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第四話 呪われた車


7 月下旬。都心では連日猛暑日が続き、アスファルトの上を歩けば、信号待ちの間に水たまりができそうなほどの汗が流れ落ちる。まるで濡らしたスポンジを思いっきり握りしめたかのようだ。ここ最近の尾軽は、干した椎茸みたいにカピカピになって学校に辿りついていた。


アスファルトから照り返す熱は、四方八方からストーブの熱を浴びせられているかのようだ。視界の奥で、景色がゆらゆらと揺らぐ陽炎は、太陽が生み出した物理的な現象なのか、尾軽の朦朧とした脳が作り出した幻影なのかすら判別できない。頭上で響き続ける蝉の鳴き声は、まるで人間を嘲笑っているかのように、異常な熱量をもって降り注いでいる。


学生の頃って、こんな暑い中毎日野球してたのか。俺って偉かったんだな。


社会人になってからも自重トレーニング程度の筋トレを続けている尾軽は、教師には必要のないほど発達した自身の大胸筋を触った。


小学校の職員室も、外の熱狂から完全に隔離されてはいなかった。

省エネのため、エアコンは28 度よりは下げられない設定。機械が吐き出す風は、もはやぬるい空気の循環でしかない。その一角には、申し訳程度に風鈴が置かれ、チリ...チリン...と歯切れ悪く鳴る様子は、教育委員会の代わりに風鈴が教員達へ謝っているかのようだった。とはいえ、それは政治家の不祥事をスケープゴートとして秘書が謝っているかのようなものだが。


「尾軽先生!生徒達が夏休み中だからって、最近気が抜けていませんか!」


声が聞こえた方向へ、尾軽はぼんやりと顔を向けた。

細身で頭髪の薄い教頭が、今日もネチネチと執拗な攻撃を仕掛けてくる。彼の顔には、汗と、そして不満とやっかみが滲んでいる。生徒や保護者、そして他の先生達から人望の厚い尾軽に対してのやっかみは、この猛暑のようにいつにも増して熱を帯びていた。


抜けているのは、気というより、生気や水分かもしれない...。


ぼんやりとした頭で、尾軽はそんなことを考えていた。


「はい、すみません。」


教師生活 2 年目。尾軽の口からは、心を無にして謝罪する言葉が、反射のように滑らかに出てくる。俺はすみませんと喋る人形なんだと言い聞かせ、嵐が過ぎ去るのを待つ。これが大人になったということなのだろうか。果たして、良いことなのだろうか。


そんなことを考えながら仕事をこなしていた午後 5 時。終業のチャイムが、猛暑で澱んだ職員室の空気を切り裂くように鳴り響いた。


長時間のエアコンのぬるい風に晒され、生気を失いかけていた尾軽にも、週末の楽しみが控えていた。


「尾軽先生、今日は一杯どうですか?」


声をかけてきたのは、 30 代の中年男性、田中先生だ。その顔には、夏休み中の多忙さよりも、最近夫婦仲が冷え切っていることによる疲労が色濃く浮かんでいる。


夜遅く帰るための口実を探しているのは明白だった。以前、人付き合いだと思って渋々ついて行ったら、深夜まで愚痴と言い訳を聞かされ、酩酊した先生に抱きつかれながらタクシーを呼ぶという散々な目に遭った過去がある。

尾軽は、わずかに顔を引き締め、きっぱりと断った。


「すみません、俺この後用事があるので。」


田中先生はなんだよ、つまんねーなと不満そうな顔で「そうですか、また今度」と漏らし、他のターゲットを探しに職員室を徘徊し始めた。


このまま複数人に囲まれたら面倒だ。尾軽は構わず、そそくさと駐輪場へと向かう。アスファルトの熱が、自転車のタイヤ越しにもジンジンと伝わってくる。

スマホを取り出すと、灯二からのメッセージが届いていた。


『明日、予定通り 16 時に俺の家の前集合でいいな?』


メッセージを読んで、尾軽は改めて鼻息が荒くなるのを感じた。あの決断は、夢ではない、現実だ。


俺は、ついに車を買ったんだ!


中古のミニバン。それが明日ついに自分の手の中に入る。灼熱の太陽も、教頭の嫌味も、何もかもを吹き飛ばすような新しい生活の予感が、尾軽の心を支配していた。


先日のケント AIの一件で尾軽の愛車は破壊された。ボロボロになった親のお下がりの軽自動車は、もはや鉄の塊。当然ながら、AIに車を破壊された時用の保険なんてこの世に存在しない。修理代は約 150 万円。その金額を聞いた時点で、尾軽は「バイバイ、軽自動車よ」と諦めた。


しかし、リコや灯二らに「大勢でお出かけする用に大きい車が良い」と以前から言われていたこともあり、せっかくの機会だからと新しい車を買おうと決意していた。


週末、灯二の自宅。相談も兼ねて灯二の家にお邪魔して、彼の料理を尾軽は堪能していた。完璧に栄養計算された焼き鮭や味噌汁と、低温調理された鶏むね肉のサラダが並ぶ食卓。灯二は箸で鮭を突く手を止め、視線を尾軽に向けた。


「あのケントの一件で、尾軽の車が破壊され、こんなに危険な目に遭わせるとは思わなかった。すまなかった。」


灯二からのまっすぐな謝罪に、尾軽は思わず目を丸くした。普段皮肉屋でプライドが高い灯二が、自分から頭を下げるのは極めて珍しいことだった。


「おいおい、頭を上げろよ灯二。俺は車くらいで千尋ちゃんを守れたこと、一切後悔していないぞ。元々古い車だったしな!」


尾軽は努めて明るく言った。

灯二はメガネのブリッジを押し上げ、淡々と言葉を繋いだ。


「とはいえ、薄給の尾軽が、その修理費 150 万や、新しい車を買う金を捻出するのは容易ではないだろ?」


「うぐ。それはそうなんだけどな……薄給とか貧乏とか社畜とかあんまりはっきり言わないでくれる?」


尾軽は図星を突かれて呻いた。


「貧乏とか社畜とまでは言ってないぞ。」


灯二は冷静に続ける。


「尾軽の新しい車には、俺も今後何度も乗せてもらうことになる。星崎リコやアキラ達を乗せるために大きな車を必要とするのなら、俺が新しい車代を出すのが最も合理的だろう。」


尾軽は思わず大声を上げた。


「いやいや、それはおかしいって! 外食を奢る感覚で車を奢っちゃダメでしょ! どこの港区おじさんだよ!」


「むう。なら、俺が全額を出して俺が買った車を尾軽の家に置いて、尾軽に運転手をしてもらう……のは、保険の手続き上、記名被保険者の設定や税金で問題が多いな。手間が増えるだけか。」


灯二は眉間に皺を寄せ、自身の提案を即座に却下した。


灯二は、焼き鮭の皿の前で、いつもの冷静沈着さを欠いていた。その表情には、ケント AIの事件を巻き起こしたことへの純粋な罪悪感が張り付いているようで、まるで判断力が鈍っているみたいだ。尾軽はそんな珍しい灯二の姿をもう少し見ていたいという気持ちもあったが、彼の申し出に甘えて大金を負担してもらうことなど毛頭考えていなかった。そんな大金の贈与を受け取ってしまえば、きっと二人は対等な友人では居られなくなる。


「なら、修理か購入にかかる費用の半額を出そう。その方が合理的な負担分散だ。」


「いや、いいから!要らないって!」


二人の主張はそこで完全に平行線となり、どちらも譲らない。


激しい議論の末、二人は妥協点を見つけた。


「灯二を乗せた時のガソリン代とか、千尋ちゃんやリコさん、アキラ達を乗せて出かける時の食事代とかは、悪いけど灯二に負担をお願いするよ。だから俺の車は全部俺が負担する。OK?」


「まあ、それが合理的か。」


車代は尾軽が負担し、今後のランニングコストについては灯二に任せることで決着となった。


納得してなさそうな灯二は、不貞腐れた様子で頬杖をつきながら窓を見た。


その姿を見て、「ちょっと見栄を張りすぎた、やっぱお金頂戴!」尾軽の中の悪魔がそう囁くが、慌てて頭の外に追い出した。


灯二が頑張って稼いだお金にたかるなんて、本当の友達と言えるのだろうか。灯二は素直じゃないが他人を助けることに躊躇がなく、時には危ういぐらいに自己犠牲をする。もちろん、灯二もつけ上がらない相手かどうかきちんと見ているだろうが、その厚意に甘え続けるわけには行かない。いっつも助けてもらってばかりな俺は、灯二に何を返せるだろうか。


だから、軽自動車からミニバンに買い換える機会があったことは、むしろ喜ぶべきことだ。実は寂しがりな灯二が、アキラ達と会いやすくなるから。


尾軽は友人への信頼を選び、灯二との絆を金で測ることを拒否した。


—-


仕事が終わり、自室に帰った尾軽は検索サイトで「ミニバン 格安 6 人乗り」のキーワードを執拗に調べ続けていた。灯二がガソリン代等を負担してくれるとはいえ、中古車の購入費用は痛手だ。できるだけ安く抑えたい。この作業はまるでネットのゴミの山から宝石を探すような切実さがあった。

そして、その店の名は、格安中古車サイトの隅に、他の業者とは一線を画す異様な低価格でひっそりと掲載されていた。


カーズ・アカバネ。


すぐに Google マップで店の外装をチェックする。ストリートビューに映し出されたそれは、タイヤがいくつか無造作に転がり、まるでちょっとした廃墟か、いや、いかにも老舗のジャンク屋の雰囲気を醸し出していた。車を持っていた頃は見向きもしなかったが、こんな店が自宅から徒歩 20 分という意外な近さにあったとは。


7 月下旬の炎天下の中、徒歩 20 分はなかなかの拷問だが、背に腹は代えられない。尾軽は、次の休みに行くことを心に決めた。


—-


国道から一本入った裏通り、それでも昼間の交通量はそれなりにある幹線道路沿いに、「カーズ・アカバネ」はひっそりと佇んでいた。


尾軽が足を踏み入れた舗装された地面は、長年の車の出入りとオイルのシミで黒ずみ、そこかしこにひび割れが見える。展示スペースには 10 台ほどの車が並んでいるが、どれもピカピカに磨かれた新古車ではなく、年季の入った実用車ばかり。太陽の光を浴びて、薄汚れたボディが微かに鈍い反射を返していた。


店の正面には、錆びついた金属製の看板が、まるで時間の流れに取り残された遺物のように掲げられている。


CARS AKABANE


夜間はネオンが灯る設計だったのだろうが、今は一部の電球が切れ、特に「BA」の部分が完全に消えているため、カーズ・アカネと、どこか寂しい響きに聞こえてしまう。


建物の本体は、プレハブを改装したような簡素な造りだ。壁面はくすんだグレーで、ところどころペンキが剥げ落ち、雨垂れの跡が黒い筋になって残っている。入口のガラス戸には、「地域最安値挑戦中!」という手書きの貼り紙が斜めに貼られ、その上から埃がうっすらと積もっていた。


風が吹く。店先に立てられた色褪せた旗が、乾いた音を立ててパタ、パタと寂しく揺れる。その風に乗って、奥の修理スペースから、金属を擦るような鈍い音が時折聞こえてきた。


そして、展示車の列に並んだ、年式相応に色褪せた車の中で、明らかに異彩を放つ綺麗な車が一台あった。ホンダ・フリードが、まるで助けを求めているかのように彼を待っていた。


中古車屋とは、どこもこれくらい寂れているものなのだろうか。それとも、ここだけ特別なんだろうか。車に詳しい人について来てもらったら良かったかな。だったら、今からでも灯二を呼ぼうかな。


尾軽がそんなことをぼんやりと考えながらホンダ・フリードをじっと見つめていると、背後から乾いた声がかかった。


「おや、お客さんかい?」


その声に振り向くと、身長 160 センチにも満たない、 50 代くらいの男性が、曲がった背中に手を叩きながら満面の笑みで話しかけてきた。その笑顔は、どこか貼り付けたような不自然さがあった。


「あ、はい。中古車を探していて。できればミニバンで、一番安いやつなんですけど。」

尾軽は正直に目的を伝えた。


この人が店主だろうか。側頭部だけ残った黒髪、ピアノの鍵盤のようにところどころ抜けた歯、そして店先に並ぶ売れ残った車。ペットは飼い主に似ると言うが、店主と店も同じ関係だとでも言うのだろうか。


「お客さんお目が高い! 今お兄さんが見ているやつ、一番売れ筋の車、ホンダ・フリードだよ! 走行距離も少なくて、たった 12 年前に作られたもんだ!」


店主は鼻の頭に汗を浮かべながら熱弁する。確かに、このミニバンは綺麗だしとても中古車には見えない。


だが、ならばなぜ一番売れ筋なのに売れ残っているのだろうか。


その疑問が喉まで出かけたが、店主を傷つけないためそっと飲み込んだ。


なんかこの店主、胡散臭くないか。


「他の車も見せてもらえますか?」


「あ、ああ。いいよいいよ。好きなだけ見てきな。」


尾軽がホンダ・フリードから目を離すと、店主は露骨に肩を落としていた。


店主はその後、走行距離が 15 万キロを超えたトヨタ・ノアや、サードシートが泥だらけの日産セレナなど、 80 万円~100 万円台のミニバンを 3 台ほど勧めてきた。


「これなんかどうだい? 荷物もたっぷり載るぜ?」「こっちは年式は古いが、丈夫でな。ちょっとシートは汚れてるが、安いよ!」


しかし、どれも尾軽の予算を大きく超えており、また清潔感とサイズ感がホンダ・フリードほど尾軽の心にピンとくるものはなかった。尾軽はどの車にも曖昧な返事をするしかなかった。


服屋の店員くらい話しかけてきて困るな。いや、服と違って中古車は詳しく解説してくれた方が助かるか。


「すみません、やはり一番最初に見たフリードが気になります。デザインも綺麗ですし...。」


尾軽がそう言うと、店主の目がギラリと光った。


「お兄さん、このホンダ・フリードはさ、他と違って安くしとくよ!普通の相場は 120 万円、だけどこいつは40 万円だ!」


破格。 あまりの安さに、尾軽は思わず目を見開いた。


「えっ! そんな安いんですか?」


これなら夏のボーナスを崩せばなんとか払えるかもしれない。


「す、すみませんちょっとお手洗い借ります。」


「いいよいいよ。店の突き当たりを左だから。」


食いつきの良い尾軽を見て、機嫌の良い店主は朗らかにトイレの場所を教えてくれた。


尾軽はトイレの洗面台で手を洗いながら、頭を冷やしていた。


念の為他の中古車サイトを回遊したが、こんな良い案件は全く見つからない。


しかも、デザインも良いし、アキラやリコさんら含めて六人乗りのサイズであるところが気に入った。加えて割と新しくて清潔だ。


あまりにも話ができすぎていないか。何か裏があるのでは?


お手洗いを済ませた尾軽は、店主に聞いてみることにした。


「なんでこんなに安いんですか?ひょっとして、何か事故とか事情があるんですか?」


店主は一瞬顔を曇らせたが、すぐに貼り付けたような笑顔に戻る。


「いいいいや、事故歴や修理歴なんてねぇよ!本当だ!」


声が急に大きくなり、店内に響いた。 50 代の店主は、曲がった背中をさらに縮こませるように動揺しはじめた。その不自然な狼狽ぶり、あんま見たくなかったなあ。


「事故歴や修理歴は、告知義務がありますよね。書類、見せてもらえますか?」


尾軽は冷静な口調で切り込んだ。


「いやー、あー、うん。チッ。分かったよ。ちょっと待ってろ。」


店主は明らかに不機嫌そうな顔で店の奥に引っ込んだのち、「ほらよ。」と整備記録や車両の設計図を数枚、尾軽にぶっきらぼうに渡してきた。


尾軽は渡された書類を炎天下でざっと確認する。専門的な知識はないが、フレームの修正や主要部品の交換を示すような赤線や特記事項は、どこにも見当たらない。


「こ、これは...。」


どうやら、本当に修理歴などはないらしい。車両の骨格に手が入った形跡はない。


「な、いったろ?」


店主はタバコの煙を吐きながら、勝利を確信したような、少し挑戦的な目つきで尾軽を見た。


「なら、なんでこんなに安いんですか?」


店主は観念したように、声を低くし、周囲を見回した。


「あのな、このフリードはさ、買い手がついてもよ、すぐにみんな売りに来ちゃうんだよ。『気味が悪い』『呪われている』って言ってな。けど、うちも中身を隅々まで調べても、何もおかしなところは見つかんねえし、素材は良いから値段下げて売ってるんだ。だが、車体自体は問題ない!ちゃんと整備もしてある!」


原因不明。気味が悪い。 いわゆる曰く付き。だが、事故や骨格の修理は発生してないほぼ新品に近い状態。


尾軽は一瞬躊躇した。もし、今隣に灯二がいたら何と言うだろうか。


『呪い?くだらん。そんなものあるはずない。非論理的な現象は全て、未解明の科学で説明がつく。』


思わず尾軽はフッと笑った。灯二の冷徹な声が聞こえたような気がした。

それに何よりも、40 万円という価格の誘惑には勝てなかった。他の車を買えば貯金を全て使い果たしてしまうどころか、ローンを組んで数ヶ月はもやし生活突入だ。まだまだ育ち盛り?の24歳はもやしだけでは生きていけない。


しばらく悩んだ後、尾軽は意を決して、店主にしっかりと顔を向けて口を開いた。


「この車、買います!」


心臓が高鳴る。幸運だ。一軒目の店で、こんなに安く欲しい車が手に入るとは。


「いいね、あんちゃん! 諸々おまけしとくよ。」

心なしか、店主の方が尾軽よりも嬉しそうだ。その嬉しさは、尾軽の決断に対する感謝というより、在庫が片付く安堵のように見えた。


「あの、この前壊れた軽自動車、自分で廃車手続きしなきゃいけないんですよ。正直、あのボロボロの車を見るのも、手続きするのも気が重くて…。」


尾軽は不安げに尋ねた。


「ああ、大丈夫だよお兄さん! うちで車を買っていただくんだから、廃車手続きは全部うちでサービスでやってやる! 面倒な手続きはない!」


店主は威勢よく胸を叩いた。


「ただな、廃車にすると、お兄さんがすでに払っている税金や保険料が戻ってくる、『還付金』ってのが発生するんだ。主に、車検が残っている場合の自動車重量税と、期間が残っている自賠責保険料が対象だ。軽自動車だから、自動車税の還付はないんだけどな。」


店主は指を一本立てて説明した。


「その還付金、手続きが終わるとお兄さんのところに返ってくるはずなんだが…まあ、代行手数料と相殺ってことで。」


店主は手を叩いてあっけらかんと笑った。

尾軽は、そのちゃっかりとした手口に苦笑しつつも、煩わしい手続きから解放されることに安堵し、深く頷いた。還付金の一部を代行費用として渡すと思えば、安いものだ。これで、曰く付きのミニバンの購入と、傷ついた軽自動車の処分が同時に完了するのだ。


そして購入から数日後。保険や車検証など煩雑な書類の手続きも終わり、尾軽は 7 月下旬の強い日差しの下、大汗をかきながらも、軽やかな足取りでカーズ・アカバネに車を受け取りに行った。


「じゃ、これが車の鍵ね。」


問題児がやっと売れたことで、店主は心底嬉しそうに光沢のない鍵を渡してきた。今までの親のお下がりの軽自動車の鍵とは違う分厚いリモコンキーの形、ドアの形状、そして何より車の大きさが、尾軽のワクワクをかき立てる。


