第五話 牢獄①
8月7日、午後21時。
夏の夜の重苦しい湿気を切り裂くように、赤色灯の光が海岸のアスファルトを毒々しく染めていた。
「とりあえず、何があったのかを聞くために重要参考人として任意同行してもらうよ。」
若い警察官が額の汗を拭いながら灯二達に振り向いた。
「断ったらどうなる?」
灯二が砂だらけになったTシャツとズボンをはたきながら答えた。状況とは裏腹に落ち着いた口ぶりだ。
「と、灯二何言ってんだよ。」
尾軽は慌てて口を挟む。穏やかな話し方をしていた若い警察官の後ろから、50代と思われる側頭部の髪を短く刈り上げた警察官がやって来た。
「だったら強制的に連れて行くだけだ。何かやましいことでもあるのか?良いからさっさと乗れ、若造。」
鋭い目つきはまるで野生の肉食獣のようだ。相当修羅場を潜り抜けているその目に尾軽は筋肉の鎧を縮み上がらせた。
「ふん、聞いてみただけだ。」
灯二は肩をすくめて軽く笑った。睨む老練な警察官、気まずさで目を逸らす若い警官、未だ恐怖で震えているリコ、状況についていけない尾軽。灯二以外は誰も笑っていない。
海のさざなみが良く響いていた。
こうして、暴走車を停止させた直後、やって来た警察官達に誘導され、灯二、尾軽、リコの3人はパトカーに乗せられた。
2台のパトカーの中は、言葉の真空地帯だった。
窓の外を流れる街灯の光が、尾軽と灯二の横顔を交互に照らし出す。リコはもう一台のパトカーに乗せられて神奈川県の警察署に向かっている。リコは、自慢の艶がかかった黒髪で顔を隠し、膝の上で指を硬く絡めていた。
警察署に到着すると、三人の運命は物理的に分断された。
「それぞれ荷物検査と別々の部屋で事情聴取がある。」
若い警察官に誘導され、まるで空港の検査場のように3人は分かれて行った。ただし、その先で3人揃って合流はできないかもしれない。尾軽は手のひらを強く握りしめた。
「任意だ。持ち物をすべて出せ。」
威圧的な声に抗う術もなく、スマホや財布がトレイに置かれる。尾軽は後から知ったことだが、ベルト、ネクタイ、靴紐といった自傷の恐れがあるものはすべて奪われるらしい。真夏の軽装で連行されたことは不幸中の幸いだったのかもしれない。
それから約2時間。窓のない部屋で、警察官による執拗な状況確認が続いた。
「あそこで何をしていた?」
「車の所有者は?あなたの職業は?」
「車はどうして砂浜に転がっていた?」
「残りの二人のと関係は?どうやって知り合った?」
「あの女の子はYouTuberだと?不埒なことをしようとお前ら成人男性が近づいたんじゃないのか?」
「最近何か変わったことは?」
禅問答のような無限にも思える質問攻めにあった深夜。時計の針が24時を回ろうとする頃、ようやく尾軽とリコは解放された。
「はい、今日はこれで終わり。協力ありがとう。また何かあったら連絡するから、スマホは繋がるようにしておいて。……じゃあ、気をつけて帰って。」
そう言って警察署の玄関に送り出された時、星を見ながら座って待っていたリコを見つけた。
「リコさん、お待たせ。」
杖があったらもたれかかりたい気分だ。座っていたのに、全身が重たい。まるで、体育館のカーテンを背負わされていたかのような疲労感だ。
リコは振り向いた。
「尾軽さんこそ、お疲れ。」
無理もないが、たった数時間で憔悴しきっている。恐怖はある程度抜けたようだが、気丈に振る舞う笑顔が少し痛々しく見えた。
「灯二は?」
リコは首を振った。
「まだ出て来てない。」
署のロビーに灯二の姿はない。
「奴…彼はすぐには出て来れない。今日はおとなしく帰るんだ。」
尾軽の事情聴取に立ち会った警察官は、面倒そうにそう吐き捨てた。
「え、な、何でですか!?灯二の事情聴取も、同じような内容ですよね!?」
尾軽とリコは警察官に詰め寄った。
警察官は先ほど、灯二のことを彼ではなく奴と言った。まるで犯罪者を扱うかのようなぞんざいな口ぶり。
警察が来た時灯二が言っていた「流石に今回は覚悟するか。」と言う言葉。尾軽の中で、熱帯低気圧が台風に成長するかのように不安が膨らんでいくのを感じた。
「うるさいな、警察も忙しいんだ。君たちも明日仕事があるだろ?さっさと帰って寝なよ。ここで待ってても彼とは会えない。」
「あ、足がありません!車が壊れたので!だから僕たちはここにいるしかありませんよ!」
尾軽は頭をフル回転させた。このままとりつく島もない状態で放置されるなんて勘弁だ。せめて少しでも灯二の情報が欲しい。
「友達とかに迎え頼んだら?」
「こんな時間に呼べる友達なんていません!」
尾軽は焦りを声に滲ませながら叫んだ。
「そうですよ、彼は友達がいません!1人も!」
リコさんも叫んだ。あのー、主語は『私達は』でよくなかった?今俺を傷つける時間じゃないんだけど。
「それに私は人気YouTuberですよ?気軽に人と接点を増やすことは危ないんです。事件が起きたらすぐ対処してくれますか?」
「チッ。」
警察官は先ほどまでの穏やかな表情を崩して後頭部を掻いた。
「外に出れば大通りがあるから、そこでタクシー拾えるよ。今はアプリで呼べるだろ? 自分のスマホで呼びなよ。じゃあ俺は忠告したからな。彼を待ちたければ好きなだけ待ってたら?」
そう言って警察官は署内に戻って行った。
静かになった警察署の駐車場で、尾軽は呟いた。
「タクシー代、警察は出してくれないんだな……。」
「バカ、今大事なのそこじゃないでしょ!」
リコに尾軽は思いっきり睨まれた。いや、さっき車壊れたし、俺貧乏公務員だし。神奈川から八王子市までタクシーで一時間半くらい?それに深夜料金ってことを考えたら…2万円くらいはかかるよね。結構大事なことなんだけど。
はぁ。
どちらともなくため息をついた。今2人が揉めても何も解決にはならない。
返却されたスマホの画面は、皮肉なほど明るく光っている。一番に連絡を取りたい、そして大丈夫かと声をかけたい相手は、今もこの冷たいコンクリートの壁の向こう側に囚われている。
「……とりあえず、タクシー呼ぶよ。」
尾軽の声に、リコは力なく頷くだけだった。
行きのパトカーと違い、今は何を話しても自由なはずだった。
だが、夜の街を走るタクシーの車内には、重苦しい沈黙が沈殿している。一時間のドライブの間、二人はただ、窓の外を流れる深夜の景色を眺めていた。
やがて、リコの住む高級マンションが見えてきた。
「今日は色々あったね。」
尾軽が沈黙を破った。
「うん。本当に。」
「今後の事はまた後日話そう。」
尾軽は、自身の内に渦巻く不安を押し殺し、教師として教え子を見守る時のような平静を装って答えた。
「うん……」
リコは膝の上で拳を握りしめたまま、うつむいている。
「尾軽さん、ごめんなさい。」
「えっ。何が。」
「私が、余計な提案をしちゃったから。私が海に行こうなんて言わなかったら。」
震える声と共に、彼女の目から涙がこぼれ落ちた。
「私のせいで灯二が、捕まっちゃった。私、どうしたら良いんだろう……。本当は灯二に1番謝らなきゃいけないのに、灯二に会えなかった。」
自信満々に廃墟を探索するカリスマYouTuberの面影はどこにもなかった。そこにいたのは、自分を救ってくれた理解者を失い、恐怖に震える19歳の無力な少女だった。
「それを言うなら、原因は俺の車だ。リコさんのせいじゃない。それに、きっと大丈夫。灯二は何も悪い事してないよ。むしろ俺らの命を守ったんだから。警察だってそのことをすぐに理解するさ。だからさ、今日は休もう。これからのことはまた明日考えよう。」
尾軽はリコの肩を優しく叩いた。
「うん、ありがとう。尾軽さん、また連絡するね。」
涙で濡れたリコの顔に、少しだけ笑顔が戻った。
リコを送り出し、タクシーは再び走り出す。
静かな車内で、ドライバーが興味津々にバックミラー越しにこちらを窺っているのが分かった。興味本位の視線が、今の尾軽にはひどく不快だった。
電子マネーで支払いを済ませた尾軽はタクシーから降り、月夜を見上げた。
「とは言ったものの、なんとかなるのかなぁ。」
灯二がいない世界は、驚くほど不安定で不条理に見える。
流れていく夜の景色を見つめながら、尾軽は胸の奥に溜まった澱を吐き出すように、深く、長いため息をついた。
—-
尾軽とリコが別の部屋へ連行された後、灯二の入った部屋の鉄の扉が重い音を立てて閉まった。その振動が床を伝い、彼の足元に孤独な拒絶を突きつける。
「うっ、なんだこの匂いは。」
部屋に入った瞬間、灯二は思わず顔を背けた。取調室の空気の中で、まず感じるのは安っぽい消毒液のツンとした刺激だ。しかしそれは表層に過ぎない。その奥底には、何十年もの間、代わる代わる椅子に座らされた人間たちが吐き出した、「焦燥」と「脂汗」の煮凝りのような匂いが染み付いている。
換気扇は回っているはずなのに、空気は重く、ねっとりと肌に纏わりつく。パイプ椅子の錆びた鉄の匂いと、刑事が灰皿を片付けるのを忘れたかのような、微かな吸い殻の残り香。そして何より、絶望の淵に立たされた人間が分泌する、あの酸っぱく、鼻の奥にねっとりと残る「据えた体臭」が、コンクリートの壁の隙間にまで吸い込まれているのだ。
「どうだ、取り調べ室の匂いは。美味しいカツ丼の匂いだとでも思ったか?」
灯二の目の前に、50代前半だろうか、一人の男が座った。その男の顔には、平和な日常を送る人間には決して刻まれない深い「溝」があった。眉間には、絶え間ない思考と怒りを凝縮させたような深い縦じわが刻まれている。鋭く射抜くような眼光、短く刈り込まれた硬そうな髪、手入れを拒むかのように生え揃った無精髭。日焼けした肌の質感は、まるで長年雨風にさらされた岩石のように無骨で頑強だ。仕立ての良いはずの紺のスーツは、鍛え上げられた分厚い胸板と広い肩幅によって、今にもはち切れんばかりに張り詰めている。椅子に深く腰掛け、両膝に置かれた大きな拳は、それだけで「逃げ場はない」という無言の圧力を叩きつけていた。
「俺は神奈川県警・捜査一課の細川巡査部長だ。お前の名前を言え。」
深く刻まれた眉間の皺が、現場での泥臭い年月を物語っている。その眼光は鋭く、獲物を逃さない老いた獣のように灯二を射抜いた。
「露伴灯二だ。」
「年齢と職業もまとめて言え。聞かれると思わなかったのか。」
「なら最初からまとめて質問すれば良いだろ。」
「早くお前の年齢と職業を言え!」
部屋の奥では若い警察官が灯二を注視しながら、無機質な音を立ててペンを走らせている。供述調書を書いているのだろう。
「初対面からお前呼ばわりか? 警察は随分とお高く止まった組織なんだな。あんたが警察というブランドで気が大きくなってるだけなら、まだ救いがあるな。」
灯二は鼻で笑い、口角を曲げた。不遜な一言が放たれた瞬間、部屋の奥の警察官の顔が青ざめていくのが見えた。その直後、バン! と机が強く叩かれた。
「お前! 何だ、その口の聞き方は!」
ドォン!と耳を突き破るような音を立てて、細川が拳で机を叩きつけた。机の上の書類が飛び跳ね、灯二の鼻先数センチまで細川の顔が迫る。 至近距離から放たれるのは、酸化した脂の臭いとタバコの煙が混じった生臭い息だ。細川の手は怒りで震え、今にも灯二の襟元を掴みそうだったが、背後のカメラを意識したのか、辛うじて指先を丸め込んだ。
「取り調べのやり取りはカメラで記録されている。助かったなお前。」
現代の警察組織は高圧的な取り調べによる冤罪を防ぐため、取り調べ中に録音や録画をして捜査チームとは別の部署が後日確認することになっている。灯二は岩石のような顔を至近距離に感じながら警察の構造について思いを馳せた。
記録係の若手巡査が、顔を強張らせて細川を制止した。
「細川巡査部長、やめてください! まだ犯人と確定したわけではありません!」
記録係の若手巡査が、顔を強張らせて細川の腕を抑える。
「『まだ』、か。まるで、確定したらどんな乱暴をしても良いみたいな言い草だな」
灯二は深く、深く、そして心底不快そうにため息をついた。若手巡査は気まずそうに目を逸らし、その視線は虚空を泳いだ。細川は鼻息荒く灯二を突き放すと、至近距離から唾を飛ばして捲し立てた。まぶたを閉じ、視界からその男を消し去るような態度は、細川の激情にガソリンを注ぐに等しかった。
「現在二十三歳、今年で二十四歳か。学生時代に築いた資産を、現在は投資で運用して生活している。……ほら、あんたらが喉から手が出るほど欲しがっていた『身分』の情報だ」
灯二は、まるで決算報告書を読み上げるかのような淡々とした口調で言い放った。その声は取調室の湿った空気に弾かれ、硬質な響きを残す。
「投資で生活? つまりは実社会に出たこともない無職か。なるほどな、親のスネでもかじってぬくぬくと生きてきたボンボンというわけだ。まともに泥水を啜って働いたこともないから、そんな不遜な態度でいられるんだな」
細川は、待ってましたと言わんばかりに鼻で笑った。その顔には、自分のように組織の末端で這いつくばってきた者特有の、恵まれた若者に対する剥き出しの嫌悪が浮かんでいる。
親のスネをかじる、社会に出たことがない、だと?
