやすい距離だ。
「距離を取れ」と言われて後退した初心者は、ちょうどそこに入る。
逆に言えば、三メートル以内まで入ってしまえば助走が足りない。懐に潜り込んでしまえば、角の振り払いの軌道からも外れられる。
(……だったら、懐に入った方が安全なんじゃないか)
理屈の上では。
理屈の上では、だ。
試せる人間がいるとすれば……まあ、いないか。
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「遼! いい加減、少しは外に出なさい!」
ドアの向こうから母親の声が飛んできた。
「……今いいとこなんだけど」
「何が『いいとこ』よ。三日連続で一歩も外に出てないでしょ。郵便局行ってきて。これ振り込んどいて」
ドアが数センチだけ開いて、封筒が差し込まれる。
「あと買い物もお願い。リスト、冷蔵庫に貼ってあるから」
「……わかった」
「ほんとにもう、二年も家でぶらぶらして。あなたが見てる動画の人たちはちゃんと働いてるんでしょ?」
「……そうだな」
返す言葉がなかった。
ないので、俺は封筒を持って、のろのろと着替えた。
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郵便局で振り込みを済ませて、スーパーで買い物リストの品を全部かごに入れた。
帰り道、菫野洞の入口の前を通りかかった。
そこで、足が止まった。
なんで止まったのかは、自分でもよくわからない。ここ数週間ずっと頭に引っかかっていたせいかもしれないし、買い物袋が重くて少し休みたかっただけかもしれない。
入口の前に立って、中を見る。
受付カウンター。白い蛍光灯。奥に続くエレベーター。
ダンジョンが出現して十五年。浅い層の管理体制は、昔よりずっと整っている。入口には常時スタッフがいて、内部はモニターで監視されている。緊急時には区画ごとにシャッターが落ちる仕組みで、初心者帯での事故なんて、今じゃほとんど聞かない。
菫野洞は、そういう「かなり安全な」ダンジョンだ。
ブルーボアは強敵じゃない。二層の個体なら、最悪逃げ場もある。動画で何十回も見てきたから、動きの癖も頭に入っている。
装備はない。
でも、やられる気もしなかった。
少なくとも、俺の計算では。
面倒だった。普通に家に帰りたかった。買い物袋も重いし、汗もかいてるし、わざわざ金を払ってダンジョンに入るのは正気じゃない気もした。
でも、一度気になるともう駄目だった。
五分くらい立ち尽くしたあと、気づけば受付に向かっていた。
自分でも、あ、入るのか、と思いながら。
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受付の女性が、俺の格好を見た。
私服。スニーカー。両手に買い物袋。
「……探索ですか?」
「はい」
「登録はお済みですか」
「いえ、初めてです」
「では登録からになります。こちらに」
タブレットを差し出された。名前、住所、緊急連絡先。それから同意書が三枚。負傷しても自己責任、緊急時はスタッフが介入する、退場指示には従う。読むというより流し見して、全部にチェックを入れた。
「初回の方には安全講習があるのですが、簡易版として動画を一本見ていただけますか。五分ほどです」
渡されたタブレットで、ダンジョン内での基本的な注意事項の動画を見た。逃げ道を確保しろ、無理をするな、警報が鳴ったら即退避。知っていることばかりだった。
「装備は」
「特にないです」
一瞬だけ、相手の顔が止まった。たぶん止めたいのだろうが、止める権限まではないらしい。小さく息を吐いてから言った。
「次回までにオンライン講習の受講をお願いします。あと、荷物は受付で預かれますが」
「大丈夫です。すぐ戻るんで」
「……スマホ撮影は、他の探索者の顔が映らないようお願いします」
「わかりました」
エレベーターに乗り込んで、地下一層のボタンを押す。
扉が開いた瞬間、空気が変わった。湿っていて、少し冷たい。薄く発光する石壁の通路が奥まで続いていて、動画で何度も見たはずなのに、実際に立つと全然違う感じがした。
一層に出るのはスライム系の小型モンスターがほとんどだ。頭ではわかっていた。でも、通路の奥でぬるりと動く影を見たとき、足が一瞬止まった。
深呼吸して、壁際を通り抜ける。慣れた探索者たちが素通りしていくのを横目に、俺は奥の階段を降りた。
