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VEC-359:琥珀の檻と静かなる共犯  作者: 光闇居士-Twilight Master


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第1話:雨音とダージリンの最適温度、硝子の結露と触れてはならない指先

雨は、世界の輪郭を曖昧にするためのノイズだ。


アスファルトを叩く無数の水滴が、ホワイトノイズとなって街の音をかき消していく。冷たい秋の雨が降るその日の午後、僕は親友である翔太の自宅、君嶋邸の前に立っていた。


閑静な住宅街の中で、その家は周囲の空間を拒絶するように建っていた。打ち放しコンクリートの冷ややかな外壁と、黒みを帯びた重厚なウォールナットの門扉。情報工学を専攻する僕の目から見ても、門柱に埋め込まれたセキュリティカメラのレンズは最新の広角仕様であり、死角を持たない完璧な監視システムとして機能していることが分かった。まるで、外の人間を拒むというより、内側の何かを逃がさないための檻のようだった。


傘の柄を握る手を持ち替え、インターホンのボタンを押す。

数秒の電子的な沈黙の後、スピーカーからノイズレスな音声が流れ出た。


「はい」


ひどく透き通った、それでいて鼓膜の奥を微かに震わせるようなアルトの声。翔太の声ではない。


「……翔太の大学の友人です。彼がゼミに忘れたノートを届けに上がりました」


「まあ。翔太の……」


声の主は、少しだけ驚いたような吐息を漏らした。カチャリ、という物理的なロック解除音が響き、重い門扉がゆっくりと内側へ開く。

玄関のアプローチを進み、深い庇の下に立つ。傘を畳むと同時に、巨大な玄関の扉が開いた。


「いらっしゃい。雨の中、わざわざごめんなさいね」


そこに立っていたのは、美穂だった。


翔太の母親であるということは、もちろん知っていた。だが、目の前に現れた実体は、「友人の母」という記号的な枠組みに収まるものではなかった。


年齢は四十の半ばに差し掛かっているはずだが、彼女の肌は陶器のように滑らかで、生活の疲労といった不純物を一切感じさせなかった。チャコールグレーのシルクのブラウスは、彼女の華奢な肩のラインに沿って静かな光沢を放ち、タイトな黒のスカートがその立ち姿に完璧な均衡を与えている。


「あ……いえ。たまたま近くまで来たので」


僕は濡れた傘から滴る水滴が、玄関の磨き上げられた大理石の床を汚してしまうことに、ひどく強い罪悪感を覚えた。


「翔太なら、三十分ほど前に急用で出かけてしまったのよ。でも、すぐに戻ると思うわ。さあ、中へ」


美穂は白く細い指先で、家の奥へと促す。その瞬間、彼女のすれ違いざまに、空気の層が動いた。

嗅覚を微かに刺激する、ジャスミンと……何だろう。ただのフローラルではない。微かにアルデヒド系の、人工的で冷たい、それでいて脳髄の深い部分を痺れさせるような甘い香り。僕の心拍数が、自覚できるレベルで微かに上昇した。


リビングに通された僕は、その空間の異様さに圧倒されていた。

広大な面積を持つその部屋は、徹底的に計算された「静寂」に支配されていた。床に敷かれたペルシャ絨毯は足音を完全に吸収し、分厚い防音ガラスは外の雨音を完全に遮断している。


ただ一つ、部屋の空気を震わせているのは、壁際に鎮座する巨大な真空管アンプと、ハイエンドのフロアスピーカーから流れる、微かなチェロの独奏だった。真空管が放つオレンジ色の淡い光が、薄暗い室内でまるで生き物の臓器のように脈打っている。


「座って待っていてね。今、紅茶を淹れるから」


美穂は僕を黒い革張りのソファに促し、部屋の奥にあるアイランドキッチンへと向かった。


ソファに腰を下ろすと、上質なレザーが僕の体重を受け止め、微かに軋む音を立てた。この空間にあるすべてのものが、僕という「異物」の侵入を値踏みしているような錯覚に陥る。