灯二の奥歯が微かに鳴った。視界の端で、細川の無骨な拳が机の上で組まれているのが見える。
こいつは話を聞いていなかったのか?学生の頃から働いていたと言っただろうが。
落ち着け。これは動揺を誘う、教科書通りの安い挑発だ。灯二は深く、ゆっくりと肺に空気を送り込んだ。
この男は、俺の人生の断片すら知らない。どれほどの覚悟で孤独を選び、どれほどの血反吐を吐くような努力で「自由」という名の資産を積み上げてきたか。あの日、すべてを失った絶望から立ち上がるために、どれほど自分の精神を削ってきたか。
「両親は他界している。遺産は一円も相続していない。学生時代は父の知人の家に身を寄せさせてもらいながら、バイトと副業に明け暮れ、資産を増やした。……これで満足か?」
捲し立てるように返した灯二の言葉には、隠しきれない刃のような鋭さが宿っていた。その気迫に、さすがの細川も一瞬だけ面食らったように言葉を詰まらせた。細川は改めて灯二を値踏みするように、その細い首筋から冷めた瞳の奥までをじっくりと観察する。
「露伴……他界。まさかお前、あの事件の」
細川の記憶の引き出しが、ある凄惨な記録と繋がった。その驚愕の色を、灯二は見逃さなかった。
「それは今回の取り調べと何の関係もないはずだ。」
灯二は、細川の言葉をナイフで断ち切るように遮った。
思い出したくなくても、記憶の檻は容易に破られる。今でも鮮明に蘇る、あの日、あの瞬間の光景。視界を埋め尽くした絶望と、逃げ場のない闇。
自分がなぜ、これほどまでに暗闇を恐れるようになったのか。なぜ、安眠できなくなったのか。そのきっかけとなった「悪夢」を忘れたことは一秒たりともない。
今でも思い出す、あの日を、あの悪夢を。暗闇を恐れるようになった、安眠できなくなったきっかけの日を忘れたことはない。マグマのように煮えたぎるこの怒りも、深海の底に沈められたような孤独や絶望感も。
灯二は細川を真っ向から睨み据えた。その瞳の奥には、警察官という権力では決して屈服させることのできない、暗く深い執念が宿っていた。
「ふん、まあいい。過去の話は横に置いておこう。それよりも、さっきの砂浜での出来事について聞くことが山ほどある。……あそこで一体、何があった?」
細川はパイプ椅子を軋ませ、獲物を追い詰める猟犬のような目で灯二を凝視した。
灯二は乾いた喉を一度鳴らし、脳内のメモリから「事実」だけを正確に抽出して言葉に乗せた。
尾軽が購入したあの暴走車が突如として制御を失い、殺意を持った鉄塊へと変貌したこと。そして、人命を守るための最適解として、やむを得ず車を誘導し、砂の抵抗を利用して行動不能に追い込んだこと。
説明を終えると、取調室に奇妙な静寂が訪れた。
沈黙を守っていた細川と、背後でペンを動かしていた若い警官が、不意に視線を交わし、次の瞬間、冷ややかな拍手を始めた。
「いやあ、露伴。お前の話は非常に分かりやすいよ」
細川は顔を歪めて笑い、一度だけ強く手を叩いてから、急速に温度の消えた真顔に戻った。
「あまりにも素晴らしいストーリーだ。そのまま小説家にでもなったらどうだ? ……残念ながら、俺たちは市民の税金でお前の空想を聞かされているほど暇じゃないんだ。」
「嘘などついていない! 俺はただ、起きたことを論理的に説明しているだけだ」
灯二の震える声が、狭い室内で空虚に響く。
「車が急に暴走しただと?アクセルとブレーキを踏み間違えた高齢者でも、もう少しマシな嘘をつくぞ。車ってのはな、人間が操作しなきゃ動かない。それが物理の法則ってやつだ。」
「現代では自動運転の車も普及していることを知らないのか?遠隔操作されていたと言っているだろう。」
「あの大破した車は型落ちのホンダフリードだ。市場に出てから10年以上経っている。2010年代後半から自動運転の車が普及している訳がないだろ!!警察を馬鹿にしているのか!」
細川の剣幕に灯二は怯まなかった。
「あの車は俺の友達が中古車で買ったものだ。そしてその車には違法な改造がされていた、そのパーツは取り除いて俺の家に保管してある。」
「なに?」
その言葉に細川は怪訝な顔を浮かべて若い警察官に目配せをした。
「その言葉が本当なら、後にパーツを回収して調べるとしよう。だが、綺麗さっぱり元通りになったのならなぜ車は暴走した?」
「それは…俺の点検が完璧では無かったからだ。ハッキングのパーツがまだ残っていたんだ。」
灯二は身の潔白を証明しようとするがあまり、墓穴を掘ってしまったことに気づいた。
「なるほど、随分と都合の良い理屈だな。」
細川は薄ら笑いを浮かべた。
「それに、素人が勝手に車を改造して車道に出ることは道路交通法や道路運行車両法に抵触している可能性もあるぞ。」
この細川という男、存外に頭が切れる。
「…それは、破損した車を調べれば基準を満たしていたことが分かるはずだ!」
細川は机に身を乗り出し、灯二の鼻先に指を突きつけた。
「壊れた状態の車を調べて、壊れる前の状態が分かるはずがないだろうが!」
「……なら、聞くが。俺が尾軽の車を奪って、免許もないのに勝手に運転したとでも言うのか? そもそも俺が車を暴走させて自ら警察を呼ぶメリットなど一つもない。それに、後でハンドルに付着している指紋を採取すれば、俺が運転席にいなかったことぐらい証明されるはずだ。」
灯二の瞳に、冷徹な反論の炎が宿る。証拠、物理的痕跡、利害関係。それらを一つずつ積み上げ、細川の「非論理」を包囲していく。
「なるほど、筋は通っている。……指紋か、確かにそうだな」
細川は面白そうに鼻を鳴らし、今度は椅子の背もたれに深く体を預けた。一転して、探るような、ねっとりとした視線が灯二を舐める。
「ところで露伴。お前が持っていたあの『2色のソフトボールのような機械』……あれは一体なんだ?」
質問の矛先が、灯二から回収した自作の魚群探知機に向けられた。
「それは……」
灯二の言葉が詰まる。
「あれは、魚群探知機だ。釣りをするために自作した。海面に浸ける側は音波を出し、上面は電波を出してタブレット端末に海底データを送る構造だ。」
露伴灯二は、硬いパイプ椅子に深く腰掛けたまま、感情を一切削ぎ落とした声でそう告げた。
「魚群探知機だと? ならばなぜ陸上で使っている。……露伴、お前が持っていたあの妙な機械からは、極めて強力な電波が発せられていたという記録があるんだ」
細川巡査部長が、獲物を威嚇するように身を乗り出した。
「これは明確な電波法違反だ。何に使った? 」
「車の遠隔操作を止めるために一時的に電波をジ遮った。」
細川は深く息を吸い、天井を眺めた。
「遠隔操作を止めた?違うな、露伴。お前があの車を遠隔操作して、パニックを起こしたんだろう?」
灯二は不快そうに鼻を鳴らし、無機質なレンズ越しに相手を真っ向から見据えた。
「……車の遠隔操作なんて、高齢者でもつかない嘘だと言ったのはあんただろ。記憶力が無いのか?」
「 お前は俺に聞かれた質問にだけ答えればいいんだ!」
急に大声を出すな。二重人格者かこいつは。
「黙ったら、あんたの質問には答えられないぞ」
「小学生のような屁理屈をこねるなッ!」
「ちっ……冗談が通じないやつめ。いちいち声がデカい。」
灯二は思わず舌打ちを漏らした。苛立ちを隠すこともせず、彼は一気に捲し立てた。
「何度も言っているだろう。あの車は暴走し、明確な殺意を持って俺たち3人に迫ってきた。俺は身を守るために、魚群探知機のリミッターを外して電波を増幅させ、外部からの不正な通信を遮断する『緊急避難』を行ったんだ。同行していた尾軽透や星崎リコからも、同様の証言が取れているはずだろう。」
細川は、獲物の急所を見つけた野獣のように、下卑た笑みを口角に浮かべた。
「たしかに、お前の話に穴はないように見えるな。」
「後で車の通信記録を調べればログが残っているはずだ。何者かに操作された様子と、俺の作った魚群探知機の周波数の影響を受けた痕跡が。」
「それは後で調べておこう。」
「なあ露伴、こういう考え方はできないか? お前があの二人を殺すために、遠隔操作で車を操った。イレギュラーがあってそれは失敗したが、慌てて救い出したヒーローという筋書きに変えた。違うか?」
「阿呆が。そんな非論理的なことをする理由がどこにある。話を聞いていたのか、俺は二人を助け」
「嘘をつくのもいい加減にしろ!さっさと白状したらどうだ!」
灯二の声を細川は大声でかき消した。
淡々と呟いた灯二の表情には不快感とあまりにも的外れな推測に対する呆れが滲み出ていた。
「動機なんてものは後からいくらでも出てくる。少なくとも、お前が法を犯して車を改造し、電波を撒き散らしたことは事実だ。それに……」
細川は灯二の目を覗き込んだ。その眼光は、もはや一市民を見るものではない。
「ここ数ヶ月で二度も事情聴取を受けているな? 6月末には廃病院での暴行事件に関わり、先月は……暴走したAIの学習元となった少年の家に居合わせた。埃を叩けばいくらでも出てくる。……お前は何者だ。何を隠している」
細川の目は、狡猾に社会の裏側を泳ぎ、正義をあざ笑う「羊の皮を被った狼」を檻に追い詰めようとする、猟犬のそれだった。
「何も隠してなどいない。……調べたければ、好きなだけ調べればいい」
灯二は吐き捨てるように言った。その声は、極度の疲労でかすれながらも、相手の知性を真っ向から否定するような傲岸さを失っていなかった。視線は細川を射抜いたまま動かない。その頑なな態度は、警察という巨大な壁に対する、彼なりの「論理」による宣戦布告だった。
