第17話:逆転のピグマリオン、蜘蛛の糸と完璧な殺人鬼の創造
与えられた自室に、沈黙という名の重圧がのしかかっていた。
三台のモニターが放つ無機質な青白い光が、逆光となってドアの敷居に立つ美穂の輪郭を妖しく縁取っている。深紅のシルクのネグリジェ。その滑らかな生地は、彼女の呼吸に合わせて微かに波打ち、部屋に充満していた僕の胃液の酸っぱい臭気を、あの暴力的なまでのジャスミンとアルデヒドの甘い香りで強引に上書きしていく。
「……何の、ことですか」
僕は、震える声帯を必死に制御しながら、背後のPCモニターを指差した。
「このコードだ。僕が佐倉刑事の目を逸らすために死に物狂いで構築したダミーのトンネルの中に、あなたが仕込んだバックドア(裏口)のコマンド。……それに、暗号化されていたあの男の隠しフォルダも、すべて見た」
僕は床にへたり込んだまま、美穂の顔を睨みつけた。
恐怖で歯の根が合わない。それでも、情報工学を学ぶ人間としての最後のプライドが、僕に論理の刃を握らせていた。
「あなたは……自分の太ももを、真鍮のペーパーウェイトで自分で殴りつけていた。夫からのDVなんて、最初から存在しなかったんだ。僕の正義感や、同情や……あなたへの感情を操作して、あの男を殺させるために。そして、あの男の死と同時に発動する会社のフェイルセーフの隙を突き、基幹サーバーから『何か』を盗み出すために!」
言い切った僕の呼吸は、まるで全力疾走した直後のように荒れ狂っていた。
これだけの物的証拠を突きつけられたのだ。いかに彼女といえど、動揺を見せるはずだ。あるいは、泣き落としにかかるか。
だが。
美穂は、暗闇の中でゆっくりと、本当にゆっくりと、その完璧な造作の唇を三日月の形に歪めた。
「……ふふっ」
それは、夜の静寂を切り裂くような、鈴を転がすように澄み切った、心底楽しそうな笑い声だった。
彼女は悪びれるどころか、素足で冷たいフローリングを踏みしめ、酸鼻な匂いの漂う僕の部屋へと足を踏み入れた。
「あんなに強力なAES-256の暗号化を、たった数時間でクラックしてしまうなんて。やっぱりあなたを見込んだ私の目は、間違っていなかったわ」
「答えてくれ!!」
僕の絶叫が、部屋の壁に反響する。
「なぜこんなことをした! 僕を……僕の人生を、なんだと思っているんだ!」
「私の、最高の作品よ」
美穂は僕の目の前でしゃがみ込み、その白く細い指先で、冷や汗に塗れた僕の頬をそっと撫でた。
氷のように冷たい指先。しかし、それに触れられた瞬間、僕の皮膚の下で眠っていたあの致死量の快楽の記憶が、パブロフの犬のように条件反射で粟立ち、下腹部に熱を集めてしまう。
悔しい。自分の肉体が、自分の論理の制御を離れ、この女の放つ引力に完全に屈服していることが。
「警察に行きますよ」
僕は、最後の虚勢を張った。
「この隠しデータと、あなたが打ち込んだバックドアのログを持って……僕があなたに操られていたことを、すべて佐倉刑事に話す。そうすれば……」
「そうすれば、どうなるの?」
美穂の黒曜石の瞳が、僕の眼球の奥深くまでを覗き込む。
「私を脅しているつもり? ……いいわ、考えてもみなさい。警察に行って、あなたは何て言うの? 『私がハッキングのすべてを行いました』『私が翔太の脳を洗脳し、偽の記憶を植え付けました』『そして何より……私が、あの男の首にネクタイピンを突き刺しました』って?」
息が止まった。
「あの夜、最後にトドメを刺したのは、あなたよ。その事実は、この世界のどんなログを改竄しても消えはしない。それに、あなたはこの数日間、警察に対してあまりにも『完璧な嘘』をつきすぎた。……今更『あれはすべてこの女に操られてやったことです』と泣きついて、あの老練な刑事が信じるかしら?」
美穂の顔が近づく。ジャスミンの香りが、僕の肺を完全に満たしていく。
「あなたは天才的な頭脳を持っているけれど、まだ子供ね。証拠なんて、解釈次第でどうとでもなるの。もしあなたが私を裏切るなら……私は、あなたがすべてを計画し、夫の財産と私を奪うために凶行に及んだのだと、涙ながらに証言するわ。……翔太も、間違いなく私の味方をするでしょうね」
