(2)出発
高校の最寄駅まで、普通は徒歩で十分かかる。だが今日だけは、たった八分で改札まで到着してしまった。
「人少ないねー」
閑散とした駅内を見渡しながら私が言うと、朝川は手提げをくるくる回しながら肩をすくめた。
「まだ二時間目が終わったばっかだもん。あーあ、今日はマフィンの日なのに」
「これからマフィンより美味しいもの食べられるよ」
「おお、じゃあ特役ってやつ?」
結局使わずじまいのエプロンを二人で片手にぶら下げながら、運動靴で地面を踏み締める。他の荷物はスマホと財布と、女子に必須な小物だけだ。
重い教科書は全部、つい数分前に机の上にばら撒いた。本当はエプロンも必要なかったのに、手放せないままここに来てしまった。
私はいつもより軽い鞄を揺らしながら、ひょっこりと改札口の受付に顔を出した。
「すいませーん、これ!」
胸ポケットからチケットをヒラヒラさせると、呑気に世間話をしていた駅員がにわかに慌ただしくなった。受付の窓へ飛び込んできた若い駅員は、顔色を悪くしながら私の手からチケットを受け取った。
「特別券だね。ちょっと待ってて。鏡は持ってる?」
「持ってまーす」
「じゃあこれを首にかけて。後ろの子は付き添い?」
「そうです」
「じゃあ君はこれ。ここに帰ってくるまで、絶対にこれは外さないこと。困ったときはそれを見せれば助けてもらえるから」
説明が終わるや、私と朝川にそれぞれ別の色のネックストラップが渡された。私のストラップの紐はピンクの蛍光色で、ネームプレートの部分には小さな鏡が入っていた。朝川の方も黄緑色であること以外、ほとんど同じ作りのようだ。
「はい。これが『罹患者保険証』ね。二人ともここでネームプレートのところに入れて」
汗をかく駅員の勢いに急かされて、私たちは言われた通りに銀色の保険証をネームプレートに入れた。サイズがぴっちりしすぎて、少し入れるのに手間取ってしまった。
「さぁ焦らないで、落ち着いて行くんだよ。東京駅への行き方は分かるかい?」
「大丈夫です。じゃあまたね、おにーさん」
私は笑顔で駅員に手を振ると、いつもの定期券の代わりに罹患者保険証をICに当てた。
ピピピピッと普段と違う電子音が聞こえる。一度改札を通ったら、翌日になるまで同じ改札を通ることはできない。私は数秒ためらってから、開け放たれた改札口を通り過ぎた。
後ろでドアが閉まる。思わず振り返って改札の向こうを見てしまうが、見送りに来てくれている人は誰もいなかった。
急に目元が熱くなる。
「佐久間、こっちこっち」
「うん」
つい声が震えてしまう。
私の小さな声に気づいた朝川は一瞬立ち止まると、俯きがちに私の手を強く引いた。ネイルでキラキラ光る朝川の爪が、私の手首に優しく食い込んでくる。
これから一緒にいてくれるのはもう朝川しかいない。
せめて改札を通る前に家族に会っておけばよかった。
断固として前を向く朝川の後ろ姿を見つめながら、私は必死に涙をこらえた。