「ああ、そうか。ならお言葉に甘えて、たっぷりと調べさせてもらうとするか。」
ガチャリ。
そう言って細川は灯二に手錠をかけた。
細川は、獲物の首筋に牙を立てる機会を待つ老いた猟犬のように、唇の端を吊り上げた。椅子の背もたれに深く体重を預け、ねっとりとした視線で灯二の顔をなぞる。
「露伴、何日目でお前の減らず口が止まるか、今から楽しみだ。……安心しろ、時間は腐るほどあるんだ。こっちは『辛抱強く』待ってやるよ」
「……あれだけ短気っぷりを見せつけておいて、よくもまあ『辛抱』などという言葉が出てくるものだ」
灯二が鼻で笑い、低く呟いた。
その皮肉に満ちた一言は、重く淀んだ取調室の空気を冷たく切り裂き、やがて不気味な静寂の中へと溶け込んでいった。細川の額にピクリと青筋が浮かぶ。暴力的な衝動を抑え込むように、男の大きな拳が膝の上でギリ、と音を立てた。
「虚偽の発言を重ねれば、その分だけ罪が重くなる。……地獄に落ちる前に、精々その利口な頭で、正直に話す準備をしておくんだな」
細川は、最後にもう一度、灯二の存在そのものを呪うかのような強烈な眼光を浴びせた。
「全部正直に話しているだろうが。」
「言葉の真偽を探るのが俺たちの仕事なんだよ。」
それから、背後でペンを動かしていた若い警官に顎で合図を送ると、荒々しい足取りで立ち上がる。
「今日からお前は『21番』だ。点呼も移動も、すべて番号で返事しろ。名前を名乗る必要はない」
午前1時。灯二は「21番」という記号に貶められ、一畳半の畳の部屋へと押し込まれた。
ガチャン、と重い鉄の扉が開く。
「なあ、風呂には入れないのか?汗だくで砂浜を走り回った後なんだ、せめてシャワーには入れさせて欲しい。」
「シャワーは週に2、3回と決まっている。今日はその格好で我慢しろ、21番。」
細川は振り返ることなく、わざと大きな音を立てて扉を閉め、部屋を後にした。
灯二は視線を落とし、自らの姿を確認した。
そこにあったのは、仕立ての良いシャツではない。紐をすべて抜かれ、無機質なグレーに染まった「官衣」と呼ばれるスウェットの上下だった。指先で触れる布地は、幾度も漂白されたようなゴワつきがあり、肌を刺す。
「手荒い歓迎だな。」
あとに残されたのは、冷房の唸るような低い機械音と、染み付いた体臭の混じった、死んだような静寂だけだった。灯二は一人、震える指先を隠すように膝の上で拳を握りしめた。
鉄扉が重低音を響かせて閉まり、内側から開けることのできない絶望が空間を支配する。灯二は、自由を剥奪されたことを象徴するその狭隘な空間で、呆然と立ち尽くした。
一畳半のスペースに敷かれた畳からは、長年の容疑者たちの汗や体臭、湿気が染み付いた独特のカビ臭さが溢れ出ている。春先のスギ花粉のように黄色の臭いが噴き出ているように思えた。部屋の隅にあるトイレに壁はない。腰の高さほどの低い仕切りがあるだけで、頭や肩は外から丸見えだ。しかも、看守が廊下から監視カメラや覗き窓でチェックできるようになっている。洗面台は小さな蛇口があるのみ。鏡は割って武器にされないよう、ステンレスを磨いた曇った板が貼り付けられている。薄い敷布団と毛布は、この孤独や絶望感を忘れさせるにはあまりにも頼りなかった。
「やれやれ。ホテルだったら、迷わず最低評価をつけるところだ」
灯二は、薄茶色に染まった畳の上に力なく座り込んだ。
指先で畳の表面をなぞると、湿り気を帯びたざらつきが伝わってくる。かつては青々としていたであろうイグサは、いまや幾人もの容疑者が吐き出した溜息と脂を吸い込み、死んだような色に変色していた。
「せめて本くらいは用意してほしいものだ。退屈しのぎすらないのか。」
独り言を呟かなければ、沈黙に押し潰されそうだった。
彼は横になり、重い瞼を閉じた。しかし、眠りは一向に訪れない。顔を畳に近づけたことで、あの凶悪な、酸っぱい臭いがさらに鋭く、灯二の鼻腔を容赦なく突き刺してきたからだ。それは、腐敗した時間の集積のような、逃げ場のない悪臭だった。
それに闇が、俺を覗き込んでいる。
真夏だというのに、灯二は薄い布団の中で、剥き出しの神経を震わせた。天井の隅にある常夜灯が、弱々しく不気味な光を落としているはずなのに、彼の脳内では濃密な「黒」が膨張し、視界を塗りつぶしていく。
「くそ、だから暗闇は苦手なんだ……」
悪臭、敵意、不衛生。
あらゆるイレギュラーが重なり、灯二の精神はすでに薄い氷のようにすり減っていた。暗闇。それは、彼の心の奥底に沈殿している、あの忌まわしいトラウマを呼び起こすトリガーそのものだった。
だからこそ、彼は不安を消すために「運命」という不確かなものに抗い続けてきたのだ。独力で資産を築き、誰にも縛られない自由な生活を手に入れた。尾軽と再会し、リコという予想外の要素が加わってからのここ数ヶ月は、彼にとって騒がしくも、信じられないほど充実した日々だった。
その結果が、これか。
しかし、ふと脳裏を過ったのは、砂浜で見た二人の無事な姿だった。
こんなところで眠れるはずがない、そう思っていたはずなのに、皮肉にもその「守り抜いた」という安堵感が、限界を迎えた脳のスイッチを切った。
まあ……あいつらを助けられたんだ。あの選択だけは、決して間違っていなかった……
疲労の泥が意識を飲み込んでいく。まずは回復に専念しよう。その後は、どうする……。
考えろ、露伴灯二。希望の糸を……手放す……な。
灯二の意識は、底なしの深い眠りへと途絶えた。
気づけば、灯二は屋外にいた。
見上げる空には、綿飴のように巨大な入道雲がそびえ立ち、暴力的なまでの蝉時雨が耳を震わせている。真夏の陽光は、お気に入りのカフェのテラス席を真っ白に焼き尽くすほど眩しく、すべてが過剰なほどの生命力に満ちていた。
目の前には、腹を抱えて大声で笑う尾軽と、頬を膨らませて不機嫌そうにパフェを突つくリコの姿があった。
「もう、笑い事じゃないわよ。あの時は本当に大変だったんだから!」
「いやいや、カカシをお化けと間違えて腰を抜かすなんてさ、リコちゃんにもそんな純粋な頃があったんだねぇ」
「『頃も』って何よ! まるで今は可愛げがないみたいな言い方しないでよ!」
「ごめんごめん、ほら、灯二も何か言ってやってよ!」
尾軽が苦笑いしながら、いつものように助けを求めてくる。灯二が口を開こうとしたその時、ふわりとした重みが足元に触れた。
「灯二さん、この小説借りるね」
そこには、まばゆい笑顔を浮かべた未来がいた。灯二が読み終えたばかりのハードカバーを大切そうに胸に抱えている。さらに背後から、温かな衝撃が走った。
「灯二さん、キャッチボールしよ!」
アキラが背中に飛びついてきたのだ。その確かな重みと、首筋に触れる無邪気な熱が心地よい。
人と関わることは、不自由が増えることだと思っていた
だが、今の灯二は知っている。これは、不条理な運命に抗い、自らの手で選び取った「誰よりも自由な人生」の証なのだと。この不自由は、何よりも心地よいものだと。他愛のない、けれど何物にも代えがたい温かな時間が、そこには流れていた。
灯二は微かに微笑み、冷えたアイスコーヒーに手を伸ばす。
だが、異変は前触れもなく訪れた。
ふと見ると、リコが持っていたパフェが、ドロリとした汚泥のような灰色の液体に変色している。尾軽の笑顔が、激しいデジタルノイズのようにバリバリと歪み始めた。
「……灯二、これ以上こっちに来るな。お前は『あっち側』の人間だろ?」
尾軽の声が、地鳴りのような重低音に変わり、周囲の温度を急激に奪っていく。夢の黄金色が、一瞬にして鉛色に溶けていく。
尾軽の声はもはや親友のそれではなく、大地を揺らす不吉な地鳴りへと変貌し、周囲の熱を根こそぎ奪い去った。
「さよなら、灯二。あんたみたいな嫌味センター分けメガネといても楽しくないのよ。」
リコの視線は、熱帯夜を凍らせるほどの絶対零度。彼女が背を向けた瞬間、灯二の視界から「日常」という名の色彩が剥落していく。
「灯二さんバイバイ。この本、ゴミ箱に捨てとくね」
「俺、オカル先生とキャッチボールして遊ぶわ。バイバーイ。」
未来とアキラの手が離れる。その柔らかな体温は、握りしめようとした指の間から乾いた砂となって零れ落ちた。
「おい! 待て、待ってくれ!」
灯二の咆哮は空虚に響く。見上げた空の青は、冷酷なコンクリートの天井に塗りつぶされ、カフェの壁は音を立てて鉄格子へと姿を変えた。黄金色に輝いていた愛すべき人々の残像が、音もなく崩壊し、濃密な暗闇の奥へと呑み込まれていく。
その絶望の淵で、耳元に「毒」が注がれた。
「ククッ、無力だな。露伴灯二」
低く、獣のような残忍さを孕んだ声。
「たくさん勉強して、金を稼いで、体を鍛えて、強くなったとでも思ったか?」
「黙れ……黙れ!」
目の前には、漆黒のスーツを纏った長身の男が立っていた。分厚い胸板、長髪のオールバックはライオンのたてがみのように首元をうねりながら伸びている。ワイングラスを揺らしながら、彼は灯二の全存在を否定するように見下ろしている。
「違うね。お前は強くなったと思い込みたいだけだ。……お前は、誰も救えない。今までも、そしてこれからも。」
男の顔には、右半分を切り裂く稲妻のような古傷。それが歪むたびに、灯二の脳裏に「あの日」の暗闇が蘇る。
「鬼塚ぁ! 鬼塚獅童!俺はお前を、絶対に許さない!」
叫びと共に、鬼塚は上昇した。
いや、違う。灯二の足元が消失した。重力から解放されたのは鬼塚の方ではない。灯二自身が、底知れぬ深淵へと真っ逆さまに落下し始めたのだ。
ガチャン!!
