第一章 眠れる種子 3
「わあ、あんなところにアルレットが咲いてる! ねえルキウス、馬車を停めてもらってもいいかしら?」
「……今日馬車を停めるのは三度目ですよ。これ以上寄り道している時間はないのですが」
「でも、あんなに群生してるアルレットなんて見たことないもの。ね、ほんの少しだけ。ほんの少しの時間でいいから」
「……わかりました」
ため息混じりに言葉を吐き出したルキウスに大喜びで感謝の意を伝えると、リシュナは肩掛け鞄を携えて馬車を降りると、街道沿いの草むらに飛び込んだ。
手には黄ばんでしわしわになった紙と小さくなった木炭が握られている。そして紅色の大きな花弁を持った秋の終わりに咲く優雅な花を見てはしげしげと観察し始めた。
「日当たりがいいと、こんなに花びらが大きくなるのかしら。それとも土壌の問題? こんなにたくさんあれば、いくらでも染料が作れるわ。香りもいいから、香水にもなるし」
うきうきとしながら紙切れに書き付けているリシュナを、ルキウスは呆れたように見ていた。二人で旅を始めてから、もうずっとこの調子だ。このプリマヴェーラはとにかく研究熱心なのだ。
プリマヴェーラになれる第一の条件は花を愛していること。花は愛をもって接してくれる乙女に愛を返すのだ。
しかし彼女は、ルキウスが想像していたプリマヴェーラと少々違っていた。天の啓示を受けるがごとく花と会話するものだと思っていたのだが、彼女は花を情報で捉えようとしているように見える。それはそれで花に対する強い想いは感じられるのだが──どうにも神性がない。そんなものを求めていたのは勝手な幻想なのかもしれないけれど。
「ルキウス、見てみてー!」
遠くからリシュナがぶんぶんと手を振っている。片手で持てるだけいっぱいアルレットを抱えては嬉しそうに馬車まで戻ってきた。
「ほら、ルキウスは真っ黒だから赤がよく映えると思うの」
そう言って頼まれもしないのに彼女はルキウスのローブの胸元にアルレットの花を飾った。
「この花、染料にもなるのよ。次に町に行った時に新しいローブを買って、それをこれで染めたらどうかな。ルキウス、赤も似合うと思うの」
「結構です」
にべもなく言い放つと、リシュナは目に見えるほどしゅんと落胆した。
出会った時から、この少女の思考がルキウスにはよくわからない。だから時々戸惑ってしまう。ただわかるのは、彼女を不快にさせてはいけないということだ。
「……いえ、お気持ちだけで充分ですから。さあ、先を急ぎましょう」
「そうね、待たせてごめんなさい。これは香水にすることにするわ。それならいいでしょう?」
「お好きなように、プリマヴェーラ」
ルキウスのその言葉に、リシュナは今度は難しい顔をした。
「……あのね、前から思ってたんだけど、その呼び方はちょっと重いの……」
「お気に召しませんか。では、リシュナ様」
「それもちょっと……」
「どちらかに決めてもらわなければ困ります」
今度はリシュナが戸惑う番だった。しかしルキウスもそこを譲る気はない。
「じゃあ、名前の方で……」
「では、そのように。急ぎましょう、リシュナ様」
ルキウスは手綱を取ると急ぎ馬を走らせた。
二人で旅をするようになって、リシュナはすっかりもとの自分を取り戻していた。
使者たちに囲まれ、縮こまっては慣れない丁寧な話し方をしていた時は、本当に窮屈だった。けれど今は歳の近いルキウスだけなので、とてものびのびとしていられる。村にいた時には出会えなかった花たちを観察したり採集したりすることも出来たし、リシュナは一時、自分の使命を忘れてこの日々を楽しんでいた。
日中はひたすら馬車で王都を目指して移動するばかりなので、暇を持て余したリシュナは、ルキウスのいる御者台に邪魔にならないよう座ることにした。そして辺りの景色を見て見慣れない花を見つけては馬車を停めてもらって観察したり、ルキウスと話をしたりして過ごしていた。
「今日はもうこれ以上馬車を停めることは出来ませんのでご了承ください」
この先に花が咲いているのを素早く認めたルキウスが、先手を打ってリシュナにそう告げた。リシュナは花の存在に気付くと、芽生えた好奇心をぐっと抑えて頷いた。
