第一章 眠れる種子 2
リシュナの目前に迫っていた狼は、甲高い声で鳴き声をあげると、すぐさまどこかへと逃げ去っていった。
恐る恐る目を開けたリシュナは、狼の灰色の毛皮が森の彼方に消えるのを信じられない思いで見つめていた。
「ご無事ですか」
呆然としているリシュナに、落ち着き払った声がかけられる。先程の声の主だ。まだ若い男のようだった。リシュナは横手から現れたその人物に視線を向け──次の瞬間、驚いて言葉をなくした。
月明かりだけの闇夜に立っていたその人物は、闇と同化しているかのごとく、頭の先からつま先まで真っ黒という出で立ちだった。肩より長い漆黒の髪は頭の後ろで結われ、同じ色の瞳は声で受けた印象と変わらず落ち着きを湛えて澄み渡っている。銀糸で縁取りをされた足下まで覆う外套も、その下に身につけたローブも闇色だった。
「あ、ありがとうございます……」
おっかなびっくりとした様子で、リシュナがそれだけを何とか口にすると、涼しい声が返ってきた。
「いえ、ご無事で何よりです」
尻餅をついたまま立ち上がれないリシュナを見かねた彼は、手を貸すためリシュナに近づいてきた。近くで見ると、やはりまだ若い青年だと気付く。線の細い整った顔立ちをしているが、その表情はリシュナを安心させるために、にこりとするということはなかった。
「あの、他の皆さんは大丈夫なんですか?」
「生きてはいると思います。確認してはいませんが」
あまり興味なさそうにそう答えた青年の顔をもう一度見つめる。感情をのぞかせない冷たい眼差し。自分を助けてくれた感謝すべき相手であり、口調も礼儀正しいが、親しみも安心感も全くわかなかった。
「あの、あなたは一体……? それに、どうしてここへ?」
それでもそう問う以外にリシュナに出来ることはなかった。
「大魔術師アスクレタリオ・クラウディオス様の弟子にして、星術師のルキウスと申します。星の託宣により、あなたをお守りするため参りました」
必要なことだけ簡潔に述べると、ルキウスと名乗った青年はリシュナの前で跪き、頭を垂れた。
「星術師……」
星や天体の力を借りて、魔術を操る魔術師をそう呼ぶのはもちろんリシュナも知っている。プリマヴェーラの証たるペンダントを完成させるのも彼らの仕事なのだから。
「星のお告げだなんて、何かの間違いじゃないですか」
星の託宣がどういったものなのか知らないリシュナだが、プリマヴェーラを守護するのは、国王に仕える騎士と決まっている。星術師が守護するなど聞いたことがなかった。彼のあまりにも仰々しすぎる態度が理解できず、リシュナは無理に笑おうとしたが、上手く出来なかった。
「あなたは三十年ぶりにセファリア王国に現れた花に愛されし乙女、プリマヴェーラなのでしょう? ならば間違いありません」
リシュナはもう一度口を開きかけたところで止めた。お告げとやらの真偽を確かめても無駄だ。それは自分が一番よくわかっている。
「あなたはわたしに力を貸してくださると、そう思っていいんですか?」
「はい、有り体に言えばそうなります」
この青年が言っていることがどうあれ、自分を助けてくれたことは事実だ。今は彼の力を借りて状況を把握しなければいけない。
「もう他に狼はいないのですか。危険は去ったのですか?」
「はい、狼たちは魔術の力で去りました。ただ今宵は満月です。月の光が獣たちの理性を狂わせるのです。一概に危険が去ったとは言えませんが、おそらく大丈夫でしょう」
「そうでしたか……」
リシュナはようやく馬車から降りると辺りを見回した。月明かりの下、悲惨な光景が広がっていた。足や腕を噛まれた者や背中を爪で切り裂かれた者たちが、苦痛のうめきをもらしながら地面に倒れていたのだ。
「いけない! 早く手当てをしないと!」
リシュナは慌てて荷物を積んでいた馬車に駆け寄ると、中から医療品を探し出しては彼らの元へ駆け寄った。
「あなたも手伝ってくれますか?」
ルキウスに問いかけると、彼は淡々とした口調で、さも当然のように言った。
「私には彼らの傷を治す力はありません。明日にでも医師に診せれば良いと思いますが」
「こんなに苦しんでいる人をこのまま放っておけと言うの!?」
リシュナの怒りをはらんだ声に、ルキウスは意外そうに目を瞬かせた。
「ですが、おそらく命に別状は……」
「誰だって怪我をしたら痛いわ。あなたはそうではないというの?」
医師でないリシュナに出来ることはたかがしれている。それでも何も出来ないからと放っておくことなど、リシュナの性格上、許せることではなかった。
「いいわ、わたし一人でやるから」
医療品がおさめられた箱から消毒液を取り出すと、リシュナは手早く一人一人に手当てを施していく。ダーナの村に常駐の医師などいなかった。小さな怪我なら誰もが手当て出来て当然という中で育ったのだ。