尾軽は、ホンダ・フリードのドアに手をかけ開く。その瞬間、もわっとした重たい臭いが鼻に入ってきた。


車の中の臭いは、例えるなら古いタバコのヤニと、汗が染み込んだ布、そして嗅いだことのない合成洗剤が混ざり合った、安っぽいビジネスホテルのカーペットのような、どこかくたびれた匂いだ。前のオーナーがどう使っていたのかを想像させる、この匂いにはちょっと慣れないが、尾軽にとってはそれもまた新鮮な体験だった。


なんか目がシパシパする。尾軽は高速で5回ほど瞬きした。


まあ、灯二の家に着いたら、消臭剤を借りよう。


尾軽はそう思いながら、運転席に乗り込んだ。待ち合わせまで少し早いが、早速灯二の家まで運転するとしよう。


「ありがとうございました!」

「おう!こっちこそありがとうな!」


店主と軽快な挨拶を交わし、尾軽はサイドブレーキを外し、ギアをドライブに入れ、アクセルをゆっくりと踏み込んだ。


軽自動車とは馬力が違う。 スムーズな加速とともに、みるみるスピードが上がる。車高や目に入る景色も、今までと全てが違う。新しい車は、尾軽の目に映る世界を全て新しい世界に見せてくれた。


尾軽を見送った後、店主は展示場の隅に戻り、油の染みたウェスで手を拭きながら、諦めたように小さく呟いた。


「やっと売れた。あの兄ちゃんも、すぐ売りに来ない…よな。」


その呟きは、ホンダ・フリードが発するエンジン音の中に、あっという間に消えていった。


ホンダ・フリードに乗り込み、尾軽は軽自動車とはまるで違う感覚に思いを馳せていた。視線の高さ、加速の滑らかさ、室内の広さ。すべてが新鮮で、運転席に座る尾軽の気分を天高く押し上げた。


気がつけば、あっという間に30 分の運転を終え、灯二が住む八王子の一軒家に辿り着いていた。


今の所、特に運転のしづらさや呪いと呼ばれるようなものは感じていないな。


尾軽は、ゆっくりとガレージにフリードを滑り込ませながら考える。もしや、呪いや噂はただの思い込みや迷信だったのではないか。


まあ、車を傷つけないようにゆっくり走ったから、ある意味【のろい】なのかもしれないね、あっはっはっは。


「あっはっはっは!」


キキッ! 尾軽は笑いながら、やや雑にブレーキを踏み込んだ。


「高笑いしながら俺の家の前に車を止めるな。 変なやつと知り合いだと思われるだろ。」


エントランスから出てきた灯二は、その音と笑い声を聞き、居酒屋の外で嘔吐する酔っ払いを見るような軽蔑の入った眼差しでお出迎えしてきた。


しまった、つい気持ちが昂って声に出ていたらしい。


「尾軽、なんだそのはち切れんばかりに上がった口角は。ニヤニヤしてまるで性犯罪者のようだぞ。」


灯二の皮肉は今日も容赦がない。だが、今回の尾軽はいつもより打たれ強い。新しい車への興奮が、皮肉を弾き返す盾となっていた。


「いや、まあ多めに見てよ、だってほら、さ?」


尾軽は上機嫌で応えながら、助手席のドアを開けた。

灯二は軽くため息をつき、車内へ体を滑り込ませた。その手にはすでにスプレータイプの消臭剤が握られている。


灯二が準備が良いのはありがたいし、最初から貸して欲しいと頼むつもりだったんだけど、最初から臭い前提で思われていたのが少し悲しかった。


「ほう。ホンダのフリードか。いいやつを買ったじゃないか。尾軽の経済状況だと三輪車が関の山だと思っていたが。いくらしたんだ?」


灯二がシートベルトをつけながら、車内の様子を見渡した。


「ふふん、なんと 40 万円なんだ。安いでしょ?」


尾軽は勝ち誇ったように言った。とりあえず灯二を乗せて走り出す。今日はこのまま、リコさんのYoutube撮影の足役になる予定だ。


灯二は、尾軽が言った数字を反芻するように眉を顰めた。


「普通車で、この年式の新しさで、たったの40 万円だと?」


灯二の目は、単なる驚きではなく、冷徹な分析と違和感を探る色を帯びていた。


「なんでも、店主が言うには曰く付きで呪われてるから安いんだって。」


尾軽はハンドルを握りながら、得意満面に灯二に語りかけた。


「馬鹿馬鹿しい。呪いなどあるはずがない。」


灯二は、まるで科学の法則でも述べるかのように、鼻で笑い飛ばした。シートベルトを締め、消臭剤を噴射した車内の空気は、まだ古びたタバコと化学物質の匂いが混じっている。


「だよね、灯二ならそう言うと思った!だから、俺は迷わず買ったんだ。想定よりも安く買えてめちゃくちゃ得した気分だよ!」


尾軽はご機嫌で車線を変更した。

灯二は尾軽の横顔をちらりと見て、メガネの奥で目を細めた。


「まあ、呪いはないが、別のものはあるかもしれないぞ。」


その言葉を聞いた瞬間、尾軽の背筋に冷たい水がかけられたような感覚が走った。灯二はオカルトを信じない。その灯二が、「別のもの」という言葉を使ったことに、尾軽は唐突な裏切りを感じた。


「な、なんだよ別のものって。」


尾軽はハンドルを握る手に力を込め、冷や汗が脇の下を伝うのを感じた。


「ふっ。それはまだ分からん。」


灯二はバカにしたように、皮肉に満ちた笑みを浮かべた。


あっ。分かった。こいつ、適当なこと言って俺をビビらせようとしてるな…!

長い付き合いだ。尾軽はすぐに灯二の悪趣味な冗談だと気づき、張り詰めていた緊張を解いた。


「そんな子供騙しのハッタリ、信じるわけ」


次の瞬間、車に繋いだUSBから流れるアップテンポの夏ソングが、一瞬、「ジーッ」というデジタルなノイズを伴い、ピッチが少し歪んだように聞こえた。


「…。」

「ほらな、早速だ。」


尾軽は反射的にオーディオを見たが、ディスプレイの表示は正常だ。ノイズは一瞬で消え、曲は元の通り流れている。


まあ、型落ちの車だし、エンジンのかけ始めだし、久しぶりに起動したわけだし、ノイズが入るのは自然なこと…だよね?


尾軽は心の中で必死にそう言い聞かせ、得体の知れない不安を振り払い、リコが待つ目的地へとアクセルを強く踏み込んだ。


尾軽が運転するホンダ・フリードは、灯二の家からわずか数分で、今度は星崎リコが住む厳重なセキュリティのマンションの車寄せに滑り込んだ。


「へー。いい車じゃん。」


リコは美人YouTuberらしいライムグリーンのノースリーブブラウスに、ハイウエストの白いワイドパンツ、足元は白のグルカサンダル姿で現れた。季節感に合わせたオシャレな服装、元アイドルという美貌に動悸が激しくなるが頭を振って冷静になる。


「でしょ、さあ乗って乗って。」


だが、リコは乗り込むなり、尾軽に向けて怪訝な表情を浮かべた。


「けど尾軽さんがチェシャ猫ぐらいニヤついてるから減点。正直キモいよ。」


「ひどい。」


尾軽は、新しい車への興奮をいきなり削がれてしまった。


「運転してもらってるやつの言い草とは思えんな。」


灯二が後部座席に座るリコを鼻で笑った。


「灯二も人のこと言えないでしょ。あ、その消臭剤貸して。」


リコは、消臭剤を受け取るや否や、軽快な言葉のキャッチボールをしながら、古いタバコのヤニと汗が染み込んだ匂いが充満する車内に、容赦なくスプレーを撒き散らした。車内はあっという間にフローラルな花の匂いに変わっていく。


まあいいんだけど、言外に車が臭いってことだよね? 同感だし、買ったばっかの車だから俺の不備ではないんだけど、なんか悲しいのはなぜだろう。


尾軽は小さくため息をついた。


「で、星崎リコ。今日はどこに行きたいんだ?」


灯二がルームミラー越しにリコと目を合わせた。


「今日はね、お化けが出るって噂の廃神社。そこの井戸を調べに行くの。片道 30 分くらいかな。住所はあらかじめメッセージ送ったとこね。ってことで尾軽さんヨロシク。」


リコはあっさり今日のミッションを告げ、揺れる車内でカメラのメンテナンスを始めた。


尾軽と灯二は、たまにこうしてリコの心霊系動画の撮影を手伝っている。尾軽がカメラマンや力仕事、そしてナンパ避け。灯二がオカルトの原因解明、そしてボディガードを担当し、リコが演者、という役割分担だ。


「だそうだ、運転手。」


灯二は前方に視線を戻し、尾軽に指示する。


「はーい。今日の目的地のせいで、この車が呪いにかかったりしないよね?」


尾軽は冗談めかして言った。


「だとしたら、動画の新しいネタが一個増えるわね。『呪われた車の影響でどんどんゴリラ化する運転手』、みたいな?」


リコは楽しそうに笑う。


「いや、呪いを放置した挙句金儲けに使わないでよ。」


尾軽は笑いながらツッコむ。たくましい上腕二頭筋と大胸筋も、豪快に上下している。


「なるほど。尾軽は既に呪われてしまったのか。どうりでそんな姿になっているわけだ。」


灯二が目を細め、額に手を当てながら遠いところを見ている。冗談なのか本気なのか判別がつかない。


「いや、呪いじゃなくて筋トレの成果だから!」


尾軽は叫んだ。


ドドドドドド!


赤信号の時に、尾軽は両腕で交互に胸を連打した。


「ムキー!2人とも好き勝手言いやがって!」


「ちょ、尾軽さん、ドラミングやめて!」

リコが腹を抱えて笑っている。


「なんでこんなやつが運転免許を持っているんだ。」


車の中が笑い声で満たされた。 リコさんも、最初会った時より相当心を開いてくれたような気がする。


日々の喧騒の疲れは、こんな他愛もない雑談で吹き飛ぶんだよな。


茶番がひと段落し、ふと自分を客観的に振り返った。


尾軽は、車窓を流れゆく真夏の景色に意識が奪われそうになりながら、ハンドルを握る手にぐっと力を込めた。呪いだろうがなんだろうが、この車は彼らとの新しい思い出を乗せて走るのだ。


—-


そして、廃神社での動画撮影が終わり、時刻は夜 8時を回っていた。三人は、幹線道路沿いに建つ、郊外型の清潔なチェーン回転寿司屋で晩御飯を食べていた。

調査でついた埃と汗は、リコの振り撒いたフローラルな消臭剤の残り香と、店内に漂う酢飯の匂いでかき消されていた。


「いやー、結局廃神社をうろちょろしても何もなかったね。」


尾軽がそう言いながら、タッチパネルで迷わずサーモン1 皿を注文した。


「そうね、古びたお札の一つも無かったわ。つまんないの。」


リコは、皿の上に乗ったマグロの赤身の端を、ちょんと醤油につけて口に運ぶ。その直後、少し苦しそうな顔をして水を飲んだ。わさびが苦手なのか、それとも、廃墟探索で疲れ果てて食欲がないのか。


「心霊写真や心霊映像の類も撮影できなかったな。所詮、オカルトなんてそんなものだ。」


灯二はそう言って、端正に並んだイカが乗った寿司に箸をつけた。背筋をピンと伸ばし、口元を汚さずに上品に食べるその様は、まるで高級フレンチを食べている貴族のようだ。


「撮れ高が無いからって、灯二が枯れた井戸の中に入った時は驚いたよ。あれ、撮影中じゃなかったら絶対にやらないでしょ。」


尾軽は笑いながら言った。

灯二はイカを咀嚼したあと、静かに答えた。


「井戸から皿を数える女幽霊も、地下に繋がる秘密の扉もなかったのは残念だ。枯れた井戸の底に不良がポイ捨てしたゴミが落ちてあるだけだった。」


オカルトを否定しながらも本当にいるなら見てみたかった。お気に入りのおもちゃが壊れたかのような、寂しそうな口調だ。


リコはわさびに苦しめられながらも、撮影の成果に満足しているようだった。


そして、しばし食事を楽しんでいたら、気づけば尾軽の前には、40 皿近い使用済み皿が積み上がっていた。


彼らは胃袋の大きい尾軽に対して、食べ過ぎと非難することはない。


「尾軽さんってほんと良く食べるわねー。見てて気持ちが良いわ。」


リコは微笑ましく尾軽を見つめる。


「おい尾軽。今日はデザートのバナナを食べなくて良いのか?」


灯二はむしろ肯定的だ。鼻で笑っている様子が少し癪に触るが。というか2人して俺をゴリラキャラと思ってないか。


「せっかく寿司屋に来たんだから寿司を食べるよ。バナナは家に帰ってから食べるし。」


尾軽がそう言いながら、四度目のサーモンをタッチパネルで注文した。


「結局バナナ食べるんじゃん。」

リコは弾かれたように笑った。


そして、話がひと段落した後、リコは会計を済ませるため、慣れた手つきで皿をまとめ始めた。


「灯二、今回は私が払う番だからね!」


リコは宣言した。


「なぜだ。俺と星崎リコの割り勘で良くないか?」


「そう言って前回全部灯二が払ったでしょ!私の撮影手伝ったんだし、今日は私に奢られなさいよ!」


リコは譲らない。


「あの、会計3人別々がいいんだけど…。俺だけめっちゃ食べたし。」

尾軽が巨大を縮こませ申し訳なさそうに手を挙げた。


その言葉は、二人のハモった声に遮られた。


「「貧乏人は黙ってろ!」」


「はい…。」


奢られる前提で40皿も食べたわけじゃないんだけどな。


尾軽は、無職の灯二や自分より歳下の女の子に毎回お金を出してもらっているという事実に、恥ずかしさを感じた。だが、尾軽がこの 3 人の中で圧倒的に貧乏であることは、反論の余地がない。なにせ、40 万円の車を買ったばかりだし。彼は二人の厚意を遠慮なく受け取っておこうと決めた。


灯二やリコとしても、運転や撮影の手伝い等を嫌な顔せず引き受ける尾軽に、感謝を伝える方法を探していたので、ガソリン代や食事代を出すという約束は、非常に都合が良かったのだ。


「なーんか、呪われた車っていう割には何も起きなかったわね。つまんないの。」


リコは会計から戻り、口を尖らせた。結局今回はリコが全額払うということで決着がついた。


「何か起きた方が良かった?」


「良いわけないじゃない。馬鹿なの?」


「なんて繊細な乙女心なんだ。」


帰り道でも、曰く付きの車内は三人の賑やかな会話で満たされていた。


「呪いは私が車にいない時に体験してよね。それを動画のネタにしてあげる。」


リコは笑顔で、尾軽に無茶な宿題を出した。


「なんて自分勝手なんだ。」


尾軽は呆れたように呟いた。


「帰りにスーパーで卵買ってきてくらいのテンションだな。」


灯二が、リコの要望を家事のレベルに喩えて笑う。

そんな冗談でひとしきり盛り上がった後。


「じゃあ、灯二、尾軽さん。また今度ね。おやすみなさい。」


そう言って、リコはマンションの前で名残り惜しそうに手を振って別れた。またすぐに会えるから大丈夫。自身にそう言い聞かせ、笑顔を作っているようにも見えた。


「灯二、リコさんもうちょっと一緒に居たかったんじゃないか?」


「知らん。俺は早く帰って寝たい。」


灯二は助手席側の窓を向いて腕を組んだ。これ以上聞くなというサインだ。鈍いのか、それとも全て気づいたうえで知らないふりをしているのか。


「またすぐに会うだろ。」


灯二が呟いた。


まあ、俺が口を出すことじゃないか。もどかしいと思いながらも、尾軽は軽くため息をついた。


リコをマンションに送り届けた後、次に灯二を八王子市の家の前で降ろす。


「尾軽、また運転頼むぞ。」


そう言い残し、灯二は玄関のドアを閉めた。

尾軽は一気に寂しくなった車内で、ホンダ・フリードのシートに深く沈み込み、今日のことを振り返った。


楽しかった雑談、調査の疲労、そして40 万円という破格のフリード。色んなことを考えていると、強い疲労感から少し意識が遠くなり始めた。


いかんいかん、まだ運転中なのに。


誰もいなくなったことと、一日中活動しまくってたくさんご飯を食べた後だからなのか、気が緩んだみたいだ。


尾軽は、気分転換にいつもと違う音楽をかけようと思い立った。車に接続した USBには、学生時代にハマっていた懐かしのロックバンドのプレイリストがある。赤信号で停車した瞬間を見計らい、尾軽は車のディスプレイを操作した。


新しい曲をタップした瞬間、オーディオから乾いたノイズが響いた。

ザッ、ザザッ。


「ん?」


尾軽がノイズに気を取られていると、その瞬間、音楽の音量を超えて、くぐもった低い男性の声が、まるで車体全体が振動しているかのように響いた。


『海には近づくな。』


気のせいだろうか。音楽ではなく、車載スピーカーから直接、警告めいた声が響いたような気がした。


尾軽が、恐る恐るカーナビのディスプレイに触れようとした、その時だった。


「ひっ。」


ディスプレイ全体に激しいノイズが走り、カーナビの映像が一瞬にして乱れたモザイクに変わった。そのノイズの奥に、ドクロ。いや、まるで苦痛に叫ぶ人の顔のようなものがぼんやりと浮かび上がっているように見えた。


ププゥー!!


けたたましいクラクションの音が、尾軽の意識を一気に現実に引き戻した。信号が青に変わっていた。尾軽は慌ててアクセルを踏む。


次の瞬間には映像は何事もなかったかのように回復し、元の現在地を示していた。

オーディオからは、先ほど選んだロックソングが、何の問題もなく、力強く流れている。


「この車は呪われているってみんなすぐに売りに出すのさ。」


中古車屋の店主の胡散臭い言葉が、尾軽の脳裏にリフレインした。


今の声とカーナビの映像は何?ノイズか?幻覚か?