「わかったわ。今日はもう我慢するから。その代わり、ルキウスの話を聞いてもいい?」
「おもしろい話は何も出来ませんが」
「質問に答えてくれればいいだけよ」
リシュナは好奇心に目を輝かせながら、とりあえず気になっていることを順番に聞いていくことにした。
「ルキウスの魔術の先生ってすごい人なの?」
「アスクレタリオ様のことですか? リシュナ様はご存じないのですか」
「だって……ダーナには星術師はおろか、魔術師なんて一人もいないもの。そういうものには縁遠いところだったの」
言い訳じみて口を尖らせたリシュナの言葉に納得したようにルキウスは簡単に説明した。
「アスクレタリオ・クラウディオス様は稀代の魔術師と謳われる尊いお方です。黒魔術・白魔術・星魔術とあまねく魔術に精通した大魔術師と呼ばれるに相応しいお方なのです」
「そんなすごい人だったんだ。その人のお弟子さんってことは、ルキウスもすごいのね」
「いえ」
短くそれだけ返したルキウスに、誇らしげな様子はない。他人に関心がないように、自分にも関心がないのだろうかとリシュナは首を傾げたが、質問を続けることにした。
「それで星魔術って何が出来るの?」
「そうですね……星術師にもいろいろいます。星や天体の観測を主とし、世相や人の未来を見る占い師的側面の強い者と、星魔術を扱うのを得意とする者とにおおまかに分けられます」
プリマヴェーラのペンダントを作ってくれた星術師も占いが出来ると言っていた。でもリシュナはなんだか恐ろしくて、その申し出を断ってしまったのだ。
「ルキウスはどっちなの?」
「どちらかといえば後者でしょうね。ですが、星魔術を扱うにしても天体の観測は不可欠ですから」
魔術に疎いリシュナにはその関係性もさっぱり理解出来なかった。
「なんだか難しいのね。あ、でもどうやって狼を追い払ったの?」
「星魔術は、主に精神に……心に作用するものです。狼の精神に、ここを立ち去らねば危険だという合図を魔術として送ったと言えばわかりやすいでしょうか」
「そういう風にして、使者の人たちの痛みも除いてくれたってこと?」
「ええ、まあ……しかし気休めですから。傷は癒えません」
「ううん、それでもすごいわ! ……でも、それじゃあ人の心も魔術で操れるってこと?」
なんだか恐ろしくなって、リシュナは声を潜めて上目遣いでルキウスを見た。
「いいえ。獣はともかく、人に意思があればそうはいきません。その者が望んでいるならともかく、思ってもいないようなことを魔術でどうこうは出来ませんから」
「そっか……」
ほっと安心すると、リシュナは手元の紙切れに熱心に書き込みを始めた。
「リシュナ様は何事にも勉強熱心でいらっしゃるのですね」
「ああ、これ? ……違うの、書かないと忘れちゃうだけなの」
リシュナは肩にかけた鞄から別の紙片を取り出すと、苦笑した。
「でもね、ダーナの村では紙は貴重だったから、自由になんて使えなくて。だから使わなくなった紙をもらってきて、その裏に書き付けてきたの。紙の色が変わって読めなくなったりしたのもあるわ。でも書いていさえすれば結構覚えられるのよ」
インクではなく木炭で書きつけられた薄汚れたその紙切れは、それでもリシュナには大事な宝物なのだ。
「今まで書いていたものを全部持ってきたのですか」
「そうね、ほとんど。そのうちきちんとした紙にまとめようと思っているの」
リシュナは紙切れだらけの鞄の中から、もう一つの大事なものを見つけ、途端に顔を強ばらせた。いずれ着く王都では彼に会わなければならない。
何度も読み返した手紙をもう一度開く。村を出発する前、最後に届いた手紙だった。
──待っている。
力強い筆致で書かれたその文字が、今のリシュナに重りのようにのしかかってくる。
「それは手紙ですか?」
黄ばんだ紙切れでなく、透かしの入った美しい便箋が出てきたことが意外だったのか、ルキウスは不思議そうに訊ねてきた。
「ええ、そうよ。大切な人からの手紙なの。その人と王都に着いたら会う約束をしていて……」
「あまり気乗りはしていないようですが」