「21番! 起きろ、点呼だ!」
8月8日午前6時30分。
非情な現実の音が、灯二の脳を現世へと無理やり叩き戻した。
深夜1時に「21番」として独居房へ放り込まれてから、わずか5時間半。普段、最低でも8時間の質の高い睡眠を信条とする灯二にとって、この「断眠」に近い目覚めは、脳のニューロンを一つずつ焼き切られるような拷問だった。
「今のは、夢……。いや、悪夢か」
一畳半の畳の上で、灯二は仰向けのまま天井を見つめた。
誰が染み込ませたかもわからない、饐えた畳の匂い。廊下から響く酔客の怒鳴り声と、看守の規則正しい、ゆえに冷酷な足音。ここは「自由」という概念を最も遠ざけた、四角い石の箱だ。
「21番! なにボサッとしている! 早く起きて布団を畳め!」
覗き窓から放たれる号令。灯二は鉛のように重い頭を抱え、這いずるように身を起こした。
「……尾軽は、毎日決まった時間に起きるというこの地獄を、毎日乗り越えているのか。社会人は、立派だな」
「独り言はいいから早く布団を畳め!」
安息の欠片もない。決まった時間に起き、命じられるままに動く。
学校や会社、あるいは社会というシステムがいかに窮屈な檻であったか。自由な投資家生活という「聖域」に浸りすぎていた自分を、灯二は自嘲した。
布団を整え、四角い蛇口だけの洗面台へ向かう。
冷水で強引に意識を覚醒させようとするが、口内の不快感だけはどうにもならない。昨夜からの不衛生な空気と、自分の呼吸が混ざり合った嫌な味が舌にこびりついている。
「……朝食の前に、歯を磨かせてはくれないのか」
「贅沢を言うな。食後に支給してやる」
「糸ようじやフロスはないのか?」
「武器に利用する恐れがある! 渡すわけないだろ!」
若い看守が苛立たしげに声を荒らげる。
「歯周病や虫歯を放置すれば、高血圧や脳梗塞の引き金にもなる。囚人が更生して社会復帰した際、不健康で医療費がかさめば、結局は国や政府の損失だ。ここの管理体制は――」
「うるさい! 口答えするな、21番!」
灯二は小さくため息をつき、冷水で口をゆすいだ。
看守は昨日の刑事――細川と同じような、高圧的な「管理側の人間」だ。刑事課と留置管理課、役割は違えど、漂う空気は同じ。
知識として知っていることと、実際に体験することとでは、情報量も解像度も雲泥の差だな
「なにニヤニヤしている、21番! 朝食の時間だ、さっさと座れ!」
扉の下の隙間から、プラスチックの容器が滑り込んできた。
灯二は、剥き出しの畳の上に静かに腰を下ろした。
差し出されたのは、プラスチック容器に入った冷めた朝食だった。独居房の灯二に食事が運ばれた。ぎゅっと押し固められた、独特の匂いがする麦飯。付け合わせはひじきの煮物と切り干し大根がほんのひと口分。メインの小皿は小さな一切れの焼き鮭。塩気が強く、身は驚くほど硬い。真っ黄色な、甘酸っぱいタクアンが二切れ。インスタントの合わせ味噌汁。具は、申し訳程度のワカメ。
「給食センターが作っているとは本で読んだが、なるほど、これは一回味わったらもう十分な味だ。」
灯二は誰に話しかけるでもなく呟いた。あの大食いな筋肉ゴリラだったら、こんな量ではとても足りないだろう。
『灯二の料理ってなんでこんなに美味いんだ!?』
少年のような笑顔で灯二のチャーハンをかき込む尾軽を思い出し、口角が少し緩んだ。
だが、今目の前には静かで冷たい無機質な壁しかない。
普段、自らの手で完璧に栄養計算し、焼き鮭や低温調理の鶏むね肉を食していた彼にとって、その食事はただの「物質」でしかなかった。
味のしない白米を喉に流し込みながら、灯二はこれからの戦いに備えて無理やり脳にエネルギーを送り込んだ。
細川巡査部長は、署の駐車場に集まった若手刑事たちを前に、煙草の煙とともに号令を吐き出した。
「夜中に叩き起こして悪いな。だがおかげで、裁判所から捜査令状が出た。あいつの家を隅々までガサ入れするぞ」
「はい!」
威勢のいい返事が静かな夜気に響く。そこへ、足音も立てずに一人の男が近づいてきた。
「細川巡査部長、斉藤警部補も合流しました!」
「おお、斉藤君か」
細川は相好を崩し、脂ぎった顔で目を細めた。
「サイバー対策課、斉藤です。よろしくお願いします」
30代前半、仕立ての良いスーツを隙なく着こなした長身の男が、無機質な眼鏡を指先で押し上げた。その知的な佇まいは、暴力的なまでの威圧感を放つ細川とは対極にある。
「今回の相手は電波法違反の男だ。俺は機械のことはさっぱりだから君のことを頼りにしているぞ」
細川が大木のような太い腕を斉藤の肩に回した。その瞬間、斉藤の眉がピクリと跳ねた。鼻を突く濃厚な加齢臭と、粘りつくような距離感。斉藤は一瞬だけ嫌悪を顔に出したが、次の瞬間には鉄面皮に戻っていた。
「はい、僕に任せてください」
「21番、家宅捜索だ。立ち会ってもらうぞ」
看守の無機質な声とともに、灯二の自由は物理的に奪われた。腰縄が食い込み、手錠が冷たく手首を締め付ける。取調室へ引きずり出された彼の前には、勝ち誇った顔で腕を組む細川が立っていた。
「どうした、昨日までの威勢の良さは消えてるようだが。留置所の布団はお気に召さなかったか?」
「そうだな」
灯二は視線を上げ、静かに言い放った。
「俺よりもあんたに相応しい臭いがしたよ。貸してやろうか?」
背後の若い警官が思わずふっと息を吹き出し、慌てて口を押さえる。細川の顔が怒りで赤く染まり、奥歯がギリリと鳴った。
「お前、まだ立場が分かってないようだな。」
そしてアンガーマネジメントとして息をフッーと吐ききって青筋の立てた笑顔を浮かべた。
「丁重にお断りしておこう。さあ、お前の自宅に帰れる最後の機会だ。」
そう言って灯二の腰紐をグイと引っ張った。尋常でない力だ。
「この馬鹿力が。」
灯二はボソっと呟いた。同じ筋肉バカでもあのお人よしの旧友は力を決して私利私欲のためには使わなかったというのに。
覆面車両の後部座席。灯二は細川と若い警察官の間に挟まれ、逃げ場のない地獄にいた。
繊細な香りを愛する灯二にとって、細川の放つ悪臭は化学兵器に等しかった。パーソナルスペースを土足で踏みにじる不潔な塊。エレベーターや満員電車で遭遇したら明らかなハズレ枠。灯二のストレスは、すでに臨界点に達しようとしていた。
「逃げようと思うなよ。GPSもその服に付いてるからな。まあ、逃げてくれた方がお前の罪が重くなって俺としては嬉しい限りだがな」
「細川巡査部長、その発言はさすがに……」
右隣の若い警官が、上司の度を越えた会話に顔を曇らせる。だが、灯二は容赦しなかった。
「逃げないさ。分かったから口を閉じてくれ。頭が割れそうなほどあんたの口臭はひどい。その先は下水道のマンホールと繋がっているのか?」
「なんっ……!」
細川の目が血走り、握りしめた拳が怒振する。しかし、彼は歪んだ笑みを浮かべて返した。
「急にこんなことになって寂しいんだろう。分かった。寂しがりやのお前に免じて、家に着くまでの1時間、たっぷりとお話ししような」
こいつわざと俺の嫌がることをしやがる…!
灯二の悔しそうな顔を見て細川は満足そうに笑った。
車は1時間ほどかけて八王子の高台へと這い上がった。灯二は窓の外を見つめながら、込み上げる吐き気と戦っていた。
「あ、暑いので窓開けますね!」
若い警官が救いだった。全開になった窓から入り込む新鮮な風が、かろうじて車内の「汚染」を薄めてくれる。
到着した瞬間、灯二はフラフラと車から這い出した。眩い日差しが白い肌を刺すが、あの男の隣にいるよりは、太陽に焼かれる方が数倍マシだった。
灯二は、目の前に広がる自邸の外壁にそっと手をついた。
太陽の日差しが白い肌に刺してくるが、細川の隣にいるより幾分マシだ。
「おいおい21番、いや露伴。なに疲れてるんだ。本番はこれからだぞ。」
細川は外壁にもたれかかった灯二を見下ろし、そして灯二の家を見上げた。
遮るもののない青空の下に、その家は静かに佇んでいた。
眩しい太陽の光を浴びて輝いているのは、優美な曲線を描くオレンジ色のテラコッタ瓦と、温かみのあるアイボリーの塗り壁だ。コンクリートの無機質さを一切排除したその外観は、周囲の閑静な住宅街の中でも、ひときわ異彩を放つ洗練された雰囲気を醸し出している。
視界に飛び込んでくるのは、平屋とは思えないほど高い天井を誇る、中央の大きな三角窓だ。その透明な硝子の向こう側には、家の主を待つかのように瑞々しい緑を湛えたシンボルツリーが、室内の柔らかな光に包まれて立っているのが見える。
建物の左側には、重厚な木製のビルトインガレージが、まるで家の一部として呼吸しているかのように組み込まれていた。機能性を持ちながらも、周囲の石畳や草花と見事に調和したその佇まいは、ここが単なる「住居」ではなく、主の美学が詰まった「聖域」であることを物語っている。
玄関へと続く緩やかな石の階段の両脇には、深い青や紫のグラデーションを湛えた紫陽花が、朝露の名残を纏って咲き誇っていた。整えられすぎない、しかし計算し尽くされた密度の緑が壁を伝い、窓辺を彩る。
「……ふん、趣味がいいのか悪いのか。随分と浮世離れした箱庭じゃねぇか」
細川は、その調和を土足で踏みにじるような濁った声で吐き捨てた。自然の息吹を感じさせる清涼な空気の中に、彼の纏う不潔な体臭と悪意が、泥を投げ込んだかのように混じり合う。
灯二は、白亜の壁にもたれかかり、自身の「城」を見上げた。警察車両の狭く汚れた空間から解放されたはずなのに、目の前の光景がひどく遠く、脆いものに見えた。
「へぇ、いい家住んでるじゃねぇか。二十代前半で?一人暮らしでこんなに広い家いるのか?」
「友人が遊びに来るからな。」
「いいご身分じゃねぇか。俺は妻と娘と別居して、埃の舞う狭いアパートに住んでるのによぉ……」
細川巡査部長は、目の前の優美な平屋を、まるで自らの人生を嘲笑う巨大な鏡であるかのように睨みつけた。その声には、法執行官としての使命感よりも、剥き出しの嫉妬が混じっている。対する灯二は、顔色ひとつ変えずに切り返した。
「あんたの生活能力低さと金銭感覚の乏しさは、俺の所得とは何の関係もないだろう」
作り笑顔を浮かべていた細川の頬が、引き攣るようにピクついた。怒りに血走った目が、灯二を射抜く。
「関係あるね。そんな俺に、お前のこの立派な『城』が徹底的に踏み荒らされるんだからな」
その言葉を合図に、周囲で呆然としていた警察官たちに緊張が走った。
「お前ら、何ぼさっとしている! 時間がないんだ、さっさと始めろ!」
怒声が響くと同時に、覆面車両から次々と空の段ボール箱が運び出されていく。静かな住宅街に、無機質な作業音が鳴り響いた。
細川は灯二の横に並び、ねっとりとした視線を送る。
「露伴、何年前からこの家に住んでいる?」
「大学を卒業してからだ。まだ、一年と四ヶ月」
「それまでは?」
斉藤警部補が灯二から預かった電子キーを、玄関脇のスマートパネルにかざした。電子的な起動音とともに、赤いランプが鮮やかな緑へと変わる。巨大な受話器のような重厚なドアノブが、カチリと音を立てて解錠された。
「……中学二年生の時から、先生の家にお世話になっていた」
「ふうん、先生ね。長いこと寄生してたんだな。兄弟はいるのか?」
灯二は細川をギロリと睨みつけた。視線には明確な拒絶と軽蔑が宿っている。
「俺の過去はすべて調べているんだろう。わざわざ口にさせる必要があるのか?」
「まあまあそう怒るな。ただの雑談だよ、雑談」
細川はその反応を、傷口に塩を塗り込むような歪んだ愉悦とともに眺めていた。
「細川巡査部長、鍵が開きました」
斉藤の報告に、細川は大きく頷く。
「ご苦労! よし、露伴の家の事件に関係してそうなものは徹底的に運び出せ! 特に電子機器類は、埃ひとつ残さずマークしろ!」
その号令とともに、青いビニール製の靴カバーを履いた十人の捜査員たちが、雪崩を打つように「聖域」へと足を踏み入れた。灯二は、白亜の壁を背に拳を固く握りしめた。
「クソッ……俺の家だぞ。なんで黙って見ていることしかできないんだ……」
家の中は、一瞬にして喧騒の渦へと変わった。
キッチン、書斎、リビング。洗練された家具が並ぶ空間を、捜査員たちが忙しなく動き回る。もちろん破壊しに来たわけではなくあくまで目的は捜索だ。だが、犯罪者の可能性がある証拠を抑えるため、家をひっくり返すかのように調べ上げられるのも確かだ。
通常の家宅捜索は三時間から五時間が相場だが、この規模の邸宅、そして膨大な情報の詰まった「露伴灯二」の住処となれば、六時間は下るまい。