「まさか、な。」


夜は既に涼しくなっていたが、尾軽はほんの数秒の間にびっしょりと冷や汗をかいていた。


——


真夏の強い日差しがアスファルトに照りつける。ブルーシートを木に括り付けた急造のテントや、簡易タープテントが公民館の屋外に並べられている。地域の自治会が主催する流しそうめんの会場には、竹の清々しい匂いと、子どもたちの賑やかな声、そしてかすかな水の流れる音が満ちていた。


「で、その車が呪われていると?」


灯二は、会場の中心にある、半分に割られた大きな竹筒の入り口部分に立っていた。その手元には、茹で上がったばかりの白いそうめんの束がある。


灯二はそうめんをトングで掴みながら、上から下へ、品定めするような視線を送り、軽く首を振った。話を聞きながら、灯二は次々とそうめんを丁寧に竹筒に乗せている。


「オカル先生、はやくはやくー!」


竹筒の下流に待機している子どもたちの列から、アキラの弾むような声が響く。


「あ、ごめんごめん!」


尾軽はその催促を聞き、慌てて手元のそうめんを竹筒に乗せた。そうめんは、冷たい水に運ばれて、待ち構えるアキラ、未来、そして彼らのクラスメイトが並ぶところへと勢いよく流れていく。


尾軽は、流れるそうめんから目を離し、再び真剣な面持ちで話し始めた。


「うん、他にも、たまに車のドアが俺の意図と関係なくロックされていたり、バッテリーがすぐ上がったりったり、オーディオからうめき声が聞こえたり…。」


「なるほどな。だが全て勘違いやちょっとした機器の不調の範囲内にも聞こえるぞ。あとバッテリーは新品に変えろ。」


灯二は、そうめんを流し終え、自分の分の器にめんつゆを注ぎながら淡々と返した。その言葉は、尾軽の主張を一刀両断するものだった。


「そんな!あれは確かに…!」


尾軽が反論しようとした、その時。


「オカル先生、灯二さん、何話してるの?一緒に流しそうめん食べようよ。」


めんつゆのついた箸を持ったアキラが、純粋な、何の邪気もない好奇心に満ちた瞳でやってきた。彼の裏表の無い性格は呪いや不調といった大人の世界の話を遮ってくれる。

続いて、少し心配そうな表情の未来が、尾軽の顔をじっと見上げた。


「オカル先生、大丈夫?疲れてない?」


未来は透き通るような眼差しを向けた。


「そうだ。未来の言う通り、お前最近少しやつれてるぞ。」


灯二は、生姜のみじん切りとネギがこんもりと器に盛られたそうめんを啜った。


「灯二さん、そんなに生姜を乗せて、辛くないの?」

未来が不思議そうに器を見つめた。


「ああ。悪くない。」


灯二はご満悦の表情を浮かべている。


「ショウガもネギも美味しくないよー!」

アキラはめんつゆとそうめんしか入っていない自身の器を見せた。


「まあ、アキラはまだまだお子ちゃまだからな。仕方ない。」


「灯二さんこそ大人のくせに子どもに偉そうにして、大人気ないじゃん!」


「そうか。なら大人の俺から子どものアキラにプレゼントだ。大人への近道である生姜とネギを盛ってやろう。残さず食えよ。」


「ぎにゃー!?」


アキラの絶叫をBGMに流しそうめんの会場は小さな子どもから大人まで、多様な人々で賑わっている。地域の自治会のイベントで、保護者や先生、そして灯二のように暇を持て余した大人…もとい力仕事をしてくれる地域のお兄さんとかのおかげで成り立っている。まあ灯二は俺が誘ったんだけど。


周囲では、保護者たちが談笑し、先生たちは子どもたちを見守っている。


「大丈夫だよ。ありがとう、未来、灯二。」


「オカル先生、これでも食べて元気出しなよ。」


アキラは生姜とネギがてんこ盛りの器を差し出した。


「それはアキラが要らないものを食わせようとしているだけだろ。」


「ありゃ、バレた。」


「アキラってほんとばか。」


未来がほっぺを膨らませ、全員が和やかに笑った。アキラの性格には、いつも助けられている。改めてそう感じた。


「ふん、まあお前はいつも 1 人で抱え込みすぎだ。昔からバカ真面目だからな。」


灯二が、流れるそうめんを見つめながら、メガネを掛け直した。冷たい言い方だが、その口調には、どこか優しさが滲んでいた。尾軽の青白い顔色と目の下のクマに、灯二は気づいていたのだ。


「先生、ちゃんと寝てる?」


未来も心配そうな顔で尋ねる。


「大丈夫。」


その形に口は動いたが、声は出なかった。未来のまっすぐな目と、灯二の興味なさそうなふりをしながらも、栄養価の高い薬味を大量に渡してきた手を見て、尾軽は諦めた。


ここで見栄を張っても意味はないか。尾軽は小さく息をついた。


「実は…最近あまり眠れていないんだよな。」


そう告げた瞬間だった。


「尾軽先生!」


聞き覚えのある、男女の弾むような声が背後から聞こえた。

尾軽が振り返ると、そこにいたのは未来の両親だった。


「あ、パパ、ママ!」


そう言って未来は、パッと笑顔を咲かせて尾軽の背後に駆け寄って行った。


「ウチの子がいつもお世話になってます。」


深々とお辞儀をしてきたのは、未来の両親だ。父親は仕立ての良いサマージャケットを羽織り、母親は上品なリネン素材のワンピースを着こなし、まるで高級リゾートの休憩中のような優雅な立ち振る舞いだった。その清潔感と余裕は、流しそうめん会場に一服の涼風を送り込んだようだった。


「あら未来ちゃん、こんにちは。」


「アキラのおばさん!こんにちは!」


尾軽が驚いていると、今度はアキラの母も現れた。


「三条さん、こんにちは。いつもうちのアキラがお世話になってます。」


「いえいえ、こちらこそ佐久間さん。うちの未来はいっつもアキラ君の話ばかりで。」


アキラの母と未来の母はお互いに挨拶を交わした。


「未来ちゃん、今日も礼儀正しくて可愛いわね。」


背筋の伸びたスラリとした体躯に、パッチリとした目元はアキラそっくり。その声には鋭い芯が通り、目力は尋常ではない。美人で気の強いアキラの母親だ。


「おばさんも今日もすっごく綺麗です!その服とピアスとっても似合ってます!」


「まあ、なんて良い子なの。こんな素敵な子、アキラにはもったいないわ。」


アキラの母は目をうっとりさせて、頬に手を添えた。と思ったら、アキラを視界に捉えた瞬間、般若のような形相になった。


「アキラ、あんたまた野菜残してるんじゃないの! ちゃんと食べなさい!」


「げげっ! なんでかあちゃんいるんだよ。今日は忙しいって言ってたじゃん!」


「なに、来ちゃだめなの?」


「ひっ、キテクレテアリガトウオカアサン。」


アキラの母からただならぬ圧力を感じ、縮み上がる。


「なんで棒読みなのよ。」


「ヒィッ!」


アキラは、驚きと焦りがないまぜになった声を上げ、まるで雷を避けるかのように尾軽の体を盾にして隠れた。


「先生に挨拶できる機会はそう無いからね、ちょこっとだけお邪魔しに来たのよ。」


そう言ってアキラの母は尾軽と灯二に向き直った。


「尾軽先生、それから灯二さん。いつもうちの息子がお世話になっています。」


「いえいえこちらこそ。元気なアキラ君のおかげで毎日退屈していませんよ。」


灯二がそうめんの器を置き、薄く笑みを浮かべた。


おい、ギリギリ失礼かどうかのラインを攻めるな。


「い、いえいえそんな。アキラくんはいつも明るくてクラスの人気者ですよ。最近は勉強も頑張っていますし。」


尾軽は手のひらを振って取り繕った。


「あらそう?無理して褒めなくてもいいんですよ。けど確かに、最近この子は未来ちゃんと灯二さんのおかげで勉強するようになったの。ほんと、なんとお礼を言ったらいいのか。」


「やめてよかあちゃん、恥ずかしいよ。」


アキラは、尾軽の背に体を隠すようにして、口を尖らせた。


「それよりさ、父ちゃんは次いつ帰ってくるんだよ。」


その声には、少しの期待と、半分諦めたような哀愁が混じっていた。

しばしの静寂を破ってアキラの母は話しはじめた。


「言ったじゃない、お父さんは海外への長期出張で半年は帰ってこないって。」


アキラの母は、鋭い目元を和らげ、優しさを湛えた瞳でアキラを見つめた。


「分かってるよ。けどもっと早く帰って来れないの?」


アキラは、大人の世界を理解しようとしながらも、譲れない幼い気持ちをぶつけた。

母は何も答えず、ただ静かにアキラの頭を撫でた。その手のひらのぬくもりは、「ごめんね」という言葉の代わりだった。


「お父さんも頑張っているから、私たちもお父さん抜きで頑張ろう。ね?」


母の力強くも優しい励ましに、アキラは流れるそうめんを見つめたまま、小さく返事をした。


「うん。」


その歯切れの悪い短い返事には、「分かっているけれど、納得できない」という、葛藤と寂しさが全部詰まっていた。


尾軽は、家庭訪問の時、アキラの父が仕事の都合でほとんど家にいないことはあらかじめ聞いていた。授業参観も、運動会も参加できない父。共働きで父が長期不在となれば、休みの日にどこかに連れて行ってもらうことも、そう多くはないだろう。


アキラは、寂しいに決まっている。


尾軽は、教師として、そしてかつて自分も父親に構ってもらえなかった人間として、その胸の奥を刺すような寂寥感を理解した。竹筒を流れるそうめんのように、アキラの時間も、父親のいないまま、ただ流れていってしまうのだ。


流しそうめんの竹筒を流れる水音が、公民館を包み込むように響いていた。その静寂を破ったのは灯二だった。


「アキラ、夏休みの宿題の絵日記と自由研究は順調か?」


灯二は、そっけなく、感情の読み取れない声で呟いた。


「え?」


アキラの顔に浮かんだのは、「なんでそんな話を急にしたの?」という戸惑いと、「母親の前で宿題が順調ではないと言えない」という焦燥感が入り混じった複雑な表情だった。


「その様子だと、難儀しているようだな。」


灯二は、アキラの表情を正確に読み取り、淡々と結論付けた。


灯二は一体何を考えているんだ。


尾軽は、この唐突な展開に困惑した。

追い詰められたアキラは、ついに感情を爆発させた。


「仕方ないじゃん! 父ちゃんも母ちゃんも忙しいから、家族行事なんてそうそうないんだよ!」


アキラの悲痛な叫びに、アキラの母も、隣にいる未来とその両親も悲しそうな顔をした。どうにもならない、親の都合で子どもに寂しい思いをさせているという、やりきれない罪悪感が表情に滲む。仕方ないんだよという、無力な諦念がその場を支配した。

灯二は、そこで初めて竹筒から視線を外した。


「アキラ、今度海釣りに連れて行ってやる。そこで学んだことを宿題に活かせ。」


その言葉は、科学実験の提案のように簡潔で、迷いがなかった。


「海、海!?釣り、行きたい!やったー!」


アキラは、さっきまでの寂しさや反抗心を一瞬で吹き飛ばし、目を輝かせて灯二に飛びついた。頭を灯二の腹にぐりぐりと押し付け、灯二は邪魔くさそうにその頭を押しのけている。


「ついでに、魚料理を覚えて母や姉に振る舞ってやれ。」


そうか、灯二なりの不器用で優しい気遣いだったのか。尾軽は、冷静な皮肉屋の仮面を被った親友の温かい心を理解した。


「もちろん、尾軽の運転でな。」

「で、ですよねー。」


灯二は車を持っていない。ついでに言えば運転免許も。尾軽は、運転手兼ツッコミ役という運命を、乾いた笑いで受け入れた。


「灯二さん、尾軽先生。そ、それはさすがに…申し訳ないというか。」


アキラの母が申し訳なさそうに口を挟んだ。提案は嬉しいが、教師が 1 人の生徒だけを贔屓するのは、周りの目が気になるのだろう。確かに、灯二と尾軽の善意にかこつけて「じゃあうちの子の面倒を見て!」と厚かましい要求をしてくるモンスターペアレントがいるかもしれない。


夏の日差しと蝉の声が響く和やかな流しそうめんの会。この中で、誰かが今の会話を聞いていたかもしれない。尾軽は辺りを見渡し保護者達の顔色を窺ったが、杞憂だったようだ。誰もがそうめんに夢中だった。


灯二は、アキラの母親に向き直り、淀みなく、すらすらと言葉を発した。


「俺と尾軽は元々海釣りに行くつもりでした。そのついでですよ。それに、アキラは理科の成績が良くないので、前から生物や化学の素晴らしさと面白さを伝えたいと思っていました。だからいい機会です。」


元々、海釣りに行く予定なんてない。

灯二の不器用で、優しい嘘だ。やれやれ、俺も嘘つきになるか。嘘を100回言えば本当になると言うし。

尾軽は、そう心の中で呟きながら、アキラの頭を撫でた。


「アキラ、そういうわけだから、遠慮しなくていいぞ。代わりに、日記に尾軽先生が連れて行ってくれたって書いちゃだめだ。分かったね。」


「分かった、オカル先生!」


「良かったね、アキラ。」


そうめんの片付けが始まった公民館の隅で、未来が後ろで手を組み、にこやかにアキラに話しかけた。


「うん!未来も一緒に釣りに行く?」


アキラは興奮した面持ちで誘う。


「いや、私はいい。餌の虫とか触りたくないし日焼けしたくないもん。」


未来は笑顔のまま、食い気味に断った。


「いいもん、尾軽先生らと楽しんで来るしー!」


アキラは強がって未来と追いかけっこを始めた。さっきまでそうめんをたらふく食べていたはずなのに、子どもは元気だ。尾軽の口角は自然と緩んだ。


その時、灯二がそっとアキラのめんつゆが入っていた器を見つめていた。


「あいつ、せっかく入れた薬味を全然食べていない。」


灯二は寂しそうに呟いた。まるで、自分が作った料理を残されたかのような落ち込み様だ。生姜やミョウガの鮮やかな色味が、アキラがめんつゆの残骸の上に、手つかずのまま残っている。


流しそうめんの会が終わり、片付けも済んだ頃。


「じゃあオカル先生、灯二さん、来週の土曜日ね!」


アキラが元気よく手を振った。


「アキラ、くれぐれも迷惑かけるんじゃないよ。尾軽先生、灯二さん、ありがとうございます。うちの子も喜んでいます。お手数ですけどよろしくお願いします。」


アキラの母は、深々と丁寧に頭を下げた。その丁寧すぎるほどの礼儀は、周りの目への配慮と感謝の念が入り混じった複雑なものだ。対照的に、アキラは歯を見せて元気よく手を振り続け、未来の家族とともに公民館を後にした。


灯二を家に送り届けるまでの車中。

ホンダ・フリードの車内は、先程までの喧騒が嘘のように静まり返っていた。灯二は珍しく、助手席で微かに落ち着きなさそうに指でトントンと音を鳴らしていた。


「尾軽、未来も言っていたが最近お前寝れていないんだろ。悪いな、送ってもらって。」


「いや気にしなくていいよ、俺が誘ったんだし。今日も灯二の機転のおかげでアキラが喜んでいたからね。」


「なら気にしないでいよう。」


「切り替え早いなおい。」


尾軽のツッコミを無視し、灯二は本題に入った。


「尾軽の睡眠不足の原因は何か心当たりがあるのか?」


「いや、それは…。」


尾軽は、約1週間前に車のオーディオから聞こえてきた不気味な声が原因、とはすぐには言えなかった。いや、言った方が良いのかな。逡巡が喉の奥で詰まる。


「なんだ、歯切れが悪いな。」


冷蔵庫の卵が無くなっていることを報告するかのような、淡々とした口調。


「おい、尾軽!!前を見ろ!」


その瞬間、灯二の声が鋭く張り詰めた。


「え、うわっ!」


尾軽は慌てて急ブレーキを踏んだ。タイヤが悲鳴を上げ、シートベルトが強く体を締め付ける。目の前の信号が赤であることに気づかず、危うく交差点に突っ込むところだった。


「あ、危なかった。」


尾軽は肩を小刻みに振るわせ、ハンドルに額を押し付けて深呼吸した。


「いつもの安全運転第一のお前らしくないぞ、尾軽。言わなかったが、今日の運転は全体的にふらふら左右に揺れていたからな。」


灯二の声には、焦燥と怒りが混じっていた。


「う、うん。ごめん気をつけるよ。」


尾軽はハンドルを握る手に力がこもった。しっかりしなきゃと思うのに、なんか意識が離れていくというか、朦朧とするというか。頭の奥底が鈍く痛む。


これで、アキラとの海釣りは大丈夫なんだろうか。


尾軽の不安は、低く、不規則なノイズとなって、曰く付きの車内に漂っていた。


灯二の一軒家のガレージに停車した車内は、先ほどの急ブレーキの緊張と、尾軽の体調不良の話題で、重い沈黙に包まれていた。


「体調不良の心当たりは無いのか? 夏バテか?だから今日流しそうめんで薬味をたくさん食べておけと言っただろう。」


灯二は、尾軽の体調不良を夏の熱中症か栄養不足という線で片付けようとしている。


「いや、夏バテではないと思う…けど。」


尾軽の言葉は濁った。

尾軽は、先日深夜にカーステレオから響いた不気味な声を思い出す。それは疲労や幻覚ではなかったという確信が、喉の奥でざらつく。


「車を購入してから、なんだか調子が悪くなった気がするんだ。」


灯二は、その言葉にわずかな嘲りの入った視線を尾軽に向けた。


「尾軽。お前まさか呪いのこと本気で信じているのか?」


だが、尾軽の顔色の悪さは明らかだった。灯二はそれ以上何も言わなかった。「呪い」という非科学的な単語は、彼の辞書には存在しない。


「信じてない、と思ってるよ。けど、一回気になったら不安が消えなくて。それに、オーディオからたまに変な声が聞こえるんだ。」


「それは疲れによる幻聴じゃないのか?」


灯二は、あくまでも科学的見地から切り捨てる。


「違うって! 音や声が聞こえてから、体調が悪くなり始めたんだ!順序が逆なんだよ!」


尾軽は、自分の正気を疑われている気がして、焦燥感とともに叫んだ。

その瞬間、車内の空調の吹き出し口の奥から、カーステレオを介さず、微かだが確かな、奇妙な音が響いた。


それは、まるで耳鳴りのような「キーン」という鋭い高周波と、地響きのような「ウーッ…」という非可聴域に近い低周波が不規則に交じり合うノイズだった。聴覚に直接訴えるというより、内臓を揺さぶるような不快な響きだ。


尾軽は、頭の奥がズキッと痛み、思わず顔をしかめる。


「ね!今の聞こえたでしょ!?」


尾軽は、灯二の反応を確認しようと、縋るような目で隣を見た。

灯二は、目を細め、微動だにしない。彼の顔には嘲りは消え、代わりに解析者の表情が浮かんでいた。


「なるほど。興味深い。」


灯二の口から出たのは、納得と興奮が入り混じった返事だった。


「尾軽、明日の日中は暇か?」


「いや、一般人にとって月曜日は仕事なんですよ、投資家さん。」


投資家兼ニートは、時間の流れ方がまるで違う。端的に言うと、常識が俺らとズレている。まあ元々学生の頃から灯二は個性的で周りとは一線を画していたけど。


灯二の何気ない一言が、尾軽を「社畜」という現実に強く引き戻した。子どもは好きだ。しかし、また明日も教頭先生にネチネチ言われるのかなぁ。そう思うと、夏の夕暮れの空気まで憂鬱になった気がした。


「そうか。尾軽、そのままちょっと待ってろ。」


灯二は、そう言い残すと、足早に自分の部屋に戻って行った。

尾軽が、ハンドルに頭を預けてボーっとしてからおよそ5分後。灯二は、再び車に戻ってきたが、その両手には何かを抱えていた。それは、まるで近未来のスパイが使う小道具のようだった。


尾軽が目を凝らす。


右手には、手のひらに乗る程度の、マットブラックの樹脂製小型ボックス。四隅は衝撃吸収用のゴムで覆われ、工事現場での使用を想定した無骨な耐久性が感じられる。側面には多ピンのコネクタが並んでおり、そこから細く色分けされた多数のケーブルが、まるで神経の束のように伸びていた。天面には、青白く光る小さなディスプレイがあり、膨大なデータパケットの数字や、心電図のような波形グラフが絶えずスクロールしている。


左手には、薄い金属製のタブレット端末のような形状の機器。熱を逃がすための冷却スリットが刻まれており、精密機械特有の冷たい感触を想像させる。本体から短い 3 本の細いアンテナが、まるで昆虫の触覚のように四方八方を向いて立っている。これが見えない微弱な電波を捉える役割を担っている様に見える。


「これをしばらく尾軽の車の運転席前に設置する。」


そう言って灯二は、ソーラーパネル付きの、もう一つの謎の機器を、ダッシュボードの上、運転手の視界を遮らない絶妙な位置に吸盤で設置し始めた。


「待って、勝手につけないでよ。これなんだよ。」


尾軽は声を潜めたまま焦る。


「 キャンバスアナライザとスペクトラム・アナライザだ。」


灯二は、淡々と答える。


「なるほど分からん。」


「まあ、ドライブレコーダーのようなものだ。呪い専用のな。」


灯二は、そう言って不敵に笑った。その笑みには、非科学的なオカルトを暴くことへの絶対的な自信と、危険な実験への純粋な興奮が滲んでいた。


灯二は、ケーブルを内装の隙間に押し込みながら、尾軽に最後の指示を出した。


「俺の仮説が合っていたら、呪いなんてものはやはり存在しない。お前の体調不良も解ける。代わりに、数日間データを取る必要がある。来週の釣りの時まで運転をミスって死ぬなよ。」


