第三章 蕾ほころぶとき 4
「最近何か変わったことはなかったですか?」
唐突にルキウスにそう訊ねられ、リシュナは星空を眺めていた目を彼に向けた。
今夜は天体観測を行うというので、リシュナも同行させてもらっていた。リシュナにどうして欲しいのかと迫ってきたわりに、それ以後彼がその話題に触れることも態度を変えることもなかったので、リシュナは心の底でひっそりと安堵していた。
「何かって?」
「いえ、何もないのならいいのです」
それだけ言うと、ルキウスも空を見上げた。
今夜の月は半分に欠けた状態で、星々とともに辺りを照らしている。今まで月の満ち欠けなどさして興味のなかったリシュナは、そんな自分の変化に気付くと嬉しくなった。
「新月になると、ルキウスはまたしんどい思いをするの?」
「その説はご迷惑をおかけしました……ですが、もう大丈夫です」
「本当に?」
「本当に、です。あの時は星魔石が手元になかったので……」
リシュナはちょっと疑わしそうにルキウスを見やると、口を尖らせた。
「ルキウスって、いつも本当に大事なことは言ってくれない気がするの。それが、心配させないためだとしても……ちょっと寂しいわ」
「そんな風に思われていたのですか」
「そうよ。でもね、わたしようやくわかってきた気がするの。あなたは大事なことは言ってくれないかもしれないけど、嘘は言っていないって。ルキウスはいつだってわたしに真摯に接してくれるもの」
言われたルキウスは戸惑ったように視線を逸らした。時折見せてくれる年相応の表情が覗きかけるが、それはやがて神妙な表情に取って代わられた。
「そう思っていただけるのなら幸いです」
妙に真面目くさった顔になってしまったのを、リシュナは彼の照れ隠しだと判断した。だからそんな彼を気遣ったつもりで、こう提案した。
「ちょっと冷えてきたわね。何か温かい飲み物を入れてくるわ」
宿の方へと駆け去っていくリシュナを見送りながら、ルキウスはその顔に苦悩とも哀切ともつかない表情を滲ませた。
「私は、あなたが思うような人間ではありませんよ……」
自嘲的ですらあるその言葉は、誰の耳に届くこともなく夜の帳の中に吸い込まれていくだけだった。
夜が明けゆく群青色の空をルキウスは一人見上げていた。やがて空は森の向こうの地平線の方から茜色に染まっていく。
明け方の光にまだ染まりきっていない闇夜から、闇そのものを切り取ったかのような黒いものがルキウスのもとへ飛来した。ルキウスが腕を前に突き出すと、黒い飛来物──大鴉は翼を広げて腕に留まった。
「万事順調に進んでいる。特別報告することはない」
無感動とも言える声でルキウスは淡々と告げた。
「そんなにつれなくするなよ。こんな田舎まで来ることになって暇してるだろうから来てやってるのに」
ルキウスの声に答えるように大鴉がくちばしを動かすと、きいきいと耳障りな声を発した。鴉が人語を解している事実に驚いた風もなく、ルキウスは冷たい瞳で鴉を睨みつけた。
「気遣いなど無用だ。お互い自らの目的のために相手を利用している……それだけの間柄だ」
「まあ、違いないけどな。けれど、お前が失敗すればこちらだって困るんだ。それを忘れるな。また新月の夜に倒れられては困るからな」
痛いところをつかれたと思ったのか、ルキウスは渋面になったまま黙り込んだ。
「自分の体がどうなっているか、忘れたわけではないだろう? もっと気をつけてもらわなくてはな」
鴉の顔から表情などは窺えないはずなのに、その言葉には、はっきりと嘲笑と揶揄が込められているのだとわかった。
「……あの時は、信頼を得る方が重要だと考え、星魔石を手放した。目的のために必要だったことだ」
