11/10/00:30――箕鶴来狼牙・鷹丘の姓
箕鶴来狼牙は平凡な男性だ。年齢的には中学一年生でありながらも、そこに関係がなく平凡なのである。
十一月の東北地方ということもあって、黒のコートに身を包んだ狼牙は背筋を伸ばして直立したまま動こうとしない。
彼は平凡だ。たとえばここで半袖のアロハ姿であっても、誰がどう見たところで平凡に見えてしまう――彼は、平凡でいることしかできない。
だが、本当に平凡なのだろうか。
一寸先は闇――それが現実となっている状況に身を置く狼牙は、平凡だろうか。
霧のよう服の隙間から躰へと入り込もうと蠢く黒色の点が集まった闇の中、もう二十分も微動だにせず沈黙したまま直立している。
ある、平凡な家の敷地に一歩を踏み込んでから――ずっとだ。
面白い闇だと狼牙は思っている。だからこそ瞳を閉じていない。
闇の特権は隔絶だ。周囲から隔離し個人にする――いや、孤独を擬似的に体験させる事で孤立させる。人は第三者がいなければ自身を自身だと認める事すらできず、自己という曖昧なものを喪失してしまう。
五感が働かず、不安を増長させる――それが闇の本質なのではと考えていた。
だが、この闇は違う。
隔絶なのではない。
これは人を意図的に喰う、擬似的な闇だ。悪い方向に細工がしてある。しかも内部に入り込み精神を喰おうとする――何も考えられない廃人を作るにはただの闇でも良いのにも関わらず、時間を短縮するために攻撃性を術式に加味しているのだろう。
だが――。
「まだ続けるおつもりですか?」
ようやく狼牙が口を開いたのは、三十分に差しかかろうとする頃合だった。
「それとも自動的な設定をしていて、これを突破できないなどと甘いお考えを持っているわけではありませんね?」
「ああ……」
どこからか声がする。近いようで遠く、反響しているような錯覚があった。
「いや……面白いなと、思ってな……俺の影に這入って平然としているのは、面白い」
ざらざらと零れ落ちるように闇が頭から足元へと消えていく――いや、彼の言葉によれば闇ではなくそれは、影だ。
視界が開けると、外にいたはずの狼牙は洋間に立っていた。移動した感覚はなかったのだが、おそらく。
――人の影も、建物の影も、同一のものとして処理したのでしょう。
そうすれば移動、という行為そのものを短縮できる。何故ならば二つの影が同一ならば、どちらに立っていようとも同じだからだ。
背を丸め、床にあぐらをかいて腰を落ち着かせている男性がこちらを見上げていた。髪は短いが無精髭があり、どこかぼうっとした風貌だ。
「突然の来訪、失礼致しました。箕鶴来狼牙と申します」
「ああ……うん、そうか」
名前など興味はないその反応は魔術師としてはありふれたものだ。彼らは自己を見つめ、そして自分の魔術にしかほとんど興味を示さない。他の魔術師を気にするのは、そこから盗んで己のものにしたいと考えるからだ。
だが。
「お前は……おかしいな。間違ってはいないが、……おかしい」
その瞳には疑心よりも脅威に対する忌避が浮かんでいた。
「来訪の対応も……おかしい。術式を使おうとすら、しなかった……必要ないと示すように」
「私に興味がおありですか鷹丘さん」
「ある。お前は、おかしい。なのに……平凡だ。俺の影の中を通って生きているとは思えない……」
「――では少し、話をしましょうか。けれど一つ、これだけは前もって伝えておきます。私は鷹丘さんに頼みがあってきました。そして、――断られても実行してもらおうと考えています」
「そうか、……そうか」
おそらく真に受けてはいない、適当な返事。
――今はそれで構いませんよ。今は。
狼牙の前に、魔術師も魔法師も武術家も一般人も関係なく、その全ては平等だ。それを身を持って知ることになるだろうから。
「では話をしましょう――それで構いませんか?」
「ああ……面白そうだ」
「鷹丘さんは知識と経験の違いについてご存知ですか」
「……? 俺にとって経験は知識だ」
「そうですね。経験によって培われたものは知識として蓄えられます。そして経験で得た肉体的な情報は、知識から逆算して――そうですね、簡単に言えば鍛えてしまえば良いのでしょう」
「何の話だ……」
「ええ、これを前提に問いましょう鷹丘さん――それでは生後一ヶ月の赤子に三十年分の知識があったら、果たしてその子の年齢はいくつでしょうか」