斉藤警部補は、冷静な足取りでガレージの奥にある倉庫へと向かった。
露伴灯二……一体、何者なんだ。
目の前の空間は、斉藤の予想を大きく裏切っていた。
若くして手に入れた富、それゆえに疑われる特殊詐欺や麻薬栽培、あるいは横領。そんな連中の部屋は、往々にして内面を映し出すように荒廃しているものだ。
しかし、ここは違う。壁際まで整然と並ぶ無数の書籍、プロフェッショナルな調理器具、そして洗練された電子機器。それはまるで、メガテック企業の最先端ラボか、あるいはこだわり抜かれた隠れ家カフェのような調和を保っていた。
露伴の過去である凄惨な事件は事前に調べている。困難に負けず一生懸命生きている青年にも見えるし、そういうふうに擬態した悪人かもしれない。先入観は禁物だ。
サイバー対策課のエースとして数々の功績を成し遂げてきた斉藤は、視界に入った七三分けの髪型を整えた。
機械工作も好きなようだ、自身が組み上げたであろうパソコン機器やガジェットが倉庫で眠っている。
見ればわかる、露伴は物を大事に扱っている。電波法を違反した機器を自作したのもおそらく事実だろう。
「おいおい、車も持ってねぇのにガレージ付きか。贅沢なもんだな。ここだけで俺の家より広ぇぞ、ハハッ!」
ガレージに、細川の野卑な笑い声が響き渡った。腰縄を引きずり、人質のように灯二を連れ歩いている。
「……僻みは、あんたの業務内容に含まれているのか?」
灯二の毒づきを無視し、細川は棚に並ぶガジェットを指差した。
「露伴、こんなに大量の電子機器、何に使ってやがる?」
「工作が趣味なだけだ。学生の頃、IT関係の仕事もしていた。だから少し詳しいだけだ」
露伴は毒づきながらも細川さんの質問に答えている。黙秘も可能だが自身の有利になる情報は遠慮なく開示しているようだ。その様子も、やましいことは無いと言っているように見える。
「斉藤君、露伴はこう言っているが、怪しいものは全部押収しておいてくれ」
「……はい、承知しています」
一瞬、斉藤と灯二の視線が交差した。
捜査員たちの荒々しい動き、細川の嘲笑、そして奪われていく日常。
それでも、灯二の目は死んでいなかった。冷たい檻の中でも、彼の内側に宿る「灯」は、まだ消えずに激しく燃え続けていた。
午後十八時。
八王子の空は、燃え尽きる直前の夕刻の残光に赤く染まっていた。かつては静謐と調和に満ちていた邸宅の庭には、不釣り合いな無機質の警察車両が居座り、捜査員たちが最後の手荷物を積み込んでいる。
「まったく、案の定時間がかかったな」
細川は、脂ぎった首を左右に傾けてコキコキと嫌な音を鳴らした。そのシャツは汗でぐっしょりと張り付き、体臭と安物の芳香剤が混じり合った不快な臭気を辺りに撒き散らしている。
邸宅の内側は、まるで暴風雨が過ぎ去った後のようだった。
スマートフォン、PC、タブレットといったデジタルデバイスはもちろん、USBメモリから外付けHDDに至るまで、灯二の思考と記録の断片はすべて透明な証拠袋に詰め込まれた。それだけではない。日々の言葉を綴った日記、手帳、さらには通帳や領収書、机に置かれたばかりの郵便物までが、容赦なく段ボール箱へと放り込まれた。
ミニマリストのごとく整然としていた家は、今や「空虚」だけが充満している。それは主が消えた後の夜逃げの跡地というよりは、理不尽な略奪に遭った遺跡のようだった。
「警察の手によって、俺の家が泥棒に荒らされたような惨状に変わるとは。実に皮肉なものだな」
灯二は、力なく壁にもたれ、吐き捨てるように言った。その瞳には、自分の「聖域」が蹂躙されたことへの、静かな、しかし深い絶望が宿っている。
「お前が『冷蔵庫の中身が腐るから今すぐ電源を入れさせろ』だの『保冷剤を詰めさせろ』だのと我儘を言ったせいで作業が滞ったんだ。」
「なら俺は、あんたたちの作業が終わるまで、丹精込めて作った料理が腐りゆくのを黙って見ていろというのか。お前らは呑気に交代で弁当を食べていたようだが、俺には一口の水すら、証拠隠滅の恐れがある、毒薬による自殺の恐れがあると言って制限しただろう。このままだと食品ロスという罪のない犠牲が出るんだ。あんたたちが弁償してくれるのか?代わりに支給されたあんな添加物まみれの官職弁当を誰が喜んで食べると思」
「あーもう分かった! 分かったから黙れ!」
理路整然とした灯二の反論を、細川は虫を追い払うような手の仕草とともに怒声でかき消した。
「だから代わりに処分してやっただろう、お前の家の料理は。」
「全部捨てたな。食べ物のありがたみを知らんやつめ。俺が食べてはいけないならせめて警察がきちんと食え。」
「被疑者の家のものを食えるわけないだろう!腹でも壊したらどうする!」
細川の後ろで斉藤や若い警官達は罰が悪そうに目を伏せた。とても美味しそうだったラップに包まれた料理の数々、泣く泣く彼らはゴミ袋に入れたのだ。
「真夏なんだから虫が湧くぞ。きちんと生ゴミの日に捨ててくれよ。」
「お前なぁ、その余裕はどこから来るんだ。」
理路整然とした灯二の反論に、細川はうんざりした様子でため息をついた。真夏の肉体労働と、灯二の理屈っぽさに、細川の精神はすでに限界に達していた。
「今日はもう撤収だ。だが露伴、明日はもっと楽しくなるぞ。検察庁へ連れて行ってやる。喜べ、そこでお前の『罪』が正式に認められることになるんだからな」
殺人未遂なんて冤罪だ。
喉元まで出かかった言葉を、灯二は飲み込んだ。この男に真実を説くことは、枯れた植木に泥水を注ぐよりも無意味だ。
斉藤警部補は、そんな二人を冷めた目で見つめながら、一言も発さずに別車両へと乗り込んだ。彼の眼鏡の奥にある瞳だけが、夕闇に沈みゆく邸宅をじっと観察していた。
午後7時半。八王子の邸宅から引きずり出され、再び鉄格子の内側へと戻った灯二を待っていたのは、冷え切った沈黙と、一本のプラスチック容器だった。
廊下を歩く看守の靴音が、いつもより低く、威圧的に響く。食器出し口から無造作に差し入れられた弁当箱を、灯二は横目で射抜くように見つめた。
「21番、さっさと飯を食え。本来夕食は5時から6時までと決まっている。」
「夕食が遅れたのはあんた達がガサ入れで俺を連れて行ったからだろうが。」
灯二は質素なプラスチック製の弁当を受け取りながらジッと横目で睨んだ。
「口答えするな!」
看守の怒声が狭い房内に反響する。灯二は小さく溜息をつき、蓋を開けた。冷えて固まった米粒を喉に流し込みながら、ぼそりと呟く。
「警察はすぐ大声を出せというマニュアルを叩き込まれて育つのか?」
いちいち意見を言うこともバカらしくなってきた。
「なあ、シャワーに入らせてくれないか。流石に不衛生だ。」
空の弁当箱を看守に渡しながら灯二は言った。
「だめだ、シャワーは週に2回、監視付きで日中のみと決まっている。特別にタオルを貸してやるから濡らして体を拭け。」
手渡されたのは、お世辞にも清潔とは言えないが、水を含んだフェイスタオルだった。
灯二は房の隅でシャツを脱ぎ、ベタついた肌にタオルを走らせた。真夏の熱気を、水の一拭きが剥ぎ取っていく。髪の重さは解消されないが、それでも首筋を抜ける冷たさが、崩れかけていた灯二の精神を辛うじて繋ぎ止めた。
「髪のベタつきが気になるが今はやむを得ないな。」
「21番、面会だ、出ろ。」
タオルを返した直後、再び看守が鍵を開けた。
「なに?」
「良かったな、弁護士が来てくれたぞ。」
退屈そうに看守は言い、灯二を誘導した。重い鉄の扉が開き、誘導された先は、静寂が支配する面会室だった。
アクリル板の向こう側。
カビ臭く、埃っぽい留置場の空気を一変させるような、凛とした気配がそこにはあった。
「来てくれたんですね。」
誰に言うでもなく、灯二は呟いた。
重い鉄の扉が開き、灯二は面会室へと足を進めた。
アクリル板の向こう、数日間の不眠と不衛生な環境で少しやつれた灯二の視線の先には、彼と同年代か、あるいは少し上の切れ長な目が特徴的な美人が、隙のない仕立ての良いスーツを纏って立っていた。
肩まで伸ばしたサラサラの黒髪が、カビ臭く湿った留置所という空間において、明らかに異端の存在感を放っている。
「ごめんね、遅くなって。少し痩せたんじゃない? 露伴君、またあなたはいつも無理をして。」
彼女は呆れたように、しかしどこか安堵したように息をついた。
「お久しぶりです、氷室さん。」
氷室律子は灯二に一度だけ優しく微笑んだ後、立ち会いの警官に対し、凛とした動作で背筋を伸ばして向き直った。
「露伴灯二から依頼のあった、弁護士の氷室律子です。」
律子は銀縁のメガネを指先でクイと上げた後、檻の中に閉じ込められた灯二を一瞥し、不敵に口角を上げた。
「露伴君、今度は私が助ける番よ。」
そう言ってアクリル板を隔てて律子は椅子に静かに腰を下ろした。警察官はメモしたり録音したりすることは法律で禁じられている。氷室の着席を確認した後一礼して部屋から出て行った。
その様子を見届けた後、氷室は振り返って灯二の目を見た。
「本当は午前中に来たかったんだけど、他の案件が立て込んでてね。」
「来てくれたらだけでもありがたいです。」
「にしてもまさか、あなたが留置所送りなんて、いったい何をしたのよ。」
「それは…」
「いいわ言わなくても、資料を読んだから。電波法違反と殺人未遂だなんて、あなたらしくないわね。」
「俺はやってません。電波法の違反しか。」
「そこは正直にいうのね。分かってるわよ、何か事情があったんでしょ?」
「友達を助けようとしました。」
その言葉を聞いた瞬間、律子は意外そうに目を丸くし、それから含み笑いを浮かべた。
「ふーん。友達、ね。」
「何ですか、おかしなことを言ったみたいな顔をして。」
「いや、だって露伴君の口から友達を助けただなんて言葉が出てくるなんてね。学生時代のあなた、あんなに人と壁を作っていたのに。」
「それは、昔の話ですよ。」
灯二は目を逸らし時計のかけられた壁を見つめた。
「人は変わるものね。立派よ。」
「氷室さんこそ、弁護士になれたんですね。」
「おかげさまでね。誰かさんが助けてくれたおかげよ。」
そう言って氷室は微笑んだ。
「お互い積もる話もあるけど、あなたに残された時間が無いわ。本題に入りましょう。」
「ご心配おかけしてすみません。来てくれて本当、助かりました。」
灯二はバツが悪そうに目を伏せた。
「そりゃ来るわよ、あなたから『捕まったから留置所に来て』なんて言われたら。タチの悪い冗談だと良かったんだけどね。」
逮捕された容疑者は、外部と自由に連絡を取ることは制限されるが、弁護士を呼ぶ権利は法律で保障されている。逮捕直後の取り調べの段階で自ら「契約している弁護士を呼ばせてくれ」と警察側に要求しておいて良かった。
「俺は法律の本をある程度読んでいるつもりですが、実践は初めてです。」
「分かってるわよ。バッジも持ってないのに実践経験があったら困るわ」
氷室はクスッと笑った。
「しかも下手したら逮捕されるかもしれない立場。いつものように冷静ではいられないかもしれないって思っておいてね。」
「確かに、いつも通りと思っているけど、無意識のうちに想像以上に消耗しているのかもしれません。」
そうね、と氷室は相槌を打った。
「氷室さん、俺は具体的に何をしたら良いですか?」
「自分を強く持つこと。事実と異なることに誘導されたら否定すること、それか黙秘よ。おそらく、近いうちに検察庁に連れて行かれて、検察官から取り調べを受けるわ。」
「そこで起訴されたら」
「勾留から拘留に変わって、刑罰を受けることになるわ。無事犯罪者の仲間入りよ。」
「…それは非常に面白い展開ですね。」
灯二は不愉快そうに唇を曲げた。
「ええ、最悪ね。起訴から無罪になる可能性は極めて低い。99%有罪が確定するわ。だから、起訴されるまでに無実の証拠を集めるのが基本的な戦い方よ。」
「検察は組織の面子を保つため、間違った判決だと分かっても揉み消すんですよね。」
「法に携る人間としては否定したいけど、正解よ。」
「検察官が主人公のドラマでは彼らはまるでヒーロー扱いされてるけど、現実は違うんですね。」
「弁護士の方が給料が良くて人を助けられる。検察官は人に恨まれる。検察官のドラマはそんな先入観を払拭するための宣伝活動よ。」
「馬鹿げている。」
「政治家もマスコミも自分に矛先が向かないように検察とベッタリ仲良しであることが多い。有名な実業家達を捕まえるのも検察の株を上げるためのパフォーマンスの要素が多いわ。」
「けど、捕まるってことはその人達も悪いことをしたんでしょう?」
「じゃあ露伴君は同じ理屈で今の状況を納得できる?」
