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第二話 廃トンネルと廃病院

「はぁっ、はぁっ、はぁっ!」

その女性は全身の力を振り絞って走った。心臓が胸を突き破りそうに脈打つ。追いつかれたら、もう終わりだ。


真夜中の廃病院は、廊下の床板が腐ってきしむ音や、ガラスの破片を踏むたびに鳴る「パキッ」という乾いた響きだけが、彼女の孤独な息づかいに重なった。


背後からは、低く唸るような足音が迫る。振り向くと、暗闇の奥に人影が揺れている。

「うっ……!」


慌てて方向を変えた瞬間、放置されていたストレッチャーに足を引っ掛けてしまう。担架がぎぎぎと音を立てて動き、女性は勢いよく床に倒れ込む。膝と手のひらを擦りむき、血がにじむ。痛みよりも先に、頭の中に「しまった、なんでこんなことに……」という思いが駆け巡る。


助けて、誰か!

声にならない叫びを口の中で繰り返す。だが廃病院の空間は広すぎて、自分の声さえも遠くに吸い込まれていくようだ。


息を整える暇もなく、影は一歩一歩確実に迫ってくる。女性の心臓は、逃げることしか考えられずに高鳴り続けた。


——


6月末、新米教師の尾軽透は、夏休み前の仕事に忙殺されていた。


通知表の作成、教室の掃除と整理、保護者への連絡帳チェック、学期末の課題の採点、夏休みの宿題の準備、そして次学期の学級編成に関する会議。さらに、校内の掲示物を張り替えたり、教室の窓ガラスやドアの安全確認まで、やることは尽きない。休み時間ごとに飛び込んでくる生徒の質問や、学期末のトラブル処理も容赦なく尾軽を襲う。


「尾軽先生!いくら生徒や保護者からの評判が良いからと言っても仕事は免除されませんからね!」


甲高い声で、薄い頭皮で痩身の教頭が今日も不機嫌そうに指摘する。若手だからと、さらに仕事が上乗せされるのだ。人気者の尾軽に嫉妬しているのは、もはや隠しようもない。


今日も帰るのは夜9時過ぎかなぁ……。ため息が漏れる。


家と職場の往復の毎日。モンスターペアレントの理不尽な要求、非効率で意味のない会議、そして人間性の皆無な教師達に囲まれた日々。


俺って何のために生まれてきたんだろう。学生時代野球部で鍛えられた強靭な肉体と精神でさえも少しずつ蝕まれているのか、普段ポジティブな尾軽も弱音を吐く機会が増えたような気がする。


唯一の癒しは、元気な子ども達だ。教室に響く「オカル先生!」という声、無邪気な笑顔、純粋な質問や疑問。それがあるから、疲れきった体と心も、なんとか前に進む力を保てる。


そんなある日、最近のPTA会議で、子ども達の廃墟探索や肝試しが危険だという指摘が入った。


もうすぐ7月。夏休みを前に、暇と元気を持て余した早熟な少年少女たちが、深夜に廃墟探索をするのが小学生の間でも流行っているらしい。


俺は部活一筋で、そういった遊びの経験は全然なかったなあ、と感じた。楽しそうではあるけれど、教師として見過ごすわけにはいかない。


その時、保護者の一人、PTA会長の吉住タカシさんが勢いよく立ち上がった。


「子どもの安全を守るため、PTAの当番制で廃墟をパトロールしましょう!」


会議室に、どよめきと「え、手間かかりすぎるでしょ」という空気が一気に広がる。


タカシさんは、やる気はあるが空回りしがちなタイプだ。

端的に言えば、組織を腐らせる力を秘めていると言っても過言ではない。


「みんなで協力すれば、子ども達を危険から守れるんです!責任を分担すれば、そんなに大変じゃないですよ!」


彼は自営業で、時間の融通が利くためPTA会長を引き受けた。しかし、その図々しさという常軌を逸したコミュニケーション能力で、嫌がる他の保護者たちを無理やり巻き込み、引っ張っていってしまう。たとえ壁に張り付いて抵抗しようが、彼の前では無力だ。


会議室の空気は、半分呆れ、半分困惑。だけどタカシさんはお構いなしに、さらに熱を帯びた声で話し続けた。


「では、第一回目のパトロールに護衛として若手の尾軽先生、ついて来てくれますね!?」


突然の名指しに、会議室の空気が一変した。みんなの視線が一斉に俺に突き刺さる。

さっきまで欠伸を噛み殺して、半分夢の世界にいた俺は、一気に目が覚めた。


「お、俺ですか!?」

「君はそんなにガタイが良いじゃないか、不良がいた時は追っ払ってくれたまえよ!」


タカシさんは当然のように言い放った。

周りを見渡すと、他の保護者たちや先生はみんな俯いて、資料を眺めたりペンをいじったりして、絶対に俺と目を合わせようとしない。


心の中で思った。ああ、生贄が自分じゃなくてラッキーだと思ってやがるな。

押し付けられたのは俺。完全に貧乏くじだ。

ただでさえ少ない、俺の自由時間が……。


とはいえ、俺たち教師は教育委員会と文部科学省から薄給で使われ放題という名のサブスクリプション契約をしているので文句は言えない。

タカシさんはさらに勢いを増して、声を張り上げた。


「では早速、三日後の午後八時半!学校と同じ地区の廃トンネル前に集合しよう!当番は一組二人、交代で週替わり!途中で逃げたりサボったらペナルティで次回のパトロールを追加で担当ですからね!」


どよめく空気。けれど、結局誰も反論できない。俺もまた、みんなの期待と圧に押され、結局「ノー」と言えなかった。


——


「で、なんで俺が呼ばれなければいけないんだ?」


当日、廃トンネル前。

腕を組み、街灯の下で待っていたのは投資家兼ニートの露伴灯二だった。


不機嫌そうに眉間にしわを寄せ、俺を睨む。


「結局、PTA会長のタカシさんが急に仕事で来れなくなって、パトロールの証拠動画撮っといてくれって言われたんだよ。あの人、自分が参加しないくせに俺のこと疑ってやがる。けどさ、さすがに廃トンネルを1人で探索するのは怖いよ。だから頼む!」


尾軽が必死に頭を下げてくる。

タカシさんはPTA会議でルールを決めていた。

馬鹿げた決まりを自分で作ったのに、結局その“罰ゲーム”を自分に課すことになったのだ。自業自得だが、それは尾軽の知ったことではない。


「ふん、大人にもなって非科学的なものを信じて子どもみたいにビビっているのか?」


灯二は鼻で笑った。


「さっさと終わらせるぞ。俺は22時までには寝たいんだ」


SOSを送った時、ふざけるなとかこの暇人がとか言いながら灯二は家の外で尾軽の迎えを待っていた。


オカルトが大嫌いで、否定したいと考えている灯二は、この手の話を聞くとむしろ首を突っ込みたがる。灯二は好奇心旺盛で知らなかったことを分かるようになるのが好きだ。なんだかんだこの状況を楽しんでいるし、俺も灯二といる時間は好きだ。せっかくなら罰ゲームではなく、友達との肝試しをしてみたくなったんだ。


悪態をつきながらも、灯二は廃トンネルの「立ち入り禁止」の看板を躊躇なく通り抜け、ぐんぐんと先に進んでいく。


「おい灯二、暗いの平気なのか?」


後ろをついてくる尾軽が、軽口を叩くように声を上げる。


「前に灯二の家で停電した時は、めっちゃビビってただろ?」


生徒のアキラを灯二に紹介した際、停電時に灯二はウヒャァと情けない声を出して部屋の隅で震えていたのはつい最近の出来事だ。

灯二は立ち止まらず、むしろ一歩先を急ぐように歩きながら応じた。


「……あれは“無秩序”だったからだ。」

「無秩序?」


尾軽は首をかしげ、額の汗をハンカチでぬぐった。

灯二は懐中電灯を壁に向け、苔むしたコンクリートのひび割れを照らす。

その光の円が、まるで闇の海に投げ込まれた小舟のように揺れていた。


「停電は、日常が突然壊れる現象だ。混乱にさらされ、予期できぬ闇に怯える。

だが、このトンネルは違う。最初から暗いと分かっている。懐中電灯も持ち込み、足元の状況も把握している。秩序は保たれているんだ。要するに、コントロールできているという感覚が大きいから問題はない。」


尾軽は「なるほどなあ」と呟きながらも、まだ腑に落ちない顔をしていた。


「けど、暗いもんは暗いだろ。普通は怖いと思うけどな。」

「その怖いと言われるものは、お化けだろ?存在しないものを恐れてどうする。」


そう言って、灯二は一歩、また一歩と暗闇の奥へ足を踏み入れていった。


物理法則を無視したオカルトという存在は、灯二の秩序を乱す。だからあらゆるものを解明したい。そういうことなのだろう。その背中を、尾軽は半ば呆れ、半ば頼もしげに見送った。


「まったく……何度も言うがお化けなんていない。トンネルや廃墟が怖く感じるのは心理学的な錯覚なんだ。薄暗い環境で視界が狭まると、人間の脳は“見えないもの”を勝手に補完しようとする。


音も反響して普段以上に不気味に響く。だから風の音も、足音も、全部“何かの気配”に変換されるってわけだ。子どもの頃家のトイレや教室が夜は怖く感じる現象と同じ。つまり、怖がってるやつは、脳みそに自分でホラー映画を上映してるようなもんだな。」


灯二は理屈っぽく解説しながら、口元にはどこか得意げな笑みを浮かべていた。


「それに、人間は自分の知らないものを無意識に避けたがる。来たことがない廃トンネルを通っていたら、自分の知らない怪物がいるのではと思い込むのが人間なんだ」


灯二がそう言いかけた時。


ザッザッ。

砂利の上を歩く乾いた音がトンネルの奥から響いた。続いて、ふわりと揺れる青白い光が、まるで人魂のように前後に漂いながらこちらへ向かってくる。


「ひぇぇ!灯二、あれ!あれ!あの火見えるよね!?あれも幻覚!?ほんとにお化けじゃない!?」


尾軽はパニックになり、灯二の背に隠れようと飛びついた。だが学生時代に鍛えすぎたその肩幅は、長身細身の灯二の身に余る。例えるなら、日食で太陽を隠しきれない月の端のように、尾軽の肩は灯二の背からはみ出してしまっている。


「いや、違う。人魂ではなく、人工の光だ。」


灯二に冷静に言われ、尾軽が目を凝らすと、人魂の正体は懐中電灯の光だった。


そこに現れたのは、若い、20歳前後だろうか。女の子が一人、カメラを回しながら懐中電灯の光をあちこちに向けて独り言を言い続けている。


「えーと、東京の八王子市で有名な廃トンネルのスポットに来てみたんだけど、今のところ高速でかけっこ勝負を挑む婆さんとか、 口裂け女 とかは現れていな――。うわっ!誰!?」


ぱっと懐中電灯の光が二人を照らした。

白いTシャツに短パン、足元は履き慣れたスニーカー。肩まで伸びたサラサラの黒髪を後ろでひとまとめにしていて、大きな目が光を反射しながらこちらを睨んでいた。若い女性は驚きと警戒の入り混じった表情のまま灯二らに話しかける。


「何よ、驚かせないで。他にも探索者が居たのね。」


若い女性は胸に手を当て、大きく息を吐いた。


「この先、何にも怖いものはなかったわよ。強いていうなら、不良の溜まり場のゴミや落書きが散乱してるくらい。ほら、ここって《夜な夜な足のない兵隊が行進する》なんて噂あるでしょ?ガセだったのね。」


尾軽は安堵と心配が入り混じった表情を浮かべ、少し前に出て声をかけた。


「君は?慣れているようだけど、女の子一人で廃墟探索を何度もしているのかい?危ないよ。」


すると若い女性は目を大きく見開いて、信じられないものを見るような顔をした。


「……ちょっと待って。私を知らないの!?私は登録者数20万人越えの心霊系YouTuber、星崎リコよ!」


「知らんな、ガキはさっさと帰れ。」


灯二は眠そうに目をこすりながら、そっけなく言い放った。


「俺たちは23歳、俺からみたら充分ガキだ。特に、メディアが多様化した現代で全ての人間に知ってもらえているというお前の傲慢さが、ガキの証だ。」


灯二が、淡々とした声で切りつける。まるで事務的に“お前は未熟だ”と告げる上司のように冷たい。


「23歳!?私は19歳よ!ほとんど年齢変わらないじゃない!人生のログイン時間が長いから自分は相手よりレベルを上げしている、そう勘違いしているあんたの方こそガキなんじゃないの!?」


リコと名乗っていた子、意外とキレのある返しをする。


「私はこの動画撮影に人生賭けてんの! 邪魔しないでよね!さっさと始まりの村に戻りなさい!」


リコの声は廃トンネルに反響し、苛立ちの熱が壁を震わせた。小さな拳を腰に当てて、爪先で地面を打つようにリズムを刻んでいる。


「お前は幽霊が実在すると思っているのか?」


「はぁ?いるわけないでしょ!だけどみんなビビって廃墟に行かない。だから私の動画に需要があるのよ。」


言葉の一つ一つが火花を散らし、鼻息すら荒く聞こえる。


「茶番を撮ることがお前の仕事か?」


灯二は鼻で笑いながら、ポケットに両手を突っ込んだまま吐き捨てる。


「なっ……茶番!?アンタ、私の動画見たこともないくせに決めつけないでよね!視聴者がどれだけ私を信じてくれてると思ってるのよ!」


「信じさせてるだけだろ。人の恐怖心を利用して再生数を稼いでるんだ。子どもを騙して金を取る縁日のくじ引きオヤジと同じだ。ホラー系のジャンルに若い女のライバルが少ないからお前に視聴者が集まってるんじゃないのか?」


