夕立
少し雲行きが怪しくなっていきます。
雅臣の予想が的中し、夜半過ぎから続く雨のせいで空はどんよりと重たかった。
「何も雨の日にまで来ることはないだろうに。」
ある程度は小雨になったとは言え、濡れた庭に現れた不知火を見て雅臣はため息混じりに一人ごちる。
「よぅ、雅臣!」
「濡れたまま部屋に入るな。」
そんな言葉を気にも止めず部屋に上がる不知火に、雅臣は手拭いを投げてやった。
「悪ぃな。あ、これやるよ。」
そう言って寄越したのは桔梗の花だった。以前に不知火が置いていったものと同じ深い紫紺。
「前のは萎れかけてただろ?だから新しいのを摘んできた。」
大雑把に見えて意外と細かいところまで気を配れるものだと、雅臣は感心した。
「そうか。」
花を受け取った雅臣の言葉は愛想のないものだったが、その口元が僅かに綻ぶ。人から物を贈られたりしたことがあまり無い為、礼を言い慣れていないのだろうと、不知火は理解していた。
「しかし、わざわざ雨の日に外に出る必要もないだろうに。」
「雨は嫌いなんだよ。嫌な事ばかり思い出す。だから、鬼の里にいたくねぇんだ。」
不知火の瞳が悲しげな光を映し出す。雅臣は花を活ける手を止めてそれを見つめた。
「聞いて…くれるか?」
雅臣は答えなかった。しかし表情がそれを許しているのを確認し、不知火は口を開いた。
*****
鬼の里に桐生と言う名の鬼がいる。族長の息子で、まだ幼さを残してはいるが大変利発で鬼たちの信頼も厚く、若頭として一族の若衆の中心にいた。
この若く美しい鬼は、何かと不知火を気にかけていた。人間に興味を持ち、山を降りては人間に近付いていく不知火に対し、異分子となり得ると不安を覚えていたのかもしれない。不知火はいつしか人間を狩るのを止めていた。それも桐生の疑心暗鬼に拍車をかけた要因だった。
桐生のそれは、いつの頃からか執着に変わっていく。
強い雨が降っていた。紅子が不知火に蛍がみたいとねだった次の日。不知火は謂われようのない胸騒ぎに襲われていた。どうにもじっとしていられなくて、不知火は鬼の里を飛び出し町へと降りてきた。
そうすると、何やら町中が騒がしい。土砂降りの雨だというのに人々が通りを走り回っている。不審に思った不知火は羽織るように着くずしていた着物を頭から被り衣被ぎにして髪と角を隠し、様子を窺う事にした。雨のおかげで顔の判別もつきにくく、顔に刻まれた紋様を見られる心配もなかった。
「おい、何事だ。」
不知火は一人の男を捕まえて問うた。着物の裾を絡げ、足を泥まみれにして男は息を切らしながら答える。
「ああ、さっき町に白い鬼が現れてな。なんでも庄屋の娘がさらわれたってんで、町中上を下への大騒ぎよ。今手分けして探してるんだが…」
桐生だ。そう直感した瞬間に不知火は走り出していた。昨日里に戻った時に交わした会話を、不知火の頭の中でぐるぐると回る。
『不知火。あの娘、誰さ。』
『知らねぇ。勝手に着いて来やがるんだよ。』
『ふぅん。目障りだね。』
『人間にしちゃ変わってて面白ぇけどな。』
『なぜ殺さないの?』
『別に。気まぐれだ。』
人間に傾倒していると思われると厄介だったので、その時不知火は桐生を適当にあしらっていた。だが、無邪気を装う桐生の心には、純粋な残忍さが潜んでいた。不知火もその事に気付いてはいたが、こうも早くに行動を起こすとは予想していなかった。不知火は走りながら、後悔に苛まれていた。
気配を頼りに走り回り、町外れの山の麓に来た時、桐生の姿を見つけた。暗い雨の中でも白く、輝いてさえ見える桐生の元へ走りよろうとすると、その足元に赤い物が目に入る。
雨水に混じって流れる赤の中に見えたのは、紅子が好んで着ていた着物の柄。一瞬にして不知火の体は凍り付いた。震える手をきつく握りしめ、ゆっくりと近づく。
そこには、生前の溌剌とした様子は微塵も窺えない、変わり果てた紅子の姿があった。力なく横たわる紅子の見開かれた双方の瞳には光は既になく、青白くなった肌に赤い血が飛び散っている。茫然と立ち尽くす不知火に、桐生は微笑んで言った。
『これで君を付け回す五月蝿い女はいなくなったよ。』
湧き上がる怒りと冷えていく感情。二つの温度が混じり合い、不知火の動きを止めていた。
『怖い顔だね、不知火。もしかして、大切な娘だった?』
近づき、目をじっと見ながら桐生が問う。
『そんなんじゃ…ねぇよ…』
そうなる前に摘み取られたから。最後に呟かれた言葉は、桐生に届くことはなかった。よく笑い、よく怒り、感情のままに振る舞う紅子はその奔放さが眩しくて、その言動に一喜一憂して振り回されている周りの男どもの気持ちが、ほんの少し理解でき始めたところだったのに。
『そう。なら良かった。君が人間なんかに懸想していたらどうしようかと思った。でも、そんな事あるわけないよね。君は鬼なんだから。』
桐生の言葉が不知火の胸に鋭く突き刺さる。