氷室は灯二を一瞥し、灯二は首を振った。
「できません。」
「でしょ?法律のグレーな部分を黒く解釈して外国人社長を捕まえ、同じことをした前任の日本人社長はお咎めなし。」
「腐ってますね。」
「一つの罪状につき最大23日勾留が可能。複数罪状の疑いがあればその分何ヶ月も勾留される。露伴君も今の生活を長期間強いられたら、心は弱って行くでしょう?」
「そんなの独裁国家と同じじゃないですか。」
「そうね。悪いと思った人を逮捕するための材料を後から探す。まるで中世の魔女狩りだと先進国で批判を浴びてるけど、日本の検察事情は残念ながら変わる気がない。でもまあ全部の検察官がそんな人とは限らないけどね。」
「これから、そんな人達と俺は戦うんですね。」
そして氷室は首を振った。
「あなたがじゃなくて、私たちで戦うのよ。」
灯二は息をのんだ。
「すみません、助かります。」
「そんな言い方やめてよ、これが私の仕事よ。」
「それで、具体的に俺は何をすれば良いですか?」
「私は露伴君の無実の証拠を集める。君はその間耐え続ける。少しの間だけ窮屈な生活を強いられるけど、我慢できる?」
「子ども扱いしないでくださいよ。」
灯二は笑った。
「あと、勾留阻止の申請をするからパスポートを預からせて欲しいわ。」
「この生活から脱出できるんですか!?」
「残念だけど、あなたの場合勾留阻止は極めて難しいわ。一応やってみるぐらいに考えておいて。」
「そうですか。」
灯二はしゅんと肩を落とした。
「被疑者が逃げない証拠として、パスポートを第三者に預け、家族がいて、安定した社会的地位がある人なら留置所から出れる可能性が高いんだけど…。」
その歯切れの悪い言葉で灯二は察した。
「そうか、俺は家族が居ないし、仕事もしていないから、パスポートを提出しても難しいということですね。」
灯二はため息をついてパイプ椅子に腰掛けた。
「ちなみに、無実を証明するために何が必要ですか?お金に糸目はつけないので、好きなだけ調べて欲しいです。」
「そうね、その時の様子を誰かが撮影しているとか、何者かが車を操った記録とか、中古車販売業車の違法性とかかな。」
「一筋縄では行かなそうですね。」
「そうね。だから当日の様子で思い出したこととかあればその都度教えてね。できれば、露伴君の家の中も調べたいんだけど…。」
「合鍵を渡す様に警察に伝えておきます。今日ガサ入れで電子機器類は全部持っていかれましたけどね。」
灯二は困った様に笑った。
「ありがとう。できる限り毎日来るわ。多分弁護士以外は面会を断られると思うから、しばらくお友達とは会えないと思うけど、心を強く持ってね。」
「…分かりました。」
「けど、私は当事者のお友達2人に会えるわ。何か伝言があれば伝えておくし、事故の時の様子も聞いてみて突破口を探すから安心して。」
「あいつらには、心配をかけてすまないと伝えておいて欲しいです。」
「分かったわ。あとこれ、服や本の差し入れよ。露伴君のことだから清潔な服と娯楽がないとストレスで死んじゃうんじゃないかと思って。」
氷室は手提げの紙袋の中にある衣類や大小様々な数冊の本を見せた。
「!!助かります。不衛生な服にはうんざりしていたところです。」
灯二はアクリル板に手のひらを押し付けくらいつき、氷室はクスッと笑った。
「面会が終わったら、留置管理課の窓口に預けておくわ。検査があるから、露伴君の手に渡るのは少し後になるけど、ちゃんと受け取ってね。」
それから、完全黙秘や絶対に署名してはいけない書類について数十分灯二に伝え、氷室は警察署を後にした。虫やカエルの合唱が響く中、氷室は警察署の上に広がる星々を眺めた。
白く細長い手には灯二の家のルームキーが握られている。
「さあ、ここからが踏ん張り時ね。露伴君を助けられるなら、神や悪魔とでも戦ってやるわ。」
灯二は留置所の冷たい床に横たわった。
消灯後の室内には、重苦しい静寂が満ちている。
真っ暗な天井を見つめていると、視界の端から闇が這い出し、こちらを嘲笑っているような錯覚に陥る。
天井が……低いな。
心臓の鼓動に合わせて、コンクリートの天井がゆっくりと、確実に自分を押し潰しにくるような圧迫感。膨らみ続ける不安という名の風船が、肋骨の内側を圧迫し、呼吸が浅くなる。灯二は震える手で、支給されたシーツを頭から被った。
その布からは、独特の埃っぽさと、誰のものとも知れない不快な臭いが漂ってくる。しかし、この「臭いシーツ」こそが、荒唐無稽な闇の妄想から彼を現実に引き戻してくれる唯一の錨だった。
「……まるで、精神的な苦痛から逃れるために、リストカットする若者のようだな」
灯二は、自分を包む不潔なシーツの感触に安堵している自分を、自嘲気味に笑った。
笑うことで、心に浸食してくる暗闇への恐怖を必死に否定しようとする。
一人の暮らしには慣れていたはずだった。しかし、この八畳足らずの檻の中の夜は、あまりにも粘り気がある。蒸し暑い空気は、巨大な綿菓子の中に放り込まれたかのように、ねっとりと彼の肌に絡みついて離れない。
さらに加えて、日中の過酷なガサ入れと細川との神経戦は、彼の体力を根こそぎ奪っていた。
だが、胸の中の不安は膨らむのをやめ、萎みはじめた。氷室が来てくれたこと、清潔な服をもらえたことが、精神的、物理的な支えになっているからだ。
真っ暗な部屋に、一筋の光が差した気がした。か細い糸でも、希望はまだ潰えていない。そう思っていたら、灯二の意識は深く沈み込んでいき、途絶えた。
—-
8月9日
検察庁の空調は過剰なまでに冷え込み、灯二の震えを助長させていた。目の前に座る検察官、佐々木良治は、剃り上げられたスキンヘッドに一切の感情を乗せない能面のような顔を張り付かせ、無機質な声を響かせた。
「質問は以上だから、もう帰っていいよ。」
質問内容は警察からの事情聴取とさほど変わらない。警察が作った捜査資料を元に対象を起訴できるか決める。そして勝てそうなら裁判所に訴える。それが検察官の仕事だ。30代半ばほどで感情の起伏を感じさせない、一方で子どもじみた話し方をする佐々木の口調は、人の人生がかかっているとはおおよそ思えなかった。
「け、結果はどうなるんですか?」
「それは裁判所からの通知を見てね。」
こいつ、ふざけているのか。
灯二に対し、佐々木は眉一つ動かさなかった。その唇の動きは、人間を精巧に模したロボットの歯車が噛み合うように淡々としている。
「何度でも言うが、俺は無実だぞ。」
「はーい、分かった、そうなんだ。じゃあちゃんと証拠揃えてねー。」
佐々木の声には抑揚がなく、メトロノームを聴いているかのように一定のリズムで言葉を話す。まるで遊園地のマスコットキャラクターのような可愛らしい文章だが、無表情の中年が操るとこんなに不気味に聞こえる。違和感で脳がおかしくなりそうだ。
帰り際、灯二はむさ苦しい男たちが詰め込まれた護送車の中で、真夏の熱気と誰かの体臭が混じり合う不快な空気に耐えていた。揺れる車体の中で、彼は必死に思考を研ぎ澄ました。
まあ、ある程度想定はしていた。あの手ごたえだと、十中八九勾留延長だろう。むしろ、警察の証拠を信じられて今すぐ起訴されることが最悪の場合だった。10日間の勾留が決定したことは、絶望であると同時に、逆転のための「時間」を買い取ったことを意味していた。自分は起訴されていない。まだ、戦える。
この後、さらなる調査が必要だと判断された場合は10日後また検察庁に出向き、そこでさらに10日間の延長を渡される可能性がある。だがあいにく、この真夏にこんな臭い場所で何日も過ごすつもりはない。無罪を証明して正面出口から堂々と出てやる。もし無事に家に帰れたら、尾軽や、アキラ達とどこかへ遊びに行こう。
そう思った後、灯二はふっと笑みをこぼした。
俺も随分変わったな。この数ヶ月前なら少し隙間時間があれば1冊でも多くの本を読むことばかり考えていたのに。
他人に依存し自分の人生を委ねる、そんな生活から脱却するために必死に働いてきて、そして1人で自由に生きられるようになった。その結果、また再び人の輪に戻ろうとしている。だが、案外それも悪くない。今、孤独の生活を強いられて、つい先日までの出来事がいかに満たされていたのかを実感した。
氷室さんが外で動いてくれているはずだ。考えろ、留置所の中の俺も何かできることがあるはずだ。思い出せ。当時の状況、ハッキングの痕跡、自分の潔白を物理的に証明できる唯一の鍵を。
午後の取調室。灯二は椅子に座って灰色の天井を眺めていた。先ほど、看守に裁判所から勾留延長の書類が届いたと通知が来た。今後の戦略を氷室さんと練らなければ。あの人は自分のせいで勾留阻止できなかったと自分を責めているんじゃないのか。そんなことを考えていたら、ギィと金属の扉が開く音が聞こえた。
そこには昨日、自分の聖域を蹂躙したあの暴力的な細川はいなかった。代わりに座っていたのは、ぴっちりと整えられた七三分けの髪が特徴的な、どこか神経質そうな男だった。
「露伴君、こんにちは。サイバー対策課の斉藤です」
斉藤は、自身の指先で前髪の端をわずかに整えながら、灯二を真っ直ぐに見つめた。
「あなたは……昨日のガサ入れにいた」
「そうです。サイバー犯罪や電子機器の専門家と思っていてください」
斉藤の声は細川のように荒げることはなく、むしろ静かな湖面のように落ち着いていた。彼は手元の資料を一度閉じると、机に両手を置いて身を乗り出した。
「露伴君、僕は君の証言に一理あると思っています」
その一言に、灯二の目は大きく見開かれた。信じがたい言葉だった。自分を捕らえた組織の人間が、この檻の中で初めて、自分の言葉を「一理ある」と肯定したのだ。灯二の脳裏で、止まっていた思考の回路が再び激しく火花を散らし始めた。
—-
灼熱の太陽が容赦なく照りつけ、プールサイドには塩素の匂いと子供たちの甲高い歓声が充満していた。監視員用の高い椅子に腰を下ろしていた尾軽は、乱反射する水面を凝視していたが、その意識は完全に別の場所を彷徨っていた。
「オカルせんせー、オカルせんせー?」
下から突き抜けるような子供の声がして、尾軽は「はっ!」と肩を揺らした。椅子の足元を覗き込むと、自分のクラスの生徒であるアキラと未来が、日焼けした顔を心配そうに見上げている。
「なんか今週の先生、ずっとボーっとしてるよ」
アキラが指摘すると、未来も小さく頷いた。尾軽は慌てて額の汗を拭い、強引な笑みを作って取り繕った。
「ご、ごめんごめん。暑かったのと、ただ見てるだけだと少し退屈しちゃってな」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、他の生徒たちがしぶきを上げながら駆け寄ってきた。
「先生、買ったばかりの車、壊れちゃったんでしょー?」
無邪気な野次馬根性に、尾軽は胸の奥がチクリと痛むのを感じた。
「ぐっ、その話はもうやめなさい! あと、危ないからプールサイドは走っちゃダメだぞ!」
叱りつけると、子供たちはケタケタと笑い声を残して逃げていった。
「あっこら!」
尾軽は笛を鳴らして子ども達を大股で追いかけた。ここで走っちゃいけないのが教師の厄介なところだ。
数分後。
「まったくもう……」と力なく呟き、再び手元に視線を落とした。アキラと未来に、彼は声を潜めて語りかけた。
「アキラ、未来、心配してくれてありがとうな。先生、ちょっと集中できてなかったみたいだ」
この二人は、あの夜の出来事をニュースで知っている。灯二が警察に連行されてから、今日で三日が経過した。連日の猛暑に呼応するかのように、メディアはこの「海辺の暴走事故」を刺激的な見出しで煽り立てている。テレビのテロップには『電波を用いた遠隔操作』『前代未聞の殺人未遂』という不気味な文言が躍り、ネット上では専門家を自称する者たちが灯二の技術を「悪魔の才能」などと揶揄して、そこそこの炎上状態を維持していた。
アキラとは釣りに行く約束をしていたが、買ったばかりの車が大破した以上、それは叶わぬ願いとなった。尾軽は「車が壊れちゃったから、また今度な」とだけ伝え、二人が慕っている灯二については「今、仕事がちょっと忙しくて会えないんだ」と、苦しい嘘を重ねていた。
しかし、SNSを開けば残酷な現実が指先一つで転がり込んでくる。警察車両に押し込まれる際の一瞬、髪を乱し、伏せ目がちになった灯二の横顔が切り抜かれ、無数に拡散されていた。無邪気なアキラはその画像を見ていないかもしれないが、聡い未来は、時折見せる大人びた沈黙から察するに、すでに最悪の事態を予感しているのだろう。
