第18話:愛という名のマルウェア、感染する狂気と剥き出しの刃
電子機器だらけの彼に与えた部屋から漏れ出す青白いモニターの光が、廊下の暗闇を鋭く切り裂いていた。
ドアの隙間から、彼が胃液を吐き出すひどく酸鼻な音が聞こえる。
私は、深紅のシルクのネグリジェの裾を微かに引きずりながら、その音をまるで極上のオペラでも鑑賞するように、静かに、そして恍惚と聞き入っていた。
――ああ、なんて可哀想で、なんて美しい私のバグ(共犯者)。
私が仕込んだ一行のコードに気づき、慌ててオフライン環境に切り替え、あの愚かな元夫が遺した暗号化ファイルに辿り着いたのね。AES-256という強固な軍事レベルの暗号を、家庭用のPCと自作のスクリプトだけで、たった数時間でクラックしてしまうなんて。
彼が真実に直面し、絶望に打ちひしがれる姿を想像するだけで、私の奥底にある子宮が、熱く、甘く疼き始めるのを感じた。
彼を騙していたことへの罪悪感?
そんなものは微塵も存在しない。あるのは、自分が緻密に設計し、組み上げた「完璧な殺人プログラム」が、期待通りの、いや、期待以上の圧倒的なパフォーマンス(演算結果)を叩き出してくれたことに対する、クリエイターとしての至上の歓喜だけだった。
「……見てしまったのね」
私は、わざと足音を忍ばせ、ゆっくりとドアを開け放った。
部屋の中に充満する吐瀉物の匂いを、私の毛穴から発せられるジャスミンとアルデヒドの香水で強引に塗りつぶしていく。
彼が、床に這いつくばったままギクリと首を回した。
逆光の中に立つ私を見上げるその瞳は、恐怖と、混乱と、そして抑えきれない憎悪に満ちていた。
素晴らしいわ。その目。その青い炎のようなパッション。
私が彼を初めて見たあの日、翔太の横で退屈そうにスマートフォンを弄っていた彼を一瞥した瞬間に、私の直感は告げていた。この若くて天才的な情報工学徒の脳髄をハッキングし、私の思い通りに書き換えることができれば、私はあの男のシステムを完全に破壊できる、と。
「何の、ことですか」
彼は、必死に震えを抑えながら、背後のターミナル画面を指差した。
「このコードだ。僕が佐倉刑事の目を逸らすために死に物狂いで構築したダミーのトンネルの中に、あなたが仕込んだバックドアのコマンド。……それに、暗号化されていたあの男の隠しフォルダも、すべて見た」
彼は、私があの男のDV被害者を『演じていた』こと、真鍮のペーパーウェイトで自らの太ももを打ち据えていたことまで、すべてを暴き立てた。
「なぜこんなことをした! 僕を……僕の人生を、なんだと思っているんだ!」
彼からの血を吐くような絶叫。
私は、込み上げてくる笑いを抑えきれなかった。
「……ふふっ」
夜の静寂に、私の笑い声が鈴の音のように響く。
彼には分からないのだろう。自らの太ももの筋肉細胞と毛細血管を物理的に破壊するあの激痛すらも、私にとっては、彼という強固なファイアウォールを突破するための、ただの『UI』に過ぎなかったということが。
人は、論理だけでは動かない。同情、庇護欲、そして肉欲。それらの感情という名の脆弱性を突かなければ、他者のシステムを完全に掌握することなど不可能なのだ。
「私の、最高の作品よ」
私はゆっくりとしゃがみ込み、彼の冷や汗に塗れた頬を指先で撫でた。
彼の身体が、ビクッと跳ねる。
恐怖しているのに、私に触れられたことで、彼の皮下の毛細血管が拡張し、体温が上昇していくのが掌を通して伝わってくる。私の指先から感染した『愛という名のマルウェア』が、すでに彼の脳の報酬系を完全に書き換えている証拠だ。
「警察に行きますよ」
彼は、最後の虚勢を張った。ログを証拠にして、私がすべてを操っていたと佐倉刑事に告発すると。