「そんなはずはないんだけど。わたしも彼に一度会いたいと思っていたはずなのに……不思議なものね」
いつも明るいリシュナの沈んだ様子に、ルキウスもかける言葉が見当たらないようだった。リシュナはふと思い出して、彼に問いかける。
「ねえ、ルキウス。ルキウスはどうして星術師になろうと思ったの?」
「それは、どうしても答えなければいけない問いでしょうか」
ああそうだったとリシュナは思う。何度か質問をしてみてわかったのは、彼は自分のことに関しては話したがらないということだ。出身地も家族のことも。リシュナが知れたのは年齢ぐらいのものだった。
「ごめんなさい。答えたくないならいいの」
リシュナはこんなことを聞いてしまった自分に苦笑すると、首を振った。彼に訊ねても答は出ないとわかっていたのに。
「……星術師はプリマヴェーラと同じように、なりたいからといってなれるものではありません」
リシュナは驚いてもう一度ルキウスに視線を戻した。話は終わったものだとばかり思っていたが、彼はリシュナと視線を合わせないながらも、きちんと話を継いでくれた。
「魔術師になるには、生まれ持った素質のようなものが必要なのです。その力に気づかずに一生を終える者もいると聞きます。私もアスクレタリオ様にその力を見いだされるまでは、自分に星術師としての能力があるとは知りませんでした」
「そう……なんだ」
全く知らなかった魔術師になるまでの経緯を知ったことに驚いたのか、ルキウスがそこまで話してくれたことに驚いたのか、リシュナは自分でもよくわからなかった。
「魔術師は宮廷魔術師を例外として、国に仕えているわけではありません。国王の命令よりも師の言葉や託宣を重視します。アスクレタリオ様を師と仰いだ時から、私の一生は決まったのです」
そこにルキウスの感情が全く存在していないような気がして、リシュナはなぜか寂しいと思った。そのせいで自分を主などと敬わなければいけなくなったことに対する引け目なのか。彼が自分を助けてくれるのは、ただの義務だと宣言されたような気がしたからなのか。
けれど、それでも自分自身が心から信じられる道があるというのは羨ましいと思った。そんなもの今までの人生に存在しなかった。リシュナがプリマヴェーラに選ばれるまでは──。
「質問に答えてくれてありがとう。今度はちょっと相談に乗って欲しいの」
気持ちを振り切るように話題を変える。ルキウスは黙って頷いてくれた。
「例えばの話なんだけどね……」
リシュナはゆっくりと話し始めた。
「ある村には果物がなくて、その村の人は果物を見たことも食べたこともないの。そこへ別の村の人が来て、その村の人に桃がいかに美味しいかって話をするの。果物がない村の人は桃を食べてみたいって思うし、別の村の人は桃を食べさせてあげると約束して自分の村に帰るの。だけど、帰った村には桃が実らなくなっていて一つもなかった。だから仕方なくその代わりに林檎を持っていくことにした。でも桃を食べさせてあげるって約束をしていたから、その人たちにはわからないと思って、林檎を桃だと偽って果物のない村の人に食べさせてしまったの。でも、林檎も桃も知らない人たちは、それが違うともわからない。本当に桃は美味しいと喜んで林檎を食べてしまった。……ねえ、ルキウスならどう思う? 林檎を持っていった人は本当のことを言うべきだったのか、それとも、桃を食べたいって言ってた人の気持ちを尊重して良かったのか……」
ルキウスは少しだけ考えると静かに口を開いた。
「なぜ、林檎を桃と偽ろうと思ったのか。そこがわからないことには何とも言えませんが、誰も不幸になっていないのなら問題ないのではないですか」
「じゃあ、ルキウスが林檎を食べた人で、あとからそれは桃じゃなかったって知ったらどう思う?」
「そう言われると、いい気持ちはしませんね」
「そうよね……わたしもそう思う」
リシュナは曖昧に微笑むと、手紙を鞄にしまいこんだ。
「ありがとうルキウス。参考になったわ」
王都アスタルテまであと半分の距離に差し掛かったところで、二人は今夜の宿を取るため小さな村に立ち寄った。しかし宿などない小さな村だったため、気の良い農家夫婦の家に世話になることとなった。