キッチンの向こう側で、美穂が立ち働く背中が見える。


彼女の動きには、一切の無駄がなかった。電気ケトルでお湯を沸かす音、陶器のカップが触れ合う澄んだ音。僕は、彼女の動きをまるで一つの精密なアルゴリズムを解析するように見つめていた。


茶葉の入ったポットに、正確な温度に管理された熱湯が注がれる。ダージリンの繊細な香りを引き出すための、おそらく95度から98度の間。お湯が注がれる瞬間、立ち上る白い湯気が、キッチンの間接照明に照らされて幽玄な輪郭を描いた。


彼女の細い首筋、ブラウスの背中越しに浮かび上がる肩甲骨の微かな動き。なぜ僕は、友人の母親の背中を、これほどまでに執拗に観察しているのだろうか。理性の奥底で警告音が鳴るが、視線を外すことができない。


やがて、美穂はシルバーのトレイに二つのティーカップを乗せて戻ってきた。

歩み寄る彼女の足音が、絨毯に吸い込まれて消える。ただ、彼女が纏うあの甘く冷たい香りだけが、徐々に濃度を増して僕の周囲を満たしていく。


「どうぞ。冷えたでしょう」


美穂はトレイをローテーブルに置き、ソーサーごとカップを持ち上げた。

その時、彼女は僕の真正面ではなく、L字型になったソファの、僕のすぐ隣の座面に腰を下ろした。


距離が、近すぎる。

布擦れの音が聞こえるほどの距離。僕の右半身が、彼女の体温を物理的な熱放射として感知する。窓ガラスには外の冷雨が激しく打ち付け、無数の水滴が結露となって流れ落ちている。しかし、この密閉された室内だけは、異常なほどの熱を孕んでいた。


「あ、ありがとうございます……」


僕は平常心を装い、カップを受け取ろうと手を伸ばした。

美穂もまた、両手で包み込むように持っていたカップを僕の方へ差し出す。


――その瞬間だった。


僕の右手の指先が、カップを支える彼女の左手の指先に、ほんの数ミリ、触れた。

それは静電気のような鋭いショックではなかった。もっと生々しく、柔らかく、そして決定的な熱の移動だった。磁器を通して伝わる紅茶の熱よりも、彼女の指先から伝わる体温の方が、圧倒的な質量を持って僕の皮膚を貫いた。


触れたのは、わずか一秒にも満たない時間。

だが、僕の脳はその接触のデータを、永遠にも似た長さで処理していた。滑らかな肌の質感、微かな湿り気、そして彼女の指が、触れた瞬間に「逃げる」のではなく、ほんのわずかに、押し返してくるような錯覚。


僕は息を飲み、視線を上げた。

至近距離で、美穂の瞳と視線が絡み合う。

その大きな黒目の奥には、年齢相応の母性や親愛などというものは一ミリも存在しなかった。そこにあったのは、冷徹な観察者としての光と、深く暗い、底なしの虚無。彼女は微かに唇の端を上げ、蠱惑こわく的な笑みを浮かべた。


「……手が、冷たくなっているわね」


彼女の囁くような声が、チェロの低音と混ざり合い、僕の鼓膜に直接触れる。


「いえ……外が、寒かったので」


僕は喉の渇きを覚えながら、逃げるように紅茶を口に含んだ。ダージリンの渋みと香気が口腔内に広がるが、味がまったく分からない。僕の意識のすべては、先ほど彼女に触れてしまった指先にのみ集中していた。


触れてはならない領域。

開けてはならない扉。


真空管アンプの淡いオレンジ色の光が、美穂の横顔に深い影を落としている。彼女は自分のカップに口をつけると、ふたたび僕の方を見つめた。その視線は、蜘蛛の巣にかかった獲物を静かに見下ろす捕食者のそれだった。


外の雨音は完全に遮断されているのに、僕の耳の奥では、何か決定的なものが崩れ落ちる音が鳴り響いていた。この狂おしいほどの静寂と官能に満ちた空間で、僕はすでに彼女のテリトリーという檻の中に、完全に囚われてしまっていたのだ。

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