「……待て、記憶はどうだ。記録は知識だが……記憶は別物だ」
「ならばこう訊きましょう。記憶とは積み重ねなければならないものでしょうか?」
「記憶……そうだな、蓄積されるものであり忘却が前提となるものでもある……。積み重ならない記憶は、……ない。そして記憶は曖昧なものだ。確定可能なのは自己しかない……」
「知識と記憶は別物です。何故ならば公的に有効な知識とは違い、記憶にはそもそも確証足りえるものがないからです――ならば」
「零から始まってもおかしくはない……か。だが未知のものを既知にする道程があればこそ、いや、それは知識だ。記憶は同様でありながらも違うもの……難しい問いだ」
「では少し問いを変えましょう。鷹丘さんの年齢はわかりませんが――」
「三十二だ」
見た目よりも随分と若いようだ。
「鷹丘さんが積み重ねて来た三十二年分の知識を持ち、記憶を持った赤子は、鷹丘さんと同一でしょうか」
「否だ……が、何が言いたい」
そこで一区切り、無言の間を作った狼牙は軽く瞳を伏せてから口を開く。
「〝識鬼者〟」
初めて、ぼうっとした表情を驚愕に一瞬だけ変えた男の右手がびくりと震える。
――驚き? いや恐怖に近いのかもしれませんね。
つまりその反応は、名を知っていると受け取って構わないだろう。
「ご存知でしょうか」
「……知っている。協会が与えた二つ名の中でも、……歪んでいる、称号だ。だが家系は」
「――やはり貴方は、魔術師ですね」
「当たり前のことだ」
「いえ誇るべきですよ鷹丘さん。私の問いに対する返答も十全です。――さて」
はぐらかすのも、このくらいにしておこう。
「率直に申し上げましょう――鷹丘さん、鷹丘の姓を私が譲り受けます。貴方は以降、闇ノ宮を名乗ってもらいます」
「……なに? 馬鹿な、従う要素は皆無だ」
「それは否定ですか?」
「……」
「それとも拒絶か……違いますね、どちらでもないのでしょう? 従う要素がないから一笑するだけであって、その要素があれあ貴方は頷くのですか?」
「理由もなく従えと?」
「貴方に理由を知る必要はありません。何故ならば、現状で理由を察知できない以上、知ることができないと、貴方は今ここで、証左を私の前に出したのですから」
「挑発か?」
やはり、狼牙は返答しない。
「どのような記憶、記録、知識、経験を持とうとも、たとえ私が鷹丘さんと同等の知識と記憶を持っていようとも、私が私であるように――私は鷹丘さんになれませんね?」
「当然だ……存在律が同一であることはない。前崎の領分だ、人の存在に同一のものはありえない」
「前崎」
言って、一拍の間を空ける。
人が過去に遡る事ができないよう、人が未来へ一足飛びできないよう、同一の存在が同じ時間軸上に同在することはできない。決して、だ。
「――もう前崎さんはいらっしゃいませんよ。今は心ノ宮です」
「なに……? どういうことだ? 協会に断りもなく……いや、何時だ?」
相手に思考させるために返答しないのではなく、そもそも狼牙は口には出さないだけで相手に質問を許してはいない。厳密には、最初から返答可能な質問を考えておき、それ以外の問いに答えようとしないのである。
何故なら、それこそ、くだらない質問だからだ。
「縁と呼ばれるものに、実体があると考えたことはありますか?」
だから、男は黙した。問いに答えられないのではなく、そもそも返答を求めていない質問なのだと、ようやく今になって気付いたから。
「人と人が出逢うには縁が必要だと考えられます。初対面であっても、それは縁が引き寄せた結果です――が、縁が合う事は事象として決定されているものであり、これがなくなることはありません」
「……? 何が言いたい」
「もしも――私がここにきていなかったら、果たして貴方は誰と出逢っていたのでしょうね?」
「馬鹿な……そう簡単に俺の所まで到達されても困る」
「つまり私と同様にここまでこれる人間の誰かが、きていたかもしれませんね。もっともその場合、貴方とは遠い位置にあるところからの縁が合う結果になるでしょうけれど」
「……何を言っている」
「何故、貴方の所へこうしてきたのか――まだお考えにならないのですか?」
狼牙はこの会話を楽しんでいる。そして、男に対して楽しんでいるかと問いかけたかった。
「誰かと合うべき縁を、私が横から手繰ったのだとは思いませんか」