「お、おう。」


「…。」


「えっ、いつもの冗談だよな?」


灯二は返事もせず、さっさと部屋に戻って行った。長い付き合いだから分かる。その背中は、肩に少し力が入り緊張しているようにも見えた。


車を運転して帰路に着く間、尾軽はさっきの灯二のセリフを反芻していた。灯二の言っていることは冗談なのか、本気なのか、判断がつかない。


だが、灯二は俺の悩みを解決しようとしてくれていることだけは確かだ。運転席前のダッシュボードに設置された黒い箱と、青白い光を放つ小さなディスプレイが、深夜の車内で静かに、しかし力強く輝いていた。


—-


それからの平日の3日間はあっという間だった。子ども達は夏休み中とはいえ、教師に夏休みは無い。通知表の作成、職員会議、2学期の教材研究、そして学校のプール当番といった、普段の授業中にはない事務的な作業が詰まっている。とはいえ、大変かというとそうでもない。子どもの声が響かない夏休み期間中は、他の時期よりも圧倒的に時間の余裕がある。子どもが好きでこの仕事をしているのに、子どもに会えないことを少し喜んでしまうなんて、俺は教師失格だろうか。尾軽は、この矛盾した感情に、小さな罪悪感を覚えていた。

そして、水曜日の夕方。


「尾軽先生、今日はグイッと一杯どうですか?」


「田中先生。すみません、用事があるのでお先に失礼します。」


「なんだよ、つれないなあ。」


田中先生が唇を尖らせて尾軽が困惑していると、他の先生から助け舟が入った。


「田中先生、あんまり若手の先生を誘いすぎるのはご時世的に良くないですよ。」


「そーいうもんかぁ。仕方ないなあ。」


尾軽は、苦笑いを返した。いつものように先輩教師である田中からの飲みの誘いを断り、自分のホンダ・フリードに乗り込んだ。もし断らなかったら、多分朝まで奥さんの愚痴を聞かされる。独身は寂しいが、結婚しても茨の道ならいったい幸せとはどこにあるのだろうか。しかもあいにく今の尾軽は金欠だ。


車に乗り込んだ瞬間、頭痛や肩こりに襲われているような微かな不快感が全身に広がった。まるで、脳内に教会のベルがけたたましく鳴り響いてるような、耳元でおばちゃんの井戸端会議を聞かされているような、そんな耳障りで形容しがたい不快感。それは、頭の奥底で響く鈍い痛みと、頸椎の凝りが同時にやってくるような不調だ。連日の猛暑で体力が落ちているだけなのか、尾軽には判断がつかない。ただ、この不調が車に乗っている時だけ顕著になることを、彼は知っていた。新車に乗る直前の高揚感は、もうとっくに無くなっていた。


助手席の前には先日灯二が残して行った真っ黒なモニターと、毛虫の様なトゲが頭部に生えたタブレットがある。そして、文字が浮かんでは消えている様子が少し不気味だ。


「これで本当に呪いの原因が分かるのかよ、灯二。」

そもそも、呪いなんて非科学的なものを現代技術で解明なんてできるのか?

そんな時、ポケットの中でスマホが震えた。

画面には『星崎リコ』の文字。


『尾軽さん、今日の夜暇?灯二の家でご飯食べようよ。』


そのメッセージは人気 YouTuberとしても、若いお嬢さんとしても、あまりに不用心な誘いではないかと尾軽は苦笑いしてしまう。いや、リコさんは元々警戒心が強いタイプだ。招待してくれるということは、それだけ俺たちのことを信頼してくれるようになったってことだよな。というか、若い男女が2人きりのところに、俺が混ざって邪魔にならないか?


「ぜひ行かせもらうよ」


そう返事しかけたところで、親指がピタリと止まった。

車の呪いのことだ。

この車に他人を乗せたら、危険なことに巻き込むのでは無いか? 先日の不気味な声が脳裏をよぎる。尾軽はリコへの返信を保留し、先に灯二へメッセージを送った。


『尾軽が言う通り、確かに懸念はある。だが、アキラと海釣りに行くまでに一度お前の車を隅々まで見ておきたかったところだ。それに、車のデータを収集してて気になっていた、調べたいことがあるから、とりあえず今夜俺の家に来い。』


灯二からの返事を見て、尾軽は覚悟を決めた。どうせそのまま家に帰るのと、八王子の灯二の家に寄るのじゃ手間はほとんど変わらない。今日灯二が車を見てくれるなら、それに越したことはないだろう。というか、「気になるところがある」と言われた車を放置したまま週末になるまで運転したくない。


尾軽が八王子市郊外にある灯二の邸宅に車を停めると、玄関先でアキラとリコが出迎えてくれた。


「やっほー、尾軽さん。お疲れ様。」


「オカル先生、おかえり!」


「おお、アキラも灯二の家に来てたのか。」


勢いよく抱きついてきたアキラを受け止めながら、尾軽は驚きの声をあげた。


「灯二さんに勉強教えてもらってるの!」


「未来も来てるわよ。家は広いし、冷房効いてるし、灯二のご飯美味しいし、最高の家庭教師って感じ。」


リコさんはそう言って悪戯っぽくウインクした。3人で毎日入り浸っているのか、いいな。少し羨ましい。


玄関を上がると、アイランドキッチンで灯二が中華鍋を振るい、未来が手際よくコップや皿の準備をしていた。香ばしいごま油の匂いが食欲をそそる。


「オカル先生、おかえりー!」


「早く手を洗って座れ。今日の献立は小籠包と餃子とチャーハンだ。」


そう言って灯二は次々と皿にチャーハンを盛っていく。そして、メガネを曇らせて小籠包の蒸篭をテーブルの中央に置いた。餃子の焼き上がるパリパリとした音、黄金色のチャーハンが発するごま油と卵の香ばしい匂い、それらを包み込む小籠包の蒸気。


ここは天国か?


日中の疲労も相まって、幸せな空気に尾軽は一瞬意識が飛びかけた。


そういえば、灯二は最近中華料理にハマってると言っていた。たくさん人がいればその分いろんな料理の練習ができるということか。


「美味しそう!」


リコとアキラも小走りで椅子を引いた。


なんか、誰1人血は繋がってないけど、家族みたいだ。尾軽はそう思った。


「やったー!野菜が全然ない!」


テーブルに並べられた茶色いご馳走を見て、アキラがバンザイをして喜んだ。


「そんなわけないだろ。野菜たっぷりの中華スープを絶対最後まで食べろよ。」


「えー!」


「じゃないともう勉強を見てやらん。」


「そんなー!」


灯二はアキラと張り合って、ムキになった子どもみたいになっている。流しそうめんの時といい、灯二は食べ物を粗末にするのが嫌いだ。


「アキラ、ちゃんと野菜食べないとアキラのお母さんに言いつけるよ。というか灯二さんの中華スープ、すごい美味しいからいつも最後まで食べてるじゃん。」


未来はアキラの頬をグイと指で押し、中華スープを視界の中心に捉えさせた。


「ひゃい…。」

その声でアキラは大人しく肩をすぼめた。


「いただきます!」


全員の声が重なる。尾軽は灯二の絶品チャーハンをレンゲですくい、口へと運んだ。


尾軽は口の中に広がる至福の味に目を見開く。


「う、美味い!」


「灯二さん、この小籠包美味しい!」


未来が上品に口元を抑えた。


「ぐぬぬ、このチャーハンなんでこんなパラパラなのよ…。」


リコさんは美味しい5割私よりも料理できて悔しい5割といった顔でチャーハンを睨んでいる。


「灯二さん、おかわり!」


アキラは野菜たっぷりの中華スープを早速空にして目をキラキラさせていた。


「おかわりはたくさんあるからそう慌てるな。」


そう言ってアキラに背を向けてキッチンに向かう灯二の背中は、嬉しそうだった。


うん、灯二の料理はどれも最高だ。

まずは黄金色のチャーハン。強火で煽られた米粒は、一粒一粒が油でコーティングされ、パラリと解けるような食感だ。噛むほどに、自家製チャーシューの凝縮された旨味と、焦がし醤油の香ばしさが鼻に抜ける。シンプルだが、家庭では絶対に出せないプロの味だ。


箸を伸ばした焼き餃子は、底に見事な羽根がついている。カリッという軽快な音と共に皮を破れば、中から熱々の肉汁がジュワリと溢れ出した。ニラのパンチが効いていて、白米が欲しくなる味だが、チャーハンとの相性も抜群だ。隣の蒸籠にある小籠包も絶品で、レンゲの上で薄皮を割ると、黄金色のスープが溢れ出し、生姜の千切りと黒酢でさっぱりと頂くのがたまらない。


そして、アキラが文句を言っていた中華スープ。白菜、人参、キクラゲがたっぷり入っているが、鶏ガラの出汁が濃厚で、野菜の甘みが溶け出している。とろみのあるスープが胃に優しく染み渡り、中華特有の脂っこさを綺麗に流してくれるようだ。これなら野菜嫌いの子どもでも完食できるだろう。


「そういえば、アキラと未来は、晩御飯をお家で食べなくて良いのか?」


尾軽は極上の料理に舌鼓を打ち、ほどほどで会話に意識を向けた。


「今日は私もアキラも家族の帰りが遅い日なの。千尋ちゃんも友達と外でご飯食べるらしいし、だったら灯二さんが晩御飯食べてけって誘ってくれたの。あと 1 時間くらいしたらパパが迎えに来てくれると思う。」


未来が小籠包をふうふうと冷ましながら答えた。


なるほど、2人にとっては渡りに船だったのか。

賑やかな食卓。湯気の向こうで笑う生徒たちと、ぶっきらぼうに振る舞いながらも皿を取り分けてやる灯二。

この温かい時間が、外に停めた車の不気味さを一時だけ忘れさせてくれた。


そうして楽しい時を過ごしていると、屋敷の外から重低音の効いたブロロロロ……という車のエンジン音が近づいてきた。


「あ、パパが着いたみたい。」


未来は父の迎えに嬉しそうな声を上げたが、その表情はすぐに曇り、悲しそうな色を帯びた。灯二の家での温かい時間と、みんなとの別れが惜しいのだろう。俯いた未来の小さな肩が、寂しさを物語っていた。


「大丈夫、またみんなで遊びに来よ。」


リコはそう言って、しゃがみこんで未来をぎゅっと抱きしめた。


「うん。」


未来はそう返事しながらも、リコのTシャツの裾を小さな手で強く握りしめていた。離れたくない、まだここにいたいという無言の抵抗だ。


「もう、困った子ね。早く帰る準備しよ。お父さん待ってるよ。」


言葉とは裏腹に、リコは慈愛に満ちた穏やかな笑顔で、未来の硬く握られた指を一本一本優しく解いた。まるで本当の姉妹のような光景に、尾軽は胸が温かくなった。


「未来、また明日灯二さんちに遊びに行けば良いじゃん!」


アキラが能天気に提案した。その言葉に、未来の顔がパッと明るくなる。


「うん!」

「勝手に決めるな。」


少しうんざりした様子で、灯二が間髪入れずに答えた。だが、その声には拒絶の響きはなく、どこかやれやれといった諦めの色が混じっている。それは灯二の本心ではないだろう。リコと尾軽は、灯二にバレないように顔を見合わせ、クスッと笑った。


「じゃあダメなの?」


アキラが下から覗き込むように、必殺の上目遣いで灯二を見つめた。その純粋な視線に、流石の灯二も少したじろいだように視線を泳がせた。


「……別に、ダメとは言ってない。来たければ明日も来れば良い。」


「やったー!ありがとう、灯二さん好き!」

「私も!好き!」


そう言って、未来とアキラは弾丸のように灯二の腹部に突撃していった。


「むうっ。 ……離れろ。迎えをいつまで待たせるつもりだ。たまには俺の家じゃなく、学校の友達と遊べ。それが健全な小学生だ。」


「離れろ」と言いながらも、灯二の手は自然と 2 人の頭に伸び、優しく撫でている。その手つきは不器用だが温かく、決して無理矢理引き離そうとはしない。


「じゃあ灯二さんは小学生の時、毎日友達と遊んでいたの?」


おっと、珍しくアキラからの強烈なカウンターだ。

尾軽は灯二とは高校時代に出会ったから小学生時代を知らないが、この性格だ。おそらく友達付き合いは多い方ではないだろう。ならば、自分はやってなかったことを子どもに強制していることになる。そんな筋の通っていないこと、論理的な灯二は他者に強要できないのではないか。

灯二が一瞬言葉に詰まったのを、尾軽は見逃さなかった。


「……メリハリが大事だ。大好物でも毎日食べ続けていたら飽きるだろ? 毎日俺の家に来てたら刺激が減って成長にならんってことだ。とにかく今日は早く帰れ。」


苦し紛れの、しかしそれっぽい理屈を並べ立てると、灯二は議論を打ち切るようにアキラをひょいと米俵のように脇に抱え、もう片方の手で未来の手を引き、玄関に向かった。


「ほら、靴を履け。忘れ物はないな?」


その背中は、文句を言いながらも家族サービスを欠かさない、良き父親そのものに見えて、尾軽はおかしくてたまらなかった。


そうして未来の父と挨拶をして子どもたち2人を返し、残った3人で食器類の後片付けを終えた頃。


「2人ともしばらく自由にしててくれ。俺は尾軽の車を調べる。」


そう言って自室に戻った灯二は、数分後、グレーのつなぎという配管工のような作業着に着替えて戻ってきた。スラリとしたスタイルの灯二が着ると、似合っているがどこかコスプレの様にも見える。


「なんでそんな服を持ってるのよ。」

リコはケラケラと笑った。


「汚れても良い服が一着あると便利だろ。」


その手には、重厚な金属製のツールボックスが握られており、歩くたびにカチャリと金属音が鳴る。


「そんな、灯二 1 人に任せてくつろぐなんてできないよ。俺の車なんだし、何が起こっているのか俺も知りたい。」


「私も、こんな面白そうな配信のネタになる話を放っておけないわ。」


尾軽の真剣な訴えと、リコの野次馬根性を聞き、灯二は短く息を吐いた。


「そうか、なら勝手にしろ。」


そう言った灯二の後ろを2人はついて行った。

広大なガレージの照明が灯ると、無機質なコンクリートの空間に、尾軽のホンダ・フリードがポツンと置かれているのが浮かび上がった。灯二は無言で運転席のドアを開け、これまで設置していた機器のチェックを始めた。


まず、ダッシュボードに設置していたキャンバスアナライザのログを確認する。小さなディスプレイに流れる文字列を目で追う灯二の表情が、険しくなった。


「……やはりな。深夜帯に異常なパケット通信が記録されている。エンジンを切っているにもかかわらず、車内の何かが外部と通信し、車両制御系にアクセスしようとした痕跡だ。」


灯二は次に、スペクトラム・アナライザのデータをタブレットに転送し、グラフを表示させた。


「特定の周波数のノイズが、ダッシュボードの中央付近から断続的に発せられている。」


灯二はツールボックスから、棒状の探知機(後で聞いたがシグナルスニファーと言うらしい)を取り出した。その先端を、ナビ画面やエアコンの吹き出し口周辺にゆっくりとかざしていく。

ピー…ピー…ピピピピピッ!

カーオーディオの裏側あたりで、探知機が激しく反応した。


「ここだ。この奥に『寄生虫』が埋め込まれている。」


灯二は探知機を置き、代わりに内張り剥がし用のヘラと電動ドライバーを構えた。


「尾軽、車のここが怪しい。ちょっとバラしていいか?」


灯二は、オーディオパネルの隙間にヘラを差し込みながら、形式的に尋ねた。


「まあ、後で元に戻せるならいいけど。」


尾軽はおっかなびっくり答える。買ってまだ10日程度の愛車だ、できれば傷つけたくない。


「悪いがその保証はできない。」

「え」


バキッ! ガシャン!!

尾軽が返事をする間もなく、プラスチックの爪が折れる乾いた音と、パネルが外れて床に落ちる音がガレージに響き渡った。


「あああ! 俺の愛車がああ!!」


「騒ぐな、手術中だ。」


灯二は尾軽の悲鳴を無視し、剥き出しになった配線の森の中に、懐中電灯の光を向けた。そこには、純正部品にはない異質な黒いボックスが、血管に絡みつく腫瘍のように配線に割り込ませてあった。


尾軽が呆然とする間に、灯二はガレージの床に落ちたオーディオパネルをチラリと一瞥し、再び手元の作業に戻ろうとしていた。


「灯二、何すん……!」


さすがに尾軽も看過できず割り込もうとしたが、灯二の視線はすでに車の内部の闇に吸い込まれており、その表情には「今、俺の邪魔をするな」という強烈な集中力が宿っていた。尾軽は、親友の絶対的な真剣さに気圧され、口を挟めなかった。


「尾軽、悪いが今日は俺の家に泊まれ。これは時間がかかりそうだ。」


灯二は、ダッシュボードの奥を照らしながら、作業着の袖で額の汗を拭った。彼の言葉は既に決定事項だった。


「え、でも。」


「明日の朝までには間に合わせる。それでここから直接職場に出勤しろ。俺の作業が終わるのを待っていたらいつまで経っても睡眠不足が治らんぞ。」


「だとしても、灯二だけに作業を押し付けるわけにはいかないよ。俺の車なんだ。」


「なら、俺の代わりにこの配線をかき分けて、あの黒いプラスチックの箱を取れるか?」


カーナビを取り外した奥にある、無数のコードや基盤の群れ。そしてその奥の金属フレームの陰に隠された異質な物体。どれに触れて良いか、どこに灯二が言っている黒い箱があるのかすら尾軽には判別できない。尾軽は、その複雑怪奇な車の内臓を見て、絶句した。


「……。」


「ほらな、だから居ても居なくても変わらん。ならアキラとの釣りに備えて少しでも休んでおけ。」


現在19時過ぎ。灯二は普段22時には就寝している。そのルーティンを大きく破るつもりだ。しかし、彼の瞳には、たとえ破ったとしても、やらなければいけないという、強い使命感が宿っていた。


「けど、部屋とか着替えはどうしたら。」

「俺のを貸してやる。部屋は余ってるところを好きに使え。」


その会話を聞いていたリコが、恥ずかしそうに上目遣いで灯二を見た。ガレージの暗がりの中、彼女の頬が朱色に染まっているのが見て取れる。


「ねぇ、じゃあ私……も泊まっていいの? ほら、尾軽さんの車が使えないなら、帰る足が無いじゃん。」


その提案に、灯二は一瞬手を止め、冷たい視線をリコに向けた。


「タクシーを呼んでやる。」

「なんでよっ!いいじゃん私が泊まっても!」

「襲われても知らんぞ。」


灯二がジロリとリコを睨んだ瞬間、リコはさらに顔を真っ赤にして、たじろいだ。


「え、それって。どういう。いや、けど私は、灯二に……なら。」


ゴニョゴニョと俯きながら喋っていて、何を言っているか尾軽には聞き取れなかった。だが、毛先を指でいじっている姿を見て、明らかにリコが動揺していることは分かった。


「尾軽は狼だからな。昼はゴリラの二刀流だ。」


灯二は、まるで口笛を吹くように軽やかに言った。


「え、俺?」


尾軽が困惑している間に、リコは状況を「尾軽が危険な変態だから泊まるな」と解釈したのだろう。彼女は手を交差して胸周りを隠し、ジトっと横目を向けた。


「尾軽さん…。何考えてるのよ。」

「え、いや、誤解だよ。」


わたわたと両手を千手観音のように動かす尾軽を見て、リコはクスっと笑った。


「尾軽さん、さいて」


「だから、ご飯も食べたことだし今日は早く帰れ。星崎リコ。」


リコが尾軽をからかおうとした時、灯二の言葉に中断された彼女は軽く口を開けたまま少しフリーズした。その表情がスローモーションの様に、驚きから怒りに変わっていく様子を尾軽はガッツリ見てしまった。


