第一章 眠れる種子 1
第一章 眠れる種子
秋の終わりを告げる風が吹き抜け、豊穣を祝う祭を済ませてしまった人々は、当然のように冬支度を始める。冬とはいえ、厳しい寒さとは無縁のこのセファリア王国に住む人々はゆっくりとその準備を進めるのだった。
セファリア王国の北端に位置するダーナは、村人が自給自足で生活している小さな田舎の村である。いつもは穏やかで平和なその村が、今日は騒がしく揺れていた。
十日に一度やってくる街からの行商人を除けば、ダーナを訪れる者などないに等しい。農作業で汚れた衣服を破れる度に何度もつぎはぎをした地味な作業着をまとった住人とは明らかに違う、外からの来訪者が村の広間に集まっていた。彼らは仕立ての良い布に、金や銀の糸で刺繍が施されているばかりか、胸にはセファリア王国の徽章が誇らしげに飾られている礼服を着ている。
この村の住人である数十名の老若男女は全てこの広場に集まっていた。そして一様に広場の真ん中にある馬車と、その前に立つ一人の少女を見つめている。
「準備はよろしいかな」
少女のそばに立つ、いかめしい面構えの男性がそう少女に問いかけると、彼女は無言で頷いた。少女の顔には傍目からもわかるほどの緊張が浮かんでいた。無理もないことだと、村人も、来訪者たちも内心思っていることだろう。
彼らは王都アスタルテより少女を迎えに来た使者なのだ。村の外に出たこともほとんどないような一介の田舎育ちの娘が、王都に向かうというだけで緊張するのは当たり前のことだと使者たちは思っているのだ。
「リシュナ!」
不意に人垣の中から十歳くらいの少年が飛びだした。リシュナと呼ばれた少女は、驚いたように彼を見つめた。
「向こうでも元気でね」
少年は、直前に摘んできたのだろう野の花をリシュナに差し出した。彼女は微笑むと、頷いて少年を抱きしめる。リシュナが耳元で何事か囁くと、少年は顔をくしゃくしゃにして、次にリシュナの無造作に切られた肩までの短い髪に摘んできた花の内の一本を飾った。
「ありがとう」
そう言って残りの花を受け取り、明るい茶色の目を細めてリシュナが頷くと、薄茶色の髪に飾られた生花が甘い香りを放つ。彼女は胸元のペンダントを一度ぎゅっと握りしめると、ようやく踵を返し、広間に停めてあった使者たちの馬車に乗り込んだ。
別れは一瞬であり、去りゆく馬車を見つめる村人達の心境は複雑だった。
リシュナの望みを叶えるためとはいえ、彼女を引き渡して本当に良かったのだろうか。彼女の意思を尊重し、感謝と共に受け入れたのは自分たちだ。それでも──。
やはり、自分たちが引き留めてやらなければいけなかったのではないか──誰もが口に出さないまでも、そう考えていたのだった。
その昔、セファリア王国は冷たい風が吹く寒冷地で、作物はおろか植物もろくに育たなかった。しかしある時、一人の少女がこの冷たい大地に花の種を植え、それはそれは大切に育てた。少女は冷たい風を遮るおおいを作って花を守り、毎日言葉をかけ、慈しみ育てた。そうすると、この枯れた大地に美しい花が咲いたのだ。それを知った人々は、花や作物の種を植え、同じように大切に育てた。そうすると、今まで育つことのなかった花や作物まで、それは見事に咲き、実ったのだ。
そののち、少女は花の精霊の声を聞くことになる。
花を愛する心を持つ者よ、あなたの思いに応え、祝福を与えましょう。以後この大地に常しえの豊饒を約束しましょう──と。
緑豊かなこの大地は精霊たちの加護のしるしだと、小さい時から聞かされて育ってきた。それはこの国の人間なら誰しもが疑いなく信じていることだ。リシュナも当然それを信じていた。目に見えなくても精霊は存在する。それは当たり前のことなのだ。
プリマヴェーラ──それは花に愛されし乙女。花の精霊の声を聞くことができる選ばれし存在。