「うぐっ……だとしたら何? あんたらに口出しされる権利なんてないでしょ!」


リコは肩を揺らし、頬を赤く染めて噛みつく。

星崎リコは激昂し始めていた。あーあ、最初は俺たちに割と友好的だったのに、灯二はなんでそんな言い方しかできないかなぁ。


「不良と遭遇したらどうする。不良は霊感が無くても見えるぞ。だから早く帰れ。」


灯二の声は皮肉に満ちていたが、その奥にかすかな警告の響きもあった。

だが、にやついた横顔を見ると、あの子をわざと怒らせて楽しんでいるようにも見える。

いい性格をしてやがる。


「あのー、二人とも少し落ち着いて…」


尾軽は間に入ろうと声をかける。


「アンタには関係ないでしょ!」


リコが俺を睨みつける。


「ある。子どもを守るパトロールのためにここに来た。この男の付き添いだ。」


灯二は当然のように言い、俺の肩に手を置いた。その仕草に、リコの視線が突き刺さる。

リコは肩を震わせ、ちょっと泣きそうで、それでも怒りを滲ませた目を俺に向けた。


「色黒ゴリラ、あんた友達はもっと選んだ方がいいわよ。」


色黒ゴリラって俺のことか?助言なのか罵倒なのか分からず尾軽はたじろいだ。


「お前はまず友達を作ったらどうだ。廃墟探索よりは暇つぶしになるぞ。」


灯二は口笛でも吹くような軽さで言い放つ。

……俺との時間は暇つぶしかよ。


「アンタには話しかけてないわよ!この嫌味センター分けメガネ!」


リコは尾軽を押し退けて、さらに毒を吐く。


「どきなさいよ、色黒ゴリラ!」


そのまま入口へ向かって小走りに去っていった。スニーカーがコンクリートの欠片を蹴散らし、足音がトンネルの奥へ吸い込まれていく。


「えー、ということで、さっき最悪な男と遭遇しました。聞いてた?今の会話」


彼女はカメラに顔を寄せ、わざと目を見開いて芝居がかった口調で続ける。


「あいつ、将来絶対モラハラ夫になるよ。いや、そもそも結婚もできないでしょ!」


尾を引くような声がトンネルの湿った空気に反響する。灯二は無関心そうにポケットに手を突っ込んでいたが、尾軽は耳を塞ぎたい衝動に駆られた。

リコは最後に振り返りもせず、足早に出口へ近づいていく。


「ということで、お化けはいなかったけど、夜な夜なパトロールする妖怪嫌味センター分けメガネはいたので、皆さん、この廃トンネルには近づかないように!」


甲高い声がエコーして、やがて小さくなっていった。カメラに向かって最後の一撃を叩き込むその背中は、悔しさと炎上狙いの意地の両方で張りつめているように見えた。


残された尾軽たちは、暗闇の中で立ち尽くす。遠ざかる声の余韻だけが、トンネルの湿った壁にまとわりついていた。


「……なあ、ちゃんと俺たちにモザイクはかけてくれるんだろうか。」


尾軽がぼそりと漏らす。


「モザイク処理や許可なく俺たちが動画投稿サイトに掲載されたら、肖像権侵害や名誉毀損にあたる。まあ、俺たちに聞かせるための最後っ屁だからあまり気にしなくて良いだろ。」


女の子を危険な場所から遠ざけられた。それでいいはずだ。ただ、その代償に俺は完全に巻き添えを食らった。


「ふっ……くく。さあ先に行くか、色黒ゴリラ。」


灯二の笑いは腹の底から愉快そうだ。


「うるさいな!妖怪嫌味センター分けメガネより絶対マシだろ!」


廃トンネルの中に、まだ収まらない言葉の火花が散った。


「あの娘いわく、この先には不良のゴミしかないみたいだな。」


灯二が鼻を鳴らして、トンネル奥の暗闇を見やった。


「だったら、ゴミ掃除してから帰ろうか。」


尾軽はリュックを下ろし、ジッパーを開けて中から大きめのゴミ袋を引っ張り出した。カサリと鳴るその音に、灯二は呆れたように口元を緩める。


「真面目なやつだ。」

「けど、このままゴミや落書きが放置されているとどんどん治安が悪くなるって、前に灯二が言ってただろ?」


尾軽はトングを握りながら笑う。


「ああそうだ。割れ窓理論ってやつだな。」


灯二はポケットに手を突っ込んだまま、壁の落書きに顎をしゃくって見せた。


「人が治安を悪くするんじゃない。誰も咎めない環境だからこそ、行為がエスカレートする。不良はその環境の副産物にすぎない。」


二人は手分けして黙々と作業を始めた。尾軽はトングで空き缶やお菓子の袋をつまんでゴミ袋へ。灯二は無造作にしゃがみ込み、散らばった煙草の吸い殻を掻き集める。袋に缶が落ちる「カラン」という音が、静まり返ったトンネルに小さく響いた。


雑談を挟みながらの作業は不思議と苦ではなかった。

それでも尾軽の胸の奥では、さっきのリコの姿がちらついていた。


世の中にはいろんなお金の稼ぎ方がある。投資だけで生きる人間。心霊動画で俺より若くして何千万、下手したらそれ以上を稼ぐ人間。


一方で、介護、保育、教育、物流、農家。社会を支える最前線の人々の給料は低い。どうしてなのか。自分の仕事の尊さを信じたい気持ちと、理不尽な現実への寂しさが入り混じり、胸がずんと重くなる。


トングで缶を拾い上げながら、尾軽は意を決して口を開いた。


「なあ灯二……なんで社会を支える仕事ほど給料が低いんだろうな。」


灯二は立ち上がり、吸い殻を入れた袋を無造作に結びながら答えた。


「ああ、それはな。社会にとって重要な仕事ってのは、大抵、財源が税金から出ている。だから報酬に上限があるんだよ。」


灯二は少し間を置き、さらに続ける。


「それに農家や建築、単純作業みたいな職種は代替性が高い。つまり、誰でもやれるとみなされてるから競争原理で安くなる。」


尾軽は黙って頷いた。どちらが本職の教師か分からない。だが、灯二といるといつも新しいことを学べる。それが心地よくて、つい彼と一緒にいる時間を選んでしまうのだ。


尾軽がしゃがみ込み、地面に散らばったゴミを手でかき分けると、見慣れない銘柄のグミやクッキーの空袋がいくつか出てきた。袋の表面は少し湿っていて、深夜の湿気に吸われたようにシワが寄っている。


「なあ、灯二。こんなグミやクッキーを食べたことあるか?俺たちの知らない間に、新しい商品がどんどん出てるんだなあ。」


尾軽はゴム手袋をした指で袋を摘み、灯二に向けて差し出した。だが、灯二は顰めっ面で顔を背け、眉をひそめる。


「汚いから、あまりこっちに寄せるな。」

「ああ、ごめんごめん。」


尾軽は慌てて手を引っ込める。


しかし灯二はしばらく考えるように沈黙した後、素手でその袋に触れた。普段は潔癖なはずの彼が、意外にも平然と手に取る。


「まて尾軽、やっぱりその袋、よく見せろ。」


灯二の手つきは慎重で、まるで物理的にだけでなく情報としても確かめるかのようだった。


「これは…CBDだ。」


尾軽は思わず息をのむ。


「CBD?なにそれ?Aはないの?」


灯二は肩をすくめ、少し呆れたように言った。


「教師は資格を取ったら一生勉強しなくていいと思っているのか?


これは端的に言うと、合法の大麻だ。」


尾軽の目が大きく見開かれる。


「大麻?えっ…。でも、大麻って合法なの?」


灯二はさらに顔をしかめ、声を落として説明した。


「日本では違法だ。元々、大麻は医療用として使われたり、麻袋や船の帆の材料として重宝されていた。現代でも睡眠治療薬や、がん治療の鎮痛剤として利用されることがある。


ではなぜ大麻は違法になったのか、それは政治的な理由だ。1920年から1933年までアメリカは禁酒法で酒を取り締まるために大量の警官を雇った。だか、人はこっそり酒を求め、酒を非合法に取り扱うギャングが力を持ち始めた。


だから結局酒を合法化したが、酒を取り締まる警官の仕事が無くなってしまう。だから、アメリカ政府は警官に新しい仕事を作る口実として、大麻を無理やり違法化したに過ぎない。そして、その行為に科学的根拠がないから、世界中で大麻が合法化され始めている。


大麻は医療や脳科学、薬学の分野では、人類に希望を与える可能性すらある代物なんだ。」


尾軽は袋を見つめたまま、

「じゃあ、なんで日本は違法なの? それに、もしその袋の中身が合法の商品なら、問題はないんじゃないのか?なんで灯二は気にしてるんだ?」

と質問した。


灯二は足元のゴミをゴミ袋に入れながら、少し考え込むように言った。


「日本で大麻が違法なのは、政府が無知な国民に批判されるのを避けたいからだ。その結果、日本はドローン事業と同じように、海外製品を買うだけの消費国家になってしまう。


大麻産業も海外頼みで、日本から金が流れ出し、国全体が貧しくなる。だが、人間は楽な方向への進化には抗えない。どうせいつか大麻が日本にやってくるなら、早く許認可制で合法化し、日本の大麻事業を海外へ売り出す方が良いと俺は思うがな。」


「なるほどなぁ。でさ、大麻とCBDの違いって何?CBDが出回ることが何か悪いことなの?」


尾軽が怪訝そうに首を傾げると、灯二は袋を指でつまみながら、淡々と説明を続けた。


「CBDは、大麻から抽出される成分のひとつだ。精神をハイにするTHCとは違って、リラックス効果や睡眠改善に使われると言われている。


医療分野では期待されてる成分だ。問題は、栽培される土壌によっては重金属や農薬を吸い込みやすく、かえって身体に悪影響を与えることもあるんだ。


しかも日本じゃCBDに関する法整備が中途半端で、完全にグレーゾーン。だから、粗悪で健康に害を及ぼすものが蔓延してもお咎めが無い。そこに目をつける反社や闇商売が入り込みやすい。


つまり、この空袋はただのゴミじゃない。『大麻グミ』とか『CBDクッキー』って呼ばれてる商品で、まともな流通経路から来たものかも怪しい。……こんなゴミが落ちてるってことは、周辺地域で危険物に手を出してる不良がいる可能性が高いってことだ。」


尾軽は袋を持つ手を無意識に遠ざけた。


「……マジかよ。お菓子の顔してそんな危ないもんが普通に出回ってんのか。」


灯二は空袋を指でつまみながら、続けて話し始めた。


「ちなみに、最近はCBD入りのタバコもある。さっき落ちてた電子タバコの吸い殻もCBD入りだ。葉っぱを燃やすけど、THCは含まれていない。だから日本でも合法で流通してるんだ。」


尾軽は目を丸くした。


「え、タバコまであるのかよ…。吸ったらリラックスできるの?」

「ああ。ただし紙巻きタバコと同じだから、健康への悪影響はゼロじゃない。CBDの成分だけを摂取するならグミやオイルのほうが安全だな。」


灯二は袋を軽く振り、周囲に落ちていたゴミや包装と比べるように説明した。


「ほら、こういう新しい嗜好品は、見た目は普通でも成分や用途を知らないと危ない。特に未成年が手を出すとトラブルになるケースが多い。だから俺たちも目を光らせておく必要があるんだ。」


灯二は鋭い視線であたりを見渡し、声を低くした。


「そういうことだ。俺たちが気づかないところで、この街の足元はじわじわ腐ってきてるのかもしれんな。」


尾軽の背筋に、ひやりとした風が走った。

結局、この日は廃トンネルのゴミ掃除だけで終わった。


後日、職員会議とPTAの集会で、あのCBDや大麻の空袋の話題を持ち出すと、灯二の言う通り、我々大人は大パニックに陥った。


「え、これって放置したらどうなるんだ…?」

「地域の子どもに危険が及ぶんじゃ…」


誰もが眉をひそめ、心配顔を浮かべる。無知が生む恐怖と焦りは、あっという間に会議室の空気を圧迫した。


結果的に、パトロールの頻度が増え、地域の見回りに立候補する大人も増えた。


尾軽は、灯二の知識が引き起こした混乱を見ながら、思わず苦笑するしかなかった。俺のパトロールの頻度が減ったから、結果オーライというべきか。


—-


別の日。

深夜、灯二たちがかつて掃除をした廃トンネルには、3台のバイクのエンジン音が静かな山間に響いていた。冷たい夜風に混ざって、排気の匂いがかすかに漂う。


「あれ?なんか俺たちのゴミ無くなってね?ラッキー♪」


ツーブロックに柄物ワイシャツ、ダメージジーンズを履いた少年が、満面の笑みを浮かべて言う。声は夜の静寂に少し響いた。


「誰かが来て、わざわざゴミを拾って行ったのか…暇人がいたもんだな。」


前髪が目にかかるくらいのサラサラマッシュヘアの少年は、黒ワイシャツに黒スキニーパンツを纏い、低くつぶやいた。その瞳は暗がりでも光を帯び、少し鋭く周囲を見渡している。


「まずいな、カイ。俺たちはCBDクッキーや大麻グミの袋を放置してたぞ。」


マッシュヘアの少年、田中シュンは、3人目の少年に視線を送る。坊主頭でジャージ姿の山本カイだ。引き締まった肉体は野球部風だが、その鋭い眼光や落ち着いた立ち振る舞い、下唇に着けたピアスは、健全な少年のそれとは一線を画していた。