「何よ、そんなに邪魔なら帰るわよ!ばか!」


灯二をリコさんは鋭く睨みつけ、足早にガレージを後にした。多分、急いで帰る支度を始めるのだろう。


「あんなこと言って、無理やり家に返さなくても。」


遠ざかっていくリコの足音に肩を縮ませながら、尾軽は恐る恐るといった様子で呟いた。


「尾軽、この車の呪いの正体について話すが、あまり多くの人に知られない方が良いかもしれない。」


灯二は淡々と告げた。その声は、リコを追い払った理由が、単なる悪戯ではないことを示唆していた。


「そ、それって。リコさんを危険から遠ざけるためにわざと?」


「……想像に任せる。」


灯二はいつもこうだ。冷たい言葉で相手を突き放すのには、相手を守りたいという、不器用な理由がある。


「だとしても、リコさんの気持ちを無碍にしすぎじゃない?」


「俺は色恋には興味がない。思考の余計なノイズだからな。」


不器用な2人に、尾軽は静かにため息を吐いた。


張り詰めた静寂を破るように、ガレージの内ドアがバンッ! と勢いよく開き、ショルダーバッグを肩にかけたリコが鼻息荒く入ってきた。頬は赤く、目尻に涙を浮かべ肩を上下に揺らしている。


その剣幕に、助手席でライトを持っていた尾軽は、天敵に襲われないように枝に擬態するナナフシのように、その大きな肩を限界まで縮めてシートの影に同化した。


「私、帰るから!」

「ああ。おやすみ。」


灯二は淡白な返事をするだけで、リコを一瞥することすらない。手元の配線に集中し、カチャ、カチャとナットを外す金属の乾いた音だけが、だだっ広いガレージに虚しく響く。

うう、気まずい。尾軽は今すぐ物理的に透明な幽霊になりたい気分だ。


「ああ、おやすみ。じゃないでしょ!」


リコは出口へ向かうかと思いきや、車の運転席側のドアをガチャンと勢いよく開け灯二を見下ろした。


「私も連れて行ってよ!」

「は?」


灯二の手が止まり、怪訝そうに振り向いた。


「私も、海に行きたい。明日には車の呪い、解けるんでしょ? だったら私も海に連れて行って!」


「……それは運転手の尾軽に頼め。お前ら2人の都合が良い時に行けばいい。」


灯二は即座に関心を切り、作業に戻ろうとする。こいつ、俺に面倒ごとを押し付けようとしてやがる。


「私の動画撮影を手伝うって前言ったじゃん。海の心霊ロケをするの。だから手伝って。」


「……言ってない。」


なんだこの痴話喧嘩は。俺は一体何を聞かされているんだ。尾軽は困惑した。


「じゃあ私 1 人で海辺の探索しようかなー。夜の海なんて危ないけどなー。誰かさんが守ってくれるって言ってたのになー。」


リコのわざとらしい独り言に、灯二の肩がピクリと反応した。

灯二はゆっくりと尾軽の方へと振り返り、口の端をひらがなの「へ」の字に曲げて、露骨に「めんどくさい」という顔をしてこちらを見ている。


「あいにくだが、海に行く日はアキラの面倒を見るので手一杯だ。」


灯二は、アキラという最強の盾を使って防御を試みた。


「あらそう、だったらアキラの釣りとは別の日にしましょ。」


リコは一歩も引かない。灯二が押され始めている。論破ニートの名が廃る光景だ。


「直した車の試運転、3日後の釣りの日までにはするんでしょ? だったら明日の夜、海に行く。それでいいじゃん。ね、尾軽さん。」


リコさんが急に矛先をこちらに向け、くるりと振り返った。

極上の笑顔だが、そこには有無を言わせない物理的な圧力がある。リコさんの背後に、揺らめく業火と、 6 本の腕を持つ阿修羅の幻影が見えたような気がした。ここで「No」と言えば、俺の命はない。


「う、うん。試運転は……必要だしね。」


尾軽は震える声で同意するしかなかった。


「はい、決まりね。じゃあ私帰るから。花火買っておきなさいよ、じゃおやすみ♪」


そう言ってリコは急に上機嫌になり、鼻歌交じりに手をひらひらと振って、ガレージのドアをパタンと閉めた。


なんで心霊ロケなのに花火が必要なんだ。絶対遊ぶ気満々じゃん。

嵐が去った後の静寂が、より一層重くのしかかる。


「灯二。」

「尾軽、何も言うな。」


灯二は再びダッシュボードに向き直ったが、その背中には少し哀愁が漂って見える。まるで、気の強い妻の尻に敷かれたサラリーマンのように小さくなっていた。

再び響き始めたカチャカチャという工具の音が、先ほどよりも少し虚しく感じた。


ガレージの静寂が戻ると、灯二は再び無機質な作業者の顔に戻った。


「尾軽、こっちに来てライトを持ってくれ。俺の手元を照らすんだ。」

「あ、ああ。分かった。」


尾軽は言われるがままにLEDライトを受け取り、灯二がこじ開けたダッシュボードの中を覗き込んだ。そこは、赤、青、黄、白と無数のケーブルがスパゲッティのように絡み合う、極彩色の密林だった。


「うわぁ…これ、元に戻せるのか?」

「黙って照らせ。いいか、よく見ろ。このメインハーネス、太い配線の束から、不自然に分岐している細い黒い線があるだろ。これが呪いの正体だ。」


灯二が細いドライバーの先で、ある一点を指し示した。尾軽は目を凝らすが、どれも同じ「線」にしか見えない。


「えっと……どれ? 全部同じに見えるんだけど。というか呪いって機械なの?」


「そうだ、呪いの正体は機械だ。」


「なんか最近そんなの多くない?」


AIに襲われてからまだ1ヶ月も経っていない。


「偶然だと思いたいがな。根拠を教える、これを見ろ。」


灯二は懐中電灯で配線を照らした。


「この、結束バンドの締め方が雑な部分だ。純正のラインじゃない。ここから信号を分岐させて、奥にある『癌細胞』に送っている。」


灯二がさらに奥、金属フレームの陰に隠されるように設置された、マッチ箱より二回りほど大きな黒いプラスチックのケースを指した。


「この黒い箱のこと? でもこれ、ただの部品じゃないの?」


「型番もメーカーロゴも無い。それに、接続先が異常だ。こいつはカーナビのオーディオ出力と、車の走行制御を司るキャンバスの両方に跨って接続されている。」


「キャンバス……? 画材の?」


尾軽が首を傾げると、灯二は呆れたように息を吐き、手を止めずに説明を続けた。


「CANバス、Controller Area Networkだ。バスは通信経路の総称。簡単に言えば、車の『脊髄』や『神経』だと思え。今の車は、アクセルもブレーキもハンドルも、すべて電気信号でECUという脳に伝えている。この神経網を使ってな。」


「へぇ……つまり、この黒い箱は神経に繋がってるってことか。」


横文字は9割以上頭から抜け落ちたが、尾軽は必死に食らいついて質問した。


「そうだ。そしてこいつは、神経に直接『偽の信号』を流し込むことができる。例えば、お前がアクセルを踏んでも、こいつが『ブレーキを踏め』という信号を割り込ませれば、車は減速する。」


尾軽の背筋が凍った。そんなことをされたら、渋滞や下手したら追突事故を起こされてしまう。しかも、尾軽の過失として司法に裁かれることになる。


「じゃあ、あの不気味な声や、俺の頭痛も?」


「ああ。この箱はオーディオ回路にも割り込んでいる。スピーカーから『海に行くな』という音声を流すことも、人には聞こえにくい高周波や低周波ノイズ、例えばモスキート音やインフラサウンドを流し続けて、お前の三半規管や自律神経を狂わせることも造作もない。」


「あのー、モスキート音とかインフラサウンド効果って何デスカ、灯二センセ。」


ライトを照らす手が疲れてきた尾軽が、情けない声で尋ねた。


「これじゃあどっちが教師か分からんな。人間の耳には聞こえない『音の兵器』のことだ。」


灯二は作業の手を止めずに、淡々と講義を始めた。


「まずモスキート音。これは 17,000Hz 前後の超高周波だ。加齢とともに耳の有毛細胞が劣化するおっさん、つまり尾軽のような人間には『音』としては聞こえない。だが、脳は『不快なノイズ』として感知し続け、無意識のうちにストレスや頭痛を引き起こす。」


「灯二も俺と同い年じゃん。」


一般的に24歳はおっさんにカテゴライズされてしまうのだろうか。尾軽は少し悲しくなった。


「逆にインフラサウンドは、20Hz 以下の超低周波だ。これも耳には聞こえないが、空気の振動として皮膚や内臓に伝わる。これが厄介でな、人間に『根源的な恐怖』や『吐き気』、あるいは『幽霊がいるような気配』を錯覚させる効果がある。ダムやトンネルで心霊現象が多いのは、この低周波振動が原因の場合が多い。工事現場や電車、飛行機のエンジン音等、聞いてて気分が悪くなる音の様なものだ。」


「な……なるほど。じゃあ、俺が感じてた頭痛も、車内の不気味な気配も……。」


「全部、この黒い箱が電気的に作り出した『脳への直接攻撃』だったわけだ。」


「怖すぎるだろ……。」


尾軽は背筋が寒くなった。幽霊よりも、それを意図的に作り出す人間の方がよほど恐ろしい。


「海に行くな、って声が聞こえた理由は?」

「海の潮風で車はすぐ錆びるからな。あくまで仮説だが、改造車の寿命を長持ちさせるために、呪いと見せかけてドライバーの行動を誘導するプログラムでも入っているのかもな。」


灯二はさらりと言ってのけたが、その目は笑っていなかった。


「そんな。呪いじゃなくて、機械を使った嫌がらせだったのかよ!」


あの気の抜けた中古車屋の親父がそんなことをしたのだろうか。いや、あの人にそんな技術があるとは思えない。


「嫌がらせどころか、殺人未遂だ。エンジンを切っていてもバッテリーから電源を吸って稼働し続ける、タチの悪い寄生虫だ。」


だからバッテリーがすぐに上がっていたのか。尾軽は腑に落ちた。


「なんのためにそんなことをするんだ? どんなメリットがあるんだ?」


「落ち着け、尾軽。それはまだ分からん。中古車ということは、店主が買い取った時既に改造されていた可能性もある。だが、その特定よりもまず車を正常な状態に戻すことが先決だ。」


灯二の声に、静かな怒りが滲んだ。彼は精密ニッパーを手に取ると、外科医のような慎重さで黒い箱に伸びる配線に刃を当てた。


「まあ、黙って見てるくらいなら助手をさせてやる。」


灯二はそう言って微かに笑い、俺は灯二に言われるがまま、重たいツールボックスから色んなサイズのスパナやニッパーをその都度手渡した。


そうして、しばらく時間が経過した後。


「今から病巣を摘出する。もしこいつに『切断されたら自爆する』ようなプログラムが組まれていたら、車ごと俺達もスクラップになるかもしれんが……まあ、俺を信じろ。」


「えっ、ちょっ、待っ」


パチン。

軽い音がして、配線が切断された。爆発も、ショートもしない。


「よし、信号遮断。バイパス手術完了だ。」


「お、終わった?思ったよりあっさりしてるんだな……。」


尾軽がへなへなと座り込む横で、灯二は手際よく残りの配線を処理し、黒いボックスを引き抜いてガレージの床に転がした。

カラン、と乾いた音がコンクリートに響く。


「これが……俺を苦しめていた元凶……。」


「ああ。中身の解析は後でするが、これで車は『お前のもの』に戻った。もう勝手に止まることも、変な声が聞こえることもない。」


灯二は額の汗を袖で拭い、ニヤリと笑った。


「さて、次は外したパネルを元に戻すパズルだ。尾軽、お前が外したネジの順番、覚えているか?」


「え? いや、灯二が勝手に外したんだろ!?」


「冗談だ。全部ここにある。……ふあぁ。」


灯二が大きなあくびをした。そして全ての修復作業を終え、時計を見れば、もう 23 時半を指していた。普段の就寝時間を過ぎている。


「予想より早く終わったな。」


「夜更かしさせて悪いね灯二。本当にありがとう。」


「礼はまだ早い。3日後、大物を釣ってから言え。」


「ちなみに、車を俺たち素人が分解して組み立てる行為って……合法?」


パネルを嵌め込む乾いた音が止んだガレージで、尾軽は恐る恐る尋ねた。


「正直、グレーだ。」


灯二は悪びれもせず、ウエスで手の油汚れを拭き取った。


「車好きな奴らは好きに改造してるが、今回ほど内部の基盤や重要保安部品に近い場所をいじるのは、資格を持ってる技術者じゃない限り珍しい。ヘタをすれば整備不良で切符を切られる。」


「き、切符って……」


「だが、元々違法に改造されていたものを直すんだ。マイナスをゼロに戻しただけだ。文句を言われる筋合いはないだろう。」


「そ、そうですか。なんか最近、こういう法とか倫理のギリギリを歩くこと多くない?」


尾軽は目処が立った安心感と不気味な世界に足を踏み入れている恐怖が混じった、複雑なため息をついた。


「そうだな。退屈しなくて済む。」


1番面倒を被っているはずの灯二はさらりと受け流した。


灯二は大きなあくびを噛み殺し、眠そうな目をこすりながら、散らばった工具を片付け始めた。ニッパー、スパナ、ドライバー。その動作には迷いがなく、淀みない手つきで所定の位置に収まっていく。


「ほら、公僕の尾軽は明日も朝が早いだろ。早く風呂に入って寝ろ。」


「う、うん。その通りなんだけどあんまりはっきり言うと傷つく。」


灯二のぶっきらぼうな声で、尾軽は額をデコピンで弾かれたように我に返った。


このまま家に帰ることも考えたが、ここ数日の極度な睡眠不足を解消するためにも、灯二の厚意に甘えて泊まらせてもらおう。広いベッドで泥のように眠りたい。

灯二を追いかけて、尾軽はガレージの出口へ向かった。

ふと、足を止める。

明日の出勤と、夜のリコさんを乗せての試運転。そこで何事もなければ、呪いは解けたってことだよな?


尾軽は振り返り、ガレージの冷たいコンクリートの床に転がる「黒い箱」を見つめた。配線が切られ、物言わぬプラスチックの塊となった元凶。尾軽は安堵と、まだ終わっていないのではないかという一抹の不安を同時に抱きながら、重たい防火扉に手をかけた。


ズン。

重厚なドアが閉まる音と共に、尾軽は顔を上げ、長い一日を終えた。


そして翌朝。


八王子の郊外に、爽やかな、朝の光が差し込んでいた。


「サイズ、ちょっと肩がキツイか?」

「いや、大丈夫。助かるよ。」


尾軽は灯二から借りた、糊の効いた白いワイシャツに袖を通し、ネクタイを締めた。昨晩の泥のような睡眠のおかげで、頭の中の霧が晴れたようにスッキリしている。ここ1週間で一番のコンディションだ。


ガレージのシャッターが開く。朝の光に照らされたホンダ・フリードは、昨晩の手術の痕跡など微塵も感じさせず、静かに主人を待っていた。

尾軽が運転席に乗り込む。シートの感触、ハンドルの握り心地。いつも通りだ。


ガレージの脇で、パジャマ代わりのスウェット姿の灯二が、腕を組んで尾軽を見守っている。その表情は自信に満ちているが、目は鋭く車の挙動を観察している。

尾軽はキーに手をかけた。


頼む……!


心臓の音が、鼓膜の奥でドクンドクンと鳴り響く。

もしも昨日の作業で、改造されたパーツを取りきれていなかったら?

配線の接触が悪くて、ショートして火花が散ったら?

あるいは、修復方法が不十分で、二度と車が動かなかったら?

嫌な想像が脳裏をよぎる。尾軽は息を止め、祈るようにキーを回した。


キュルルル……

ドルルルルン!


一瞬のセルの音の後、力強いエンジンの始動音がガレージに響き渡った。

アイドリングは安定している。警告灯もついていない。変なノイズも、不気味な声もしない。ただ、ガソリンを燃やして動く、機械としての健全な振動だけが伝わってくる。


「ふぅーーーー……。」


尾軽はハンドルに突っ伏して、長く息を吐いた。心配は杞憂に終わったようだ。


窓の外で、灯二がニヤリと片方の口角を上げ、満足げに軽く頷いた。


「じゃあ俺、行ってくるよ!」


尾軽は窓から大きく手を振った。


「また夜にな。」


灯二はそう短く言うと、尾軽を最後まで見送ることなく、くるりと背を向けた。


尾軽はアクセルを踏み込む。フリードは滑るようにガレージを出て、朝の八王子の街へと走り出した。


運転中、これまで悩まされていた締め付けられるような頭痛や、背筋を撫でるような不調は一切無い。まるで憑き物が落ちたように、視界が晴れ渡っている。エンジンの回転数は安定し、ブレーキの効きもスムーズだ。今のところ、勝手なエンストも、ガソリン漏れも、映画のような爆発もなさそうだ。


良かった、これで思う存分釣りを楽しめる!


あの不具合が「呪い」ではなく「人為的な改造」で、それを灯二が完全に取り除いてくれたのだとしたら。


つまり、呪いという名の改造が解けた今、市場価格より遥かに格安で、状態の良いホンダ・フリードが手に入ったってこと!?