なぜ、命を懸けて自分たちを守ってくれた灯二が、これほどまでに貶められ、犯罪者扱いされなければならないのか。尾軽は込み上げる悔しさに唇を噛み、目の前の校務に没頭しようとしても、文字が滑って頭に入ってこなかった。
警察に問い合わせても、「共謀の恐れがある」という冷たい一言で接見を拒絶された。厚い壁に阻まれ、声一つ届けることもできない。もうすぐお盆休みがやってくるが、地元の親戚に顔を見せ、のんびりと帰省する気なんて一ミリも起きなかった。
力になりたい。だが、具体的に何をすればいいのかが全く分からない。教壇に立って子供たちに正義を説きながら、いざ大切な友人が不当な暴力に晒されている時、自分は司法の仕組みも、彼を救い出す術も何一つ知らない。尾軽は、エアコンの効いた職員室で震える自分の指先を見つめながら、教師という肩書きの裏側にある、あまりに無力で無知な自分を激しく恥じた。
灯二が今も警察に閉じ込められていることを知っている。彼らだって不安で仕方ないはずなのに、大人の自分がこれではいけない。尾軽は自分を鼓舞するように背筋を伸ばした。
数十分後、ようやく監視業務の交代時間が訪れた。焼けつくような外部から逃げるように職員室へ戻ると、エアコンの冷気が肌を刺した。デスクに座って一息つこうとした時、隣の席の先輩教師である田中が、これ見よがしに顔を覗かせてきた。
「尾軽先生、なんか弁護士さんからお電話ありましたよ」
「え、弁護士?」
思わず聞き返すと、田中の目が意地悪く輝いた。奥さんや子どもといる時間を減らしたくて家庭よりも学校に居座ることを選ぶこの男は、他人の不幸を蜜の味として好む性質がある。
「何かトラブルですかぁ? 弁護士なんて、穏やかじゃないですね」
田中の探るような視線を無視し、尾軽は努めて冷静に振る舞った。ここで動揺を見せれば、職員室中の噂の種にされるのは目に見えている。
「弁護士……何のことだろう。心当たりがないな」
そう短く答え、尾軽はデスクに置かれたメモに目を走らせた。そこには見慣れない法律事務所の名前と、都内の市外局番が記されていた。灯二のことか、あるいはあの事故に関することか。心臓の鼓動が急激に速まるのを感じながら、彼は受話器を取り上げ、震える指先でその番号を一つずつ押した。
「はい、もしもし。」
受話器の向こうから聞こえてきたのは、驚くほど透き通った、凛とした女性の声だった。
「あの、先ほどお電話いただいてた、八王子市第一小学校の教師をしております、尾軽と言うものなんですけど…。」
電話をする時、向こうには見えないのに頭をぺこぺこ下げてしまうのはなぜだろう。
「折り返しお電話いただきありがとうございます。セントラル総合法律事務所の弁護士、氷室と申します。」
尾軽は危うく受話器を落としそうになり、叫び出しそうな衝動を必死で喉の奥に押しとどめた。法律の門外漢である彼ですら、テレビのニュースや経済誌の広告で何度も目にしたことがある、日本屈指の超巨大法律事務所だ。
そんな雲の上の存在のようなエリート弁護士が、なぜ自分のような一介の小学校教師に。最近、保護者と揉めたか、あるいは知らないうちにどこかで恨みを買って訴えられたのか。数日分の心当たりが走馬灯のように脳裏を駆け巡る。誰かに恨みを買うようなことを…最近はトラブル続きで心当たりが何個かあるな。
「えっと、僕になんのご用でしょうか。」
か細く、今にも消え入りそうな声で問いかけた。隣の席では、田中がこれ見よがしに激しくキーボードを叩きながら、横目でこちらの様子を執拗に窺っている。その好奇の視線が、今は何よりも煩わしい。
「私は、露伴灯二さんの顧問弁護士です。あなたは露伴さんのご友人ですよね。お力添えいただけませんか?」
その言葉に、尾軽は目を見開いた。氷室が告げたその名前を聞いた瞬間、視界は一気に開けた。絶望の淵にいた灯二に、これほど心強い味方がついていたのか。警察にも検察にも届かなかった自分たちの声を聞いてくれる人間が、ついに現れたのだ。
「ぜひ!」
田中がびくりと肩を揺らすほどの勢いで、尾軽は力強く答えた。無力感に苛まれていた彼の瞳に、反撃の光が宿った。
—-
学校が夏休みに入っていたのは、不幸中の幸いだった。午後休暇を申請し、職場を後にした尾軽は、照りつける太陽から逃げ込むように約束のカフェへと滑り込んだ。自動ドアが開いた瞬間、強烈な冷房が肌の汗を急速に冷やしていく。彼はハンカチを広げ、首筋から額にかけて滲んだ汗を執拗に拭った。
落ち着いた木製の壁が並び、深いコーヒーの芳香に満ちた店内。その一角に、周囲の喧騒から隔絶されたような凛とした空気を纏う女性がいた。切れ長の目をした美人が、背筋を完璧に伸ばして座っている。彼女は入り口で立ち尽くす尾軽と目が合うと、ふわりと柔らかく微笑みかけた。
「こんにちは。尾軽さん、ですね」
「えっ、あっ、はい!」
尾軽は思わず裏返った声で返事をした。近づくにつれ、上品な花のような香りが微かに鼻腔をくすぐる。
「露伴君から特徴を聞いていたのですぐに分かりました。弁護士の氷室です」
そう言われて、尾軽は改めて自分の姿を省みた。確かに、この静かな空間に自分のような筋肉質の男がいれば、嫌でも目立つだろう。自分でも「筋肉ゴリラが浮いているな」と自嘲気味に思いながら、向かいの椅子に腰を下ろした。
「こちらこそ、尾軽です。あの、灯二の様子はどうですか?」
焦るように身を乗り出した尾軽に対し、氷室は落ち着いた動作でメニューを指し示した。
「その前に、何か一杯いかがですか?」
「あぁ、そうですね……」
「慌てん坊というか、話に聞いていた通りお優しい方なんですね。真っ先に露伴君の心配をするなんて」
「い、いやあ。はは……」
面食らった尾軽は、照れ隠しに短く刈り込んだ後頭部をガシガシと掻いた。
それにしても、と尾軽は運ばれてきたアイスコーヒーを啜りながら頭をひねった。あの偏屈な灯二が、これほどの美人と一体どこで知り合ったというのか。思考を巡らせながら飲み込んだ液体は、驚くほど苦かった。実はブラックコーヒーは大の苦手なのだ。
灯二の家でご飯を食べた後は、「お前はまだまだお子ちゃまだな」と笑いながらカフェオレを淹れてくれていた。灯二はブラックコーヒーを満足そうに飲み、リコさんは頑張ってブラックを飲もうとしてたっけ。
本当は甘いカフェオレを頼みたかったが、目の前の知的な美人の前で見栄を張ってしまった。喉を通る苦味を噛み締めながら、彼は密かに後悔した。
会話が本題に移ると、二人はこれまでに判明した事件の全容や、警察内部の不穏な動きについて情報を共有した。
アイスコーヒーの苦味を堪えながら、尾軽は努めて冷静さを保とうとした。しかし、氷室が資料を整理する仕草を見せ、話題が事件の核心へと移ると、カフェの穏やかなBGMさえ耳に届かなくなるほどの緊張感が卓上を支配した。
「三人とも車から降りて離れている時に、勝手にエンジンがかかり、動き出した……。技術的な可能性はさておき、にわかには信じられない光景ね」
氷室の鋭い視線が、アクリル板越しに灯二を射抜いた時と同じ冷徹さで、事象を分析する。尾軽は、あの日網膜に焼き付いた異常な光景を思い出し、喉の奥が乾くのを感じた。
「で、ですよね。僕だって、あの日の出来事が全部悪い夢だったんじゃないかって、今でも思うんです。でも、テレビのニュースで流れる大破した車の映像とか、保険会社から届く信じられない額の請求書とかが、あれは現実だったんだって無理やり突きつけてくるんです」
尾軽の手が、結露したグラスを強く握りしめる。氷室はその様子をじっと見つめ、確信に満ちた声で告げた。
「私は信じるわ。何のために私がここへ来たと思っているの? 彼を助けるためよ。もし仮に、目撃した通り何者かが遠隔であなたたちの命を狙ったのだとしたら、この事件の背後には、想像もつかないような巨大で深い闇が潜んでいるわ」
「とんでもない闇……?」
尾軽の脳裏に、あの時の戦慄が蘇る。暴走したAIが、逃げ場のない女子高生を執拗に追い詰め、襲った光景。あれは単なる故障や事故などではない。そこには明確な、とある少年の悲しみと、執着と、そして悪用した何者かの意思が介在していた。今回の件も偶然ではなく、何らかの組織によるものだとしたら。
「……だとしたら、そこから先は警察の領分よ。あなたたちが背負い、怯える必要はないわ」
氷室は尾軽の不安を断ち切るように、あえて事務的な口調に戻った。
「そうですか……」
「まずは露伴君の身の潔白を証明すること。それが私たちの最優先目標よ」
尾軽は頷き、自らの記憶を総動員して、あの日何が起き、誰がどこにいたのか、警察には信じてもらえなかったあらましを全て氷室に託した。彼女は時折メモを取り、淀みない動作で情報を整理していく。一通り話し終えた後、尾軽は最も気になっていたことを口にした。
「ところで、留置所での灯二の様子はどうですか? 元気にしてますか?」
氷室の手が僅かに止まった。彼女は一度視線を落とし、それから少しだけ声を潜めた。
「連日のあの暑さと、執拗な取り調べ。それにあの劣悪な環境……。少し、痩せてたわね」
その言葉に、尾軽は胸を締め付けられるような思いがした。あの潔癖で、自分の世界を大切にしていた男が、どれほどの苦痛に耐えているのか。氷室の瞳には、弁護士としての冷静さの裏側に、親友の無残な現状を憂う一人の人間としての色が微かに混じっていた。
「けど、露伴君は、逞しく生きてるわよ。警察にお風呂と糸ようじを要求して揉めたらしいわ。」
「うわぁ、いかにも灯二らしいですね」
潔癖な親友の姿が目に浮かび、尾軽は少しだけ表情を和らげた。
「尾軽君、キミと露伴君は高校時代からの付き合いなのよね?」
不意に、氷室がこれまでの事務的な口調を崩した。彼女はカップを置き、少し首を傾げて上目遣いで尾軽を覗き込んだ。整った目鼻立ちに、長いまつ毛が作る影。大人びた美人が放つその視線の破壊力は凄まじく、尾軽は思わず気圧されて背もたれに体を預けた。
「学生時代の彼は、どんな人だった?」
「え、ええ。そうですけど……。うーん、勝手に友達のプライベートをべらべら喋るのは、ちょっと気が引けますね」
返答に困り、尾軽は苦いコーヒーを一口流し込んだ。特に灯二は、自分の内側に他人が踏み込んでくることを極端に嫌う性質だ。後で「余計なことを喋った」と詰められる自分の姿が容易に想像できた。
「そう、良い友達ね。」
スッと冷めた表情で窓の外を見ながら氷室はコーヒーを一口飲んだ。
「ひ、氷室さんは、どんなきっかけで灯二と知り合ったんですか?」
話題を逸らそうと投げかけた問いに、氷室の動きがピタッと止まった。彼女は一瞬の静寂の後、うっとりと宙を見つめ、陶酔したように自らの白い頬に手を添えた。
「私が法学部の学生だった時、高校生の彼と出会ったわ……」
「え? なんで高校生のあいつが大学に出入りしてたんですか?」
氷室の急激な豹変ぶりに動揺しつつも、尾軽は純粋な疑問を口にした。灯二のことだから、昔からあちこちで技術関連の仕事を請け負っていたのだろうとは察しがつく。
「大学のサーバー管理のバイトをしていた彼が、私の家のトラブルを華麗に解決してくれたのよ。あの日、彼がいなかったら今の私はいないし、弁護士にもなれなかったわ」
「そんなことがあったんですね……」
少しデリケートな話題に踏み込んでしまったか、と尾軽は反省した。しかし、恍惚とした表情の氷室の言葉は止まらない。
「だから私、決めたの。彼がピンチの時は必ず助けるって。いえ、できれば毎日、四六時中、私の手の届く場所で守り続けたい……。だからもっと彼のことを教えて。高校時代、彼は誰と話し、何を食べて、どんな顔をして笑っていたの? これは、そう、弁護士としての『業務上』必要な情報なのよ」
氷室の息遣いがわずかに荒くなり、彼女はテーブルを乗り出して、尾軽の広い肩を両手でガシッと掴んだ。あまりの力強さと迫力に、尾軽の体が強張る。その時、テーブルに置かれた氷室のスマホが、SNSの通知でふわりと光った。
偶然目に入ったその待ち受け画面には、まだ幼さの残る高校生の灯二と、その隣で顔を真っ赤にして密着している氷室のツーショット写真が設定されていた。
鼻先をかすめる上品な香水の匂いと、目の前に迫る整った顔立ち。しかし、その奥にある瞳の熱量は、尾軽を見ていない。
明らかに「弁護士と依頼人」の枠を逸脱している。尾軽は冷や汗が流れるのを感じながら、本能的に察知した。
あれ、この人……ヤバいタイプか? というか、めちゃくちゃ公私混同してないか……?