「信頼、ねえ……確かにそれは手に入ったみたいだな。けれどあの娘が真実を知ったらどう思うんだろうな。自分を助けてくれたと信じている相手が、まさか自分に狼をけしかけていたと知ったら」
「けしかけてはいない。獣よけの光を消しただけだ」
「同じことだろう。まあ、でもそれぐらい愚鈍な娘でちょうど良かった。大事なのはプリマヴェーラであるかどうかだけだからな」
鴉の言葉をじっと聞き入っていたルキウスは内心の感情を悟られないように無機質な声で告げた。
「……約束は果たす。それまでは自由にさせてくれ」
「もう待つのは疲れたんだ。早く朗報を聞かせてくれよ」
大鴉は甲高い笑い声を響かせると、明るくなり始めた空に舞い戻った。
消えゆくまでその様子を眺めていたルキウスは、肺にたまった重い空気をやっとの思いで吐き出したのだった。
野いちごのジャムを作った数日後、毎日の日課となった村回りの時に、ヘリオスが思い出したようにリシュナを振り返った。
「ああ、そうだ。リシュナに頼みたいことがあったんだ」
「なあに?」
小首を傾げて問い返したリシュナに、ヘリオスは明るく切り出した。
「林檎を分けてもらった果樹園の夫婦が、リシュナのパイを相当気に入ったみたいで。作り方を教えて欲しいって言われてたんだ。紙に書いてくれないか。俺が持っていってくるからさ」
「うん、わかったわ」
二つ返事でそう頷いてはたと気付いた。ヘリオスの前で字を書いていいものだろうかと。
「や、やっぱり直接会いに行って教えた方がいいんじゃないかしら。文字だけじゃ伝わらないかもしれないし……」
「作り方だけ教えてくれればいいって言ってたから。リシュナも他に用事があるだろ?」
あれこれ理由をつけて書かないのもかえって不審なのではないかと思ったリシュナは、ようやく頷いた。どうせすぐに夫婦の手に渡るのなら、特に問題はないだろう。
「すぐに書くわね。ちょっと待ってて」
夕食時を過ぎ、忙しかった食堂にようやく静けさが訪れた頃、洗い物を手伝っていたリシュナはマリオンと他愛のない話をしていた。
「リシュナ」
聞き慣れた声に振り返ると、厨房の入り口にヘリオスが佇んでいた。薄暗がりのせいで、その表情まではよくわからない。
「ヘリオスさん、どうかしたの?」
マリオンの問いかけにも、ヘリオスはリシュナに向けて言葉を放った。
「リシュナに大事な話があるんだ。ちょっと来てくれないか」
リシュナとマリオンは顔を見合わせた。当のヘリオスは言うだけ言って踵を返した。
「ちょっと、愛の告白なんじゃないの」
「まさか」
リシュナは冗談交じりにそんなことを言うマリオンに苦笑を返すが、内心そんな思いでいっぱいだった。
「洗い物、途中になってごめんね。ちょっと行ってくるわ」
リシュナはヘリオスが消えた方へと急いで向かった。
半分以上を闇に浸食され、新月へと向かう月に照らされながら、二人は人気のない野道を歩いていた。
ついてきて欲しいと言ったきり一言もしゃべらないヘリオスと、この沈黙を共有している息苦しさがリシュナには耐えられなかった。
「ねえ、ヘリオス。どこへ行くの?」
ついに堪えきれずリシュナはそう問いかけた。大きな背中が今はただ怖かった。リシュナの言葉に応えるように、ヘリオスの歩みは止まった。辺りは畑が広がるだけののどかな風景が広がっている。
ヘリオスは振り返った。けれどリシュナが想像していた表情はそこにはなかった。ひどく険しく厳しい瞳でリシュナを見つめている。
「どうかしたの? ねえ、なんだか今日のヘリオスは変よ」
無理矢理笑おうとしたのに顔が強ばって上手くいかない。そんなリシュナを見てか、今度はヘリオスが笑った。けれどそれは、リシュナの表情を凍らせるような冷たい笑みだった。
「変なのは君の方だろ」
「え……?」
「……君は一体誰なんだ?」
問われている意味が咄嗟に理解できなかった。