プリマヴェーラが初めて誕生したのは、今から約三百年前だと言われている。昔は数年に一度の割合で現れていたプリマヴェーラだったが、近年ではその存在も希少になってしまっていた。何しろ今回花の精霊によって選ばれたリシュナが、約三十年ぶりに現れたプリマヴェーラだというのだから。
その貴重なプリマヴェーラに自分がなったのだという実感はリシュナにはまだなかった。ただ、覚悟だけは決めていた。何があってもやり遂げるのだという覚悟だけは。
馬車の窓から外の風景を眺めていたリシュナは、ふと視線を感じて首だけをそちらへ向けた。斜め前に座っている使者の一人が、じっと自分を見つめている。いや、彼が見つめているのは自分ではなかった。首からさげたペンダントの方だ。
「それがプリマヴェーラの花ですか」
リシュナは興味深そうな使者のために、さげていたペンダントを外すと差し出して見せた。蜂蜜色に輝くペンダントは星術師が魔法をかけて樹脂で固めたものだ。その中に閉じこめられた花がプリマヴェーラだ。自然界ではありえない真っ青な花びらを咲かせ、その内側に虹色の花冠を持つ希有な花。花に愛されし乙女と同じ名を持つその花は、まさにプリマヴェーラのためにある花なのだ。プリマヴェーラに選ばれた少女は、自分の育てていた花の中に、突如プリマヴェーラの花が咲くことで、初めてその事実に気付くのだ。プリマヴェーラの花が少女を選ぶ。それは花の精霊からの合図でもあった。
自らがプリマヴェーラだと証明する唯一の証であるペンダントは、その花の希少性から偽物など作り得ない。そしてその希少な花の姿形を誰もが知り得ているのは、プリマヴェーラの花がセファリア王国の硬貨に彫られているからである。
使者は懐から取り出した銀貨と目の前のペンダントを見比べては感心したように息を吐き出した。
「私は実際目にするのは初めてなのです。本当に全く同じなのですね。それにこの色」
魔術をかけられ琥珀と化したペンダントは透き通ってはいるが蜂蜜色がかっていた。それでもなお目に鮮やかな青色の花弁が眩しい。
「わたしも本当に驚きました。いつも育てていた花たちの中に突然前触れもなく咲いたのですから」
返してもらったペンダントをもう一度首からさげるとリシュナは微笑む。
そうして一度何かに耳をすませるように動きを止めると、ゆっくりと口を開いた。
「もうすぐ雨が降るそうです」
リシュナがそう口にした数時間後に、空は厚い雲に覆われ、やがて泣き出したのだった。
雨はにわか雨のようだったが、大粒で道は見る間にぬかるんでいった。王都から離れたこの辺りの道は充分な舗装などされておらず、車輪がぬかるみにはまって立ち往生することを恐れた御者は雨が止むのを木陰で待つことにしたようだった。
リシュナは馬車の中で、故郷から持ってきた数少ない荷物の中から何通かの手紙を取り出した。力強い筆跡で書かれた文字を指でなぞりながら読む。何度も何度も読み返した手紙だ。勉強熱心な親友と一緒に、行商人にねだって字を教えてもらった過去が懐かしく思い出され、胸が熱くなった。
「しかしさすがプリマヴェーラですな。天気まで当ててしまうなんて」
外の様子を見に行っていたはずの使者が帰ってきたものだから、リシュナは慌てて手紙をたたんだ。
「わたしはただ、精霊の言葉を伝えただけですから」
「それがすごいことなのではないですか」
リシュナは無言で微笑んだ。村を出た時よりも明らかに使者たちの態度は好意的になっていた。旅立ちに際し、真新しい衣服など持っていないリシュナが、それでも一張羅を探し出して着てきた時の、彼らの苦い顔を思い出しては複雑な気持ちだった。
そんな気持ちを察するはずもなく、使者はリシュナが胸に抱えた紙束に興味を示した。