「なんか色々あったけど、終わり良ければ全て良し!」


尾軽はハンドルを握りしめ、車内で快哉を叫んだ。


学校の駐車場に車を停めると、アスファルトからの照り返しが眩しい。

尾軽は炎天下の中、駐車場から職員室まで、軽やかなスキップで向かった。すれ違った教頭先生が怪訝な表情で二度見していたが、今の尾軽には小石程度の障害にもならなかった。


—-


「アレ? 354号の反応が無くなったカ?」

都心の一等地にあるオフィスビル。外の陽光を遮断した薄暗い一室で、無機質な呟きが漏れた。


壁一面を埋め尽くすパソコンモニターの青白い光に照らされ、背の高いオールバックの男、シンがけだるげにディスプレイを見つめている。


画面の一つには、無数の赤い点が地図上を移動しており、その中の一つ「No.354」とタグ付けされた光点が、「SIGNAL LOST」という表示と共にグレーアウトしていた。


「アア、見つかって取り除かれたのかもナ。……バックアップはバレてないみたいダ。なんか最近、こんなの多いナァ。」


シンは感情の篭っていない声で独りごち、頭を掻いた。


「とりあえず、証拠隠滅はしておかなきゃナ。」

男の細長い指がキーボードを叩く。


カチャ、カチャ、ターン。


乾いたタイピングの音が、冷房の効きすぎた部屋に不気味に響いた。画面上の「No.354」のログデータが、デジタルノイズと共に完全に消去されていく。


だが、男の口元には薄い笑みが残っていた。


「ソフトウェアの後処理はモーマンタイ。次は、ハードの方だナ。」


—-


「うぅー、疲れたぁ。」

尾軽は仕事を終え、 18時前に駐車場に戻って来た。太陽の輪郭は崩れ、ビル群の隙間にオレンジ色のジャムをぶちまけたような残照が広がっている。

夏休みの特別業務と、ここ数日の精神的な疲れが、夕暮れの体にのしかかる。


倦怠感に襲われていたが、ポツンと停まっている愛車を見つけると、尾軽の表情が緩んだ。

周りに誰もいないことをキョロキョロと確認する。生徒も、教頭もいない。


「よし。」


尾軽は、愛しいホンダ・フリードのボンネットに抱きつき、金属のボディにスリスリと頬擦りをした。鏡面のようなボディは、歪んだ茜色の世界を映し出している。触れた部分から、自分の境界線が溶けて、冷徹な機械と同化していくような錯覚。熱を帯びた鉄板の向こう側に、確かにこの夏が閉じ込められているのを感じた。


「良かったぁ、今日も無事で。お前はもう俺だけの車だもんなぁ。」


ゴリラから金属の箱にひとしきり愛情表現をした後、尾軽は軽い足取りで運転席に乗り込んだ。


「予定より迎えに行く時間が遅くなっちゃったなぁ。仕事が遅くなるのは社会人には付き物だし、まあ俺運転手だし、そんなに文句言われないだろうけど。」


尾軽は自分に言い訳をしつつ、二人が待っている灯二の八王子の邸宅に向かった。


インターホンを鳴らすと、すぐにドアが開いた。

「遅い。」


「遅すぎるわ! 何チンタラしてるの尾軽さん!」


玄関を開けた瞬間、氷のような冷たい声と、火のような罵声が同時に飛んできた。尾軽は思わず

「ひっ」と声を漏らし、直立不動になる。


「なんて冗談よ。お疲れ様。」

「早く入れ。飯の準備はできている。」


そう言って二人は、さっきの鬼の形相が嘘のように微笑んだ。


「何その緩急。警察が尋問する時のテクニックじゃん。」


俺って何か悪いこと二人に隠してるっけ?そんなことを考えていたら、二人は一瞬目を合わせ、笑いながらリビングに向かっていった。


リビングに通されると、テーブルには湯気を立てる特製煮込みハンバーグが並んでいた。尾軽の疲労は、肉汁と共に胃袋へと消えていった。

灯二の絶品ハンバーグをたらふく食べた後、速やかにリコさんの撮影機材を車に詰め込んだ。とは言ってもハンディカメラとピンマイク、それに夜間撮影用の小型LEDライトと、手ブレを抑えるためのスマホ用ジンバルぐらいだが。

それとは別に、リコさんはパンパンに膨らんだスーパーのビニール袋と、どこから出してきたのか空のバケツを手に持って車に乗り込んだ。


「リコさん、それは?」

「言ったでしょ、花火やるって。」


そう言ってにひーっとイタズラっぽく歯を見せて笑った。

どうやら昨日言っていた花火は冗談ではなく本気だったらしい。俺たちに買っておけと言いながら我慢できなくて自分で買ったのか。


「さっさと海に行って、さっさと撮影終わらせるわよ。」


「絶対花火メインじゃん。」


というか、砂浜がそんなに明るくてうるさいなら、肝心の幽霊も出てこないんじゃないのか?


まあ、途中でコンビニに寄って花火を買いに行くよりは時短になっていいか。

灯二と目が合ったが、彼は「やれやれ」といった風に肩をすくめ、諦めたように何も言わなかった。まあ、この夏一度も手持ち花火を楽しんでなかったから、ちょうど良いか。


車に乗り込む灯二も、3本の釣り竿を脇に挟み、空いた右手と左手に謎の機械を手に持っていた。薄い金属製のタブレット端末のような本体と、それに接続された円筒形の機器が握られていた。


「灯二、それ何?」


本体は、以前車に取り付けたスペクトラムアナライザに似ており、冷却スリットが刻まれた銀色の筐体。液晶画面には、複雑な魚群の密度を示すデータがすでに起動して表示されている。そして、本体の端子から耐水性の太いケーブルが伸びており、その先に缶コーヒーの缶ほどの大きさの円筒形モジュールが接続されている。


灯二はそれを当然のように助手席の足元に置いた。ディスプレイの青白い光が、夜の車内を照らす。


「これは魚群探知機だ。」


「そんな中学英語の教科書みたいな文章で言われても。魚群探知機は船に付いてるものでしょ。」


「ああ、普通はな。だがこれは俺の自作だ。」


灯二は、その言葉を新作料理のお披露目のように楽しんでいる。どう見てもこれから釣りに向かう装備には見えないが、彼にとっては最高のおもちゃなのだろう。


「もう灯二のやることに驚きすぎて、逆に慣れてきた自分が怖いよ。」


尾軽は苦笑しながらエンジンをかけた。

後部座席には花火を持った人気YouTuber、助手席には怪しい装置を持った読書好きなニート。そして運転席にはただの教師。

奇妙な一行を乗せたホンダ・フリードは、夜の海へと走り出した。


「どうだ、尾軽。車の運転具合は。」


圏央道を南下し、茅ヶ崎方面へ向かう直線の道で、助手席の灯二が聞いた。


「バッチリだよ。頭痛もないし、変な音も聞こえないし、ペダルは軽いし、勝手にブレーキ踏まれないし、めちゃくちゃ運転に集中できてる!」


尾軽はハンドルを握りながら満面の笑顔で答えた。アクセルのレスポンスは新車のように軽やかで、今まで背中に背負っていた重りが消えたようだ。


「え、この車ってそんなにやばい車だったの?」


後部座席のリコはドン引きして、シートの端に縮こまっている。


「どうした、星崎リコ。お前のYoutubeチャンネル視聴者の絶好のエサだろ。」


「私がこの車のエサとして食われるところだったんでしょ。そんなの怖いに決まってるじゃないの。」


「俺らが生贄になるのは別に良いみたいに聞こえるけど。」


「別に良いわ。けど私を巻き込むのは許さない。」


とんでもないわがままプリンセスを乗せてしまったようだ。


「仕方ない、これ以上巻き込むわけにはいかないから星崎リコをここで降ろすしかないか。」


灯二は大袈裟にやれやれとため息をつき額に手を置いた。


「そんなことしたらあんたを3枚にオロすわ。」


「ほう、是非3枚おろしのやり方を御指南いただこう。これは海釣りが楽しみだ。」


「いやよ、生魚触りたくない!」


そんな軽口を言い合っていること数分。


「というか灯二、魚群探知機持ってきてもエサ持ってないじゃん!」


尾軽は思い出したように声を上げた。


「擬似餌なら持ってきている。俺の計算では、今の潮の流れのパターンなら、生餌よりも擬似餌の反応の方が良いはずだ。」


「私、虫触りたくないから擬似餌で良かったわ。」


リコがほっと胸を撫で下ろす。


「リコさんは釣りしたことあるの?」


「小さい頃にパパに連れて行ってもらったきりだから、十年以上してないかな。」


リコさんは懐かしむように窓から流れる夜景を眺めた。高速道路のオレンジ色の街灯が、彼女の瞳に流れるように映り込む。その横顔は、いつもの勝気な表情とは違い、少し寂しそうだった。


「灯二と尾軽さんは?」


「俺は元々高知県出身だし、親父が漁師だから釣りにはよく連れて行ってもらってたよ。」


「へー、尾軽さんって高知県出身なんだ。今と住んでる場所全然違うじゃん。帰りたくならないの?」


「野球が強い全寮制の高校に居たし、関東の方に来てそこから大学も関東だからもうこっちが第二の故郷かな。灯二の釣りの経験は?」


「俺はほとんど経験がないな。だから今夜、どんな刺激が得られるのか楽しみだ。」


冷静な口調とは裏腹に目が輝いている。灯二が天邪鬼を少し引っ込めて、自分のポジティブな感情を正直に話すのは珍しいような気がした。そうか、楽しみだから魚群探知機を自作したのか。その意外な少年っぽさが、尾軽には可愛く見えた。


3人でワイワイと1時間のドライブを楽しんだ後、圏央道を降りて海沿いの国道に出ると、茅ヶ崎の海岸線が見えてきた。


「おお……。」


夜の海は漆黒のベルベットのように静かで、空に浮かぶ月の光を反射して白銀の道を海面に描いている。遠くには江ノ島の灯台が宝石のように瞬き、波の音だけがリズムを刻んでいる。思わず運転を忘れて見惚れそうなほど、幻想的な光景だ。


「わあ、綺麗!」


リコさんは手を合わせ、少女のように目をキラキラさせている。


「絶好の釣り日和だ。」


灯二がニヤついた。膝の上に置いた魚群探知機を愛おしそうに撫でながら、少し肩を小刻みに揺らしてソワソワしている。そんなにお前、釣りが好きだったのか。


ピコン、後部座席からスマホの電子音が聞こえた。


「ということでみんな、本日の星崎リコは夜の海に来ているわ! ここ茅ヶ崎の海岸では、海に引き摺り込まれるという怪異があるって視聴者からのタレコミがあったの。それを今から確かめるから、見逃し厳禁よ!」


カッ!


突如、リコがスマホ用のLEDライトを点灯させ、まだ海に到着していない運転中にも関わらず、カメラを回して喋り始めた。


「……ッ!」


灯二と尾軽は瞬時に息を潜め、石像のように固まった。


以前、撮影中にうっかり「あ、赤信号だ」と口走ったら、「テイク2撮り直し! 編集点作るの大変なんだから!」と烈火のごとく怒られたことがある。


こっちは運転手を頼まれた立場なんですけど。というか撮影前に一声かけてよ。理不尽だ。


バックミラー越しに見ると、リコは完全に「仕事の顔」になっている。リコさんいわく、「1番感情が乗っている時や画角が良い時にとりあえず回しておいて、後で使うか吟味する」のがプロの流儀らしい。


尾軽は呼吸音すら入らないように慎重にハンドルを切り、目的地である海岸専用の駐車場へと車を滑り込ませた。


「はい、ここが噂の現場、茅ヶ崎の通称『涙の海岸線』に着いたわ。怪談が広まっているのか、真夏の海にも関わらず夜8時を過ぎた現在、辺りに誰もいないようね。」


リコは声をワントーン落とし、LEDライトで自分の顔を下から不気味に照らしながらカメラに語りかける。


「磯釣りや夜の散歩中、背後から「おーい」と親しい友人の声で呼ばれることがあるんだって。けど、絶対振り向いちゃダメ。その声はどこか平坦で、エコーがかかったように響くの。

これは「潮招き」という怪異で、呼ばれて振り返ると、そこには顔のない巨大な影が立っているの。影に触れられた者は、その瞬間に体の水分をすべて吸い取られ、一瞬でミイラのような干物になってしまうという伝承があるらしいのよ。だから、私のこのプルプルの肌が干物にされないか検証してやるわ。」


それからはしばらく真っ暗になった海岸線を、リコさんがスマホ付き自撮り棒に向けて一人語りしながら歩き、俺たちはハンディカメラと照明を持って、黒子として彼女を追いかけた。


「ということで、ひとしきり歩いたけど幽霊は現れませんねー。私の美肌は幽霊でさえ太刀打ちできないってことかしら。やっぱり私の陽キャオーラで成仏しちゃったかな? じゃあ、夏ならではの成仏の儀式やっておいて動画を締めるね!」


リコはカメラにそう言ってウインクすると、カットの合図もそこそこに、持参したバケツに海水を汲み、手持ち花火の用意をし始めた。切り替えの早さがプロだ。


「いえーい! 最高! やっぱ夏はこうでなくちゃね!」


バチバチバチッ! シュワーーーッ!

火をつけた瞬間、リコさんは両手に緑と赤、それぞれ違う色のスパーク花火を持って、砂浜を走りまわり始めた。漆黒の闇に、鮮やかな火花が軌跡を描く。


「……。」


男二人は、さっきまで「無念の死」を語っていた口で「最高!」と叫ぶ彼女を、呆然と眺めている。


「除霊の儀式が花火って、無理矢理過ぎでしょ。」


尾軽がボソリと呟いた。


「まあ、それを視聴者にツッコませるという動画構成なんだろう。」


灯二は、夜風に吹かれながらスラスラと淀みなく分析を始めた。


「あいつの心霊系動画はあくまでエンタメだ。『怖がっていたのに急に遊ぶんかい!』というギャップや、あいつの軽快なトーク、人間性がチャンネル人気の土台にある。幽霊が出るかどうかはたいして重要ではない。夏の海で花火をする星崎リコを見たいという、ファンへのサービスも兼ねているのだろう。元アイドルなだけあってファンの心理を掴むのが上手い。意外と理に適っている。」


なるほど、と尾軽が感心しかけた時。


「ほら、灯二! 尾軽さん! 早く一緒に花火するわよ!」


リコが煙の向こうで、子どものようにはしゃぎながら二人を手招きした。その笑顔には、計算も演出もないように見えた。


「……まあ、そこまで計算してないかもしれないな。」


灯二はふっと口元を緩めて肩をすくめると、ポケットから手を出して花火の輪に加わった。


「ほら尾軽、お前はこっちの『ドラゴン』に火をつけろ。」

「え、俺だけ据え置き型!?」


波音と笑い声、そして火花の爆ぜる音が、夜の茅ヶ崎海岸に心地よく響いた。


一通り花火を楽しみ、海岸には火薬特有の焦げた匂いと、少しの寂しさが漂っていた。3人は車に戻って花火のゴミを片付け、トランクを閉めた。


「花火楽しかったね。」


尾軽は笑顔で使わなかった花火をビニール袋に入れた。リコが買いすぎて今日使い切るのはもったいなかったのだ。


「でしょ?私の提案に感謝しなさいよね。また来年もやるわよ。」


リコは鼻高たがに腕を組んだ。


「勝手に予定を決めるな。」


灯二は待っていたとばかりに、 3本の釣り竿を車から取り出した。


「お待ちかね、釣りの時間だ。」

「私は別に待ってないけど。」


さっきまでの私の主役タイムはもう終わり? とリコさんの顔には書いてある。少し頬を膨らませたその表情は、不満げだが心の底からの感情では無いように見える。

そんなリコさんの無言の抗議に気づかないふりをして、灯二は車のそばにしゃがみ込み、缶コーヒーのような形をした自作の魚群探知機とタブレットを操作し始めた。


「海中データの同期を開始する……。」


その時だった。

ガガッ、ブルルッ、グルルルルル……!!

何か獰猛な獣の唸り声のような、あるいは巨大な機械が無理やり回転するような強烈な駆動音が、静かな夜の駐車場に響き渡った。あまりの轟音と地面を伝わる振動に、全員が動きを止め、静まり返った。


「うるさっ!なに!?」

リコが不快そうに顔を歪めた。


「なあ灯二、その魚群探知機さ、その大きさでそんなに大きな音が鳴るの?」


尾軽が恐る恐る尋ねた。


「うるさすぎー、私びっくりしちゃった。音量下げてよ。」


リコが耳を塞ぎながら文句を言う。当然だ。手元の小さな機械から出る音にしては、あまりにも質量が大きすぎる。


「……違う。」


灯二がボソりと呟いた。彼の視線はタブレットではなく、背後の闇に向けられていた。


「「え?」」


リコと尾軽の疑問が重なった、その一瞬。


「今すぐこの車から離れろ!!」


灯二が叫ぶと同時に、棒立ちになっていたリコの肩を強く抱き寄せ、車の背面から強引に側面へと飛びのいた。尾軽も親友の切迫した声に反応し、とっさに灯二の側に転がり込んだ。


その瞬間。

ギュルルルルッ!!


アスファルトをタイヤが削る甲高い音と共に、凄まじい勢いで無人のホンダ・フリードが真後ろにバックし、先ほどまで 3 人が立っていた空間を引き裂いた。

バギッ!! グシャァッ!!


乾いた破砕音が響く。


尾軽たちが立っていた場所に置いてあった、花火のゴミを入れたプラスチックのバケツが、後輪に踏み潰され、粉々に割れて破片が飛び散った。もし逃げていなければ、あれは人間の骨の音になっていたかもしれない。


「ど、どういうこと? 尾軽さん、車の鍵は!?」


リコがほぼ半狂乱になった状態で、腰を抜かしそうになりながら叫んだ。


「鍵は……鍵は、今俺が持ってる! 持ってるよ!というか、エンジンなんてかけてないし、アクセルを踏む人間が運転席にいるはずないよ!」


尾軽は震える手でポケットからスマートキーを取り出し、掲げて見せた。


「この車は……!」

「今、無人で鍵もなく動いている、ということだな。」


灯二が尾軽の言葉を冷徹に引き継いだ。彼の瞳は、恐怖よりも「解析」の色を帯びている。

急発進したホンダ・フリードは、海岸付近の駐車場の奥で停止したかと思うと、ゆっくりとギアを変えるような音を立てた。


カッ。


ハイビームが点灯し、強烈な白い光が 3 人を射抜く。

車体の向きを変え、灯二らを正面に捉えたその姿は、単なる工業製品ではない。まるで獲物を見つけた巨大な肉食動物が、ヘッドライトという「目」を見開き、次の狩りの機会を窺っているようだった。


「お前ら、段差のある高いところに登れ。そして車の側面に移動し続けろ。」


「え、でも」尾軽が戸惑う。

「はやくしろ! 死にたいのか!」


灯二の珍しく焦りのこもった絶叫が、潮騒を切り裂いて響いた。

ギュルルルル! ガリ、ザリザリ!!

ホンダ・フリードは、まるで獲物を狩る獣のような動きで灯二に向かって再び突進を始めた。間一髪で横に飛び込んだ灯二は、アスファルトに転がりながらそれを回避した。ほんの 1 秒前まで灯二が立っていた空間を、約 1.5 トンの鉄の塊が風圧と共に駆け抜け、尾軽は背筋が凍った。


「リコさん、早くこっちへ!」


尾軽は、フットサルコート一面分くらいある駐車場の周りを囲った、積み上げられた石垣の上に登り、下にいるリコに必死に手を伸ばした。


「あ、ああ……足が……。」


リコさんは完全に腰が抜けている。白い顔で震え、一歩も動けない。


「ええい、失礼するね!」


尾軽は石垣から飛び降りると、リコをまるでフォークリフトが荷物を運ぶように、軽々とお姫様抱っこをして抱え上げ、再び駐車場の垣根をよじ登った。日頃の筋トレの賜物と言いたいところだが、おそらく火事場の馬鹿力だ。


ギュオンッ!!


暴走族のように騒音を撒き散らし、ホンダ・フリードは灯二に突進と急な方向転換を繰り返す。灯二は闘牛士のようにひらりとかわしているが、その額には脂汗が滲み、表情に余裕はない。


——


同時刻、都心の一等地にあるオフィスビル。

冷房の効いた薄暗い部屋で、オールバックの男、シンはモニターを見てゲラゲラと笑っていた。


「アッハッハ!! こりゃ傑作ダネ! このお兄さんめちゃくちゃ避けるの上手いじゃん! こりゃネトフリ最新作、デスゲーム系の主人公いけるゾ。」


「うるせぇなシン! 静かにしろよ! 集中できないだろ!」


隣でゲーム用コントローラーをガチャガチャと激しく操作する、目つきの悪い黒髪の少女が男に怒号を浴びせた。彼女の指先は痙攣するように動き、画面の中の車を操っている。


「全然轢けないジャン。流石の天才暗殺者も、新時代の武器にはついていけなさそうカ?」

「あたしは自分の体を動かすのが性に合ってんの! 」


少女がコントローラーのアナログスティックを倒すたびに、画面の奥にあるホンダ・フリードがより激しく、生物的にはありえない角度で踊っている。


「大体さ、こいつらが車乗ってる時に車を操って交差点に突っ込めば良かったんじゃねえのかよ!」


少女は苛立ちを隠さず、高級なゲーミングチェアの上であぐらをかきながら叫んだ。


「相当基盤が取られたからネ。バックアップの始動に時間がかかったんだヨ。この脆弱な状態じゃあ、あいつらの運転中に主導権は奪えなイ。」


隣に立つオールバックの男は、手元のサブモニターに流れるエラーログを目で追いながら、どこか他人事のように答えた。


本来なら、尾軽が運転中にブレーキを無効化し、交差点で大型トラックと衝突させて「悲惨な事故」として処理する手はずだった。だが、灯二の手術があまりにも完璧すぎたのだ。メインシステムは完全に切除され、スリープ状態だったこの予備システムが再起動し、都心のサーバーとリンクするまでに数時間のタイムラグが生じてしまった。


「ちっ、使えねーな。……レースゲームできるって言うから来てやったのに、よっ!オープンワールドのアクションゲームじゃんか!」


少女は「よっ!」という掛け声と共に、コントローラーの左スティックを限界まで横に倒し、アクセルを全開に押し込んだ。スティックの倒した向きと同じ方向に体が傾いている。


ギュルルルルッ!!