「ここ気に入ってたんだけどな。拠点を変えるか。シュン、いい候補ないか?」


シュンは少し考え込み、静かに答える。


「町外れの廃病院とか…俺たちの活動範囲から近いし、誰も来ないと思うよ。」


「えっ!そこって白い患者服の集団が週末の夜中に院内を歩き回る”って噂のとこだろ?」


「なんだよユウダイ、ビビってんのか?」

カイはイタズラっぽい笑みを浮かべる。


「ユウダイ、お化けなんか信じてるのかよ。」

シュンは冷たい目線を投げた。


「はぁ!?別にビビってねーし!」

「ビビってんじゃん。だっせー。」


シュンとユウダイの口論を聞き流し、カイは少し逡巡したあと、口を開いた。


「よし、じゃあ場所を変えるか。シュン、案内してくれ。」

「任せて。」


「何だよー、めんどくせぇなぁ!誰だよゴミを片付けたやつ!」

「ユウダイ、お前さっきまでゴミが片付けられてラッキーって言ってたよな?」

「え? 俺そんなこと言ったっけ?」

「ユウダイ、調子が良いのか、バカなのかどっちだよ。」

シュンはため息をつく。


「はぁ!?どっちもに決まってんじゃん!」


ツーブロックの少年、小森ユウダイは調子良さそうに笑い、歯を見せた。カイとシュンも、つられて笑う。夜の山に、彼らの笑い声が短く弾む。


「ったく、一体俺たち、どこに居場所があるんだろうな。」

カイがため息をつく。


「まあ、俺たちはカイについていくだけだから。そこが俺の居場所だよ。」

シュンは独り言のように呟き、


「だな!どこまでも、いつまでも一緒だ!」

ユウダイが大きな声で返事をする。


3台のバイクは、低く唸る排気音を夜の山に響かせながら、廃トンネルを背に暗い山道へと走り去った。月明かりが、舗装されていない道の砂利を淡く照らす。


—-


週末の午後、図書館の近くにある芝生公園は、木漏れ日が柔らかく差し込むのどかな光景だった。灯二と尾軽はアキラと一緒にボールを手にキャッチボールを始める。未来は日陰にピクニックシートを敷き、サンドイッチやクッキーを置きながら、楽しそうに三人のプレーを見守っていた。


こっくりさん事件以降、アキラと未来は灯二に会いたいと何度も嘆願しており、尾軽は二人を連れてたまに灯二の家にお邪魔している。


未来は灯二の本を借りて読書に没頭し、アキラは嫌いだった勉強を灯二に教わることで徐々に積極的になっていっている。灯二は「手間のかかるガキどもだ」と言うが、毎回茶菓子と砂糖たっぷりのミルクコーヒーを用意して待っているから、尾軽は笑いを堪えるのに苦労している。


アキラと未来の保護者から見れば、学校と関係のない大人の家に子どもを送り出すなど言語道断だろう。しかし、尾軽という信頼できる教師が同席していること、そして向かう先が未来を助けた灯二自身であることが条件となり、アキラと未来の両親は安心して快諾している。


アキラがボールを握り、「灯二さん、家に引きこもってばっかなのに野球上手いね!」と声を弾ませる。キレのあるボールを放つアキラに対し、灯二は難しいショートバウンドの球ですら難なく捕球し、スムーズに返球する。


「ふん、俺は家で筋トレをして鍛えている。ずっと事務仕事ばかりしている色黒ゴリラと同じだと思うな。」


そう言いながら放った灯二の球は、速度もノビも完璧な状態で灯二の胸元にあるミットに吸い込まれていった。


「俺だって元野球部の意地があるぞ!ってか灯二そんな良い球投げれるのに、なんで野球やらなかったんだよ!」


「ふん、スポーツで汗を流すことの優先順位は低い。健康管理として運動は1日30分やれば充分だ。」


思い返せば、学生時代の灯二は様々な運動部にスカウトされながらも、全て断り文芸部に入った。その選択は本人の哲学に基づくものだったが、運動能力の高さを惜しく思わずにはいられない。


未来は手を叩き、楽しそうに「すごい、みんな上手!」と歓声を上げる。


「そろそろ休憩にして、昼食でも食べるか。」


4人はシートに腰を下ろし、未来の母が用意したサンドイッチやおにぎりを広げる。学校の仕事は忙しく、休日に生徒と遊ぶことに給金は発生しない。しかし、芝生に座り、友達や生徒たちの笑顔を見ながら食事をする時間は、どこか穏やかで、悪くない。


芝生の上に座り込んで、アキラと未来がスマホを取り出す。

二人の顔は太陽に照らされて期待に満ちていた。


「ねえオカル先生、聞いてよ!最近俺と未来、心霊系YouTuberにハマってんだ!」


アキラが目を輝かせながら言う。

尾軽は思わず眉をひそめる。


「おい、こっくりさんの一件があったのに、まだ懲りていないのか?」

「違うんだよ、オカル先生!」


アキラはぶんぶん手を振った。


「懲りたから、自分でやるのはやめたんだ!今はYouTuberが突撃してるのを観るだけ!」


ゲームをやらずに実況動画を見るようなものか、と尾軽は思う。

なるほど、危険な遊びはせず、他人がやるのを楽しむというわけだ。


「それでね!」

未来が身を乗り出した。


「最近はこの“星崎リコ”って人がすごく面白いんだよ!」


二人が突き出したスマホの画面には、見覚えのある若い女性の顔。


「ブッ!」

尾軽は画面を見て、思わず吹き出した。


数日前、尾軽と灯二に浴びせた罵詈雑言がまだ耳に残っている。

灯二は思わず額に手を当てた。


「……お前ら、本当にろくでもないのを見つけてくるな。」


「オカル先生と灯二さんも知ってるの?」


アキラがスマホをちらりと見せながら、期待で目を輝かせる。未来も隣で小声で頷いた。

尾軽は肩をすくめて笑う。


「ああ、奇遇にも最近知ったばかりだ。星崎リコってのはどんな人なんだ?」


未来が嬉しそうに説明を始めた。


「元々は怖い話を喋ったり、ホラーゲーム実況とかやってたんだけど、ここ数か月は廃墟探索の動画がメインかなって感じ。ひとりでズンズン行くのが爽快でかっこいいの!」


アキラが割り込むように目を輝かせる。


「すごい可愛い女の子が一人で廃墟を近所の散歩みたいに進むのが面白いんだ!」

「アキラ、デリカシーない。」


未来が軽く横目でアキラを睨み、すかさず耳をつまんで引っ張る。アキラは

「いでででっ!ごめんごめん!」


と間抜けな絶叫をあげた。こっくりさん事件から数週間、未来は元々明るい子だったが、最近ずいぶん元気になった。元気になりすぎて、アキラが尻に敷かれ始めている。


灯二は半眼で二人を眺め、薄く笑った。


「へぇ、この星崎リコってのは色々頑張ってるんだな。」


アキラはスマホをぐいっと差し出して、さらに興奮気味に続ける。


「なんか今、東京近辺の廃墟を回ってるらしくて、ひょっとしたら俺らの近くの街にも来るかも!」


尾軽と灯二はほとんど同時に視線を合わせるが、口には出さない。実はもう近くに来ているし、俺たちは既に会った、なんて言えない。なぜなら、近くにいることが分かれば、アキラ達は星崎リコに会いに深夜の廃墟へ駆け出して行くだろうから。


「ねえ、今お昼の雑談配信中みたいなんだ。見てみようよ!」


スマホの画面が切り替わり、配信画面が大きく映る。画面の向こう、ホテルの白い壁を背景に、白いTシャツ一枚で座る若い女性。


髪を後ろでまとめ、視線は視聴者、つまりカメラにくぎ付けだ。コメントが流れるウィンドウが跳ねている。


『この前廃トンネル行ったんだけどー、夜な夜な足のない兵隊が行進するって噂はガセだったわ。』


彼女は肩をすくめ、笑いながら視聴者とやり取りする。明るく、少し毒っ気のある口調だ。


「おい、灯二、これ。」

尾軽が呟く。灯二が画面を一瞥する。


「ああ。」

彼女の話題は、ちょうど今週パトロールで出会った場所のことだ。


『そこで変な男二人組に会ってさ、「心霊系YouTubeなんて茶番やめろ」って言われたの。ムカつくよね!?』


視聴者のコメント欄がざわつく。『新手のナンパ?』『撮影の邪魔してきたの?』といった質問が飛ぶと、彼女は顔を強張らせながらも軽く笑って返す。


『いや、そんなんじゃないっぽいけど、あの色黒ゴリラと妖怪嫌味センター分けメガネは絶対忘れない!』


と言い放ち、枕をポスポスと殴ってアクセントをつける。拳を握りしめたその表情は、どこか子供っぽい怨嗟と妙なかわいらしさが混ざっている。


尾軽の顔が少しこわばった。それ、俺らのことじゃん。怒らせた灯二だけじゃなく、何故か俺も巻き添え喰らってるんですけど。


灯二は鼻の下を震わせるように笑いを堪えている。困った顔をする尾軽を、灯二は楽しげに眺める。

アキラが憤慨していきり立つ。


「なんだよそいつ! リコちゃんの邪魔しやがって、ムカつくなぁ! その妖怪嫌味センター分けメガネ!」

子どもらしい一喝だが、真剣さが混じっている。


灯二はセンター分けをかき上げメガネの奥からアキラを一瞥した。


「ほう、アキラ。この後食後の運動で千本ノックな。取るまで帰れんぞ。」

「灯二さん、私もやるから二千本ノックにしよー。」


未来は笑顔のまま、周囲の重力が倍になったかのようなプレッシャーを放っている。尾軽は未来の背中に阿修羅を背負っているのが見えた。


「なんで二人とも俺に怒ってんのー!」

アキラは頭を抱えてしゃがみ込む。アキラの目に未来の阿修羅は見えていないらしい。


『リコちゃん、その廃トンネルは何て名前?』


リコのファンからスーパーチャットが送られてきた。未来が身を乗り出すと、スマホの向こうのリコはふてくされたように唇を尖らせた。


『言わない。言ったら私が今何県にいるかバレるじゃん。動画投稿するまで数週間待ってて。』


軽口を叩きながらも、その瞬間だけは真剣な声色だった。場所特定班のコメントをサラリとかわす手際に、この子、インターネットリテラシー高いなと尾軽は感心した。


『今度はね―“白い患者服の集団が夜中に院内を歩き回る”って噂の廃病院に行く予定!』


リコが声を弾ませて宣言する。

アキラは思わず身を震わせた。


「患者服の集団って……怖すぎない?よく1人で行くよなー。」


リコはカメラの前でにっこり笑い、両手で大きなハートマークを作った。


『日本中の心霊スポット巡り、これからも応援よろしく!それじゃ、また次の配信でね!』


そう言って、画面はフッと暗転し、ライブ配信は終了した。

「ふん、やはり茶番じゃないか。」


星崎リコがカメラ越しに作った大きなハートマークを、灯二は冷めきった眼差しで眺めていた。その横顔には一片の笑みもなく、ただ透き通る氷のような静けさがあった。


——


アキラと未来をそれぞれ家まで送り届けた後、車内には尾軽と灯二だけが残った。夜道を走る軽自動車のエンジン音だけが、二人の会話を包み込んでいる。


「なぁ、星崎リコさんが廃病院の噂を確かめるなら……」

尾軽がハンドルを握りながら切り出す。


「ああ、今日を逃さないだろうな。」


もちろん、長期間この地域に滞在する可能性もあるし、週末ではなく明日以降の平日に廃病院に行く可能性も捨てきれない。


「Youtubeの収益がその辺のサラリーマンより高くとも、老後まで一生安泰だ、星崎リコはそんな短絡的な人間ではないと思う。


だからこそ、短期間で撮影し、次の地域に移動するだろう。ならば、今夜廃病院を訪れる可能性は高い。」


助手席の灯二は腕を組んだまま、窓の外の闇に目を向けている。


「尾軽、その廃病院は何時ごろに幽霊が出るって噂なんだ?」

「大体深夜1時頃らしいよ。」

「そうか。」


灯二は短く答え、そこで口角をわずかに上げた。


「なら尾軽。お前、俺んちで晩御飯食べてけ。」

「え、いいけど……なんで?」

「俺らも廃病院に行くからだ。」

「え、けど俺たちはリコさんとは、さすがに関係なくない?」

「PTAの探索箇所に廃病院は該当してただろ。」


灯二の声は落ち着いていた。


「それに今回は何か胸騒ぎがする。」


オカルトを毛嫌いする灯二が“胸騒ぎ”などと曖昧な言葉を根拠にするのは珍しかった。しかし尾軽は知っている。灯二の勘は、妙に当たることが多い。まだ客観的な証拠とは言えないが、仮説を裏付ける根拠が灯二の頭の中にはあるのだろう。


「今日の夜は長期戦だ。少しでも体力を温存しておく必要がある。」


ああ、運転役の俺を気遣ってくれてるのか。

尾軽は一瞬、心が温かくなるのを感じた。


「だから、晩飯後俺は寝る。12時になったら起こせ。」


……自分のためだったのかよ。

尾軽はがっくり肩を落とした。


——


そのころ。


星崎リコは配信機材のカメラの電源を落とし、深く息を吸い込んでいた。


部屋には先ほどまでの笑顔も、視聴者に向けた軽快な口調もない。静まり返った空気の中、彼女は震える手を膝の上で握りしめた。


大丈夫。今回もきっと上手くいく。

それに、上手くいかなきゃいけない。

自分に言い聞かせるように、リコはもう一度、深呼吸を繰り返した。


あの頃に比べたら、今の生活ははるかにマシだ。

あの頃の私は、何も持っていなかった。明日の食費にも困り、未来の希望なんて欠片もなくて、ただ誰かの機嫌に怯えて暮らしていた。


それに、もう、私を守ってくれる人はいない。

信じることは裏切られることだ。頼った瞬間、足元から崩れる。


だから、私は誰も信用しないし、頼らない。

私の人生は、私だけの力で生きていく。


ベッドの上で目を閉じたとき、数日前の出来事が脳裏をよぎった。

廃トンネルで遭遇した、あの見知らぬ長身のセンター分けメガネ。


「茶番を取ることがお前の仕事か? 


信じさせてるだけだろ。人の恐怖心を利用して再生数を稼いでるんだ。子どもを騙して金を取る縁日のくじ引きオヤジと同じだ。ホラー系のジャンルに若い女のライバルが少ないから人が集まってるんじゃないのか?」


あの冷たい声。突き刺さる言葉。

思い出すだけで、胸の奥がチリチリと焼けるように痛む。


それの何が悪いのよ。

みんな喜んでくれてるじゃん。

再生数だって伸びてるし、コメント欄には「面白い」「応援してる」って書いてある。


私もたくさん稼げて、幸せだし。

……そう、絶対幸せなんだから。そうに決まってるんだ。


「ん〜! 今思い出してもムカつく!」


リコは両手を広げてベッドに全身を投げ出した。シーツが跳ね、髪が乱れて顔にかかる。


枕元に転がっていたスマホを手に取ると、画面にはチャンネル登録者数である20万人の数字が誇らしげに表示されていた。

その数字を見た瞬間、胸に熱いものが込み上げてくる。


ここまで来るのに、どれだけ必死でやってきたと思ってる?