全員の消毒が済んだところで、その様子を黙って眺めていたルキウスがゆっくりと口を開いた。
「あなたは、彼らの苦痛を取り除くことを望まれるのですね」
驚いたリシュナは、とりあえず頷いた。リシュナが手当てしている間に、彼は彼なりに何かを考えていたようだった。
「では、その通りにいたしましょう。ただ、ひとときの気休めにしかなりません。私は白魔術が扱えるわけではありませんから、傷が塞がるわけではありません」
そう言ってルキウスは使者の一人に近づくと口の中で小さく呪文を呟いた。噛み痕の残る腕に手をかざすと、優しい光が揺らめいた。
「それから、安らかな眠りを」
「し、死んじゃうわけじゃないわよね?」
「言い方が誤解を招いたのなら訂正します。彼に苦痛を忘れる安眠を」
ルキウスが言ったとおり、苦痛に歪んでいた使者の表情はやがて穏やかなものとなり、安らかな寝息と共にひとまず痛みは去ったようだった。
全員に魔術をかけ終わると、さすがに疲れたような顔をしていたルキウスだが、淡々とリシュナに告げた。
「では、出来るだけ早く近くの町に到着出来るよう、今から馬車に彼らを乗せて移動しましょう」
「でも、御者の人も眠ってしまったわ」
「私が馬車を操ります。あなたは休んでいてください」
そろそろ夜が明けようとしていた。確かに疲れて眠いのだが、それは魔術を使って消耗した彼にも言えることなのではないのだろうか。リシュナには魔術のことはさっぱりだが、それでもそのぐらいのことは想像できる。
「でも……」
「私のことは気になさらないでください」
二人がかりで彼らを全員馬車に運び入れたところで、さっさと支度をして御者台に立ったルキウスを見つめ、リシュナは先程抱いた彼への不信感や怒りを申し訳ない気持ちで振り払った。確かに彼は変わっている。けれど、悪い人間ではないのだとようやく気付いたのだから。
「ルキウスさん、ありがとうございます」
深々と頭を下げて礼を述べるリシュナを見つめる彼の瞳は、何か珍しいものでも見たというように心底驚きに満ちていた。けれど、リシュナが顔を上げてもう一度彼を見た時、その瞳は少し伏せられ、感情を持て余しているように見えた。彼の感情の起伏を初めて見たような気がして、それがなんだか嬉しいような心地がして、リシュナは思わずにっこりと微笑んだのだった。
朝早くに近くの町に到着すると、二人は急いで町にある救護所へ向かった。使者たちはそこでようやく医師による治療を受けることができたので、リシュナもほっと胸をなで下ろした。
ひとまず宿を取って、使者たちの回復を待つことになったので、リシュナは疲れているルキウスのために、宿の台所を借りて香草入りのお茶を用意して彼がいる部屋に向かった。
「ルキウスさん、まだ休んでませんか?」
ひょいと扉を開けて覗き込んだその先に、外套を脱ぎもせずに机に広げた地図を相手に難しい顔をしているルキウスが目に入った。
「急いでくださってありがとうございました。夜通し起きていたんですから、もう休んでください。これ、元気がでるお茶ですよ。飲んでみてください」
ルキウスはようやくこちらを見たが、差し出したお茶を受け取ろうとはしなかった。
「あなたが、そのように私を気遣ってくださる必要はありません。それに、私相手にそのような話し方をなさる必要も」
「え……でも、わたしが言ったから、ルキウスさんは手伝ってくれたんでしょう? それを感謝するのはわたしの役目です。それに、ルキウスさんはわたしより年上でしょう?」
「あなたの望みを叶えるのが私の役目ですから、当然のことです。それに、歳はさほど変わらないと思いますが。私は十九ですから」
「に、二歳しか違わないの……?」
それにしては落ち着きすぎているというか、物事に動じないというか。ひそかな衝撃を受けながらも、リシュナはようやく彼自身のことを少しは知れたことが嬉しかった。
「ですから、丁寧に接していただく必要はありません」
「あなたがその方がいいって言うなら、そうするけど……じゃあ、わたしにもそんなにかしこまらないで欲しいんだけど……」
なんとかここまで頑張ってきたが、本当はこういった話し方はリシュナも苦手なのだ。けれど、プリマヴェーラとはいえ田舎出身のリシュナが目上の人間と対等に話すことなど許されないのだと、村を出る時きつく言い含められていた。
「それとこれとは話が違います。あなたは星の託宣により定められた私の仕えるべき主なのですから」
リシュナはどきりとした。何を勘違いしているのかしらないが、彼はこう言い張るのだ。
「それって、本当なの? だって、プリマヴェーラには騎士がつくのよ。そのために王都に行くんだから。星術師の人がいてくれるのは心強いけど、そのお告げのためにあなたの人生を犠牲にしているんじゃないかって心配なの」