二層はもっと暗かった。スマホを構えながら、やっぱり少し後悔した。
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二層に降りると、すぐにブルーボアが見えた。
通路の中央を、のっそり歩いている。青みがかった体毛。体長は二メートルくらい。角は、動画で見ていたよりずっと太かった。
足が止まった。
動画で何十回も見てきた。動きの癖も頭に入っている。わかっている。わかっているのに、実物を前にすると全然違った。においがある。息づかいが聞こえる。地面を踏む音が、思ったより重い。
スマホを持つ手が震えているのに気づいた。
引き返してもよかった。むしろそっちが正しい気がした。
でも、一度気になったら駄目なのだ。
俺はスマホを壁の突起に引っかけて固定し、深呼吸してから近づいた。
「えっと……初心者は距離を取れ、というのがダンジョン攻略の常識です。理由もあります。距離があれば逃げられるし、攻撃を読む時間も生まれる。間違いじゃないです」
少し止まる。
「ただ、どこまで取ればいいかを誰も言わない。俺が調べた感じだと、初心者がやられる距離はだいたい四メートルから七メートルで、そこがブルーボアの突進の射程に入ってます。だから今日は、懐に入った方が逆に安全なんじゃないか、その仮説を確かめます」
言い終わって、少し恥ずかしくなった。
誰かに見せるつもりの台詞とは思えなかった。
まあいい。どうせ、誰も見ないだろう。
六メートル。
五メートル。
ブルーボアがこちらを向く。
四メートル。
ぐ、と前脚が地面を蹴った。突進の予備動作。
喉が乾いた。今さら「やっぱなし」で済む距離じゃなかった。
それでも、俺は立ち止まらずに前へ出た。
三メートル。
二メートル。
一・五メートル。
突進の助走が取れない距離に入った瞬間、ブルーボアの動きが変わった。
突進をやめる。首を横に振る。角の振り払いだ。
俺はとっさに腹側へ潜り込んだ。角が頭上を薙いでいく。振り払いの軌道の外だ。
そのまま肩でぶつかった。
たいした衝撃じゃない。それでもブルーボアは体勢を崩した。大きいぶん、小回りが利かない。
俺はそのまま横に抜けて、距離を取る。
心臓がうるさかった。
手のひらが汗で滑る。
でも、仮説は合っていた。
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三体で試した。
どれも、同じだった。
もちろん楽勝じゃない。普通に怖いし、少しタイミングがずれたら終わる。でも、少なくとも「中途半端に距離を取るよりやばい」は違う。
受付で買い物袋を受け取って、帰りの電車で動画をつないだ。
BGMもテロップもない。自分の声で「ここで突進が来ます」「ここで懐に潜り込むと振り払いの軌道を外れます」と解説するだけ。
タイトルは三十秒悩んで、そのまま付けた。
『初心者は距離を取れ』は間違いでした
正確には、「完全に間違い」じゃない。距離を取ること自体は悪くない。ただ、取り方が雑だと一番やばい距離に入る。それを言いたかった。
でも、そこまでタイトルに入れると誰も押さない気がした。
投稿ボタンを押す。
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家に帰ると、母親が買い物袋を受け取りながら言った。
「ずいぶん時間かかったね。どこ寄ってたの」
「ちょっとそこらへん」
「ふうん」
それだけで終わった。
飯を食って、風呂に入って、寝た。
特別な気持ちはなかった。強いて言えば、「仮説が合ってたな」という感覚が少しあった。それだけだ。
翌朝、スマホを見ると通知が来ていた。
再生数:3
俺はしばらくその数字を見てから、スマホを置いた。
「まあ、そうだよな」
窓の外は晴れていた。
昨日潜りながら、もう一個気になることを見つけていた。壁際の「安全地帯」の話だ。あれも、本当に安全なのか。
ベッドに寝転がって、俺は次の動画を探し始めた。
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【コメント欄】
- 危険なこと広めるな
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俺はそのコメントをしばらく見てから、スマホを置いた。
「……いや、だから安全だったんだけどな」
誰に言うでもなく、つぶやいた。