怪談紹介、ホラーゲーム実況。視聴者に「もう飽きた」と言われて落ち込んだこともある。


だから半年前に思い切って廃墟探索を始めた。

最初は怖かった。でも、今やそれが私のメインコンテンツになった。


それの何がいけないの。

スマホを握る手に力がこもる。


「今日は、とんでもないものを撮ってやる。」


リコは小さく呟き、ベッドから勢いよく体を起こした。

決意を固めた瞳は、先ほどまでの苛立ちを完全に塗り潰している。

そのままシャワールームへと歩き出した足取りは、迷いのないものだった。


——


実業家の父と美人な母の間に生まれた私は、運動も勉強も努力せず人並み以上にできた。容姿にも恵まれ、家庭の経済力も後押ししてくれる。周囲は自然と私に期待し、私はその期待に応えることに喜びを感じていた。小さな失敗も許される環境で、私は「なんでもできる」と信じて育った。


友達に勧められるまま受けたアイドルのオーディションは、12歳の私の人生を一変させた。プロデューサーの目に留まり、有名アイドルグループの研修生に選ばれる。歌も踊りも完璧で、何より可愛い。ライバルはおらず、私は半年でメキメキと頭角を現した。一年経つ頃には研修生のリーダーに抜擢され、周囲の誰もが一目置く存在になっていた。


父はよく言った。


「人生は一度きりだ。やりたいことをやれ。」


母も私の夢を応援してくれた。天真爛漫な笑顔で、「リコならできるわ」と励ましてくれたのを、今でも鮮明に思い出す。


だが、そんな順風満帆の時に、母は若くして病に倒れた。ガンだった。


母の存在は、私にとって安全地帯であり、支えだった。母を失った世界は、まるで晴れ渡った空から突然雲が覆いかぶさったかのように暗く冷たく感じられた。


母の死は、まだ幼い私に「努力しても、守ってくれる人は永遠ではない」という現実を突きつけた。それでも、私は母の思いを胸に刻み、歌も踊りも、与えられた環境も、自分の力で前に進むしかないと誓った。


母はいつも、歌って踊る私の姿を見るのが好きだった。だから、天国まで私の歌声が届くように頑張ろう、そう心に誓った。母の笑顔を思い浮かべるたび、自然と背筋が伸びた。


しかし、中学二年生のある日、私はテレビプロデューサーの藤原満ふじわらみつるというおじさんに呼ばれ、個室の料亭で二人きりで食事をしなければならなくなった。


普段からいやらしい目で私を見てきて、気持ちが悪いと思っていた。だけど、アイドルの仕事を続けるには従わざるを得ないという空気があった。


藤原プロデューサーは、にやりと笑いながらこう言った。


「もっと売れるためにはねぇ、誠意を見せてもらわないと。」


その言葉とともに、私の手を握り、無理やり自分のズボンの中心、パンパンに膨らんだ棒状のものに触れさせた。


その瞬間、全身が怒りで震えた。私の手が触れたあの感触は、忘れたくても忘れられない。ふざけるな、と私は心の中で叫び、理性よりも先に身体が反応した。あの気持ち悪いおじさんの大事なところを思い切り蹴り上げ、全力で料亭を飛び出した。


友達の助言で念のためスマートフォンで最初から動画を回しておいたのが功を奏した。その内容をいくつかの芸能事務所やテレビ局、そしてマスコミに送りつけたおかげか、藤原プロデューサーからの報復はなく、後で聞いた話によるとどうやらテレビ業界を追放されたらしい。


でも、私はその瞬間、これまで築いてきた「生きる意味」の大部分を失ったような気がした。自分を応援してくれた母も、もうそばにいないし、あの世界には戻りたくない。


ならば、私は父を支えようと決めた。父は実業家で、幼い頃から仕事の苦労を見てきた。私は難関大学の経済学部を目指すことにした。政治や経済、会社の財務、経営戦略。少しでも父の負担を減らすために、勉強できることは全部学ぼうと思った。大学の学費は、アイドル時代に自分で貯めたお金で何とかなる。


だが、運命は容赦なかった。ある日、父が突然、女と一緒に姿を消したのだ。私の貯金もろとも。


父の書き置きには、「人生一度きり、だから俺はやりたいことをやる」だった。有言実行のとんでもないクソ親父だった。


どうやら母という心の支えを失った父は、経営が悪化する中で怪しい占い師に傾倒し、財産を次々と失い、挙句の果てに私を置き去りにしたらしい。高校二年生の私は、一夜にして孤児院に入ることになった。


かつて私は、金も才能も容姿も、すべてを与えられた子どもだった。誰からも愛され、母は私の笑顔を心底喜んでくれた。だが現実は、あまりにも残酷だった。あんなに恵まれていたはずなのに、なぜ私は孤独の中に置かれるのか。どこで道を間違えたのか。何をしたからこんな罰を受けているのか。神様は、本当にいるのだろうか?それとも、今まで持ちすぎていたから帳尻を合わせているとでも言うのだろうか。


結局、誰かを大事にすれば、その人を失った時、心は引き裂かれるだけだと悟った。だから私は、人を心から好きになるのをやめた。寄ってくる男は星の数ほどいたが、心を開こうとは思わなかった。どうせこいつらは私の見た目に惹きつけられているだけ。誰も私の内面を見ていない。信じれば痛みが待っている。だから、私は誰とも付き合わないことを選んだのだ。


奨学金を借りて、難関大学の学生になることもできた。推薦ももらえる。それなら、学費や生活費の心配もいらない。だけど、もう大学で学ぶ理由が私には残っていなかった。母も父も、もういない。家族を支える必要も、夢を追う理由も、すべて薄れてしまった。


ならばどうする?水商売でもして生きるか。若いうちは稼げるとはいえ、アイドル時代でさえ散々な目に遭った私が、そんな世界に飛び込む勇気があるわけがない。いや、そもそもごめんだ。


ならば、高卒で就職して、結婚して、子どもを産んで、幸せな家庭を築く?そもそも幸せって何だろう。あんなに愛されて、守られて育った私の家庭が、たった数年で簡単に崩れたのに、幸せな家庭なんて本当に作れるのだろうか。


結局、自分を救えるのは自分だけ。まずはお金を稼ごう。手段は何でも良い。今まで私が散々奪われてきたんだから、私が奪う側に回っても別に良いでしょ?


なぜなら、世の中はそうやってできているから。だって、誰かを信頼してもいつか裏切られるかもしれない。だから、最初からお金を私の手元に置いておくの。合理的でしょ?

だから私は、1人で完璧になるの。

—-


深夜一時。

人気のない山あいに、巨大な影が鎮座していた。窓ガラスのほとんどが割れ、雨風にさらされて色褪せた白壁は、かつて「病院」と呼ばれた建物の名残をかろうじて留めている。


タクシーが停まると、運転手のおじさんはミラー越しにリコをねっとりと見た。


「お嬢さん、こんな時間にどうしてこんな場所へ。何か悩みでもあるなら聞きますよ。」


最初は怪訝な顔をして、私をお化けか何かと疑っていたくせに。

下卑た笑みと共に向けられる、舐め回すような視線。

リコは鼻で笑い、鋭く睨み返した。


「あなたには関係ないです。」


わずかな沈黙のあと、運転手は気まずそうに咳払いをして黙り込んだ。


車を降りたリコは、夜風に髪を揺らしながらカメラを取り出した。


白いTシャツにデニムのショートパンツ、その下から伸びるすらりとした脚。髪は無造作にひとつに束ね、歩きやすいスニーカーを履いている。

軽装は単純に動きやすいし、再生数だって伸びる。男って、本当にバカばっか。


赤いランプが点いたカメラを向け、声のトーンを一段落とす。


「えーと、今日は視聴者からリクエストのあった廃病院に来ています。週末の深夜一時に、集団の患者が歩いているらしいんですが……本当でしょうか。これから、探していきたいと思います。」


わざと神妙な表情を作り、ゆっくりとエントランスへ歩み寄る。


どうせその後は素に戻って普通に歩くんだけどね。ほら、雰囲気づくりって大事でしょ。


入口のガラス扉はすでに豪快に破壊され、無残な破片が地面に散乱していた。リコは慎重に足を運び、割れたガラスの上にスニーカーを置く。


パキッ。


乾いた破砕音が静寂を裂く。音が病院の奥へと反響していくが、リコの心拍数は一切乱れない。


彼女にとって、この程度の暗闇と不気味さはただの演出だ。


一階、二階、三階を調べ、最後に地下へ行く。それが今日のルート。


廃墟探索とは言っても、彼女の足取りは昼間のショッピングモールを歩くときと何ら変わりなかった。


なんで誰も私の真似して廃墟探索をしないんだろう。

三脚もいらない、ライトとスマホだけで撮れる。しかも再生回数は簡単に稼げるのに。


悔しいけど、あの妖怪嫌味センター分けメガネが言ってた通りなのかもしれない。


「可愛い女の子だからこそ成立してる。男が同じことやっても伸びない。」


みたいなこと言ってたっけ。……その言葉は腹立たしいけど、半分は事実だ。

ライバルになりそうな女子が参入してこないからこそ、私はのびのびと、脅威に怯えずにやれている。けど、10年経ったら、私にファンは残っているのだろうか。


結局怖いのは、お化けではなく現実の社会だ。


そんなことを考えていたら、もう三階の探索が終わりそうだ。

窓から吹き込む風にカーテンがはためき、蛍光灯の残骸がかすかに揺れる。


でも、やっぱりほらね。お化けなんていない。

本当に怖いのはお化けなんかより、人間の方。

夜に絡んでくる酔っ払い、廃墟に無断で住みついている浮浪者、あるいは配信中に個人情報を特定しようとするアンチやストーカー。


そして一番は..いや、もうやめよう。あの人のことは忘れるって決めたんだ。

そういうものの方が、よっぽど恐ろしい。


最後に地下の霊安室に向かおうと、錆びた手すりを握って階段を降り始めた。

その瞬間、ひやりと数段分だけ空気が冷たくなった。


でも私は知っている。

何度もいろんな廃病院を探索してきたから。

地下は寒い、当然だ。

遺体が腐敗しないよう、建物全体の設計に工夫がされているのだろう。


視聴者がコメントで教えてくれたこともある。

「霊安室って、断熱材と換気口の仕組みで温度を低く保ってるんだよ」って。

なるほどね、と冷めた頭で納得したものだ。


だから私は恐怖心を押し殺すでもなく、ただ事務的に、階段を一歩ずつ降りていった。


その時。

地下から、聞こえるはずのないものが、耳に触れた。


くぐもった、男たちの笑い声。

複数人で、誰かをからかっているような、喉の奥で転がるような笑い。

気のせい、だよね?


リコはそう言い聞かせるように心でつぶやき、足を前に出した。

それでも背筋をつたい落ちる冷気は、さっきまでの“地下は寒いだけ”という理屈を簡単に打ち消していった。


地下へ降りるにつれて、笑い声が確実に大きくなっていった。震えるような低音の笑いが、コンクリの壁に反響して戻ってくる。


こんなの、今まで体験したことがない。もしかして本当にお化け……いや、馬鹿なことを考えるんじゃない、私。そんなのいるはずないでしょ。


霊安室の扉には微かに隙間があり、そこから覗いた景色にリコの背筋は一瞬だけ緊張した。扉の向こうには、顔つきも体つきも彼女と同年代っぽい男たちが、雑に座り込んでいた。坊主頭のジャージ男、前髪が目元まで垂れたマッシュの少年の二人が雑然と群れて、ゲラゲラと笑い転げている。


「なんだ、不良か。」


リコは思わず肩の力を抜いた。驚いて損した。胸の奥の緊張がすっと緩む。ここに幽霊はいない。彼らはただの人間だ。


近づけば、湿ったコンクリの匂いの奥に甘い匂いが混じっている。クッキーやグミの匂いだ。男たちは袋を手に、嬉しそうにそれをむさぼっている。平和な風景、その程度で幸せを感じられるなんて呑気なものだ、リコは内心で切り捨てた。


どうせ適当に生きて、親が金を出してくれるからのうのうと暮らせるのだろう。羨ましい反面、軽蔑が先に立つ。


「なぁカイ、見て! グーとチョキを足して、カタツムリー!!」

「アッヒャッヒャッヒャ!!シュン、やめろってそれ!面白すぎるから!」


坊主頭のカイが両手を叩いて、床に転がるように笑う。小学生のようなどうでもいいギャグに、二人とも腹を抱えている。リコは呆れて目を細めた。


下品な笑い方。


こんな連中を羨むなんて、先ほどの自分の感情は一体何だったのだろう。


マッシュヘアのシュンは、外見はどこか賢そうに見えた。だが今の所作は期待していたものとは違う。ガッカリする。もう前言撤回だ。こんな連中、何も羨ましくない。


「にしてもよぉ、大麻グミとかCBDクッキーってマジで気分アガるわぁ!」

「な!ほんと気持ち良いわ!」

「シュンのギャグもクッキー食べた後なら笑えるわ。」

「はぁ、シラフで聞いても抱腹絶倒だろ。」


坊主頭が霊安室の床にごろりと寝転がり、抜けた声で言う。雑なパッケージを握る指先に、まだ砂や埃が残っている。彼らの笑いは、薬効か何かに促されてなお大きくなるように思えた。