「……お前」
男は問う。
「お前は誰だ……!」
「私は箕鶴来狼牙と申します――縁を担う魔法師です」
最初からそれを問うて欲しかったと思う。だが男は早い方だ。既に済ませた二件に関してはもっと酷かった。
「縁などと呼ばずとも良い、これは人と人との繋がりです。こんな言葉をご存知ですか? 知り合いの知り合い、その知り合いに至れば既に当人の知人であると。人との繋がり――縁の糸は縦横無尽に張り巡らされています」
「……その程度のことは知っている」
「ええそうでしょうね――けれど、その糸を手繰った先に発祥の一人がいると考えたことはないのでしょう? 領分が違うなどと、そんな言い訳は聞きたくありません」
「それがお前か」
「私です。そして、だからこそ、原点の一人など居てはならない。何故ならば人の原点は男女一対の二人でなくては」
「――」
「故に、私は、私ではない矛盾を抱えることになった」
時刻は夜――明かりは小さな電球が一つだけ。
気付いていた。この部屋は男の支配下にあるため、光による影が生成されないのだと。そして男の影は、そのものが攻撃にも防御にもなる術式だ。だからこそ他人の影を封じようとする。
ゆっくりと、重い腰を降ろすよう狼牙が床に座した直後、跳ね起きるよう即座に男は部屋の隅に移動した――否、移動ではなく逃避だ。
逃げたのである。
いや、その選択を狼牙は認める。嘲ることも罵ることもせず、賢明だと納得すらしてやっても良い。
「これで私が鷹丘ですね」
座った狼牙の口から漏れる、男と同じ声。いや姿形、影、何よりも存在そのものが同一であると男の本能に訴えかけてくる。
間違いない。
ここにいるのは、自分自身だと――認めてしまう。
そもそも自分を己であると認知することは不可能だ。他者の視線があればこそ自身は確立し、存在を定義される。だから男も、狼牙だった自分を見て己そのものだと認めた。
――ならば。
狼牙だった自分が己ならば、今ここにいる己は一体なんだ?
「貴方は誰でしょうか」
口調こそ狼牙の名残を持ちながらも、呼吸の仕方や声帯もまた同一。瞳の動かし方、躰の保ち方に至るまで全てが男と同一だった。
そして、あるいは、考え方すら同じであればこそ――其れを、同一の存在であると認めざるを得ない。
「お……俺は、鷹丘……」
「私が鷹丘ですよ。貴方がそう認めたでしょう? 少なくとも今の私ならば、そう認めるでしょうし……しかし不思議ですね」
狼牙は言う。
「私から見た貴方は鷹丘に見えませんが?」
「――!」
呼吸が詰まった、汗がどっと吹き出る。
今、こうして相対していて狼牙だったものが鷹丘と認められ、男は狼牙に鷹丘だと認められていない――これは、明らかに存在の否定だ。意識でも肉体でもなく、存在そのものを認められていない。
消えるのだと、直感でわかった。
消えてしまうと――このままでは己は消失する。
わかりきっていただろう? 同じ存在が二つ、同じ時間軸上に居るわけがないと。
だから、狼牙が鷹丘ならば自分は――鷹丘ではない。
なら、誰だ?
誰でもないならこのまま消える……!
「お困りのようですね――闇ノ宮さん」
「――はっ、は……っ」
呼ばれた瞬間に呼吸が戻った。
否だ。
それを、男が受け取ったからこそ存在が再認識されて消えずに済んだ――そう、少なくとも男は感じ取った。
なるほどと狼牙は思う。今日までにやってきた鈴ノ宮と朱ノ宮よりも、彼の方が正しい状況の判断を行っている。
「さて――」
再び立ち上がった狼牙は、平凡そうな男性へと戻ると苦笑を男へと投げかける。
「大丈夫ですか?」
「……俺に何を望む」
「望みなどありません。私がここにきている時点で貴方はもう闇ノ宮でしかない。そして、貴方は闇ノ宮しか名乗れない。そうでしょう? ならばこそ、私の役目は終わりです――今の所は、ですが」
男の呼吸はまだ荒く、だが双眸は睨むよう狼牙へと向けられている。
「陰影の同在を謳う魔術師、ですか。まったく彼女の選択も遊び心がありすぎていけませんね」
「……彼女? 識鬼者か?」
「とんでもない――彼女はただの〝偽者〟ですよ。あるいは〝幽霊〟であり、〝虚数〟でかつ、〝名無し〟なのですが……ところで闇ノ宮さん」
苦笑して、狼牙は言う。
「そろそろ行こうと思うのですが、外まで案内しては貰えませんか?」