「誰って……」
「名前は?」
「リシュナに決まってるじゃない」
その言葉に、ヘリオスは不快そうに眉をしかめた。
「少なくとも、君は俺の知っているリシュナじゃない」
ぞくり、と悪寒が背筋を走った。これはずっと恐れていたことだ。
「何を言っているの? じゃあわたしは誰なのよ?」
心臓が激しく脈打っていたが、それでもリシュナは震える声でそう問いかけた。自分自身の居場所を自ら認めるように。
「だからそれを訊いているんだ。少なくとも、君は俺が手紙をやりとりしていたリシュナとは別人だ」
リシュナはうつむいた。これ以上何を言っていいのかわからない。
「……初めは少しの違和感だった。でも、君と話している内にそれがはっきりしてきた。君の話には、リシュナが書いた手紙のことがいつもさっぱり抜けていた。自分が書いたもののはずなのに、まるで一度も読んでいないかのように。確信を持ったのは筆跡だ。似てはいるけれど、やっぱり違う。リシュナの字をずっと見てきたからこそ、これは断言できる」
うかつだとしか言いようがない。ヘリオスは既に目の前のリシュナに疑念を抱いていた。彼に自分の手書きの文字を渡したことが決定的証拠となってしまったのだ。
「……確かに、わたしはあなたの知っているリシュナじゃないわ」
いい加減観念したように、リシュナはぽつりと言葉をもらした。
「どうして俺を騙した?」
ヘリオスの声は今まで聞いたことがないくらい冷ややかだった。リシュナは心臓が締め付けられるような痛みを覚えた。本当に、彼が見ていたのは自分ではなかったのだ。
「騙すつもりなんてなかった。でも、あの子はもういないの。わたしがあの子になるしかなかったの……」
「リシュナは、もういない……?」
衝撃を受けたように、ヘリオスの声はみるみる力を失っていった。
「亡くなったわ。あなたへの最後の手紙を書いた数日後に」
その言葉についにヘリオスも言葉を失った。
長い長い沈黙が辺りを包み──次に口を開いたのはヘリオスの方だった。
「それで、君はリシュナのふりをして、プリマヴェーラだと名乗り、俺や国王をも騙し、何を企んでいるんだ?」
「だから、騙すつもりなんかじゃないの。ただ……」
「ただ、何だ? プリマヴェーラだと偽ることが罪でないと言えると思っているのか?」
「それは……」
「それ以上、リシュナ様を責めないでいただけますか」
リシュナが口ごもった時に、彼女の背後から落ち着いた声が聞こえてきた。
「ルキウス?」
突如現れた闇夜に紛れる黒ずくめの星術師は、リシュナをかばうようにヘリオスの前に立ちはだかった。
「お前も共犯ってことなのか?」
ルキウスを睨みつけるヘリオスの瞳に暗い炎が宿っていた。リシュナは慌てて叫んだ。
「違うわ! ヘリオスを騙したというなら、わたしはルキウスも騙していたの……でも、それを知ってもルキウスはわたしを助けてくれただけなのよ……」
「へえ……でも何か目算があってのことだろ? でなきゃ、こうも都合良くここに現れたりしない」
ヘリオスの皮肉に、ルキウスは淡々と言葉を返す。
「最近のあなたのリシュナ様を見る目に懐疑的な視線が混じっているように見受けられましたので。いずれこうなるのではと思っていました」
「ルキウスは気付いていたの……?」
「申し訳ありません。リシュナ様に伝えると、意識して余計よくないことになりそうでしたので……」
「それで? あんたの目的は?」
「私はリシュナ様をお護りしたいだけです。だからこそ、あなたにはこの事実を黙っていていただきたい」
「そんな方便を信用すると思っているのか? 国王をも欺いていた罰は相当重いぞ」
リシュナは無意識に胸元のペンダントを握りしめていた。それは初めからわかっていたことだ。それでも、やり通すのだと誓った。