「あーあ、なんで大麻って日本で違法なんだろうな。」

「大麻違法は怠慢な阿呆が政治家だからだ!」

「アッヒャッヒャッヒャ!シュン、上手いこと言うじゃねーか!」


廃墟の冷気が肌にまとわりつく。

大麻…?リコの脳裏に、赤い警告灯のような感覚が灯った。犯罪。危険。ここに居続けるのは致命的だ。背中を一筋の冷汗が伝い、呼吸が浅くなる。早く、引かなきゃ。


静かに後退し始めたその時だった。


階段の踊り場から、ツーブロックの髪型に派手なアロハシャツを羽織った少年が、軽薄な笑みを浮かべながら降りてきた。目が合う。時間が止まったかのような一瞬。


「あ。」

「え、誰?」


沈黙を裂いたのは、少年の軽い声だった。次の瞬間、彼は口角を上げて叫ぶ。


「おい、カイ!シュン!こんな可愛い子を俺のために用意してくれたのかよ!」


声が霊安室の方に飛んでいく。リコの心臓がどくんと跳ねた。まずい。完全に挟まれた。


「はぁ?ユウダイさぁ、トイレの帰り遅いと思ったら……大麻グミで幻覚でも見てんのか?こんな廃墟に女が居るわけねーだろ。」


「待て。ドアの隙間から階段が見えるが……本当に女が居るぞ。」


さっきまで馬鹿みたいに笑っていた二人の目が鋭くなった。笑気は霧散し、代わりに獲物を狙う視線が突き刺さる。


「さっきの会話、聞かれたか?」

「おいユウダイ、そいつ逃すなよ。」


リコの背筋にぞっと悪寒が走った。霊安室の空気がさらに冷たくなった気さえする。ここで捕まったら終わりだ。

次の瞬間、リコは意を決して踵を返した。階段を一気に駆け上がろうとする。


「逃すわけねーじゃん!こんな可愛い子!」


ユウダイと呼ばれたアロハシャツの少年が、階段上で両手を広げて立ち塞がる。相手の方が体格も有利、しかも上から見下ろす位置を占めている。このままじゃ突破できない。時間が立てば挟み撃ちで捕まる。だから、逃げるんじゃなく、倒す。


「おお!?美女が観念して抱きつきに来た!?これは夢!?」


浮かれた声を上げるユウダイに、リコは一直線に走り込み、その股間めがけて拳を突き上げた。


「はぅうぐっ!?」


苦悶の声を上げてユウダイがその場に崩れ落ちる。リコはその横をすり抜け、階段を疾走した。あんな経験も、役に立つ時が来るなんて。リコは中学生時代を思い出し、すぐに忘却の彼方へ押しやった。今はそんなことを考えている余裕はない。


「ま、待て……!」


呻き声を無視して踊り場を切り返す。一階のエントランスを抜けさえすれば、外へ出られる。


「待てよ、このクソアマがよぉ!!」


背後から激昂する声。股間を押さえ、足取りもおぼつかないユウダイが、それでも歯を食いしばって追ってくる。霊安室の扉が音を立てて開き、カイとシュンも姿を現した。


三人分の足音が、コンクリの廊下に重く反響する。リコの心臓の鼓動も同じリズムで早鐘を打ち鳴らしていた。


廃病院の暗がりに、リコの足音だけが虚しく響く。

エントランス以外の窓は無傷で閉ざされたまま。さっき探索したときの記憶が蘇る。


「くそっ、一つくらい開けておくべきだった…」

と焦りが胸を締め付ける。


二階か三階に隠れてやり過ごす?ダメだ、出入り口を塞がれてジリ貧になる。


一直線に続く廊下。倒れた車椅子や埃をかぶった酸素ボンベ、散乱する医療器具、障害物が足元に迫る。間に合うのか。全身に漲る緊張が、筋肉を鋭くする。


「いっそ、スマホをぶつけて…」


いや、ダメだ。動画を撮らなければ収入が途絶える。お金がなければ、あの人みたいな人生になってしまう。そう思い直すと、手に力がこもる。


「はぁっ、はぁっ、はぁっ!」


リコは全身の力を振り絞って走った。心臓が胸を突き破りそうに脈打つ。追いつかれたら、もう終わりだ。 真夜中の廃病院は、廊下の床板が腐ってきしむ音や、ガラスの破片を踏むたびに鳴る「パキッ」という乾いた響きだけが、彼女の孤独な息づかいに重なった。


背後からは、低く唸るような足音が迫る。振り向くと、暗闇の奥に人影が揺れている。


「うっ……!」


慌てて方向を変えた瞬間、放置されていたストレッチャーに足を引っ掛けてしまう。担架がぎぎぎと音を立てて動き、リコは勢いよく床に倒れ込む。膝と手のひらを擦りむき、血がにじむ。痛みよりも先に、頭の中に「しまった、なんでこんなことに……」という思いが駆け巡る。


助けて、誰か!


声にならない叫びを口の中で繰り返す。だが廃病院の空間は広すぎて、自分の声さえも遠くに吸い込まれていくようだ。 息を整える暇もなく、影は一歩一歩確実に迫ってくる。リコの心臓は、逃げることしか考えられずに高鳴り続けた。

—-

頼れるのは、自分だけだ。大丈夫、私は賢くて、可愛くて、度胸もある。何でもできる女の子だ。パパと、ママがそう言ってくれたんだもん。


だから、高校生の時、私はYouTubeに動画を投稿し始めた。話術には自信があったから、友達と夜遅くまで盛り上がった怪談話をそのまま動画にしてみた。ネタが尽きたら、ホラーゲームでちょっとぶりっ子して、視聴者を笑わせたり、悲鳴をあげさせたりした。そして、試行錯誤の末に見つけたのが廃墟探索というニッチなジャンルだった。誰も手を出さない、ライバルも少ないジャンルを見た目の良い私が歩くだけ。その結果は無双。ここなら、私の力がそのまま評価に繋がる。


これで私は自由だ。それなのに、どうして、どうしてこんなに苦しいの、心も体も、こんなに辛いの。


—-


リコは必死に床に手をつき、立ち上がろうとした。だが、足が震えて力が入らない。腰が抜けてしまったのだ。心臓が早鐘のように鳴り響き、頭の中は「逃げろ」という言葉で埋め尽くされるのに、体は言うことをきかない。


「へっ、自分で転びやがって、世話ねえぜ。手間かけさせやがって。」


ユウダイの声は、荒い息づかいに混じって耳を打つ。追い詰められた肉食獣のように血走ったその目は、怒りと興奮と快楽の境界を踏み越えていた。

リコは身を引こうと必死に体をずらす。だが。


「ぎっ……!」


右手首に重みが落ちた。ユウダイの左足が彼女の手を容赦なく踏みつける。骨がきしむような痛みに、思わず短い悲鳴が漏れた。

リコは床に押さえつけられたまま、必死に息を荒げていた。ユウダイの足がまだ手首を踏みつけ、リコの両頬を右手が鷲掴みにした。喉の奥が焼けるように乾き、声が出せない。

2人に追いついたシュンとカイは、そんなリコを冷ややかに見下ろした。


「にしてもよ、裏手のドアに行かれてたら逃げられてたな。」

「まあ肝試しでこの廃病院初見だと分からねえだろ。」


そのやり取りに、リコの目が大きく見開かれる。裏口?


頭の中に、さっきまで走ってきた廊下の地図が浮かぶ。地下から一階に上がってすぐのところにも出口があったなんて。あそこを目指していれば。歯を強く食いしばり、悔しさで奥歯が「ギリリ」と鳴った。だが、もう遅い。今やその道は不良三人に完全に塞がれている。


「この女は俺の大事なとこを傷つけた。だからよ……ちゃんと機能するか、この女で確かめねぇとな!」


耳元で怒鳴るように響いたその言葉に、リコの背中を氷の刃が走る。全身の毛穴が逆立ち、息が止まりそうになった。

後ろからカイとシュンの声が聞こえる。


「あー、もうダメだ。ユウダイのやつ完全にハイになってやがる。」

「ユウダイ、自分より弱いやつにはめっぽう強気だしな。」


彼らの会話は冷めきっていて、同情も止める気配もなかった。まるで、壊れた玩具の故障を傍観しているように。


カイが鼻で笑い、リコを見下すように言った。


「こいつ、女一人で肝試しか?度胸あるな。」

「世間知らずなだけじゃね?」


とシュンが肩をすくめる。


「それか、カメラ回してたし芸能関係か。けどスタッフがいないってことは……売れないYouTuberとか?」


嘲り混じりの声に、リコの胸がズキリと痛む。

(……ふざけるな。誰が売れないYouTuberよ。)

彼女は唇を噛み、怒りで爪が掌に食い込むのも構わずに震えていた。


「それでこんなにツラぁ良いのか。」


カイがニヤつきながら吐き捨てる。


「スマホは没収しておかねぇとな。」

「強請りのネタもできたしよ、この女で金稼いで……本物のドラッグを買ってみるのもありじゃない?」


シュンが下卑た笑いを漏らした。


おぞましい言葉が、ユウダイの背中ごしにリコの耳に突き刺さる。視界が揺れ、吐き気がこみ上げる。

ユウダイはにやりと口元を歪め、自らのズボンに手をかけた。金属のバックルが「カチリ」と鳴った音が、廃病院の静寂に不気味に響き渡る。


声にならない心の叫びが喉を震わせる。

リコの全身が震え出す。寒さではない。恐怖と、同時に煮え立つような怒りのせいだ。


歯がカチカチと小刻みに鳴り響き、唇の隙間から漏れる音が、廃病院の闇に不気味に反響する。

(私は強い。私は完璧。……こんな奴らに、絶対負けない。)

リコの視界が涙で滲んだ。


完璧でいようと必死に走ってきた。歌も踊りも笑顔も、努力すれば何でもできると思っていた。

でも今、廃病院の床に転がされ、腕を踏みつけられている自分はどうだ。


1人で完璧になろうと思ってたのに、結局私1人じゃ何もできないじゃん。

頬を伝う雫は止まらず、床に落ちて暗いシミを作った。


「泣いても叫んでも誰も助けに来ねーよ!バーカ!」


ユウダイが勝ち誇ったように口を大きく開け、喉の奥から汚らしい笑い声を響かせる。

リコの髪を握り、見下ろすその目がギラギラと血走っていた。

だが、次の瞬間。


「うぅぅ……あぁぁぁ……。」


呻き声が、闇の奥から響いてきた。

低く湿ったその声は、ユウダイでも、シュンでも、カイでもない。もちろん、リコのものでもない。四人の誰の喉からも出ていないことは、耳に焼き付くほど明確だった。


「……今の、誰の声だ?」


ユウダイの動きが止まり、背筋に冷気が走ったのが見て取れる。


「おい見ろ、窓……!」


シュンが指差す。

全員の視線がそちらに吸い寄せられた。

中庭。


二階から見下ろせるガラス窓の外、闇に沈んだ中庭の中央に、それは浮かんでいた。

白っぽい布の塊。


ふわりと浮かび上がり、夜風に揺れる。輪郭はぼやけ、まるで小学生が描いた「幽霊」のような、頭に丸を乗せた不格好な影。


「……なんだよ、あれ。」


カイが乾いた声でつぶやいた。唇がひきつり、強がりの色がすでに剥がれている。

だが異変はそれだけでは終わらなかった。


「おい……おい、まえ、前、前見ろってお前ら!」


シュンが、今度はリコの背後を震える声で指差した。

リコも恐る恐る振り返る。


廊下の奥。

そこには、人影。

いや、人影というにはあまりにも数が多い。


血まみれの病人服を着た者たちが、ずらりと並んでいた。


一人、また一人、暗がりからにじみ出るように増えていき、いつの間にか廊下を埋め尽くすほどの行列になっていた。

床に滴り落ちる血痕。腐臭を帯びたような重い沈黙。


その先頭に。

リコの目線の三メートルほど先。


手術服を着た長身の男が立っていた。顔の半分をマスクで覆い、目だけが異様にぎらついている。隣には、筋骨隆々とした助手が控えていた。助手には似つかわしくないほど、たくましい腕と日焼けした全身が、その異様さをより際立たせていた。彼らは無表情のまま。握った器具がきらりと光る。


そしてその背後には、数え切れぬほどの患者服の影がずらりと並び、廊下の奥から静かにこちらを見つめていた。

リコの膝は震え、声にならない息が漏れる。


「……な、に……これ……。」


ユウダイたちも凍り付いたように動けず、ただ白い顔でその異様な行列を凝視していた。

足元から白い靄がじわじわと立ち込めた。ひんやりとした空気がまとわりつき、ユウダイは反射的に叫ぶ。


「うわぁ! で、でたぁ!」


その声は裏返り、病室の壁に甲高く反響した。恐怖に突き動かされるように、彼はリコから飛び退き、踵を返すと仲間二人を突き飛ばして非常口に突進する。


「待て、待てよユウダイ!」


シュンが慌てて追いかけるが、ユウダイはもう非常口の取っ手を乱暴に引き、きしむ音とともに外へ飛び出していった。


「カイ、お前も早く逃げるぞ!あれはシャレにならない!」


シュンが声を荒らげる。しかしカイはその場に立ち尽くし、薄闇の中に浮かぶ“患者”たちを睨んだまま動かない。


「先に行け。ユウダイを落ち着かせてやれ。俺は時間を稼いだら後から追いつく。」


その声は静かで、恐怖よりも確信を帯びていた。


「分かったけどさ、いつもの喧嘩と違うんだからな!」


シュンが舌打ちしながらユウダイの後を追っていくと、病棟に再び静寂が落ちた。時間にすれば二十秒ほどだろう。しかしその間、リコには永遠にも思えた。遠くでバイクのエンジンが二つ、低く唸りを上げる。逃げ出した二人がエンジンをかけたのだろう。


残されたのはカイ、そして血まみれの患者服を着た“医者”たち、その間に挟まれて逃げ場のないリコ。彼らは奇妙なほど動かず、ただそこに立っている。リコは腰を抜かした状態で息を呑んだ。


おかしい。怖いのは確かだが、幽霊というのはもっと唐突に、姿を現した瞬間に襲ってくるものではないのか?