愚かね。本当に、愛おしいほど愚か。
「そうすれば、どうなるの?」
私は彼の眼球の奥にある、恐怖で収縮した瞳孔を真っ直ぐに覗き込んだ。
「私がハッキングのすべてを行いました。私が翔太の脳を洗脳しました。そして何より……私が、あの男の首にネクタイピンを突き刺しました、って?」
彼の呼吸が止まる。
そう。あの夜、最後にあの愚図な男の頸動脈を物理的に切断したのは、紛れもなく彼自身の手だ。私が凶器を握らせたとはいえ、彼の脳髄から出力された『殺意』という名の実行コマンドは、彼自身のもの。
「今更『あれはすべてこの女に操られてやったことです』と泣きついて、あの老練な刑事が信じるかしら?」
私は彼の逃げ道を、一つずつ、完璧な論理の壁で塞いでいく。
相互確証破壊。私が彼を道連れにして地獄へ落ちる覚悟があることを示せば、彼は絶対に私を売ることはできない。彼はまだ若く、失う未来がある。だが、私にはもう、この『復讐と証明』のシステム以外に、何一つ失うものなどないのだから。
「……あなたは何者なんだ」
絶望に打ちひしがれ、彼は呻いた。
「あの男の隠しファイルに書かれていた。あなたはただの妻じゃない。会社のシステムを破壊しようとする……怪物だと」
「怪物……ね」
私は立ち上がり、彼のベッドの端に腰を下ろした。
シルクの生地を意図的に少しだけずらし、あの夜、彼が涙を浮かべて口づけをしてくれた、太ももの痛ましい痕を露わにする。視覚からのダイレクトな性的刺激。
彼に、私の本当の目的を語る時が来た。
私がただの狂った悪女ではなく、創造者としての誇りを踏みにじられた、復讐の女神であることを。
「私があの男と結婚する前……まだ、旧姓で呼ばれていた頃の話をしてあげるわ」
私は、あの屈辱に満ちた十数年前の記憶のフォルダを開いた。
君嶋化学工業の研究室。有機化学と情報工学のデュアルディグリーを持つ私が、分子レベルでの触媒連鎖反応を制御し、生み出した究極のナノマシン。
『VEC-359』。
特定のタンパク質と結合した時のみ、遅効性で、痕跡を一切残さずに標的の細胞チャネルを破壊する。医療の歴史を変えるはずだった私の最高傑作。
だが、あの上司(夫)は、そして会社の上層部の凡人たちは、その物質の持つ『暗殺の道具としての完璧さ』に怯え、私から特許を奪い、研究を凍結し、私をこの邸宅という琥珀の檻に幽閉した。
「私が欲しかったのは、自由じゃない。……証明よ」
私の声に、抑えきれないパッションの熱が混じる。
「私の生み出したVEC-359が、そして私の構築した知能が、あの男たち凡人の作った社会システムよりも遥かに優れているという証明。……会社のデータセンター最深部にはね、VEC-359の完全な分子構造データと、それを軍事企業に裏で横流しして得ていた何千億もの裏金の口座情報が眠っているの」
あの男たちは、私から芸術を奪いながら、裏ではその『毒』のデータを売り捌き、私腹を肥やしていた。
許せるはずがなかった。私の生み出した美しい数式と化学式が、あんな豚どもの餌になっていることなど。
だから私は、この十数年間、ただひたすらに牙を研ぎ澄ませてきた。
データセンターの最深部のロックを解除するための『役員の死亡確認に伴う、緊急フェイルセーフの作動』。そして、外部からその強固なファイアウォールを突破するための、神業的なハッキング技術を持つ『使い捨ての鍵』。
「私は長年ずっと、その分厚いファイアウォールを突破するための『鍵』を探していた。……そんな時、ようやく翔太が家に連れてきたのが、あなただったの」
私は彼に歩み寄り、その美しい顔を両手で包み込んだ。