味方であることは間違いない。むしろ、灯二にとってはこれ以上ない味方のはずだが、別の意味での危うさを孕んだ救世主の登場に、尾軽は言い知れぬ不安と困惑に包まれていた。
「あのー、もしかしてですけど、氷室さんは灯二のこと、好きなんですか?」
尾軽が核心を突く問いを投げかけた瞬間だった。
「ブフゥッ!」
氷室は口に含んでいたブラックコーヒーを、まるで噴水のように吹き出した。彼女は一瞬にして顔を真っ赤に染め、震える手で備え付けのキッチンペーパーを掴むと、机に広がった黒いシミを猛烈な勢いで、しかしどこか優雅に拭き取った。
「は、意味分かんないし。そそそそんなわけないし。依頼人を恋愛対象に見るとか、マジでプロ失格だし」
なぜギャル風の口調なんだろう。
氷室の威厳が音を立てて崩れていく。彼女は動揺を隠そうと震える手で再びカップを掴んだが、中の黒い湖は地震のように激しくうねり、到底口に運べる状態ではない。自覚はたっぷりあるらしい。
「あの……もし邪な思いがあるなら、別の弁護士さんに相談させてもらってもいいですか?」
尾軽が少し呆れたように言うと、氷室はピクリと肩を跳ねさせ、鋭い眼光で彼を射抜いた。
「ふざけないで。私はプロよ! 仕事はきっちり完遂させるわ。私の個人的な感情なんて関係ない。依頼人を守り抜く、それが私の存在意義なの! 私が彼と結ばれなくたって構わない。彼の不幸を一つでも減らすために、私はここに来たのよ!」
その鬼気迫る剣幕に、尾軽は思わず圧倒された。自分の身を削ってでも灯二を救おうとするその覚悟だけは、本物だ。
「ご、ごめんなさい。氷室さんの覚悟を疑ってしまった自分が恥ずかしいです」
「……いえ、別に。私も少し取り乱して、見苦しいところを見せたわ。謝罪します」
少しではなかった気がするが。
二人は視線を合わせ、どちらからともなくふっと笑みを漏らした。ちょっと変わってるけど、信頼できるかも。空気が和らぎ、ようやく本腰を入れて灯二の救出作戦を話し合える——そう思った時だった。
カランコロン、とカフェの入り口のベルが涼しげに鳴った。
「尾軽さん、ごめん遅くなった! 弁護士の人は?」
白のTシャツにタイトなデニムパンツ、ポニーテールを揺らして現れたのは、星崎リコだった。真夏の太陽をそのまま連れてきたような彼女の眩しさに、店内がぱっと明るくなる。しかし、氷室の瞳は一瞬にして零下まで凍りついた。
「尾軽さん、この方は?」
「あ、灯二と俺とよく一緒に行動している、YouTuberの星崎リコさんです。今回の事故の当事者の一人なので声をかけました」
尾軽は笑顔を取り繕いながらも、体温が急速に冷えていくのを感じた。
リコは氷室の圧倒的な美貌に一瞬気圧されたようだったが、すぐにプロの営業スマイルを浮かべて頭を下げた。
「わあ、すごい美人。星崎リコです。よろしくお願いします!」
「弁護士の氷室です。……ところで」
氷室はリコを頭の先から爪先まで一瞥し、探るような、試すような声を絞り出した。
「こんな可愛い子と、露伴君はいつも一緒にいるの?」
その瞬間、二人の間に火花が散るのを尾軽は幻視した。まずい、リコさんだって灯二に対して特別な感情を抱いている。尾軽は嫌な汗が背中を伝うのを感じた。
「そうなんです。私、大学に行きたくて、毎日灯二の家でみっちり勉強を教えてもらってますから」
「毎日は嘘じゃんか…」
尾軽の呟きを、リコはギロリとした一瞥で瞬時に黙らせた。リコもまた、氷室の纏う灯二を昔から知っているという余裕めいた気配を敏感に察知し、即座に戦闘態勢に入っていた。
「大学に行くためってことは、あなたは高校生なの? 未成年なら、同年代の男の子と仲良くした方が健全なんじゃないかしら」
「いえ、最近19歳になったばかりです。少し事情があって。だから灯二に教えてもらってるんです」
リコも氷室の真意を察したようだ。どこか誇らしげに言うと、氷室の口角がピクリと不自然に上がった。
「へぇ、あんなに一人の時間を大切にする露伴君に毎日勉強を教えてもらってる、ね。……お邪魔だと思わないのかしら?」
「私も遠慮してるんですけど、彼の方から毎日会いたいってお願いされてるんで仕方なく行ってるんですよ〜」
リコは語尾を伸ばして、あからさまに氷室を挑発した。
リコさんめっちゃ嘘つくじゃん。毎回嫌がる灯二を連れ回してるじゃん。
「お邪魔」という言葉がナイフのように卓上をかすめる。尾軽は苦いコーヒーを一気に飲み干し、「今すぐ帰りたい」と切に願った。
灯二が起こした2つの熱がやがて熱帯低気圧となり、台風を作って尾軽を今巻き込もうとしている。2つの台風がぶつかって無くなるまで、台風の目で震えるしかなす術はなかった。
「なっ!?露伴君の方から求めて!?あなた達一体どんな関係なの!?」
氷室さんは何度もメガネを指で押し上げている。さっきまでのクールビューティーと本当に同一人物なのだろうか。
「え、どんな関係?そりゃもうお友達よりも深い関係というか、恥ずかしいのでご想像にお任せします♪」
リコは椅子の上でクネクネと身体をしならせ、勝ち誇った笑みを浮かべて氷室をおちょくった。絶句した氷室は、すがるような目で尾軽を睨みつける。彼女の言っていることは本当なのか、と無言の圧が肩に食い込む。
「氷室さん、事実はぜんぜンッ」
否定しようとした瞬間、尾軽の右足に鋭い痛みが走った。リコの踵が、彼の足の甲を思い切り踏みつけている。余計なことを言えば消す、カエルを見つけた蛇やうさぎを狩る前の猛禽類のような迫力があった。
なんでこんな修羅場に本人がいないんだよ。尾軽は叫びたい衝動を必死に堪えた。
「許せない!ちょっと可愛いからって!どうせ露伴君のお金目当てで近づいたんでしょ!?」
目を吊り上げリコさんに今にも掴みかからん勢いだ。
「私は人気YouTuberよ、この隣にいる筋肉ゴリラよりもよっぽどお金を稼いでいるし、なんなら灯二を一生養うことも覚悟もあるわよ!」
なんで無関係な俺の心が傷つけられるんだろう。というかその愛は重すぎるよリコさん。
「な、私だって望むなら露伴君のこと一生養うことだって」
「灯二はそんなことの•ぞ•ん•で•い•ま•せ•ん!」
氷室の声を掻き消すように大きな声でリコは伝えた。
「そんなの分かんないじゃないの!」
「もうやめよう2人とも!」
氷室の発言を遮り尾軽は立ち上がった。
「他のお客さんが見ているし、お店に迷惑だよ。」
リコさんと同い年くらいのバイトの女の子がお盆を胸の前で抱えて震えていた。というかみんな俺が修羅場を引き起こした二股男だと思ってないだろうな。
「僕たちは戦いに来たんじゃなく、灯二を助ける目的が一致したもの同士でしょ。」
「そうね…」
「ごめんなさい。」
「灯二がさっきの会話を聞いてたらどう思う?感情的な人ではなく合理的な考えの女性に灯二が取られちゃうよ。」
灯二をモノ扱いするのはどうかと思うが、この言葉が2人にはよく効くだろう。
「「それは嫌!」」
2人の声が重なった。半分泣き出しそうになっている。
「露伴君、私がどれだけ話しかけてもそっけないの。」
氷室が鼻をすすりながら俯いた。
「私もそう。あいつ元アイドルの私のアプローチに全然靡かないし。自信無くなっちゃうわ。」
リコは指先で涙を拭った。氷室はページュのハンカチを差し出した。
「元アイドル、どうりでそんなに可愛いはずね。現役でも通用するでしょう?」
小声でありがとうございますとリコは言い、ハンカチを受け取った。
「あの世界は疲れました。氷室さんこそ、とても綺麗です。綺麗過ぎて灯二があなたに奪われると思いました。ムキになってすみません。」
リコは首を振って笑顔を見せた。
「あの人はその辺の女性には取られないわよ。堅物過ぎて嫌になっちゃう。」
「分かります、あいつ異性と居るよりも読書とか料理してる時の方が活き活きしてるんですよ、ムカつきません?」
「彼が高校生の頃の彼もパソコンのプログラムコードしか見てなかったわ。あーあ、なんであんな人好きになっちゃったんだろ。」
氷室も笑った。尾軽は椅子と一体化して話が終わるのを待っていた。気まずい。
「分かります、あんな皮肉屋の変わり者なのに。氷室さん、灯二の高校時代知ってるんですか?」
「ちょっとだけね。でも尾軽君の方が詳しいわ。」
氷室も思い出し笑いをする。一気に打ち解けた二人の様子に、尾軽はようやく安堵の溜息を漏らした。しかし、その瞬間。二人の鋭い視線が同時に尾軽を貫いた。
「「だから、灯二の高校時代、もっと詳しくオ・シ・エ・テ?」」
「ひ、ひぇー!」
最初はどうなることかと思ったが、嵐のようなやり取りを経て、ようやく三人の間で現状の整理がついた。テーブルの上に並んだ三つのグラスには、それぞれの焦燥や覚悟が溶け出したかのように、結露した水滴が幾筋も伝っている。
「露伴君のことを疑っていたわけではないけれど、改めて聞くと本当に不気味な事件ね。同じように車の遠隔操作で更なる被害者が出る前に、真実を突き止めて警察に叩きつけないと。二人とも、これからもお話を何度か伺うことになると思うけど、協力してくれる?」
氷室は、先ほどまでの激情が嘘だったかのように、氷のような冷静さを取り戻していた。その声音には、セントラル総合法律事務所のエリート弁護士としての重みが宿っている。
「もちろん!」
「はい、僕らで良ければぜひ」
尾軽が力強く頷き、リコもまた、少し照れたように、しかし真剣な眼差しで「よろしくお願いします」と頭を下げた。氷室はそれを見届け、ふっと思い出したように手元のメモに視線を落とした。
「そうそう、彼……露伴君から大切な伝言があるの。『尾軽は気にせず地元に帰省してろ』って」
「そんなの、灯二がピンチなのに、のはほんと帰省なんてできるわけないじゃないですか!」
思わず声を荒らげ、椅子を鳴らして身を乗り出した尾軽に、氷室はどこか見透かしたような、それでいて慈しむような視線を向けた。
「そう言うと思っているから、彼はそう伝えてと言ったのよ。露伴君は、自分のせいで君のせっかくの休みを台無しにしたくないのね。それくらい、君の優しさを誰より理解しているんじゃないかしら」
「だからって……。あいつ一人で戦ってるのに、僕だけ……」
尾軽は言い淀み、握りしめた拳を震わせた。そんな彼を宥めるように、氷室は穏やかなトーンで言葉を継いだ。
「一番聞きたかったことは今日聞けたし、何より私と尾軽君はもう連絡先を交換したでしょう? 何かあれば、その気になったらすぐに電話で聞ける。リコちゃんも東京にいることだし、お盆くらいは帰ったらどう? 君が無理をして倒れたりしたら、それこそ露伴君が自分を責めることになるわよ。」
氷室の言葉は、まるで教師である尾軽が子供たちを諭すときのように、静かだが拒絶できない説得力を持っていた。あいつはそういう奴だ、と尾軽は思う。自分が苦しいときほど、周囲の平穏を守ろうとする。
「……そう、した方がいいのかもしれませんね。分かりました。数日だけ、実家に顔を出してきます。でも、何かあったらすぐに、一秒でも早く僕に連絡してください」
尾軽は、渋々といった様子ながらも、最後には納得して深く息を吐き出した。夏の高い空からは相変わらず蝉時雨が降り注いでいたが、このカフェを出る足取りは、ここに来たときよりもずっと確かなものに変わっていた。
尾軽とリコが帰路につき、氷室も戦場へと戻っていく。氷室は一人、車の中で灯二から預かったルームキーを握りしめた。
更新が遅くなってすみません、著者のダイノスケです!
大変お待たせしました、これまでの話とは違って、1話で完結ではない内容になりました。
実は、書きたい内容が増えてストーリーがどんどん膨らみ続けたので一旦キリが良いところで投稿することにしました。
もしよければ、感想や評価いただけると、今後のモチベーションにつながります!