カイは震えが収まるに連れ、目から怯えが消えて冷徹な目つきが戻った。


「なあお前ら、本当に幽霊か?」


カイが低い声で問いかけた。

沈黙を裂くように、“医者”が肩を揺らして笑った。


「ふふっ……やはり冷静に見られると、すぐバレるな。」


リコの背筋に冷たいものが走る。お化けにしてはあまりに人間的な、よく通る声。しかも最近、確かに聞いた覚えがある声だ。


その“医者”はゆっくりと眼鏡をかけ直し、乱れた髪を指先でかきあげ、真ん中で分けて整えた。


「だから言っただろう、小娘。不良は霊感がなくても“見える”から早く帰れと。」


「あ、あんたは!妖怪嫌味センター分けメガネ!」


「ふん、今日の俺は妖怪ではなく白衣の幽霊だ。早く逃げろ小娘。」


「い、言われなくても…!」


リコの足は、冷たい恐怖に縛られたように細かく震えていた。震える太ももに力を込め、彼女は近くにあった背の高い金属製の棚に手を伸ばし、全体重を預けた。その表面は冷たく、ざらついている。

「なんとか...立たなきゃ...」

しかし、棚は彼女の期待とは裏腹に、薄っぺらで頼りなかった。天井近くまであるその大きなフレームには、肝心の中身、通常ぎっしり詰まっているはずの資料や道具が一つも入っておらず、ただの重りにしかなっていなかった。リコの加えた力が、その不安定さを一気に露呈させる。

キィンという高い金属音を立てて、棚はゆっくりと、しかし確実な勢いでリコの方へと傾き始めた。彼女の顔色から血の気が引く。


その時、白衣の医者の後ろにいた助手が、まるで電光石火の速さでその巨大な身体を棚とリコの間に入り込ませた。

分厚い胸板と太い腕が、傾く棚を壁のように受け止める。棚の金属エッジが彼の作業着をゴリゴリと削り、軋んだ音を立てるが、助手の筋骨隆々の体躯は微動だにしない。まるで岩のようなその肉体が、棚の倒壊を食い止めている。


「リコさん、早く奥に避難して!」


荒々しくも切迫した助手の声が、リコの凍り付いた思考を叩き起こした。目の前の棚は、今にも彼を押しつぶさんとしている。


「え、あ、ああ...。ありがとう、ございます...!」

リコは情けない声で礼を言いながら、棚に捕まっていた手を離し、よろめきながら助手が指し示した通路の奥へと一目散に走り出した。視界の端で、汗と緊張に濡れた助手の横顔が、棚の重みに耐えて歪んでいるのが見えた。よく見れば、あの日廃トンネルで見かけたあの色黒ゴリラによく似ている。

ズシンと音を立てて助手は棚を元の場所に戻した。

リコを背後に誘導した助手は、ポケットからスマホを取り出し、迷いのない動きで110番にかけた。


「……廃病院で暴行事件です、至急来てください!」


通話を終えた助手に医者が話しかけた。


「よくやった、さすが俺の助手だ。」


「今は冗談言ってる余裕ないだろ!」


2人を観察するように睨んでいたカイは重々しく口を開いた。


「てめえら、なにもんだ?」


助手こと、尾軽はカイと対峙しながらも胸の奥では後悔が渦を巻いていた。

くそ、こんなことならもっと早くから連絡しておけば良かった。


—-


30分前。


廃病院前の駐車場に、尾軽と灯二の乗った軽自動車が滑り込んだ。

「なあ灯二、本当にこんなに荷物が必要なのか?ドライアイスまで用意してさぁ。」

後部座席には、クーラーボックスとコスプレ用の白衣や血糊、そしてマネキンが積み上げられていた。

「念の為だ、重たいものは任せたぞ、色黒ゴリラ。」

「人使い荒いなぁ。」

「人ではなくお前はゴリラだ、返事はウホに統一しろ。」

「ウホ!」

「危ない、本気で殴るなバカ。」

エンジンを止め、じゃれながら2人で荷物を車から取り出した。

灯二はいきなり建物に入ろうとせず、眼鏡を直しながら周囲を見回した。


「尾軽、こっちだ。見てみろ。」


灯二が顎で示した先、裏手には三台のバイクが無造作に停められていた。どれも改造マフラー付きで、いかにも不良の足だ。


「……先客か。もしかしてこの前の廃トンネルの…。」

「尾軽にしては理解が早いじゃないか。」


尾軽が低く唸ると、灯二は唇の端をわずかに吊り上げた。

さらに建物を見上げると、二階や三階の窓から不自然な明かりが漏れていた。暗闇の中に点滅するライトの色。


「星崎リコがもう来ているのか……それとも不良どもだけか。数が分からん。確認した後、必要なら警察を呼ぶぞ。」


冷静に言う灯二に、尾軽は無意識に頷いた。だが胸の奥に不安は渦巻いていた。


「……もし星崎リコさんが襲われていたら?」

「助けるしかあるまい。だがその前に。」


灯二の目が獲物を狙う猛禽のように細められる。


「幽霊の正体を暴くのも一興だ。病院に出る怪異も、こっくりさんと同じく、所詮まやかしだ。その辺の小道具で人は幽霊が居ると思い込む。PTAの暇人どもを驚かせてお前の時間を奪われないようにしろ。」


灯二なりに、尾軽の不自由な働き方を案じてくれているらしい。


「それに、もしも不良と遭遇したなら、オカルトを逆手に取って時間を稼げばいい。」


まあ、俺はオカルトなんて信じていないがな。

灯二は唇に皮肉な笑みを浮かべた。


—-


そして現在。


尾軽の手は汗でスマホを滑り落としそうになっていた。

リコを背に庇いながら、視線の先ではカイがファイティングポーズを取って睨みを利かせている。


(……二対一。こっちは大人二人でも、俺は喧嘩なんてまともにやったことがない。灯二も細身で、力押しじゃ分が悪い。しかも相手はガタイの良い不良だ……。)


警察が到着するまで最低でも30分。

灯二と自分が即座に倒されれば、その間に不良は逃げるか、あるいは仲間を呼び戻すか。


廃病院の廊下。冷たい空気が這い上がってくる。

床にはあらかじめ用意しておいたドライアイスが、ひんやりと白い霧を吐き出し、足元を覆い尽くして雰囲気をつくっていた。


廊下の奥には、ずらりと並んだ患者服姿の集団。だがそれは、灯二と尾軽が仕込んだマネキンとダミーだった。


その列の中でひときわ目立つのは、白衣に赤黒い血糊をべったり塗った医者と助手、尾軽と灯二だ。

白衣の裾が霧に濡れて重く揺れるたびに、本物の怪異のように見えた。


さらに、古びた姿見を廊下の角に立て掛け、行列が何倍にも増えて映し出される。

窓の外、中庭には点滴スタンドに布をかぶせた“幽霊”が風に揺れて、五メートル先にぷかぷかと浮かんで見える。

極めつけは、灯二のスマホから響く低いうめき声。


病院の壁に反響して、どこから聞こえるのか分からない。


案の定、幽霊だと思い込んだユウダイとシュンは顔面蒼白になり、叫びながら非常口へ駆け出した。バイクのエンジン音が遠くで唸り、逃げ去る気配。ここまでは予定通り。


だが、ひとりだけ残った。


カイ。


白い霧の中で仁王立ちになり、周囲を見回す目は怯えとは無縁だった。


むしろその瞳は鋭さの奥に、どこか寂しさを宿している。


「ったく……せっかく人にバレねぇ場所で、しかも音が漏れにくい地下を選んでたのによ。」


低く吐き捨てる声。 


「そんなに俺たちの場所を奪って楽しいかよ。」


「ひっ。」

リコは背筋を凍らせた。残ったのは、群れを失った獣の目をした男。


あ、まずい。

そう思った尾軽は、反射的に灯二とカイの間に割って入り顔の前で腕を交差した。

次の瞬間、重く、鋭い衝撃がガードした腕を襲う。ドンッという鈍い音と同時に、骨の奥まで響くような痛みが走り抜けた。その打撃は、ただの素手ではありえない。拳と皮膚が触れる感触ではなく、尖った硬質な感触が腕に食い込んできたのだ。


「っ...痛いっ!」


尾軽は奥歯を噛みしめる。間違いない。相手は拳にメリケンサックのような凶器を装着している。

その尾軽の苦悶を見て、カイは愉快そうに口の端を吊り上げた。


「へぇ、いい反応じゃん。」


このままでは、一方的に打撃を受け続けるジリ貧になる。尾軽が次の手をどうするか思案した、まさにその時だった。

後ろから、静かだが確固たる響きを持つ声が届いた。

「バカやろう、なんで入ってきた。あれぐらい俺は避けれたぞ。」

「灯二、今は強がりを言っている場合じゃ…。」

尾軽は灯二の方を向いた。

「もういい。十分だ。下がれ。」

灯二は悲しそうな、そして優しい目で真っ直ぐ尾軽を見つめていた。

その目には、有無を言わせない迫力があった。

灯二は、ゆっくりと、しかし迷いのない足取りで尾軽の前に出てきた。

灯二は穏やかな、しかしどこか深い感情を秘めた目で尾軽を見つめた。


「喧嘩したことないくせに、皆を守るために体を張って...。お前は昔から変わらんな。」


そして、灯二はカイを睨みつけた。


「居場所が欲しいなら、社会の役に立て。迷惑をかけていると、周りに煙たがられ、結局自分の居場所がどんどん狭くなっていくぞ。」


その言葉は、逆効果だったようだ。

「あぁ!?説教たれてんじゃねぇぞクソメガネ!」

カイは坊主頭に青スジを立てている。

「獣には何を言っても無駄か。拳でしか会話ができんみたいだな。」


灯二は諦めたようにため息をついた。

「尾軽、お前はその小娘と俺のメガネを守ってろ。」


灯二が静かに言った。

眼鏡を外し、尾軽の手に押し付ける。


「おい灯二、お前ひとりでやるつもりかよ!」

「そうよ!あんたみたいなヒョロガリだとすぐにやられちゃうわよ!」


リコと尾軽の声は震えていた。


「尾軽。お前、喧嘩したことないだろ。」

「うぐっ!けど灯二だって、喧嘩したことないだろ!」


灯二は笑った。

口元は軽く緩んでいたが、その瞳は氷のように冷たい。


「してたさ。ほぼ毎日な。」

あのクソッタレを倒すためにな。

灯二の口はそう動いた、ような気がした。


一瞬、苦虫を噛み潰したような顔をした灯二は、ゆっくりとカイへと向き直った。


白衣が揺れ、血糊が床に滴り落ちる。

廃病院の廊下に、息を呑むほど重たい沈黙が降りた。


灯二は両拳を顔の前に構えた。軽く膝を曲げ、猫のように柔らかくステップを刻む。


それは素人の動きではなかった。左右に重心を移しながら常にバランスを崩さず、狙えばすぐに踏み込み、打ち込める体勢。


尾軽は思わず息を呑んだ。

灯二の口元に浮かぶ笑みは薄く、それでいて妙に余裕があった。


「へぇ様になってんじゃん。けどさ、格闘技をちょっとかじった程度で勝てると思うなよ、おっさん!」


カイが吠えると同時に床を蹴った。足元でガラスがジャリッと砕け散る。


カイは一気に距離を潰す。

肩から体重を浴びせるように殴りつけるオーバーフック。掴んででも倒してやろうという喧嘩慣れした重さ。


だが灯二は一歩、斜め後ろにスライドする。

首だけを傾けて拳を掠め、すかさず左ジャブを伸ばした。カイの鼻先を掠める鋭い一撃。


「リーチ長えな!」


カイは怯まず、すぐさまローキックを叩き込む。が、灯二はひらりとステップでかわしてみせた。


「テクニックはあるみたいだな、おっさん!でもな、これは喧嘩だぜ!」


カイは灯二の股間に蹴りを放ち、半身でかわされる。その直後、カイは灯二の鳩尾に左ストレート…と見せかけて目潰しをして来た。完全にルールなんてない、相手の身体を壊す喧嘩殺法。

灯二はとっさに身をねじり、床を転がりながら立ち上がった。


「喧嘩はスポーツじゃなくてルール無用なんだよ!」


カイは懐中電灯をぎゅっと握り直すと、ライトの白い円を灯二の顔めがけて強く照らした。眩しさにつられて灯二が瞬きをする。そのわずかな僅差を狙って距離を詰めた。


カイは大きく腕を振り上げた。顔面を殴るようなフリで相手のガードを崩しにかかる。だが灯二は冷静に両拳を顔の前に挙げ、頭をしっかりとガードに入れた。


そこでカイはさらに汚れた足を踏み込ませ、灯二のつま先目がけて右足を思い切り踏みつけた。靴底が軋み、皮膚の悲鳴にも似た鈍い「ボキッ」という音が床に響く。つま先を踏み抜かれた灯二の足は一瞬くの字に折れ、声が漏れた。


「ボディがガラ空きだぜ!」


カイはその隙に左ストレートを振り抜き、腹部を狙ってグッと拳を突き出した。鋭い一撃が胴を捉え、空気が抜けるような音がした。


「何あいつ、ずっと卑怯な戦い方じゃない!」


リコの叫びは、カイの心に届かない。

汚い?関係ねぇ。勝てば良いんだよ。


だが次の瞬間、カイが思わず崩れ落ちる。


視界が遊園地のカップに乗った後のように激しく揺れる。俺は一体、何をされた?