完全なチェックメイト(詰み)。
相互確証破壊。僕が彼女の急所を握っているように見えて、実は彼女は、僕の『存在そのもの』を人質に取っているのだ。
僕たちはお互いに、もう一皮剥けば相手を社会的に完全に抹殺できる「致死量の爆弾」を抱き抱えながら、この狭い部屋で身を寄せ合っている。
「……あなたは何者なんだ」
僕は、喉から血が出そうなほどの絶望を込めて呟いた。
「あの男の隠しファイルに書かれていた。あなたはただの妻じゃない。会社のシステムを破壊しようとする……怪物だと」
「怪物……ね。あの凡人には、私がそう見えていたのね」
美穂は立ち上がり、僕のベッドの端に腰を下ろした。深紅のシルクの裾から、あの痛ましい打撲痕が残る、透き通るように白い太ももが覗く。
「私があの男と結婚する前……まだ、旧姓で呼ばれていた頃の話をしてあげるわ」
美穂は、虚空を見つめながら、まるで遠いおとぎ話でも語るように静かに口を開いた。
「私は、君嶋化学工業の研究員だった。大学院で有機化学と情報工学のデュアルディグリーを取得して、鳴り物入りで入社したわ。……私の専門は、分子レベルでの触媒の連鎖反応の制御。そこで私が二十六歳の時に設計し、合成したのが……『VEC-359』よ」
やはり、そうだったのか。
彼女こそが、あの劇薬の真の創造主。
「VEC-359は、奇跡の物質だった。特定のタンパク質と結合した時だけ、遅効性で、かつ痕跡を一切残さずに細胞のカルシウムチャネルを破壊する。……医療用に応用すれば、標的細胞だけを完全に死滅させる画期的なナノマシンになるはずだった」
美穂の瞳に、狂気じみた情熱の炎が宿る。
「でも、当時の私の直属の上司だった会社経営一族の『あの男』は、その物質の真の価値を理解できなかった。彼は、VEC-359の持つ『暗殺の道具としての完璧さ』にだけ怯えたのよ。自分が管理できない、致死性の高すぎるバグだとね」
彼女の指が、シーツを強く握りしめる。
「あの男は、私の研究データをすべて自分の名前で特許申請し、その後すぐに『危険性が高すぎる』という理由でプロジェクトを凍結した。さらに、会社の上層部と結託して、開発者である私を研究室から完全に追放したの。……そして、私の口を封じるために、私と結婚した。私を『君嶋の妻』という美しい琥珀の檻に閉じ込め、二度とフラスコやターミナルに触れられないようにしたのよ」
だから、彼女は。
夫からの逃避でも、財産目的でもなく。
ただ、自らの『最高傑作(VEC-359)』を取り戻し、それを封印したシステムそのものを破壊するために、この十数年間、狂気の中で牙を研ぎ澄ませていたのだ。
「私が欲しかったのは、自由じゃない。……証明よ」
美穂は僕の方を向き、その蠱惑的な唇を吊り上げた。
「私の生み出したVEC-359が、そして私の構築した知能が、あの男たち凡人の作った社会システム(会社)よりも遥かに優れているという証明。……会社のデータセンター最深部にはね、VEC-359の完全な分子構造データと、それを軍事企業に裏で横流しして得ていた何千億もの裏金の口座情報が眠っているの」
「裏金……!?」
「そう。あの男は、私の研究を凍結すると言いながら、裏ではその『暗殺用の毒』としてのデータを切り売りして、自分の地位と財産を築いていたのよ。……許せるわけがないでしょう?」
彼女の怒りは、被害者のそれではない。自らの芸術作品を愚弄された、傲慢で完璧なクリエイターの放つ、純粋で絶対的な殺意だった。
「でも、データセンターの最深部のロックは、役員であるあの男の生体認証か、あるいは『役員の死亡確認に伴う、緊急フェイルセーフの作動』がなければ、外部からは絶対にアクセスできない仕様になっていた」
美穂は、立ち上がり、再び僕の目の前まで歩み寄ってきた。