「星術師にとって星からの託宣は絶対です。託宣を受ける時期は個人により異なり、その内容も様々です。世の情勢や未来を知ることもあります。下された託宣に疑問を持つことはありません。その意味するところはいずれわかることになるでしょう」
彼は信じ切っている。ならば何を言っても無駄だということだ。リシュナは説得を諦め、徐々に温かさを失っていく飲み物をそれでも差し出した。
「とりあえず、これだけは飲んで。香草を何種類か混ぜて作った元気がでる特製のお茶なの。村を出る時に持ってきたものだから」
今度は受け取ると、ルキウスはじっとリシュナの顔を見つめた。
「これもプリマヴェーラの力ですか」
「そ、そんな大したものじゃないわ。わたしはまだ未熟だから、そんなに精霊の声を聞くことができないもの」
「そうですか……」
彼は何かを考えているようだったが、受け取ったお茶をゆっくりと飲み干した。
「じゃあ、ゆっくり休んでね」
「しかし……」
「休んで欲しいの」
カップを受け取ったリシュナが言葉に力を込めてそう言うと、ルキウスはしぶしぶといった感じで頷いた。
「……わかりました」
彼の扱い方を心得たところで、リシュナは大きく頷くと微笑んだ。
「ありがとう、ルキウス。これからよろしくね」
翌日、負傷した使者たちの様子を見に行った二人を出迎えた医師は、苦々しい面持ちで首を横に振っていた。
「傷が開くといけないから、しばらく安静にする必要がある。旅などもってのほかだ」
「しばらくとは何日でしょうか?」
「まあ、半月ぐらいか」
「そんなに……」
リシュナはルキウスと顔を見合わせた。
ここから王都まではまだ十日ほどかかる見込みだが、ただでさえ遅れているのに、このままでは着くまでに一月はかかってしまう。
「使者に話をしましょう。プリマヴェーラを王都までお送りするのは重大なことですから、急がなくてはなりません」
ルキウスは強い口調でそういうと、使者たちが休んでいる部屋へ向かった。
救護所の一室で、それぞれにあてがわれた寝台で横になっている使者たちは、まだ苦しそうな様子だった。しかし意識ははっきりとしていたので、ルキウスはそのうちの一人に話しかけた。
「医師殿はあなたたちが動けるようになるまで半月かかると言っています。プリマヴェーラを早く王都に送り届けなければいけないと思うのですが」
昨日の時点で、リシュナはルキウスの紹介を使者たちに済ませていた。彼らは自分たちを救ってくれた星術師に深く感謝をしているため、態度は自ずとかしこまったものになる。
「はい、王都ではプリマヴェーラ到着を今か今かと待っています。式典の準備も進められていますので、これ以上遅れるわけにはまいりませんが……」
「あなたたちが動けないのではそうもいかない、と。王都から別の使者を呼んでいる時間もありませんし。そこで提案なのですが、私がプリマヴェーラを王都までお送りしようと思うのです。もともと、星の託宣によりプリマヴェーラをお守りするよう定められた身。我が師アスクレタリオの名にかけて、必ず無事にプリマヴェーラを王都までお送りすると誓いましょう」
「ああ、あの大魔術師のお弟子さんでしたな。それは心強い。そうしてもらえると私どもも助かります」
ルキウスは表情を変えずに頷くと、懐から掌に乗る光る石を取り出した。
「王都に早馬を飛ばしてください。それからこれを」
「これは……星魔石ですか」
魔術師の証たるその光る石は、星術師が鉱物を基に作り上げることからそう呼ばれている。そこには強い魔力が込められ、持つ者の身を守ると言われているため、普段は肌身離さず持っているべきものだ。
「行きずりの私を完全には信用できないでしょうから、これを預けておきます。プリマヴェーラを無事に送り届けた際にお返しいただければと思います」
「私たちをお救いくださったあなたを信用できないなどと思ってはおりません!」
「あなたが信じてくださっても、王都にいる者はそうは思わないでしょう。どうぞこれを早馬で王都へ。私が向かうとお伝えください」
「……わかりました」
使者はルキウスの決意を見て取ると、重々しく頷いて星魔石を受け取った。ルキウスの瞳と同じ色をした星魔石は黒曜石を基に作られたもののようだった。星の煌めきを閉じこめたかのような銀色の粒が光を反射して輝いている。
「では、すぐにでも出発しましょう。すでに二日ほど遅れているようですから」
「馬車と地図と必要な路銀をお渡しします。どうかプリマヴェーラを無事アスタルテまでお送りください」
「もちろんです」
相変わらず落ち着いた口調で淡々と応じると、ルキウスは振り返るなりリシュナに視線を移した。慌てて頷いたリシュナの前で、ルキウスは初めて出会ったときと同じように跪くと恭しい態度でこう述べた。
「全身全霊をかけてお守り申し上げます。我がプリマヴェーラ」