「手紙ですか?」
「ええ、大切な手紙なんです。王都に知り合いがいるので、会えるといいと思って」
使者は生涯生まれた村を出ることがないような田舎娘に王都に住む知り合いがいるということがあまりにも意外だった様子で、一瞬訝しげに眉をひそめた。
「手紙のやりとりをずっとしていたんです。だから、会ったことはないんですけど……」
「そうでしたか」
その言葉を聞いて得心したように、使者は頷いた。
「雨はあがりました。もう間もなく出発できるでしょう」
使者はそういうと、また外に出て行った。
リシュナはほっと息を吐き出すと、もう一度手紙を広げた。差出人の名前をなぞると胸が苦しくなった。
(ヘリオス……やっぱり、わたしはあなたに会うのがとっても怖いわ……)
雨が止むのを待っていたため、夜になる前には近くの町に到着するはずだった予定が狂ってしまった。月は皓々と辺りを照らしてはいたが、一行はこれ以上進むのを諦めて、今日は馬車で一泊することとなった。
近くの森に分け入ったものだから、リシュナは心配になってつい使者に問いかけていた。
「森のそばだなんて、獣が寄ってきたりしませんか?」
ダーナの村の近くにも森はあって、昼間はともかく夜は近づいてはいけないときつく大人たちに言い含められていたのだ。
「心配なさるのも無理はない。けれど最近は大丈夫ですよ。危険な獣は魔術で追い払うようになったから、明かりさえつけておけば、奴らはわざわざ寄ってきやしません」
「そうなんですか」
今の世間がどうなっているのかすら知らないということに気付くと、リシュナは恥ずかしくなりうつむいた。十七になったといっても、自分は村を出たところで赤ん坊同然だ。
「窮屈な思いをさせてすみませんが、今夜はどうかご勘弁を」
「いえ、大丈夫です」
獣が来ないのだとわかると、リシュナは安心できた。狭い車内だろうが、ゆっくり眠れる自信はある。
旅立ちの緊張も手伝ってか、リシュナは毛布にくるまって横になると、すぐに眠りの中に落ちていった。
一番初めにその気配に気付いたのは誰だったのか。馬車の外で見張りをするはずがうたた寝をしていた御者だったのか、簡易天幕の中でいびきをかいていた使者たちなのか。
ともかく、うなり声が耳に入った時にはもう既に遅すぎたのだ。
誰かが絶叫する声で深い眠りに落ちていたリシュナは咄嗟に目覚めた。そして辺りが自分の家などではないことを思い出し、数度頭を振る。馬車の窓のカーテンを開けて、そっと外を窺ってみる。まだ真夜中なのか辺りは薄ぼんやりとした暗闇に包まれていて状況がよくわからなかった。けれど、確かに誰かの叫び声を聞いたのだ。
恐怖を感じながらも、リシュナはそっと扉を開けると身を乗り出し外の様子を確かめる。途端にむっと鼻をつく臭いがした。獣の臭いだった。
獣避けのための明かりは、なぜか消えていた。リシュナが危険を察知して、馬車に戻ろうとしたその時。間近で低いうなり声がした。
すぐ目の前で、闇の中に浮かび上がる二つの目が鈍く光っていた。目が慣れてきてようやく見えたのは、月明かりに照らされた狼の姿だった。
悲鳴が声にならず、リシュナはあまりの恐怖にその場に尻餅をついた。こんな間近に狼を見たのは初めてだった。獰猛な輝きを宿した双眸はひたりと獲物であるリシュナに据えられ、乱杭の歯からはよだれが滴り、生臭い息を吐き出している。
すぐそばから誰かのうめき声が聞こえた。
使者たちは狼にやられたのだ。もはやリシュナを助けてくれる者など誰もいないのだ。そう理解すると、リシュナは覚悟を決め、ぎゅっと目をつむった。
やはり天罰がくだったのだ──そう思った時だった。
「獣よ、退け!」
夜空に浮かぶ月のごとく冴え冴えとした声が、悪夢を切り裂くようにその場に響き渡った。