「この村、ダーナに似てるわ。畑があって、森があって。珍しい花とか咲いてるかしら」
「リシュナ様が研究熱心なのは結構ですが、ほどほどになさってください。明日の朝一番に出立しますので、今宵はお早めにお休みください」
この数日間で、ルキウスはすっかりリシュナの行動を予測することが出来るようになっていたし、リシュナも彼の言葉にはきちんと従った。彼は自分の言うことを聞いてくれるが、だからといって彼を手のいい召使いのように思うことはなかった。
農家夫婦が用意してくれた夕食を食べ終えると、すっかり日も落ちていたので、リシュナは外に出ることを諦めた。あてがわれた部屋へと向かう途中で、柱の影からじっと物言いたげにこちらを見ている農家夫婦の一人娘に出くわす。名前は確か、アーネといった。
「どうかしたの?」
リシュナが微笑みながらそう訊ねると、勇気をもらったと思ったのか、アーネは勢いよくリシュナの前に進み出た。
「ねえ、おねえちゃんのそのペンダント……」
アーネはリシュナが首からさげている琥珀のペンダントを近づいてじっと覗き込んだ。
「おねえちゃんはプリマヴェーラなの?」
今まで同じようにこのペンダントを首からさげていたが、実際に見たことがない人からすれば、これがプリマヴェーラの証だなどと言われなければ気付かない。ここ三十年間、新たなプリマヴェーラが誕生していないのだ。けれどこのダーナにも似た小さな村に住む少女は、大人たちも気付かないプリマヴェーラの花が閉じこめられたペンダントに気が付いたのだった。
「よくわかったのね。そう、これがプリマヴェーラの花よ」
リシュナは腰をかがめ、アーネによく見えるようにペンダントを差し出した。
「本物なんだ! いいな、わたしもプリマヴェーラになりたいの。どうすればなれるの?」
幼い少女にとってプリマヴェーラは憧れの存在でもある。けれど、年を重ねるにつれ、そんなものは夢物語だと思うようになる。プリマヴェーラの存在が希少になるにつれ、どこかおとぎ話めいた存在となっていたのだ。目の前で目を輝かしているアーネの気持ちを大切にしたくて、リシュナは丁寧に答えた。
「うーん、決めるのは花の精霊だから……でもね、花を大切に思うことがやっぱり一番大切なんだと思うわ」
「うん、わかった。でもね、花を元気に育ててあげようって思う気持ちはあるのに、わたしの育ててる花、どうしてか枯れちゃうの。ねえ、おねえちゃん。花の精霊に、どうしたらいいか聞いてもらえない?」
目の前の少女が、記憶の中にある面影と重なる。他人のような気がせず、リシュナは思わず頷いていた。
「ええ、もちろんよ。でももう今夜は精霊たちも眠っているわ。明日には必ず聞いてあげる」
「本当に? ありがとう、おねえちゃん! じゃあ、明日ね!」
アーネは嬉しそうに飛び跳ねると、リシュナに手を振って走っていった。きっと今から自分の育てている花のところに行くのだろう。リシュナも温かな気持ちでそんな少女を見送っていたが、後ろからため息混じりの声がかけられた。
「明日の朝一番に出立すると申し上げたと思いますが」
慌てて振り向くと、怒っているのか呆れているのかよくわからない変化に乏しい淡々とした表情でこちらを見ているルキウスがいた。
「ご、ごめんなさい! でも、あんな小さな子のお願いを断ることも出来なくて……。だって、あの子似ているんだもの……」
「一宿一飯の恩義もありますから。あなたがそうなさりたいとおっしゃるのなら、私は止めません」
「ありがとう……ごめんね」
「あなたは私に感謝する必要も、謝罪する必要もありません」
彼はそう言うと、先に用意された部屋へと歩いていってしまった。
「……ありがとうぐらい、言わせてくれてもいいのに」
釈然としないものを感じながらも、どことなく寂しい気持ちになる。数日間一緒にいても、全く彼に近づいたという気がしなかったから。
次の日の朝、早速アーネの育てている花を見に行ったリシュナはその数の多さに驚いた。
「これ、全部アーネが育てているの?」
「うん、そうよ。でも、同じように育てていてもこの花だけが、いつも枯れてしまうの」