その指先の動きに連動して、遠く離れた茅ヶ崎の駐車場にあるホンダ・フリードが、猛獣が喉を鳴らすような爆音を上げる。車体はその場でタイヤスモークを巻き上げながら、コンパスで円を描くように激しくスピンした。


画面の中で、逃げ惑う3人が小石のように小さく見える。


「躊躇なくアクセル全開にできてる時点で、お前は充分イカれてるヨ。」


オールバックの男は、少女が聞こえるかどうかの声で呟いた。少女は画面に全神経を集中させており、その声は届いていない。


「何にしても、俺の仕事の邪魔をするやつは消さなきゃネ。」


男は、三日月を逆さにしたような口元で、愉悦に満ちた薄ら笑いを浮かべた。


——


灯二は一瞬の隙を見て、積み上げられた石垣の陰に身を滑り込ませた。ここならヘッドライトの光は届かない。闇に紛れることができれば、一時的にでも態勢を立て直せるはずだ。彼は荒い息を殺し、車の次の動きを伺った。

しかし。

ブォンッ! ジャリジャリジャリ!

フリードは迷う素振りすら見せず、正確に灯二が隠れている石垣の方向へ車体を向け、急加速した。


「なっ……なぜここがバレる!?」


灯二は驚愕し、慌ててその場を飛び退いた。彼が数秒前までいた場所に、フリードのバンパーが激突し、石垣の一部が崩れ落ちた。


――


同時刻、都心の一等地にあるオフィスビル。


「アハッ、隠れんぼは終わりだよお兄さァん!」


黒髪の少女が、コントローラーを操作しながら嗜虐的な笑みを浮かべた。

彼女が見つめる巨大なモニターの映像は、先ほどまでの荒い車載カメラの映像から切り替わっていた。

画面全体が冷たい青黒さに沈む中、一つだけ、燃え盛る炎のように赤く白く輝く人型のシルエットが浮かび上がっていた。

サーモグラフィー映像だ。


涼しくなってきた夜の海岸、日中の熱気を吐き出し始めたコンクリートの石垣。その中で、全力疾走して体温を上昇させている灯二の姿は、彼女の目には真昼の太陽よりも鮮明な「的」として映し出されていた。


少女は画面の中の赤い人影が慌てて飛び出すのを見て、興奮したように叫んだ。


「真っ暗でもどこにいるか見え見えなんだよぉ! さあ、次はどっちに逃げるのかなァ!?」


隣で見ていたシンが感心したように口笛を吹いた。


「熱源探知モードか。エグいねェ。これじゃあ闇夜も障害物も意味がないヨ。」


「あたしから逃げようなんて100年早いっての!」


少女の指先が踊り、遠く離れた茅ヶ崎の海岸で、鉄の獣が再び咆哮を上げた。


—-


「灯二! 早くこっちへ!」


尾軽の声に反応し、灯二もまた、車の死角を突いて石垣を駆け上がり、防砂林の側へと転がり込んできた。


ガガッ、ジャリ……。


標的を見失った車は、アイドリング音を唸らせながらその場で旋回し、周囲を伺うように少し静かになった。


「尾軽さん、ありがとう。」


リコは震えながら担いで運んでくれた尾軽に感謝を伝えた。カサカサと握っていたビニール袋が震えによって音を立てている。


石垣の陰に身を潜める 3 人は、さながら戦争中、塹壕の中で身を隠す兵隊のようだ。


「これって、警察に通報した方が良いよね。」


尾軽は巨体を石垣に隠し、荒い息を整えた。


「良いか悪いかで言えば良い。だが『無人の車が暴れている』と言って、すぐに警察が来ると思うか? おそらく悪質なイタズラだと思われる。」


灯二は冷静に、しかし早口で言った。


「それに、警察が到着するまでの数十分、俺たちは逃げきれずひき肉になるかもな。」


「ひぇっ。」


「加えて言うなら、放置しておくと他にも海岸に遊びに来た一般人が巻き込まれる恐れがある。」


「じゃあどうしろっていうの!?」


リコが涙目で叫んだ。


「俺に考えがある。尾軽、命を俺に預けろ。」


灯二の瞳が、暗闇の中で鋭く光った。


石垣の陰に身を潜めたまま、潮騒と車のアイドリング音だけが響く中、灯二は顔を下げた。


「あの車が動いてる原因、おそらく何者かが取り付けたパーツを完全には外しきれていなかったんだろう。俺の落ち度だ、すまない。」


灯二は短く頭を下げた。彼の声には珍しく後悔の色が滲んでいた。


「いやいや、二人であれだけ作業して見落としてたなら仕方ないよ!」


尾軽は慌てて手を振った。灯二を責める気など微塵もない。彼の作業の緻密さを知っているからだ。逆を言えば、灯二が遠隔操作のコアを外していなければ、もっとひどい状況になっていたに違いない。


「つまり、まだ呪いは完全には解けてないってことね。」


リコが青ざめた顔で呟いた。


「ああそうだ。だから、車を止めるしかない。壊すか、ガソリン切れを狙うか。だがあいにく、車の燃料はまだ半分以上ある。几帳面な筋肉教師のおかげでな。」


「なんだよ、悪いことみたいに言うなよ。」


尾軽は唇を尖らせたが、満タン近くまで給油していたことを思い出し、少し複雑な顔をした。


「だから、車を壊して止めるしかない。車の中にある工具箱を取り出す必要がある。その中のスパナで車のボンネットを開けてバッテリー接続を取り外せば、どれだけ遠隔操作されようとも車は動かない。」


「けど、あんな暴走車、危なくて近寄れないよ!」


尾軽の言葉はもっともだ。車は彼らを殺しにかかっている。


「そこで、これが役に立つ。」


灯二は拳に握り込んでいた、銀色の缶コーヒーサイズの自作魚群探知機を二人に示した。青白い画面の光が、彼の真剣な表情を照らしている。


「魚群探知機が?」

「ふざけてるの?」


リコと尾軽の声が揃った。

「大真面目だ。これは電波の反射を使って魚の群れを探す。そしてあの車は、おそらく電波によって遠隔操作されている。」


リコと尾軽は、ハッとして唾を飲み込んだ。つまり、灯二のデバイスは「電波探知機」であり、それを逆手に取れば「電波妨害装置」になるということだ。


「そうだ、この魚群探知機は、充電が切れるまでの間、あの車の遠隔操作を止められる可能性がある。その間が勝負だ。」


灯二は早口で結論づけた。


「ぐ、具体的な作戦は?」


「俺が囮になる。そしてできるだけ車の近くで魚群探知機を起動する。動きが止まったら、尾軽は後部座席のドアを開けて工具箱を取り出してくれ。そして高速でボンネットを開けてバッテリーのコードを切断する。」


「そんな、危険すぎるよ!」尾軽が顔を歪めた。

「私にも手伝わせなさいよ!」リコが怒った。

「星崎リコ、お前にできることはない。」灯二は冷たい視線でリコを睨んだ。


「うっ、何よそれ。」


「近くに人が通らないか、見張ってくれ。来たら追い払え。それと安全な場所から警察を呼べ。車に乗った怪しい男が暴走しているとでも言えば良い。強いて言うならそれがお前の役割だ。」


灯二はあえてリコのプライドを逆撫でし、比較的安全な役回りを押し付けた。


「うう、分かったわよ! けどあんたら、絶対無理はしないでよね!」


リコさんも、先日の廃病院の一件を思い出したのか、何か言いたそうな顔をしたが適材適所の提案に同意した。


「任せて!」尾軽は気持ちを切り替えるため左手のひらに右手の拳をパンと付き合わせた。グローブを持っていた手にボールをはめ込む、野球部時代のルーティンだ。


「当たり前だ。この後釣りをするんだからな。さっさと片付ける。」


灯二はそう言うと、冷静さを取り戻すようにメガネを掛け直した。

灯二は石垣を越え、駐車場内でアイドリング音を唸らせて佇む車の正面に立った。冷たい風が、彼の薄いシャツを通り抜ける。


カッ!


車のライトが再びハイビームになり、闇の中で灯二の姿を完璧に捉えた。

そして、エンジンが咆哮を上げる。時速 50km の速度で、鋼鉄の塊が灯二に襲いかかった。

灯二は石垣のギリギリに立ち、車との距離 30m、だがまだ動かない。残り 20m、 15m、尾軽は見てられなくて茂みから叫んだ。


「灯二! 何やってんだ! 避けろよ!」


灯二の額に汗が滲む。彼はギリギリまで車の挙動を分析していた。

残り 10m。

灯二は思いっきり横に飛んだ。彼の体は完全に路面と並行になるほど低く、アスファルトの上を滑った。


「自らの重さで潰れろ。」


車が石垣に突っ込む。と誰もが思った瞬間!


キキキィィィ!!

凄まじいブレーキ音とフリードの急制動、石垣に沿って並行し、まるで縦列駐車のようにピタリとフリードは止まった。石垣までわずか数センチ。


「な、なに!?」


灯二と尾軽は、その人間離れした正確な挙動に息を呑んだ。


—-


同時刻、都心。

モニター越しに少女はニヤリと笑った。


「あー、なんか操作慣れてきたわ。このブレーキアシスト最高。」


急制動の一瞬の静寂の後、フリードは再び灯二を標的とし、急発進で狙い始めた。車の動きはさっきよりも速く、滑らかだ。


「だが、こちらの方が早い!」


灯二は地面から跳ね起きると、缶コーヒーのような形をした魚群探知機を車の正面に向け、出力を最大にした。


その時、フリードの動きが操り人形の糸をプツリと切ったかのように、不自然に静止した。


「今だ尾軽! おそらくジャミングの時間は 2 分が限界だ!」


「任せろ!」


灯二が叫ぶよりも早く、尾軽はフリードの後ろ側の茂みから飛び出し、石垣を軽々と飛び越えていた。

車の運転席側のドアは石垣に隣接していて開けられない。ならばまずは左後方のドアからだ! 尾軽が思いっきりドアノブに手をかけた!

灯二も助手席側のドアノブに手をかけ、二人はほぼ同時に引いた。

ガシャコン。

まるでバットをフルスイングして空振りしたような、虚しい手応え。ドアノブを引いても、ドアが開かない。


「な、ぜ?」


もしかして、ドアがロックされている?

ブォン!

車にエンジンがかかる不吉な音がした。


「尾軽、一旦離れろ! 魚群探知機の充電が減って出力が弱まっている!」


「いくらなんでも減るの早すぎじゃない!?」


尾軽は灯二とともに車から石垣側に離れながら叫んだ。


「そもそも車の電波妨害用に作っていない! アリの弁当でゾウの胃袋を満たそうとしているようなものだ!」


つまり、一回きりの虎の子の切り札だったのだ。


車のハイビームが再び夜闇を切り裂いた。


「おいおい、じゃあどうすんだよ。」


尾軽は掠れた声で呟いた。

魚群探知機は風前の灯、車の中の工具箱は取れずじまい。


「万事休す、か。」


尾軽は絶望で声を震わせた。

このまま俺たちは追いかけまわされてひき肉になるのか? まぐれで逃げきれても、俺の買った車が近隣を襲って死傷者が出るなんて事態、絶対防がなければ。というかそんなことになれば俺の人生は社会的に終わりか?


フリードのエンジン音がつい数時間前までは自身の入場曲のようなものだったが、現在は悪魔の笑い声に聞こえた。駐車場の砂利の上に、尾軽は膝をついて倒れそうになった。


「まだだ。」

「灯二。」

尾軽はハッとして灯二を見上げた。


「先生が簡単に諦めるな。アキラ達が見たらガッカリするぞ。それに、まだ俺たちは死んでいない。そうだろ?」


灯二の目には、まだ理性の光があった。


「こんなところで死んでたまるか。まだ読んでない本が山ほどあるからな。」


灯二はそう言って、微かに微笑んだ。


「やめろ、何する気だ。」


もう、何も策を思いつかない。無駄死にだ。

その時、灯二は尾軽に耳打ちした。


「—- 」


そんなことをして何になる? 尾軽は思考がフリーズした。その間に灯二は、再び動き出したフリードに向かってゆっくりと歩いていく。


「やめろ、灯二ー!」


尾軽が叫び、フリードは灯二に向かって急発進する。

その真ん中に、花火が煌めいた。


「勝手に死のうとすんなバカー!」


尾軽の視線の 20m 先。灯二とフリードの中間あたりの石垣の上に、星崎リコが立っていた。リコは、左手にライター、右手に花火が詰まったビニール袋を持って、半泣きになって灯二とフリードに叫んでいた。


ズドドドド! ヒューーーーッ!


彼女は火をつけた据え置き型のドラゴン花火や連射式の花火をまるで大砲の砲撃のようにフリードに放った。火花と煙が車の正面を覆い隠す。


—-


「うわ、なんだよ画面が見えねぇ!」


ドライブレコーダーや各種センサーカメラをハッキングして操作していた少女のモニターは、花火の白煙で真っ白になり、サーモグラフィーのセンサーは熱源の反応で画面いっぱいが燃えるような赤になった。


「落ち着け、花火が晴れてから目の前の男を冷静に撥ねたらいいダロ。」


シンはライオンに水牛が一矢報いたのを見るかのように、冷めた目でニヤニヤしている。


「分かってるって!」


少女は叫んだ。


—-


フリードは煙を突き破り、再び灯二めがけて直進してきた。


「勝ちを確信しているな?」


灯二は、ハイビームの光に立ち尽くしながら、誰に聞こえるでもなく喋った。


「その瞬間の隙を待っていた!」


灯二は素早く転がり、フリードの直進範囲から逃れた。


—-


「バカが! そのパターンはもう見たんだよ!」


少女がコントローラーのスティックを灯二が転がった方向に激しく倒し、車を急旋回させる。その瞬間。


—-


ゴリッ! ガリガリガリッ!


車止めに乗り上げた後輪が、コンクリートの塊を巻き込み、車体は急旋回による遠心力と乗り上げの衝撃で、横方向に大きく傾斜した。


ギシャアアア! バキッ!


制御を失った車体は 30cm の石垣の先端に側面を叩きつけ、金属の悲鳴を上げた。まるで支点を失った独楽のように、車は回転しながら夜空に舞い上がる。

ホンダ・フリードは空を飛んだ。厳密には、 2 秒ほど、20cm くらい浮き上がった状態で回転した。

不安定に 1 回転半しながら落下し、「ドサァン! ズシンッ!」という重い衝撃音とともに、砂浜に横倒しになって突き刺さった。


砂煙が舞い上がり、ヘッドライトは砕け、エンジンは即座に停止した。金属の鈍い嫌な音が夏の夜の海に響き、そして静寂が訪れた。



都心のモニターのカメラ映像は激しく揺れ、やがて砂嵐になる。


「な、何が起きたぁ!?」


少女は慌てふためき、隣の椅子に座って別の仕事をキーボード入力して進めていたシンは驚いて立ち上がった。


「ば、ばかナ。あの状態から、何ができタんだ?」


—-


「「灯二!」」


砂利と擦り傷だらけになった灯二にリコと尾軽がかけより、肩を貸した。


「大丈夫か? 動けるか?」

「すまん、助かる。」

「い、一体何があったんだ!? 何をしたんだ?」

「あれだ……。」


灯二の指差した方向には、駐車場のど真ん中に、高さ 10cm ほどの直角三角柱を横に倒した形のセメントの塊がひとまとまりに寄せられていた。厳密には、ボーリングでストライクを取った後のピンのように放射状に散らばっていたが。


「これって、駐車場でよく見る車の後輪を押さえているやつじゃん。」


リコが口を開いた。

「正式には車止めというらしいな。」


灯二が呟いた。


「さっき灯二に土壇場で指示されたんだよ。『リコさんが陽動している間に、ありったけの車止めを車の旋回ルートの中心に集めろ』ってな。」


尾軽は震える指先で鼻をかきながら言った。まるでスキーのジャンプ台や、ロケットを発射するカタパルトのように、設置していたのだ。その指先は、コンクリートブロックを全力で運んだせいで真っ白に汚れていた。


「勢い余った車が、段差に躓いて吹っ飛んだってこと?」


へたり込んだまま、リコが震える指先で砂浜を指差した。


「そうだ。星崎リコが放った花火が、目眩しだけでなくちょうど良い煙幕にもなった。おかげで奴は旋回のタイミングを見誤り、車止めに乗り上げたんだ。……ありがとう。」


灯二は眼鏡の位置を直しながら、珍しく素直に礼を言った。


「そ、そんなことより、あの車はもう襲ってこないよね!?」


「横転して砂浜に突き刺さったんだ。フレームもシャフトも歪んでいるだろう。注視する必要はあるが、自力ではもう動かない。ただ、ガソリンが漏れて引火、爆発する可能性もある。細かい解析は警察に任せよう。」


灯二が深くため息をついて、夜空を見上げた。


「今日、釣りは難しそうだな。」


「当たり前でしょ。さっきまで私ら殺されかけたのよ!」


月は変わらず静かに輝いているが、その下では鉄の塊が死んでいる。


「あ、あんたら大丈夫かぁ!?」


堤防の上から、スマホカメラを向けながらジャージ姿の野次馬のおじさんが話しかけてきた。

爆音と衝撃音を聞きつけて、近所の住民たちが遠巻きに顔を覗かせている。よほどの騒ぎだったようだ。数分前にリコが呼んだパトカーのサイレン音が、遠くから近づいてくるのが聞こえる。


「一体何が起きたんだ!?」


「事故か? 喧嘩か?」


ざわめく人々の声。日常が戻ってきたその空気を感じて、灯二も気が抜けたようにその場にドカッと座り込んだ。


「た、助かったのか?」


「廃病院の時も死ぬかと思ったけど、今回はそれ以上だったわ……。」


リコさんも、膝の力が抜けたようにその場にしゃがみ込んだ。お気に入りの服が砂で汚れるのも気にしていない。


「良かったな、Youtubeのネタができたぞ。『殺人車に襲われてみた』でミリオン再生間違いなしだ。」


灯二が肩を揺らして、乾いた笑いを漏らした。


「ふざけないで! こんなの笑い事じゃないわよ!」


リコが涙目で怒鳴る。

確かに笑い事じゃない。尾軽は、身体中の擦り傷の痛みを感じ、現在の状況が夢ではなく現実だという実感がようやく湧いてきた。

そして、別の現実も頭をもたげた。


「車……中古車屋から弁償してもらえるのかな。」


無惨な姿になったホンダ・フリードを見つめる。愛車は享年2週間というあまりにも短い生涯を終えてしまった。


「改造された跡を立証できれば問題ないだろう。数ヶ月時間はかかると思うがな。」


「そんなぁー……。」


尾軽は頭を抱えた。この炎天下、一番車通勤をしたい真夏の時期に、汗だくの自転車通勤が確定した瞬間だった。


ウゥー! ウゥーー!!