「私は長年ずっと、その分厚いファイアウォールを突破するための『鍵』を探していた。……そんな時、ようやく翔太が家に連れてきたのが、あなただったの」
心臓が、早鐘のように打ち鳴らされる。
彼女の冷たい指先が、僕の顎を掬い上げ、無理やり彼女の目を見据えさせた。
「あなたは美しかった。若くて、純粋で、情報工学の圧倒的な才能に恵まれ……そして何より、若い時分の私みたいに自信に満ち溢れていた。さらに、私のこの『傷』を見て、本気で怒ってくれる青い炎を持っていた。……私は確信したわ。この子なら、私の思い描く完璧な殺人システムの『コア(中枢)』になれる、って」
ピグマリオン。
ギリシャ神話で、自ら彫り上げた美しい彫像に恋をし、それに命を吹き込んだ彫刻家の物語。
だが、これはその逆だ。
彼女は、僕という無垢な大理石を、自らの狂気と色仕掛けでゴリゴリと削り出し、冷徹な殺人鬼へと作り変えた。僕が自らの意志で夫を殺し、ログを改竄したと思い込んでいたそのすべては、彼女が緻密に誘導した『プログラミング』の結果に過ぎなかったのだ。
「あなたは私のために、最高の仕事をしてくれたわ」
美穂は僕の唇に、そっと自分の唇を重ねた。
拒絶しなければならない。この女は、悪魔だ。僕の人生を完全に破壊し、利用し尽くした怪物だ。
脳内の理性が、「止めろ、逃げろ」と最大音量でエラーメッセージを吐き出し続けている。
だが、彼女の舌が僕の口腔内に侵入し、あのアルデヒドの甘い味と、体液の熱が僕の粘膜に触れた瞬間。
僕の肉体は、完全に彼女の支配下へと堕ちていく。
僕は彼女の細い腰に腕を回し、狂ったようにその口づけを貪り返していた。
愛と憎悪、支配と服従、怒りと情欲。相反するすべての感情がショートし、僕の神経回路を焼き切っていく。
僕はもう、この女の毒(VEC-359)なしでは、一秒たりとも正常に機能できない欠陥品になり果てていたのだ。
「……ハァ、ハァ……」
長い、息が詰まるようなキスの後、美穂は僕の耳元で甘く囁いた。
「あなたがあの晩開けてくれたバックドアのおかげで、データセンターの第一層までは突破できたわ。……でも、最後の『抽出』を完了させるには、現地での物理的な認証バイパスと、トラフィックの暗号化が必要なの」
「……現地、だと……?」
「ええ。君嶋化学工業の、地下データセンター」
美穂は僕の首筋に顔を埋め、まるで恋人に愛を囁くように、この世で最も恐ろしい依頼を口にした。
「明日の夜。あなたがそこに潜入して、私のために最後のデータ転送を完了させてほしいの。……それが終われば、莫大な資金と、VEC-359のすべてが私たちのものになる。この退屈で愚かな国を捨てて、あなたと私、二人だけで、誰にも邪魔されない世界で永遠に生きられるわ」
「……」
「やってくれるわね? 私の、最高の共犯者さん」
心中で、「止めなきゃ、止めなきゃいけない」と、僕の残された最後の良心が絶叫していた。
もし彼女がそのデータと莫大な資金を手に入れれば、彼女はVEC-359という「完璧な死のシステム」を使って、さらなる破滅を世界にばら撒くかもしれない。この狂った復讐劇は、夫の死だけでは終わらないのだ。
止めなければ。僕の手で、僕が作り上げてしまったこの化け物を。
だが。
僕の口から出た言葉は、僕の意志とは全く無関係な、完全にハッキングされた自動音声だった。
「……ああ。分かった。僕が、すべてを終わらせる」
美穂は満足そうに微笑み、僕の体をベッドへと押し倒した。
彼女の黒髪が、僕の視界を完全に覆い尽くす。
僕は、彼女の冷たい肌に爪を立てながら、自分が完全にルビコン川を渡り切り、光の届かない深淵の底へと到達したことを悟っていた。
明日の夜。
無機質なサーバーラックが立ち並ぶ冷徹なデータセンターで、僕は自らが構築したシステムと、そして僕自身を支配するこの狂おしい『愛という名のマルウェア』と、最後の決着をつけなければならない。
室内に満ちた吐瀉物の酸っぱい匂いは、いつの間にか、彼女の放つむせ返るようなジャスミンの香りに完全に浄化され、消え去っていた。