『桐生。二度と勝手な真似するんじゃねぇ。今度こんな真似してみろ。族長の息子だからって容赦しねぇぞ。』
『やだな、怒んないでよ。しないよ。…君がちゃんと鬼である限りね。』
*****
その時の桐生の微笑みは、今でも不知火の脳裏に焼き付いて離れないでいる。
「あいつが見たがっていた蛍を、代わりに見に行ってやろうと何度も思った。でも、行けなかった。俺なんかに近付かなければ、あいつは死ぬことはなかった。そう思うとどうしても足が向かなくてな。あの時俺がアイツを鬼にしていれば良かったのか?いや、違うな。そもそも俺が人間なんかに近付かなければ良かった。俺の爪は、人間を傷付ける事しか出来ねぇんだ。」
不知火がきつく握り締めた拳からは、今にも血が零れ落ちそうだった。雅臣は自身の手をそっと、その上に重ねた。
「それは違う。お前の手は誰も傷つけていない。この手は、私に花を摘んできてくれた。お前が助けた少年は言ったのだろう?お前は他の鬼とは違うと。お前は良い鬼なのだと。お前の手は、守ることも与えることも出来る。そうだろう?」
「雅臣…」
「お前は優しいのだよ、不知火。お前と関わった人は皆、それを知っているはずだ。だからこそ、きぬと言う娘はお前を傷つけた事を後悔した。紅子さんもお前に心を許した。そうじゃないか?」
冷え切った手が、感情が、温もりを取り戻していくような気がした。不知火の瞳から暗い闇の色が薄れて幾分晴れやかな表情になる。長きに渡って重くのし掛かっていた後悔が取れて、赦されたように感じていた。
「そうだと良いなぁ。」
不知火は泣きそうな顔で笑った。
帰り際、雅臣は真剣な瞳で不知火に言った。
「不知火、気を付けろ。最近この辺りに頻繁に鬼が出ると噂になっているらしい。町の人の目も厳しくなるし、義兄も警戒を強めるだろう。見つかればお前も危険だ。しばらくはここへ来ない方が良い。」
「心配いらねえよ。見つかるようなヘマはしねぇ。大丈夫だ。」
そう、安心させるように優しく告げ、不知火は雨の中を駆けて行った。
雅臣は不知火が去って行った後の庭を見つめる。雨のせいだろうか。一抹の不安を拭い去ることが、雅臣にはどうしても出来なかった。
*****
その夜、高政が神妙な面持ちで部屋にやってきた。平生の豪傑さは息を潜め、空気がピリピリと痛い。不機嫌を隠そうともせず、高政は雅臣に問うた。
「雅臣。今日は一日何をしていた?」
「いつものように、遠方より頂いたご注文の文にお返事を…」
「一人でか?」
その探るような瞳に、雅臣はこの張り詰めた空気の原因を知った。
「勿、論です。」
背中に汗が伝う。どのようにしらを切るか、思考を巡らせている雅臣から、高政は視線を外す。
「今日、自警団の詰め所に一人のご婦人が来た。雨の中を、震えながら。話を聞くと、一匹の鬼を見たそうだ。それも…」
高政の中にも葛藤があるのか、一度言葉を止める。そして意を決し、再び雅臣を見据える瞳には冷たい光が宿っていた。
「この屋敷に入って行くのを見たと。」
雅臣の鼓動が早くなる。無言のまま、高政の話を聞く。緊張で目と喉の奥が冷たくなっていく。手にも温度が感じられない。
「恐ろしくて家の中に隠れていたが、半刻ほどして外を覗くと、同じ鬼がまたも塀を飛び越えてこの屋敷から出てきたと。雅臣、何ぞ物音でも聞かなかったか。」
高政の疑う視線が鋭く突き刺さる。
「い…いえ…。障子を閉めていましたし、雨や風の音が強くて、何も…」
「そうか…」
そう言うと高政は雅臣から視線を逸らした。雅臣は、義兄に気取られないように小さく安堵のため息をつく。
「雅臣、庭に桔梗は咲いていたか?」
「?いいえ、植えていなかったと…」
そこまで答えて、はっと気付く。高政の視線は、ある一点に注がれていた。不知火が持ってきた、桔梗の花。
「昨日見た時は随分萎れていたが、元気になったものだな。まるで今日にでも摘み取ったようだ。誰か、家の者が飾ったか?」
口調こそ優しくて穏やかだが、目は笑ってはいない。この町にも家の中にも、雅臣に花を持ってくる者など居ない事を、高政はよく知っていた。高政の表情が確信に変わる。
「誰に、貰ったものだ?」
「そ…それは…」
雅臣が口ごもる。上手い言い訳が出て来ず、頭が白くなった。
瞬間、頬に衝撃を感じると、次の瞬間には雅臣の体は後ろへと飛ばされていた。高政が強かに頬を打ったのだ。衝撃を全く予想していなかった雅臣は床へ倒れ、口内を切ったのか唇からは血が零れる。
「っ…」
「雅臣、やはりお前が鬼と通じていたのか!敵と通じるなど、恥を知れ!!」
高政は雅臣の襟を掴んで引き寄せ、そのまま何度も殴りつけた。
雅臣は、ただ耐えるしかなかった。
ひとしきりの折檻が終わると、高政は部屋を後にした。
「良いか雅臣。これ以上の裏切りは許さぬ。次に鬼が来た時には必ず知らせよ。その鬼、退治してくれる。…分かったな、雅臣。」
「は…い…」
痛みと絶望で薄れゆく意識の中、雅臣はただ雨の音だけを聞いていた。