「あなたは美しかった。若くて、純粋で、情報工学の圧倒的な才能に恵まれ……そして何より、若い時分の私みたいに自信に満ち溢れていた。さらに、私のこの『傷』を見て、本気で怒ってくれる青い炎を持っていた。……私は確信したわ。この子なら、私の思い描く完璧な殺人システムの『コア(中枢)』になれる、って」
私が彼を騙し、彼を利用したこと。
それは紛れもない事実だ。しかし、彼を自分と同類の「完璧な共犯者」に育て上げるこのプロセスそのものを、私がどれほど愛おしく、どれほど歓喜に震えながら遂行していたか、彼には分かるだろうか。
ただのプログラムコードに過ぎなかった彼が、私のパッションという名の変数を入力されることで、自らの意志で人を殺し、自らの意志で警察を欺く、美しい『悪』へと進化していく。
私は彼を利用した。だが同時に、彼という存在そのものを、私のVEC-359に次ぐ『第二の最高傑作』として、狂おしいほどに愛しているのだ。
「あなたは私のために、最高の仕事をしてくれたわ」
私は、彼の震える唇に、自分の唇をそっと重ねた。
彼の身体が硬直する。
頭では分かっているはずだ。私が彼の人生を破壊した怪物であると。私を今すぐ突き飛ばし、首を絞めなければならないと。彼の理性のセキュリティ・システムは、今まさに最大級の警告を発しているはずだ。
だが、無駄よ。
私の舌が彼の口腔内に侵入し、アルデヒドの甘い匂いと、粘膜の熱が彼の味覚をハッキングした瞬間。
彼の身体の奥底から、抗いようのない情動の波が湧き上がるのが分かった。
彼は私の細い腰に力強く腕を回し、まるで酸素を求める溺死者のように、私をベッドへと押し倒した。
「……んっ……」
私の口から、意図的な、そして半分は本能的な甘い喘ぎ声が漏れる。
彼の呼吸が荒くなり、私のシルクのネグリジェを乱暴に引き裂かんばかりの力で愛撫してくる。
勝った。
彼の精神は、完全に私というマルウェアに感染し、同化したのだ。憎悪と殺意すらもが、強烈な情欲へと変換される、この絶望的なまでの共依存の泥沼。
私たちはお互いの細胞を喰らい合うように、この暗闇の中で、何度目かの致死量の快楽を貪り合った。
汗に塗れ、荒い息を吐きながら、私は彼の耳元で、この十数年の復讐の総仕上げとなる最後のコマンド(命令)を囁いた。
「あなたが昨日開けてくれたバックドアのおかげで、データセンターの第一層までは突破できたわ。……でも、最後の抽出を完了させるには、現地での物理的な認証バイパスと、トラフィックの暗号化が必要なの」
彼の背中を撫でながら、私は言葉を紡ぐ。
「明日の夜。あなたがそこに潜入して、私のために最後のデータ転送を完了させてほしいの。……それが終われば、莫大な資金と、VEC-359のすべてが私たちのものになる。二人だけで、誰にも邪魔されない世界で永遠に生きられるわ」
物理的なデータセンターへの侵入。
それは、これまでサイバー空間という安全圏から工作を行っていた彼にとって、本当の『死』と隣り合わせのミッションだ。
だが、彼はもう私を拒絶できない。
数秒の重い沈黙の後、彼は私の首筋に顔を埋めたまま、完全にシステムをハッキングされた自動音声のように、低く掠れた声で答えた。
「……ああ。分かった。僕が、すべてを終わらせる」
私は暗闇の中で、口角を限界まで引き上げて会心の笑みを浮かべた。
明日の夜。
彼が巨大企業のデータセンターの物理サーバーに自らの端末を接続し、私のプログラムを走らせた瞬間。
私の十数年に及ぶ屈辱と、天才としての証明が、すべて完了する。
この愚かで美しい私の共犯者が、どんな光景を見せてくれるのか。
私は彼の汗ばんだ背中に深く爪を立てながら、明日訪れるであろうインダストリアルな狂気のフィナーレに、胸を高鳴らせていた。




