(9)ただいま
苦しい。
痛い。
引き攣った呼吸が喉を掠めて、激しい咳が出た。咳をするたびに肋の下が鋭く痛む。たわしを胸の中に入れられたみたいだった。
パニックになりながら目を開けると、真っ白な天井に目を焼かれた。
頭まで響く光の痛みと胸の痛みで、私はエビのようにのたうち回った。暴れた拍子に足が何かを引っ掛けて、ガシャンと金属が倒れる音がした。
痛みが引いてきた頃、誰かがこちらへ駆け寄ってくる。その人はうずくまった私の背中を優しく撫でてくれた。
私は涙目になりながら瞼を持ち上げて、その誰かを見上げた。
看護服を着た、見知らぬ女性だった。
「大丈夫ですか? もうすぐ先生が来ますからね」
老人に対するような、大きくゆっくりとした口調でそう言われた。私はそこでやっと状況を理解して、うろうろと視線を彷徨わせた。
ベッドと、花。カーテン。窓の外は清々しい青空だ。私の腕には点滴が二つ刺さっていたらしく、そのうちの一つは千切れて床に散乱していた。
痛い。
私はカラカラに乾いた喉から、必死に声を絞り出した。
「す……まほ……電話……」
看護師はしゃがれた私の声が聞こえなかったようで、大丈夫ですから、と言いながら私をベッドに寝かせた。楽な体勢になったお陰で痛みが引いて、急に眠気に襲われる。
重くなっていく瞼の裏に、尾北の微笑みが見えた気がした。
私は助かった。
医者の説明によると、体中に入ったぼろ布のせいで内臓がいくらかやられてしまったらしい。せっかく小雛に取ってもらっておいたマフィンは食べられない。呼吸器もしばらく外せないまま、ベッドで横になる日々を過ごすしかなかった。
皮膚も黒人形に溶かされて、私の腕と頬には一生消えないケロイドが残った。両親はぼろぼろの私を見て、泣きながら抱きしめてくれた。
学校に復帰できたのは、私が目覚めてから三ヶ月後のことだった。
「ぎりぎり修学旅行に間に合ったね」
手鏡で後頭部の寝癖を治しながら、朝川が私へ笑いかけた。
朝川は毎日のように私の病室に来て、退屈な入院生活の話し相手になってくれた。ただ、腕に唾を吐きかけたのは一生許さないと言われてしまった。きっと大学に進学しても彼女のご機嫌を取らないといけないんだろう。
私はようやく火傷から治り始めた声帯で笑った。
「これで大阪も京都も奈良も制覇するんでしょ? 次はどこに行く?」
「そりゃあ沖縄でしょ!」
ガタン、と音を立てながら小雛が立ち上がる。昼下がりでお弁当の匂いが混ざった教室の中では、一人暴れてもすぐに喧騒でうやむやになった。
私は包帯まみれの腕でどうどうと小雛をなだめた。
「小雛は沖縄大好きだね」
「ちんすこう美味しかったから! でもあれ通販で買ったんでしょ!? 本場のやつ食べたいの!」
「通販も本場も変わらないでしょ」
「かーわーるーよー!」
駄々っ子のトーンで喚きだす小雛の背後に、ぬっと白衣の男性が現れる。私と朝川があっと口を開けた時には、分厚いファイルが小雛の後頭部へ叩きつけられた。
「いったーい! なにすんのなすび!」
「なすびって言うな。昼休みでも慎みを持ちなさい」
「先生はそのパーマどうにかしなよ! 禿げるよ!?」
「お前なぁ! これは天然なんだよ! まだ禿げないからな!」
もう一発ファイルで叩かれ、小雛はあえなく撃沈する。やっと静かになったところで、先生は真剣な目つきで私の方を見た。
「佐久間。ちょっと職員室に来い」
「え? 私また何かやっちゃいました?」
「ふざけるな。お前に会いに来た人がいるんだよ」
「誰?」
「会えば分かる」
先生は意味深に笑って、さっさと先に行ってしまった。私は慌てて後ろを追いかけて、廊下で先生の横に並んだ。
私が学校に復帰した後、何事もなかったかのように日常が戻ってきた。入院中の授業を補習で埋めて、テストを受けて、校長と少し話をしたぐらいだ。クラスメイトも最初は物珍しそうにしていたが、それもすぐに終わって毎日が穏やかだ。たまに黒い埃を見てびっくりすることはあるが、もう黒人形が現れることもない。
「佐久間。お前本気で教授になりたいのか?」
先生から唐突にそんなことを聞かれた。しかし、私は自分でも驚くほど即答していた。
「うん。せっかくお手柄立てたからね!」
「お前の手柄じゃない気もするがなぁ」
「細かいことはいいじゃん! ぶさいくドールの治療法が見つかったんだし!」
「そうだな。お手柄だよ」
「えへへ」
くしゃくしゃと頭を撫でられて、私は髪を整えながらニコニコした。
黒人形に捕まったあの日、私のスマホに尾北からの着信があった。朝川の話によると、通話が繋がった瞬間、黒人形がスマホの中へと吸い込まれていったと言う。お陰で私は、黒人形に消化される前に一命を取り留めることができた。
ぎりぎりのところで私が助かったことで、詳細を調べた省庁から正式に黒人形の習性が公表された。同時に私が助かった方法を利用した突発性黒形症候群の治療法も研究されることになった。
その治療法というのが、電話から電話へ移動する黒人形の習性を利用するものだった。罹患者同士で通話をさせ、黒人形を朝までたらい回しにすることで逃げ切ろうという試みだ。
行政がこれを罹患者から協力を得て実証実験を行ったところ、まもなく生存率が格段に上がったとニュースで流れた。アイデアを出した私の名前は公表されず、大々的に評価もされなかったが、私の将来を決めるには十分な成果だった。
ここ一か月の罹患者の死亡率は、すでに70パーセントを下回るようになっている。
だが、こんなに月日が経っても尾北からの連絡はまだ来ていなかった。
一階の職員室に到着した。失礼しますと断ってから先生の後についていく。
「佐久間、こっちだ」
狭い職員室の合間を抜けて、パーティションの奥へ案内される。
クリーム色の壁の向こう側を見て、私は思わず足を止めた。
相手も私を見て音もなく立ち上がる。久しぶりすぎて、一瞬誰だか分らなかった。顔にもひげができて髪の毛もぼさぼさだ。橋の下のホームレスと言われても信じてしまうほど不潔な格好をしていた。それでも、私へ向けられる瞳は変わらずキラキラとしていた。
頭一つ分高い彼の顔を見上げて、私は華やぐような笑顔を見せた。
「おかえり」
数秒後、低くて優しい肉声が帰ってきた。