パトカーのサイレンの音が、すぐそこまで迫ってきた。赤色灯が駐車場の壁を赤く染める。


「助かったが……今回ばかりは逃げられないな。」


灯二がボソりとこぼしたのを、尾軽は聞き逃さなかった。


「逃げられない?灯二、それってどういう。」


まるで灯二が悪いことをしたみたいな言い方だ。


「尾軽、偶然なのか分からないが、何者かの明確な悪意によって改造した車に俺達は乗った。その相手は、これからも俺達を狙って来るかもしれない。」


灯二は警察車両の光を見つめながら、早口で、しかし重く告げた。


「気をつけろ。アキラや星崎リコ達を守れるのは、お前しかいない。」


「何言ってんだよ灯二。まるで……お前がいなくなるみたいなこと、言うなよ。」


尾軽は口を小さく開けたまま呟いた。意味が分からなかったからだ。いや、分かろうとしたくなかった。灯二が持っていた魚群探知機、そしてこれから行われるであろう厳しい取り調べ。それが何を意味するのか。


「すみません、通報したのはあなた方ですか?」


灯二に真意を問いただす前に、懐中電灯を持った警察官の二人組が走ってきた。


「うわっ、なんだあの車!?」


若い方の警察官が、砂浜に突き刺さるフリードを見て絶句している。先輩らしき警察官は、事態の深刻さを悟り、慌てて無線で本部への増援と救急車、そして鑑識の要請を行っている。


「本部、本部! 茅ヶ崎海岸にて車両の単独事故……いや、状況が特異です! 車両が大破、現場は騒然としています!」


どうやら、思ってた以上の騒ぎになりそうだ。

尾軽は、隣で静かに立ち上がり、両手をポケットから出して警察官に向き合う灯二の横顔を、不安げに見つめることしかできなかった。


—-


それからは長かったような、けれどあっという間だったようにも感じる。


尿検査に指紋採取、所持品検査。そして別々の部屋に隔離されての、終わりの見えない事情聴取。俺たちが解放されたのは、空が白み始めた夜明け前だった。


俺たちは事実をありのまま供述した。「車が誰も乗っていない時に暴走して殺されそうになった」「逃げ回っていたら車が砂浜に吹っ飛んだ」と。そして、灯二が回収していた「改造パーツの黒い箱」を、身の潔白を証明する証拠として提出した。


だが、警察の反応は冷ややかだった。それどころか、俺たちは「動画投稿サイトの再生数稼ぎのために、自作自演で過激な事故動画を撮影しようとしたのではないか」という、とんでもない容疑をかけられることになったのだ。


結果、灯二だけが重要参考人としてそのまま身柄を拘束され、後に被疑者として勾留されることになった。


「なんでですか! 灯二は俺らを助けようとしただけです!」


警察署のロビーで、俺はリコさんと一緒に必死に食い下がった。だが、受付の警官は事務的に告げるだけだった。


「ご友人が使った『自作の魚群探知機』ですがね。あれ、解析したら軍事用レベルの出力が出ていたんですよ。明確な電波法違反です。それに、車の制御を乗っ取られた証拠も見つかっていない。現状では、彼が車を暴走させた主犯と見なさざるを得ません」


車を外部から操作された証拠なんて、専門家が見ればすぐに出るはずだ。そう思っていたのに、あれから 2 日経った現在、状況は何も進展していない。


警察の主張は一点張りだ。

『第三者が遠隔操作した痕跡は、一切見つからない』と。


—-


「危なかったネ。遠隔操作のログを消すのが間に合ったヨ。」


車が大破した翌日の夜。都市部のタワーマンションの上層階。シンは額に浮かんだ冷や汗をハンカチで拭っていた。


「にしても、追い詰めたつもりがこちらが追い詰められるなんてネ。あのひょろ長、ただものじゃナイ。」


ガチャ、と電子ロックが解除されドアが開く音が響き、黒髪お団子ツインテールの少女が入ってきた。見た目は高校生、いや、中学生の年頃だろうか。


「おい、シン。仕事終わったぞ。後始末の手配頼んだ。」


「おぉー、さすが暗殺のプロ、蚩尤しゆう家の跡取り! れいちゃんは仕事が早いネ。」


「やっぱ直接ヤるのが 1 番手っ取り早いわ。……あー疲れた!」


ボフッ。

年相応のあどけない声を出し、防水ジャケットにショートパンツ姿の少女は、高級そうな革のソファに身を投げ出した。


「日本のヤクザって大したことないな。警備ザルすぎ。」


「この調子でこれからも頼むヨ。次の依頼は悪徳政治家カナ。」


「日本の悪者消しまくってたら、日本が良くなっちゃうんじゃねぇかー?」


玲はスマホを取り出し、画面をタップしながら気だるそうに声を伸ばした。


「まっ、金もらえればあたしはドーデモいいんだけどね。」

少女らしからぬ淀んだ目で玲は呟いた。


「まあ、うちの国にとっての邪魔者を消すのが俺らの役割ヨ。空いた穴にはうちの国の派閥を埋める。そうやって日本を静かに侵略する。とっても楽しい仕事だネ。」


シンはワイングラスを片手に、タワマンの窓ガラスから見える東京の夜景に手を伸ばした。その手は、街を握りつぶそうとしているようにも見えた。


「くだらねー。あたしは楽して楽しく暮らせたらそれでいいわ。……この前の奴らは消したの?」


「それがまだなんだよネ。暗闇だったからあんまりカメラに顔が映ってないシ。一人は勾留中。一人髪の長いやつ…若い女カ?そしてもう一人は……。」


シンがキーボードを叩くと、壁の大画面モニターに顔写真が表示された。


「オカルトオル。中古車を買った男ネ。学校の教師らしいヨ。」


「へぇ、良い男じゃん。殺すのが勿体無いな。」


玲はソファに寝転がってスマホゲームをしながら、画面越しの尾軽に目を光らせた。それは獲物を値踏みする肉食獣の目だった。


「にしても、 3 週間前、俺のお気に入りの AIを壊した相手がまだ分からないんだよナ。」


シンは高級な革張りのリクライニングチェアに深く沈み込み、後頭部で手を組んで天井を見上げていた。


「久しぶりに楽しめそうだーってシンが言ってたやつか?」


「そう。……このオカルって男、ケントAIが壊れたあたりの監視カメラにも居たんだよナ。これは、果たして偶然カ?」


シンはモニターに映る尾軽の写真を指でなぞり、獲物を見つけた蛇のように舌なめずりをした。

偶然にしては出来すぎている。点と点が、悪意という線で繋がり始めていた。


「まあ、いつでも消せるようにしておくヨ。その時はよろしくネ。」


「あいよー。」


気の抜けた返事と、スマホゲームの軽快な効果音が、会話の内容との異質さをより浮き彫りにしていた。


—-


「オカル先生。灯二さんって……大丈夫なの?」

放課後。アキラと未来は学校のプールに泳ぎに来た帰り、まだ少し湿った髪のまま職員室の尾軽に会いに来ていた。


「大丈夫。灯二は何も悪いことはしていない。必ず帰ってくるよ。」


尾軽は自分に言い聞かせるように、二人の頭を優しく撫でた。


「アキラ、釣りの話なくなってごめんな。」


「ううん。大丈夫。だって先生の車がなくなっちゃったんだもん。仕方ないよ。」


「うっ!」


アキラの純粋すぎる指摘に、尾軽の胸が物理的に締め付けられた。ローンだけが残った愛車の姿が脳裏をよぎる。


それだけではない。警察署で解放された直後、追い打ちをかけるように突きつけられた現実があった。

「尾軽さん、お車のレッカー移動費用と保管料の請求書です」


警察が契約しているレッカー業者の男が、事務的に渡してきた一枚の紙。それを見て、尾軽は目を疑った。そこに記載されていた金額は、薄給教師の月給の手取り額の半分近くに達していたのだ。


「現場検証のため警察の証拠品保管庫へ運ぶ必要がありました。ですが、車が砂浜に深く埋まっていたため、通常のレッカー車では引き揚げられず、大型クレーンと砂地用の特殊車両を手配したんです。緊急の夜間作業、しかも特殊作業ということで、この金額になります」


業者の説明はもっともだった。事件性が高いため警察による強制回収はやむを得ない。だが、その費用は痛すぎた。

まだ数回しか乗っていない車の多額のローン残債。そして、スクラップ同然となったその車を運ぶための高額な費用。

通帳の残高は、見るも無残な数字を刻んでいた。以来、尾軽の生活はカツカツだった。今日の昼食も、本当はコンビニのおにぎり一個と水で済ませるつもりだったのだ。


ふと、職員室のテレビから不穏な音が流れた。先日の出来事が、連日ニュースとして取り上げられているのだ。


『茅ヶ崎の海岸で無人の車が暴走!? 車に同乗していた男が、自作の違法ジャミング機器を使って車を遠隔操作した疑い!』


まだ実名は発表されていないが、報道の論調は完全に「灯二がマッドサイエンティストで、危険な実験をして暴走させた」というものだ。


俺達 3 人が無人の車に追い回される様子を撮影していた近隣住民がいたおかげで、「殺人未遂」での即時立件は慎重に行われているのが不幸中の幸いだ。しかし、廃病院の件や AI ストーカーの件で連日警察のお世話になりっぱなしの俺達に、疑いの目が向けられるのは避けられない。

真夏の自転車通勤と、連日の校長や教育委員会への事情説明で、尾軽の心身は限界に近かった。


「近々、会いに行こうな。」


面会という言葉は使わないように気をつけ、尾軽はアキラと未来に約束した。抱きついてきた二人を受け止めながら、心に棘のような違和感が刺さっていた。

近々、とは言ったものの、それはいつになるのだろうか。

灯二。お前に限ってないと思うが、早く出たいからって冤罪を認めたりすんなよ。


—-


真夏の太陽が照りつけるファミレスの窓際。冷房が効きすぎた店内で、尾軽とリコは重苦しい昼食を取っていた。


「第三者が車を遠隔操作した跡が、まだ見つからないらしいわね。」


リコは苦虫を噛み潰したような顔で、スマホの画面を睨んでいる。


「証拠隠滅や口裏合わせをさせないため、俺らは少なくとも7日間、下手したらそれ以上の期間は灯二と接見禁止だって。」


カラン、コロン。


その言葉に、リコはグラスの氷をストローで無造作にかき混ぜて返事をした。氷の音が、沈黙を埋めるように虚しく響く。


「何よ、灯二を犯罪者って決めつけて。」


「こんなことになるなら、安い中古車なんて買わなきゃ良かった……。」


尾軽はハンバーグに箸をつける気力もなく、項垂れた。


「今回の件が全国ニュースで取り上げられて、波紋を呼んでるみたいね。」


リコはスマホの画面を尾軽に見せた。ネットニュースの見出しが踊っている。


『中古車が違法改造された状態で販売されていた!? 車検の基準とは!?日本車の信頼揺らぐか!?』


そして、その下には奇妙なタイミングで別の記事が並んでいた。


『中国の安価な高性能自動運転車が次々と日本上陸! 安全神話の崩壊と新たな黒船』


「なんか、私の思い過ごしだと良いけど……中国車の登場するタイミングが良すぎない?まるでずっと機会を窺っていたみたいな。」


「そ、そんなバカなことあるわけ…。」


誰かが裏で糸を引いてるような気がするの。リコの表情はそう語っていた。

リコは上目遣いで尾軽を見つめた。その瞳は、得体の知れない不安に揺れていた。


灯二ですら手に負えない、そんな規模の悪意が狙っていたら、一体どうやって止めろと言うのだろうか。


—-


一方、灯二は留置所の取調室で、連日厳しい追及を受けていた。


「俺は神奈川県警・捜査一課の細川ほそかわ巡査部長だ。」


50 代の強面男性は、パイプ椅子に座る灯二を鬼の形相で睨みつけて言った。


「またあんたか。」


灯二は深い、深い、それでいて不快そうなため息をついた。数日前から通算何度目かの自己紹介だ。


「あんたとは何だ、その口の聞き方は!」


ガタッ!

細川は灯二の胸ぐらを荒々しく掴んだ。


「細川巡査部長、やめてください!まだ犯人と確定したわけではありません!」


若手の記録係が慌てて細川を止める。


「まだ、か。まるで、確定したらどんな乱暴をしても良いみたいな言い草だな。」


灯二は鼻で笑い、若い警察官は気まずそうに目を逸らした。


細川は鼻息荒く灯二を突き放すと、唾を飛ばしながら捲し立てた。


「いいか露伴。お前がやったことは殺人未遂だ。動画配信のネタか、自分のハッキング技術を試したかったのかは知らんが、お前のその危険な『実験』で、友人が死ぬところだったんだぞ!」


「だから何度も言っている。俺はハッキングなんてしていない。車は勝手に無人で動いたんだ。あのジャミング装置は、外部からの乗っ取りを遮断して車を止めるための『緊急避難』だ。俺の家と車のログを調べれば、何者かが侵入した痕跡が出るはずだ」


バンッ!!


その瞬間、スチール製の机が強く叩かれ、部屋中に金属音が反響した。


「よくもまあそんな嘘がペラペラとつけるな! 警察の目は騙されんぞ!」


顔から 10 センチの距離で細川が怒鳴り声を上げた。酸化した脂の体臭と、安物の缶コーヒーとタバコが混ざった生臭い口臭。灯二は露骨に顔を顰め、心の中で呟いた。


(非論理的だ……。大声を出せば真実が変わるとでも思っているのか?)


「まあまあ、細川巡査部長。一旦落ち着きませんか?」


その時、取り調べ室の隅で小さくなっていた、一見気弱な 40 代のサラリーマンのような男が、おずおずと手を挙げた。


近藤こんどう警部。……しかしですな。」


細川巡査部長はたじろいだ。

近藤警部は、中肉中背でバーコード頭、垂れ眉の、どこにでもいそうな「普通の冴えないおじさん」だ。だが、その目には妙に修羅場を潜ってきた雰囲気がある。温厚な仮面の下に、冷徹な計算高さを隠している。まるで、羊にありつくために羊の皮をあえて被った狼のような印象だ。


「改めまして、露伴灯二さん。公安部 外事課の近藤です。あなたのお話、もっと詳しく聞かせてもらいますよ。」


慇懃な言葉の裏に、鋭い疑いの目が向けられていることに灯二は気づいた。彼らは「事件」ではなく、その背後にある「組織」を見ている。


「私も、参加させてもらいます。」


さらに隅に居た、30 代半ばのメガネをかけた長身男性が静かに立ち上がった。ゆらりと生気なく立ち上がった姿は、まるで柳が風に揺れる様子を連想させた。


「神奈川県警サイバー対策課、斉藤さいとう警部補です。お見知りおきを」


斉藤は手元のタブレットを操作しながら、冷淡な口調で告げた。


「露伴さん。あなたの PCやジャミング装置と車の頭脳であるECU を解析しましたが……外部からのアクセスログは一切ありませんでした。あったのは、あなたのが車に接続されたジャミング装置の記録だけ。つまり、車を操作できたのはあなた一人なんです」


な……馬鹿な。犯人は、ログごと消したのか?この短期間で?


灯二は目を見開いた。


神奈川県警サイバー対策課の斉藤警部補は、手元のタブレット端末をスリープさせ、淡々と言葉を繋いだ。

細川巡査部長の怒鳴り声とは対照的な、湿度を感じさせない冷ややかな沈黙が取調室を支配する。

斉藤は銀縁のメガネを中指でクイと押し上げた。照明の光がレンズに反射し、その奥にある瞳の感情を完全に隠蔽する。それはまさに、能面のような無表情だった。


「露伴さん。あなたの供述は技術的には興味深いですが、我々が押収したログと状況証拠を組み合わせると……全く別のストーリーが見えてくるんですよ」


斉藤は淡々と、しかし逃げ場を塞ぐように告げた。


「まず、あなたは自身のPCを車両のECUに物理接続し、不正なコマンド、つまり『暴走プログラム』を送信して車を制御不能にしました」


「なっ……!?」


灯二が反論しようと口を開くが、斉藤はそれを掌で制し、言葉を続ける。


「そしてその直後、あなたはあの改造魚群探知機を起動した。何のためか? ……決まっています。メーカーのサーバーや緊急通報システムからの『強制停止信号』を車が受信できないようにするためです」


斉藤は一歩、灯二に歩み寄った。


「つまり、こういうことです。『暴走の実行』はPCで行い、その暴走を『誰にも邪魔させない』ために、あなたは意図的に電波法違反を犯して通信を遮断し、暴走状態を維持し続けた」


あまりの論理の飛躍と、それを裏付けるかのような状況証拠の悪魔的なパズルに、灯二は愕然とした。


「そんな……そんなことするわけが……!! 俺は外部からの乗っ取りを止めるために……!」


灯二は机に身を乗り出して叫んだ。だが、斉藤の表情はピクリとも動かない。

ただ冷徹に、データの欠落という事実だけを突きつける。


「では、証拠を出してください。」


「……っ」


「あなたの言う『外部からの乗っ取り』のログはどこにもない。あるのは、あなたのPCが接続された記録と、あなたがジャミングをした事実だけです。……違いますか?」



所轄の刑事、公安、そしてサイバー対策課。

事情聴取もとい尋問3日目。この論理的に逃げ場のない包囲網を見て、灯二は長い戦いの覚悟をした。


ゴーン、ゴーン。


昼休みのチャイムが鳴り、取り調べが中断された。

留置所の部屋に戻された灯二は、鉄格子の嵌まった狭い窓から、切り取られた四角い空を見上げた。


「経験として留置所に入れたのは興味深いが……もう十分体験した今、いささか退屈だな。」


本も読めず、PC もない。

俺が不自由な間、尾軽らは無事だろうか。

あの時、駐車場で感じた、俺たちを狙う正体不明の悪意。それが今もあいつらに迫っている。そんな嫌な予感がした。


—-


そして、その翌日。

「露伴灯二。……弁護士との面会だ。」


細川巡査部長は、さらに尋問できないことが悔しそうに、吐き捨てるように伝えてその場を去った。


「やっと来たか。」


重い鉄の扉が開き、面会室に入る。

アクリル板の向こう、少しやつれた灯二の視線の先には、灯二と同年代か、少し上の圧倒的な美人が、仕立ての良いスーツを着て立っていた。


「少し痩せたんじゃない? 露伴君。……またあんたはいつも無理をして。」


彼女は呆れたように、しかしどこか安堵したように息をついた。


「お久しぶりです、氷室さん。」


そして、氷室と呼ばれた女性は灯二に微笑んだ後、立ち会いの警官に背筋を伸ばして向き直った。


「露伴灯二から依頼のあった、弁護士の氷室ひむろ 律子りつこです。」


そう言った後、律子は黒縁のメガネを指先でクイと上げたあと、殺風景な檻の中に閉じ込められた灯二を一瞥し、不敵に口角を上げた。


「露伴君、今度は私が助ける番よ。」


—-


灯二が勾留されてから3日後。

尾軽に、母から LINE が来た。


『ちょっと透、あんた今年のお盆帰って来ないの? じいちゃん達が楽しみにしてるわよ。去年正月に帰って来なかったんだから、お盆くらいは顔見せに来なさい!航空券のチケット送っておいたから、無駄にするんじゃないわよ!』


尾軽は職員室のデスクで顔を手で覆った。

今日は8月5日。都心で過ごす予定だったが、今からでもお盆に帰省は間に合う。

だが、灯二が捕まっている今、俺だけのんきに帰省していいものか。それに、車がないから移動も不便だ。


「はぁ……。久しぶりに帰らなきゃダメか。」


重いため息が、冷房の効いた職員室に溶けていった。母方の祖父母の住んでいるど田舎に遊びに行った時の幼少期の記憶が蘇り、そして身震いした。


あれは、俺の思い過ごしか?あそこに行くのは2度とごめんだが、このままだと母が東京に乗り込んでくる可能性もある。


今のゴタゴタに親を巻き込みたくない。灯二を心配してもまだしばらくは会えない。それに、まだ尾軽は教員の夏休みを消化していない。


「尾軽先生は来週から夏休みですか?何をする予定で?」


先輩教師の田中が上機嫌に話しかけてきた。現在奥さんが子どもと一緒に実家に帰省中で久しぶりに一人の時間を満喫しているらしい。


「僕は、実家の高知県に帰省しようかなと。」


尾軽は少し気まずそうに頬を掻いた。




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