第一話 こっくりさん
学校で広まる噂話。
遊び半分の「こっくりさん」が、ひとりの少女を教室から奪った。
――そのまま姿を見せないまま三日。
焦る新米小学校教師・尾軽が頼ったのは、学生時代の友人にして社会不適合者。
働かずに本だけを読み漁る、偏屈で皮肉屋な論破好き――露伴灯二。
彼の武器は、拳でも霊力でもなく、“知識と論理”。
都市伝説や心霊現象を、心理学や社会学、科学の視点から切り裂いていく。
「キャアァァァ!」
湿った夕暮れの教室に、少年少女の絶叫が響き渡った。
雨が窓を叩き、雷鳴が遠くで鳴り響く。
机を寄せ合い、紙に十円玉を置いた小さな輪の中で、小学生たちは蒼白な顔を突き合わせていた。
「こっくりさん、こっくりさん……もう、お帰りください……」
少女の声は泣きそうに震えた。
だが十円玉は、じり、と動き出す。
無情にも、矢印は「いいえ」の方へ。
「うそだろ、なんでだよ!」
「誰か動かしてるんでしょ!? もうやめてよ!」
叫び声とともに、教室の緊張は頂点に達した。
雷光が一瞬、窓の外を白く染め、子どもたちの怯えた顔を鮮やかに浮かび上がらせた。
——
六月某日、木曜日15:30。
小学五年生の担任、尾軽透は職員室で頭を抱えていた。
二十代前半。野球部で鍛えた筋肉は今も健在で、日焼けした健康的な肌と明るい笑顔は、生徒たちから「先生ってスポーツ選手みたい」と憧れられている。人懐っこく面倒見もよいので、保護者や同僚からの信頼も厚い。
だが、そんな尾軽でも今の状況には心底参っていた。
クラスで「こっくりさん」が流行り出し、止めても止まらない。
注意しても、子どもたちは「遊びだから大丈夫」と笑い、裏ではこっそりと続けている。
そしてついに問題が起きた。
生徒の一人、三条未来が体調を崩し、学校に来られなくなったのだ。
「尾軽先生!」
甲高い声が背後から飛んだ。
振り返れば、細身で頭頂部が寂しい教頭が、腕を組んで睨みつけていた。
「あなたのクラスの三条未来さん、こっくりさんで精神を病んで、もう三日も欠席していますよ。学年一の優等生が引きこもりになって人生を棒に振るかもしれません。親御さんからも苦情が来ています。どう責任を取るつもりですか!」
鋭い言葉は、刃のように突き刺さった。
もちろん、なんとかしたい気持ちはある。
だが教師は万能ではない。四六時中子どもたちを見張れるわけでもなく、大人たちはみな責任を押し付け合うだけ。
「すみません。」
いつからだろう、謝ることが当たり前になったのは。憧れていた社会人、憧れていた職業の教師になれたはずなのに。現実とのギャップに毎日振り回されてばかりだ。
頭を抱えながら、尾軽の脳裏にふと浮かんだのは高校生時代の記憶だった。
自分は野球部で汗を流し、仲間と声を張り上げていた。
一方で、教室の隅で本を抱え、時折冷めた視線でこちらを眺めていた同級生がいた。
露伴灯二
文芸部に所属し、読書が趣味の灯二は圧倒的な知識と学力を持っていた。合理的でブラックユーモアが好きな、妙に理屈っぽい男。なのに不思議と一緒にいて心地が良く、気づけば人に囲まれている。
「……あいつなら、解決法を知っているかもしれない」
半ば藁にもすがる思いで、尾軽はスマホを取り出し、灯二の連絡先を探し始めた。
『灯二、元気か? ちょっとお前に相談したいことがある。……こっくりさん退治って、できないか?』
メッセージ送信完了。尾軽はスマホを握りしめながら、ため息を漏らした。
職員室の扉が開き、足音が近づいてくる。
顔を上げると、少年が一人立っていた。佐久間アキラ。
いつもはクラスの中心で、運動ができて、友達に囲まれて笑っている。勉強は…伸び代だらけな明るい少年。だが今の彼の姿は、まるで別人だった。
目の下には薄い隈。
水色のTシャツは着崩れ、生地を握る指先が震えている。
そして何より、その瞳。
泣き出す寸前の子犬のように、不安と後悔が入り混じった視線を尾軽へ向けてきた。
「オカル先生……俺のせいなんだ」
アキラの声は掠れていた。
「未来が大変なことになったの、全部俺のせい。俺が……俺が“怖くないからやろうよ”って言ったんだ。未来、断れなくて一緒にこっくりさんをやって……それで……」