顔が、顎が熱い。カイの顔は歪み、拳を握る左手の甲は痺れている。そこには、爪先が触れたときのような骨の折れる感触でもあればよかったが、違った。硬く、大木を殴ったかのような手応えが確かにあった。


カイの拳は灯二の鎧のような腹筋に押し返され、逆にカウンターの右フックが顎に命中したのだ。灯二の腹筋の硬さ、常軌を逸している。まるで巨大な水槽を殴っているかのような手応えだった。


灯二は静かに、しかし皮肉を込めて言った。

「ガラ空きじゃなくて、わざと開けてたんだがな。」


声には冷ややかな余裕が滲む。床に座り込んだカイは、拳を押さえながらも唇を噛んだ。悔しさと怒りが混じった低い声を漏らす。やがて、カイは唇を震わせて立ち上がろうとする。


「たしか、ルール無用の喧嘩を教えてくれるんだったよな?」


灯二の声は低く、挑発めいている。


「ダウンから立ち上がるまで、待ってやる。どうか無知な俺に喧嘩とやらを教えてくれないか。」


カイは歯を剥き出しにして唇を震わせる。 


「舐めやがって……!」


床に落ちた懐中電灯が小さく転がり、薄い霧が二人の足元を這った。


カイの拳は空を切った。灯二の体がすっと逸れて、打撃はただの風圧になって消える。床に響く自分の呼吸だけが、彼の鼓膜を打った。殴り損なうたびに、胸の中の何かがぎりぎりと音を立てるようだ。


(くそっ、どうしてみんな俺から奪うんだ。)

その思考は、パンチのたびに断片のように割り込んでくる。目の前の薄暗い白衣の男は、ただの敵ではなく、奪い取られ続けた自分の象徴に見える。


「これ以上、奪われてたまるか!!」


カイはもう一度、灯二に突進した。足元でガラスが砕ける音がして、痛みが踵に響く。息が上がり、腕が重たい。


「このまま大人になっても、何も楽しくねぇ。」


心の中でつぶやく言葉が、拳に力を与える。


目の前の灯二は、冷静そのものだ。殴っても殴っても崩れない壁のように見える。カイは叫びたくなる衝動に駆られた。叫べば誰かが来るのか。叫べば誰かが振り向いてくれるのか。


胸がきしむ。拳を振る力の源が、いつの間にか「守る」ものへと変わっていた。仲間たち、路地で笑った時間、あの時のベンチで孤独に震えた三歳の自分、全部を守るために、今ここで踏ん張るんだ。


「俺たちから、これ以上、奪うなよ!」


カイは喉を焼くような声で叫んだ。


「どんな手を使ってでも、俺は仲間を守るんだぁぁっ!」


手にしていた懐中電灯を、最後の武器のように振りかぶって投げつける。軌道は一直線に、灯二の顔面を目がけて飛んだ。


だが灯二は、鼻で笑っただけだった。上体をほんのわずか傾け、光の塊は彼の耳元をかすめ、背後の壁に硬い音を立てて弾け散った。


「くだらん。」


その声は冷え切った刃物のようだった。


「さっきから“奪わないでくれ”と被害者ぶって語りやがって……。お前、さっきそこの小娘から何もかも奪おうとしただろうが。よくそんな口を叩けるな。」


カイの目が見開かれる。反論の言葉を探そうとするより先に、灯二の言葉が畳みかけるように降り注いだ。


「喧嘩もまっすぐ鍛えるんじゃなく、小手先ばかり。勝てそうな相手にしか噛みつかなかったから、今のお前の生活があるんだ。その程度のことに……まだ気づかないのか?」


カイの拳が震える。怒りとも、羞恥ともつかぬ熱が喉まで込み上げた。


「いいか坊主。自分が不幸だからって、他人を不幸にしていい理由にはならない。世の中は理不尽だ。現状に納得していないなら……運命に抗え。ただし、その方法は“法律の範囲内で暴れること”だ。」



言葉と同時に、灯二の右足が閃いた。

鋭い前蹴りがカイの腹を突き刺す。息が肺から強制的に吐き出され、カイの背中が「ドン」と音を立てて壁にぶつかる。


こいつ、蹴りも使えるのかよ。


カイは飛びそうになる意識もなんとか保ちながら思った。そっか、俺さっき言ったじゃん。喧嘩はルール無用って。


続けざまに、灯二は腰を捻りながら跳ね上がる。蹴り足が馬の蹄のようにしなる。下から掬い上げる軌道、ローリングソバット。鋭い衝撃がカイの顎を撃ち抜いた。



「ぐっ——!」



空気が震えるほどの衝撃音。カイの頭が後ろに弾け飛び、その体は操り人形の糸を断たれたように、その場に崩れ落ちた。



灯二はふっと息を吐き、蹴り足を静かに床へ戻す。


「やはり……蹴りは狭い場所じゃ不向きだな。」


そうぼやく声だけが、白い霧の残る廃病院の廊下に響いた。


カイはもう動かない。倒れたまま、静かに気を失っていた。


リコはその場に崩れ落ちた。


「ほ、本当に倒しちゃった……。」


震える声でそう呟くと、彼女の膝は床に着き、力なく肩が上下する。


尾軽は少し距離を取りながら、灯二を見て目を丸くした。


「灯二……なんでそんなに強いんだよ。」


口調は尊敬というより、むしろ引いている。


灯二は淡々としていた。白衣の裾を払いつつ、気を失ったカイを見下ろす。


「キックボクシングを習っているからな。」


落ち着き払った声。まるで試合後のインタビューだ。


「それよりも、こいつを縛るものはないか?」


——


同じ頃。


ユウダイは、夜の山道を必死にバイクで駆け抜けていた。


「待て、待てよユウダイ!何かおかしい!」


風を切る音に混じって、後ろからシュンの声が届く。


ユウダイは焦ってブレーキをかけ、山道の脇にバイクを止めた。


「なんだよ!早く逃げねえと!」


声が上ずる。


シュンは眉間に皺を寄せたまま、吐き捨てるように言う。


「あの幽霊たち……本当に幽霊か?」


「はぁ?何言ってんだ、お前も見ただろ!」


「さっきは気が動転してた。けどな、さっき病院を出る前にチラッと見えた中庭の“幽霊”、風で揺れて足元に点滴のキャスターが付いていたんだ。ただ布を被せただけじゃないか?それに、駐車場にあった軽自動車。廃車にしては綺麗すぎる。」


ユウダイの顔から血の気が引いていく。


「な、何が言いたいんだよシュン。バカな俺にも分かるように言ってくれよ!」


シュンは声を荒げる。


「俺たちは騙されてたんだよ!あの幽霊は人間で、あの女の仲間なんだ!それに……カイからまだ何も連絡がない。女一人相手にだぞ!おかしいだろ!」


ユウダイは真っ青になり、ヘルメット越しに叫ぶ。


「早くそれを言えよバカ!」


「はぁ!?さっきから言ってただろうがバカ!」


二人の怒鳴り声が山道に響く。だが、ユウダイの思考はうまく回らない。さっき食べた大麻グミやCBDクッキーの影響で、頭がぼんやりしていた。


やばい、何分走った?15分?なら引き返して病院に着くまでに、また同じくらい時間がかかるか?間に合え、間に合え!シュンとユウダイは願いを込めてハンドルを握った。


—-


山本カイ、三歳の夏。この日から、彼の運命の歯車は狂い始めた。


新しい公園に連れて行ってもらえると母に言われ、浮かれた気持ちで手を引かれて行った。知らない遊具、知らない砂場、そして気づけば両親の姿は消え、周りの人々の顔は他人のものに変わっていた。


泣きつづける小さな胸を抱えて、見知らぬベンチでひとり震えていた。保護されたときの大人の声は優しかったが、あの時焼きついた「置き去りにされた感覚」は消えなかった。


それから、孤児院で暮らすようになり、年を重ねるごとに分かった。

俺は捨てられたんだ。親は俺を選ばなかった。誰も、最初から俺を欲していなかった。信じていい大人なんていない。人は裏切るものだ。誰も信用できない。それが世界のルールだと、腹の底で学んだ。


怒りは、少しずつ形を変えていった。教師の説教を嗤い、学校の上から目線を拒絶し、やがて夜の路地に身を寄せるようになった。非行に走るのは選択というより、自然の流れだった。世間が「努力が足りない」と言うなら、努力とやらが最初から手の届かない場所にあっただけだ。


高校一年の時、裏路地でシュンとユウダイに出会った。二人とも、自分の未来に絶望していて、早く人類滅亡しろって顔をしていた。


一歳下のシュンは年下なのにやけに物知りで、二歳下のユウダイは軽い調子で場を和ませる。シュンは母が蒸発し、暴力を振るう父から逃げて図書館に通っているらしい。


ユウダイは、冷め切った両親と優秀な弟に挟まれて家庭に居場所がない、誰よりも繊細な男だ。


あいつらといる時間だけ、風が止んだみたいに楽だった。仲間といることは、孤独に効く処方薬だった。


だが社会は、俺たちの居場所を容赦なく奪った。居場所を守る術がない。お前らみたいに家で飯を与えられ、勉強やスポーツに励む「初期装備」があるやつらに、「努力が足りない」とか言われるのが一番腹が立つ。


自己啓発系のインフルエンサーはスマホで副業すれば良いとか、学びたいことは無料でインターネットで学べるとか、好きなことで生きていくとか綺麗事を抜かすが、スマホすら持てない経済状況の人間の気持ちを考えたことはあるのか?


初期装備無しでラスボスに挑めと言われたら、そりゃ誰だって諦めるだろうが。俺たちは選択肢を与えられなかっただけだ。


俺はもう、19歳になった。とっくに施設を出た。定職にも就かず、好きな奴らと好きなことをして生きてる。それの何が悪い。お前らも好きなことをして生きているだろ。


だから、俺らの唯一の居場所だけは。

——


「やめろ!離せよ!!」


廃病院の前に差し掛かったとき、二人は息を呑んだ。


青色回転灯が赤黒い廃病院の壁に反射している。

パトカーが二台停まっていて、その横で警察官に取り押さえられているのは……仲間のカイだった。


両腕を後ろに捻られ、必死にもがきながらも連行されていく姿。


ユウダイは言葉を失い、シュンは唇を噛み締めた。


「逃げるぞ、ユウダイ。」


シュンの声は低く、悔しさが滲んでいた。だがユウダイは首を振り、顔を歪める。


「はぁ!?何言ってんだ、シュン!カイを助けるぞ!カイは俺たちの仲間で、リーダーだろが!」


シュンは苛立ちと焦燥をあらわに、ユウダイの胸ぐらを掴んだ。風が二人の間を抜け、パトカーの警光が彼らの顔を赤と青に染める。


「バカか!相手は警察だぞ!」


シュンの声は震えているが冷静さは失っていない。


「シュンが今騒いでいるのは、俺たちのバイクの音を掻き消すため。俺たちを逃がすためだ。全部、カイが一人で罪を被るつもりなんだよ。その気持ちを無駄にする気かよ!」


「なんでだよ!なんでカイがこんな目に遭うんだよ!」


ユウダイは叫んだ。だがその裏側には、どこか理解しがたい虚しさも混じっている。


「それは、俺たちの居場所を奪った奴らがいるからだ。」


シュンの視線は、パトカーのライトの向こう側、警察に質問されている男女三人組へと向けられた。彼らの姿は、まだ夜の色に溶け込んでいるが、シュンにははっきりと見えた。長身のセンター分けの男、色黒の屈強な男、そして白いTシャツの若い女。先ほどの廃病院での出来事の当事者たちだ。


「……あいつら、許せねえ。」

ユウダイがつぶやく。


シュンの声は、とげのある決意になった。

「絶対このままじゃ終わらねえからな。」


ユウダイは歯を食いしばり、怒りと不安が混じった息を吐いた。シュンはためらいなくスマホを取り出し、パトカー越しに三人をズームで追う。指先が震えながらも、画面の輪郭を最大限に引き伸ばして三人の顔を撮影していく。シャッター音は夜の冷気に溶けて聞こえない。


「俺に策がある。あいつらに復讐するための案だ。だが、そのためには一線を越えなきゃいけない。ユウダイ、覚悟はあるか?」


シュンの目はいつになく真剣だった。


ユウダイはしばらく黙り込み、やがて唇を噛んで頷く。


「もうこっちの腹は決まってる。早く教えろ。」


二人は互いの顔を見て、バイクを押して人目の届かない路肩へ移る。エンジン音を出す前に十分な距離を取ってから、静かにアクセルを捻った。タイヤが夜道を刻む。一連の動きに、後戻りの余地はもうなかった。

「カイ。俺たちは、いつまでも、どこまでも一緒だ。」


——


その夜、別の街の別の部屋でも、同じような決意がひとつの文字列になって動き始めた。


画面の明かりだけが灯る小さな書斎。古い木製の机の上で、男はゆっくりとマウスを動かす。ディスプレイには見慣れたSNSのメッセージ欄が開かれていて、短い英文と絵文字の混じった依頼文が映っている。男の指先がキーボードに触れると、文面は一瞬で送信され、通知音が静かに鳴った。


『この3人に復讐したいです。やり方や金額の相場を教えてもらえませんか?足りない分のお金はそちらで働いて返します。』


モニターの光が男の顔を青く染める。彼は椅子にもたれ、唇の端を吊り上げた。スクリーンに映る写真、若い女の引き締まった脚、長身のメガネ男の横顔、色黒の肩幅が大きい男のシルエットを見下ろしながら、50代の肥満男、藤原満はニヤリと笑った。