「騙していたのは、わたしよ! ルキウスもダーナのみんなも関係ないわ。だから罰ならわたしが受けるから……。あなたの大事なリシュナのふりをしていたことが気に入らないなら、わたしをぶってもいいから。だから、ダーナのみんなを、テオを……」
その場に膝をついて頭を深く垂れたリシュナに、ヘリオスは困惑していた。
「あなたは一度も考えなかったのですか? なぜ彼女がここまで必死にプリマヴェーラを演じてきたのか」
ルキウスの問いに、ヘリオスは口ごもった。そんなことを考えるより、自分を騙していたのだという思いが強すぎたのだろう。
「彼女は……あなたの知っているリシュナの弟を救いたかっただけなのです。プリマヴェーラとして国のために尽くす代わりに、弟の病を治してもらおうと、亡くなったプリマヴェーラの代わりにその願いを果たしたにすぎません」
「本当なのか?」
ヘリオスはためらいがちに、倒れ伏しているリシュナに声をかけた。ぴくりと肩を動かしたリシュナは顔を上げて、伏し目がちに頷いた。
「あの子に弟がいるのは知っているでしょう? ずっと病気だったの……完全に治すには腕の良い白魔術師の力がいるからってずっと諦めていたの」
「そんな話は一度も……」
「あなたに同情なんてしてほしくなかったのよ。気を遣ってもらうのも、ましてやお金を欲しがっているようになんてとられたくなかったのよ……あの子の気持ち、わかるでしょう?」
「……」
ヘリオスはただ黙って何かを考えていた。リシュナは祈るような気持ちでそんな彼の顔を見つめていた。
「今更、彼女が偽物のプリマヴェーラだと告発したところで、あなたにもこの国にも得るものはないと思うのですが。もっとも、プリマヴェーラの力もない彼女にすっかり騙されていた間抜けな騎士という評価が欲しいのでしたら、その限りではありませんが」
「今度は脅しか?」
すました顔で淡々と告げるルキウスに、ヘリオスは嘲笑を浮かべながら対峙した。
「プリマヴェーラは花の精霊がその存在を認めるものかもしれません。ですが、プリマヴェーラの価値を認めるのは、我々人間です。彼女は……少なからずプリマヴェーラとして、人々の役に立てているではありませんか」
いつにないルキウスの熱弁に、リシュナの胸は熱くなった。そんな風に彼が自分を評価していてくれたことが何よりも嬉しかった。
「それは……あんたの言うことを認めるのは悔しいが、その通りかもな。でも、本当にプリマヴェーラとしての力はないのか?」
不意に自分に会話の矛先を向けられ、リシュナは慌てて頷いた。
「ええ、あの子のペンダントをしているけど、わたしには精霊の声は聞こえないわ。それでも、あの子と小さい時からずっと一緒に勉強していたから知識だけはあるの」
「そうか……」
ヘリオスは疲れたように一度前髪を掻き上げると、大きくため息をついた。
「確かに、初めから見抜けなかったのは俺のせいでもあるしな。リシュナの弟まで罰せられるのは俺も嫌だ」
「黙っていてくれるということですね?」
「そういう風にし向けたのはそっちだろ」
「いいえ、それはあなた自身の決意ですから。でも、これであなたも充分共犯者ですので、そこをお忘れなく」
「結局脅しじゃないか……」
ルキウスの抜け目のなさに毒気を抜かれたようにヘリオスはもう怒ってなどいなかった。
「ヘリオス、ありがとう……本当にごめんなさい……」
うなだれつつも律儀に謝る目の前の名前も知らない少女に対し、ヘリオスはばつの悪そうな顔をしながらも首を横に振った。
「確かに気付かなかった俺が馬鹿だったんだ。でも……」
あとの言葉は掠れるほど小さくて、リシュナはよく聞き取れなかった。
「……君が本当のリシュナだったら、良かったのに……」