彼女が大切にしている花壇には、十種類を超える花が植えられていた。その内のひとつ、薄紫の小さな花だけが、片隅でうなだれたように元気をなくしているように見えた。
「ねえ、花の精霊は何て言っているの? 何がいけないの?」
アーネは縋るようにリシュナを見上げた。
「ちょっと待っててね、今聞いてみるわ」
リシュナは薄紫の花とそばにある花を見比べてから、ゆっくりと両手を胸の前で組み合わせ、目を閉じて集中した。その様子をアーネは緊張の面持ちで見守っている。
「ね、わかった?」
待ちきれずリシュナの服の裾をつまんで上目遣いで見上げるアーネに、ゆっくりと目を開けたリシュナは微笑みを返した。
「ええ、わかったわ。アーネはどの花にも同じように水をあげているのよね?」
「うん、そうよ。雨が降った日以外は毎日欠かさず」
「そう、それは偉いわ。でもね、アーネが大切に育てても枯れてしまうこの花には、そんなに水が必要ないんだって」
「え? そうなの?」
リシュナは頷くと、薄紫色の花が植わっている土を少しはらった。
「この花は水をやりすぎると根が腐ってしまうんだって。だから、枯れてしまうみたい。今の半分ぐらいの水でいいって言っているわ。出来れば、この花だけ別の鉢でもに移すといいわ。出来るだけ太陽に当ててあげる方がいいんだって精霊が言っているから」
「うん、わかった!」
アーネは勢いよく頷くと、早速行動を開始した。リシュナがほっと一息つき、そばでその様子を眺めていたルキウスに何か言われる前に出立する準備をしようとしたその時、横手から新たな声がかけられた。
「あの、あなたがプリマヴェーラとお聞きしてお伺いしたいことが……」
見れば何人かがリシュナのそばで列をなして並んで待っている。
「ええと……」
リシュナは急いでいるからと断ろうと思った。けれど、村人たちの期待に満ちた眼差しが彼女の決意を鈍らせた。
「……じゃあ、一人ずつお願いします」
これ以上の出立の遅れに、いい加減ルキウスに怒られるかと思ったリシュナだが、彼は何も言わずに黙ったまま、その様子を見守っているのだった。
以前は薬として効いていたはずの植物が、最近服用したら毒になったという相談に、それは摂取量の問題だと村人に伝えたところでようやくこの拘束は解けた。
ダーナと同じく自給自足の暮らしをしているこの村では、薬に頼ることなく村人は生きている。自然のものを利用することが多いこの村の人々が、花や植物の声に耳を傾けたいと思うのは当然のことなのだろう。それはリシュナにもよくわかった。しかし、すっかり疲れてしまった。
昼過ぎに出立してからというもの、ルキウスはやはり怒っていたのか一言も口を利かなかった。リシュナも気まずくて、御者台に座る彼の背中を眺めるだけで、声をかけようとはしなかった。
馬車から見える風景は流れ、やがて空気が変わっていくのをリシュナは感じていた。随分遠くまで来たのだ。本当なら、こんな場所に来ることなど一生なかったはずなのに。不意に息苦しくなり、胸のペンダントを握りしめる。こんな思いをすることは覚悟の上だったはずだ。
リシュナが膝を抱えてうずくまっていると、馬車がゆっくりと停車した。のろのろと窓の外に目をやると、そこは一面の花畑だった。
「すごい……!」
感嘆の声を漏らすと、リシュナは夢中で馬車の外に飛び出していた。冬が近づこうと、セファリアには花が溢れている。それこそ、この国が花の精霊に愛されたしるしなのだ。
一つ一つの花を確かめるように花畑を歩くリシュナに、追いかけてきたルキウスが声をかけた。
「今、精霊の声は聞こえていますか?」
「え? なあに?」
「精霊は今何と言っていますか?」
リシュナは辺りを見回したが、困ったように首を振った。
「わたしは未熟だから、今はよく聞こえないわ」
そう言って、もう一度花の観察に戻ろうとしたリシュナの手首をルキウスが素早く捉えた。驚いて振り返ったリシュナが目にしたのは、初めて見るルキウスの厳しい瞳だった。
「正直に答えてください。……あなたには精霊の声が聞こえていないのでしょう?」
リシュナは言葉を失ったように、ルキウスの瞳を見つめ返したまま立ち竦んでいた。