「へぇ……この女、あの星崎リコに似てるじゃねえか。面白そうな話が来たなぁ。」


部屋の空気は冷たく、窓の外には夜の静けさだけが広がっている。藤原満は椅子から立ち上がった。


不穏な空気の中ただ一つ確かなのは、誰かの復讐のスイッチが押されたということだった。


—-


カイは結局、廃病院の地下から見つかった大量のブツでアウトになった。

大麻グミ、CBD入りのクッキーやオイル、電子タバコ……そのうちいくつかは完全に違法。ニュースにすれば一発でアウトな代物ばかりだったらしい。


捕まった理由はそれだけじゃない。

灯二を踏みつけた傷害、立ち入り禁止の廃病院に無断侵入した建造物侵入罪、ついでに中の設備を壊して器物損壊の可能性まである。


逃げた不良仲間達も、灯二があらかじめバイクのナンバープレートを写真に収めていたから、それを提供した。時間の問題でそいつらも捕まるだろう。



一方、俺や灯二、リコが捕まらなかったのは、ある意味で運が良かった。

灯二は、「不良が暴れたから止めに入った」と淡々と証言した。自己防衛であり、過剰防衛にもならないそうだ。


リコさんは……まあ、心霊系YouTuberとして侵入してた時点でグレーなんだけど、暴力事件の渦中にいたから「目撃者兼被害者」って扱いで、警告止まりで済んだ。


廃病院の出口。回転灯が照らす光の中で、制服姿の警官がリコを厳しい目で見下ろしていた。


「君、わかってるのか?ここは立入禁止区域なんだぞ。不法侵入で補導することもできるんだ。」


リコは肩をすくめ、小さく


「すみません……。」


と呟いた。涙こそ流していないが、指先がぎゅっと握りしめられて震えている。


その横で、尾軽が両手を挙げて必死に言い訳を始める。


「ち、違うんです!俺らが勝手にやったんじゃなくて、PTAからの依頼でして!最近、子どもたちが肝試しで廃病院に入りたがるって苦情が出ててですね。それで……探索の抑止力になる映像を撮ってほしいって頼まれたんです!」


警官はあきれ顔でメモ帳に記録を取り始めたが、顔には「都合の良いシナリオだな」と書いてある。


「なるほど、だからYouTuberの手を借りたと。ところで、君は?」


警官は灯二に疑いの目を向ける。


「露伴灯二くんね。身分を証明できるものは?君は学校の先生の友達で…職業、投資家だっけ?なんか怪しいな。」


「…だから極力警察は呼びたく無かったんだ。」


灯二は苛立ちを隠さず、腕を組んだまま黙っている。尾軽は笑いを堪えるのに必死だった。いや、ほんと一番の功労者なのに可哀想だね。


灯二は肩をすくめ、面倒そうに答える。

「マイナンバーもパスポートも生憎持ち合わせていない。家にある。」


「免許証は?」

一拍置いて尋ねられると、灯二は舌打ちした。

「チッ、取得していない。」


短い沈黙。

「へぇ。身分証を持っていない自称投資家…と。」


その言葉に灯二は青筋を立てた。

警官は怪訝そうに目を細め、メモ帳をめくる。



「どうせ自動運転がもうすぐ街を埋め尽くす。そんな不要な資格に時間と金を割くならタクシーを使う。それが合理的だろう。」


それが灯二の口癖だった。だが今夜ばかりは裏目に出た。念の為スマホの写真フォルダに保存しておいたマイナンバーカードの番号とパスワードを見て、警察は納得したようだった。


カイが連行され、パトカーのサイレンが遠ざかっていく。残された尾軽と灯二の間に、妙な静けさが落ちた。



「灯二、足は大丈夫か? 不良に思いっきり踏まれていたよな?」

尾軽が遠慮がちに切り出す。


灯二は無造作に靴のつま先をトントンと床に当ててみせた。

「まあ、あらかじめ工事現場用の鉄板入りシューズを履いていたから問題ない。」


尾軽は目を丸くした。

「なんでそんなもの持ってんだよ。」


「まあ、現場関係の仕事を経験してた時のものだ。」

答える灯二の視線は、尾軽ではなく遥か遠くを彷徨っている。


尾軽は少し言葉を失った。


俺は、灯二と仲が良いつもりだ。だけど俺が知っているのは高校三年間の灯二だけ。幼少期も、大学時代も、何をしていたのか全く知らない。確か、家にお邪魔した時はとんでもない豪邸だった気がする。けどそこからどうして「色んな仕事」を渡り歩くようになった? 倒したいやつがいるって話も、格闘技経験者ってことも、何一つ本当のことを聞いたことがない。


だが、問い詰める気にはならなかった。

まあそれは、灯二が話したくなったら話すだろう。


尾軽は視線をそらし、ふと気づく。

「……それよりも、左拳、痛いのか?」


灯二は無意識に左手を摩っていた。あの廃病院で、不良の顎に見事に突き刺した左フック。その反動が今も残っているのだろう。


「ふん。だから喧嘩はコスパが悪い。」

灯二は鼻で笑った。

「普段と違ってグローブをつけてないからな、迂闊だった。とはいえ、蹴りがないと思わせるためにも必要な一撃だったが。」


尾軽は思わず息を呑んだ。

最初の打ち合いから、もう駆け引きは始まっていたのか。


「よし、一通り終わった事だしさっさと帰るぞ運転手。」

「いや、確かに俺が運転するんだけど、あまりに直接的すぎない?」


対等な立場というか、友達感がないと言うか。


リコが上目遣いで灯二と尾軽を覗き込む。


「助けてくれてありがとう。それと、注意を聞かずに廃病院に入っちゃって……ごめんなさい。」


リコは頭を下げ、息を弾ませながらも真剣に言った。

灯二は一瞬だけ目を閉じ、ため息をついた。


「……お前が無事だったのは、ただ運がよかっただけだ。二度と同じ賭けはするな。」


その言葉に、リコは口をきゅっと結び、小さく「……はい」と頷いた。


「もっと身の危険が少なくて自分らしさで勝負できる動画を作れ。そんなお前を応援している子どもたちを俺は知っている。」


灯二はそっけなさそうに答えた。


「….うん!」


リコの顔に笑顔が戻ったようだ。出会いは最悪だったけど、元々素直な子みたいだ。尾軽と灯二への警戒心はもうほとんどないようだ。


「今からタクシーを拾うのは骨が折れるだろう。運転手、この娘も送って行ってやれ。」


「へいへい。」

やはりこの扱いは納得できない。


「お願いします、色黒ゴリラさん。」

「まだそのあだ名継続すんの!?」


尾軽透、露伴灯二、そうやって実名に訂正しようとしたが、やめた。


尾軽は帰り道で空を仰ぐ。

今後リコさんとは二度と会わないだろう。無理に俺らを覚えてもらう必要はない。


当初の目的だった廃墟の恐怖映像も撮れた。これで子どもたちをビビらせれば、誰も探索しようなんて思わなくなる。これで一件落着……のはずだ。


——


リコは夜明け前の白んだ空を見上げながら、ホテルのベッドに腰掛けてスマホを耳に当てた。

窓の外にはまだ眠っている街並み。けれど、彼女の心臓はまだドクドクと数時間前の恐怖を思い出していた。


『リコ。久しぶりじゃん。最近廃墟探索の動画、好調だね。』


受話口から懐かしい声が響いた。小学校の頃からの友達。1ヶ月連絡してなかったけど、聞いた瞬間に安心する。


「ごめんね。こんな朝早くから電話して。」


『大丈夫大丈夫。私今新聞配達のバイト中だし、耳と口は暇だから。』


少し息を弾ませながらも、いつもの気さくな調子。リコは一気に肩の力が抜けた。


「今日はね、人生を変えるような一日だったんだ。」

思わず口に出していた。


母と離れ離れになった日。

芸能界を辞めた日。

父に捨てられた日。


どの日も人生がひっくり返るほど辛かった。

でも今日の恐怖は、それらに匹敵するくらい、胸を締めつけた。


『えー!廃墟で不良に襲われかけた!?』


「そうなの。でもね……」


リコは、言葉を選ぶように少し間をおいた。


「この前、廃トンネルで出会った嫌味な人が、颯爽と現れて、不良たちを撃退しちゃったの。」


『いやいやいや!情報量多すぎ!そんな都合のいい展開ある!?』


「だからびっくりして、聞いて欲しくなったの。」

思わず笑ってしまった。


『でもさ、無事でよかったよ。……なんか今日のリコ、声が明るいね。久しぶりに、中学のときの“怖いものなし”って顔をしてたリコって感じがする。』


「なにその表現!」

リコは笑いながら枕に顔を押し付けた。


でも、胸の奥がじんわり温かい。


「うん、それでね…」

声のトーンを落として、ぽつりと呟いた。


世の中は怖いもので溢れている。

もう、自分が完璧だなんて思わない。


だからこそ、人は助け合って生きていく。

私はそれを、やっと思い出せたんだ。


「だから私、もう一度人を信じてみようと思うの。」


夜明けの白い空に向かって、リコの声は少し震えながらも、どこか力強かった。


——


翌週末。


公園のベンチで、灯二、尾軽、アキラ、未来が集まっていた。

柔らかな風に揺れる木漏れ日の下、和やかな空気が流れていた。


はずだった。


「で、なんでこの娘がここに居る。」


灯二の声が低く落ちる。


そこには、木の影からひょっこり顔を出したリコが立っていた。


「えへへ」舌を出しておどけてみせる。


「ほ、本物の星崎リコさんだぁー!」


アキラと未来は大興奮し、目を輝かせて立ち上がった。


「いやー、うちの生徒達がファンだって言ったら、助けてくれたお礼にファンサービスぐらいはしてあげるって」


尾軽は頭を掻きながら笑った。


それは表向きの理由だった。

本当のところは廃病院の件のあと、灯二を送った車内でのこと。


——


リコが助手席で、興味津々の目を輝かせて矢継ぎ早に聞いてきたのだ。


「あの人って何者?」「彼女は居るの?」「どこに住んでるの?」「本当に投資だけで生活してるの?」


その熱量に押され、尾軽は結局、リコの要望どおりに“灯二と会う場”をセッティングしてしまったのだった。


まあ誰だって、灯二なんていう社会と切り離された存在と会ったら興味を持つだろう。だが、リコさんはひょっとして灯二のことを…。


——


公園のベンチで、リコがニコニコと手を振る。

灯二は冷たく言い放った。


「お前は色んな地方の心霊地をロケするんだろ。さっさとこの街から出ていけ。」


「灯二さん、なんでそんな酷い事リコさんに言うのー!」

「さいてー!」


アキラと未来が両側からブーイング。


「灯二さんが、危険な動画撮影はやめろって言ったんでしょ?」

「うぐっ……。」


リコの言葉に、灯二は一瞬たじろいだ。めずらしく会話で押されている。


「だからさ、ボディガードがいる時だけ廃墟探索をして、それ以外はホラーゲーム実況とか怖い話とか、昔の投稿スタイルに戻そうと思うんだ。新たに心霊写真や心霊動画を紹介する系もやってみるし、チャンネルテーマともズレないから良さそうなのよね。」


「ボディガード?」


「そ、ボディガードよろしくね、センター分けメガネさん♪」


リコがわざとらしく目配せする。“妖怪嫌味“センター分けメガネから名前が一部省略されている。


「断る。」

灯二は、これ以上ないほど嫌そうな顔をした。


「なんでよ!」リコはぷくっと頬を膨らませる。


「灯二さんは、オカルトを否定したいんでしょ? 私は心霊系YouTuberだから、視聴者から耳寄りな情報が集まる。あなたはオカルトに触れる機会が増えるし、私は安全に動画が撮れる。これってWin-Winだと思わない?」


彼女の理屈は通っていた。


「win-winではない。誰かがオカルト関係のトラブルに巻き込まれていたら手を貸すだけであって、俺は積極的にオカルトと関わりたいわけではない。」


灯二は面倒くさそうに手で追い払う仕草をした。


「灯二さん、私、大学に入ろうと思うの。」


「話変わりすぎだろ、自由か。」


「ううん。さっきの話と関係してる。私、つい最近まで、学校で勉強する意味なんてないと決めつけてた。けど、灯二さんが言ってくれたよね。茶番を撮る以外もしろって。だから、人生の選択肢を増やそうと思うの!今年で20歳の年齢だけど、間に合うでしょ?」


リコはまっすぐ灯二を見つめる。


「お前の人生だ。俺に許可をもらうまでもなく、自分で決めたら良い。」


その言葉に、尾軽と未来とアキラは目を合わせて笑顔になった。灯二は、学ぼうとする者や変わろうとする者に優しい。


「言ったね?じゃあ、私に勉強教えてよね。」


「はっ?何でそうなる。」


珍しく灯二が動揺し、声が裏返った。


「何でよ。未来もアキラも勉強教えてもらってるんでしょ?1人くらい増えてもいいんじゃないの?」


「大人なんだから自分で勉強しろ!」


「えー!私と初めて会った時ガキって言ってたくせに、都合が良いことばっか言ってる!」


「灯二さん、リコちゃんにも勉強教えてあげなよー!」


「リコちゃんかわいそう!」


未来とアキラが左右から灯二を挟む。


「うむむ。」


灯二が沸騰した煮卵のようにグツグツと怒っているのが伝わってくる。


「だから私、しばらくこの街を拠点にしようと思うからよろしく。」


「やったー!リコさんとたくさん話せる!」


アキラと未来は両手を突き上げて飛び跳ねた。


「はぁ。読書の時間を邪魔したら許さんからな。」


灯二が観念して肩を落としたが、そんなに悲しくなさそう、と言うかむしろちょっと嬉しそうに見えたのは俺だけだろうか。


——


「ちなみに、リコさんは運動免許を持ってる?」

「持ってるわけないじゃない。自動運転が普及し始めてるのに今から取るなんてナンセンスよ。」


その返答に尾軽の背筋に冷たいものが走る。灯二と同じ理由で免許を持っていない。つまり。


「だから運転よろしくね、色黒ゴリラの尾軽さん♪」


「いやいやいやいや!」

尾軽は額に冷や汗を浮かべて叫んだ。


(PTA依頼の廃墟探索が終わっても、結局リコさんの足役で廃墟巡りさせられるんじゃ、本末転倒じゃんか……!)


尾軽は膝から崩れ落ちそうになった。

青空の下で笑うリコの横顔を見ながら、確信した。

オカルトを否定する日々は、さらに加速していくのだろう。

そんな予感がした。


「ところで、あの病院で私を助けてくれたもう1人はどこにいるの? お礼を言いたいんだけど。」

その言葉に、灯二と尾軽はまるで示し合わせたかのように、同時に反応した。

「え?」

「は?」

リコはその反応に首を傾げた。どうしてこんなに戸惑うのだろうと言わんばかりに。

「いや、だから、あの日私を助けに来てたのは合計3人だったでしょ?」


「「….」」


オカルトを否定する日は、まだ少し先になる。のかもしれない。



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