言葉は途中で途切れ、アキラは唇を噛んだ。
その横顔は強がりをかなぐり捨てた十一歳の子どもの姿で、尾軽の胸を刺した。
「未来に、こっくりさんが……取り憑いてるの?どうやったら……どうやったらそいつを倒せるの?」
普段なら「心配しすぎだよ」と笑って済ませる少年が、今は必死にすがっている。
尾軽は黙って立ち上がり、アキラの肩に手を置いた。
「大丈夫だ。未来は絶対に元気になる。先生が保証する」
手のひら越しにアキラの肩がわずかに震えていることが分かった。自分でも根拠がないことを言っていると気づいている。
だが、今この子に必要なのは“理屈”じゃない、“信じてくれる言葉”だ。
その時だった。
机の上に置いたスマホがぶるぶると震えた。
着信ではなく、メッセージ。
『尾軽、お前……23歳にもなって休日に一人でこっくりさんか?馬鹿もここまで来ると芸術だな。』
数年ぶりのやり取り。
文章の皮肉な調子に、思わず口元が緩む。
相変わらずだ。露伴灯二。
尾軽はスマホを握り直し、アキラに微笑んで見せた。
「よし、アキラ。今から先生と一緒に、先生の友達に会いに行かないか?」
「友達……?」
「頼りになるやつだ。未来を元気にできるかもしれない」
アキラの目に、ほんの少し光が戻った。
—-
尾軽の古い軽自動車は、雨で濡れたアスファルトを滑るように走っていた。助手席の佐久間アキラは落ち着かない様子で窓の外を見ている。尾軽はちらりと横目で彼を見て、慰めるようにハンドルを軽く叩いた。
灯二から送られてきた住所は都心の一等地、高級マンションの名だった。尾軽は心の中で苦笑した。学生時代の灯二は、野球に汗を流す自分を尻目に、文芸部で机に向かい、投資や株の話ばかりしていた。あれから数年、学生のうちに起業して得た資金を元に、まさか本当に「投資だけで生きる」人間になっているとは思わなかった。灯二の経歴を話すと、雨粒が伝う窓を見ながらアキラは呟いた。
「すげー。オカル先生の友達って、お金持ちだね。」
アキラの声は、呆れと羨望の入り混じったものだった。
駐車場から見上げた先、ガラス張りの高層マンションは、灰色の雨雲を突き抜けるようにそびえていた。エントランスにはカードキー式の自動ドア、警備員の詰所もあり、田舎出身で薄給公務員の尾軽にはまるで別世界のように映った。
エレベーターを最上階近くで降り、指定された部屋のチャイムを押す。電子音と共に重厚なドアが開く。
目に飛び込んできたのは、床から天井まで本棚で埋め尽くされた広々としたリビング。その中央に、ひとりの男が立っていた。
サラサラのストレートヘアをセンターで分け、そこから覗く鋭い眼光は、こちらの心を見透かしているかのようだ。細身で色白、長身のシルエットは学生時代と変わらない。しかし空気の支配力だけは格段に増していた。
露伴灯二は手にしていた本を静かに閉じると、口元に笑みを浮かべて言った。
「遅いぞ。相変わらず時間にルーズだな、尾軽。」
露伴灯二の声は、昔と同じく皮肉を含んでいた。
「相変わらずだな、灯二。」
尾軽は苦笑しながら靴を脱ぎ、リビングに足を踏み入れた。
アキラは驚きの声をあげる。
「お兄さんはこんな大きな家に住んでいるの?」
灯二は不快そうに眉をひそめ、読んでいた文庫本を机にそっと置いた。
「そうだ。お前の父ちゃんの百倍は金を持っている。もっと敬意を払って喋れ。」
「尊敬?お兄さんは働いていないのに?僕のお父さんは一生懸命働いててかっこいいよ。」
アキラが無邪気に首をかしげる。悪意のない子どもほど恐ろしいものはないのかもしれない。
「無礼なガキは嫌いだ。帰れ。」
冷たく言い放ち、視線を本に戻す灯二。
「まあ待て、灯二。」
尾軽が制するように手を挙げた。
「アキラ、紹介する。この人が先生の友達の露伴灯二だ。あまり失礼のないようにな。」
そう言って尾軽はスマホを取り出し、「ロハントウジ」とカタカナで入力してアキラに見せた。
灯二は肩をすくめ、吐き捨てるように言った。
「もう手遅れ、充分失礼だ。」
「論破ニート?」とアキラが呟く。
「露伴灯二だ。『二』はカタカナじゃなく漢数字だ。」
灯二は鋭い眼光をアキラに向けたあと、尾軽に冷笑を向ける。
「尾軽、お前、こっくりさんより小学生の学力低下を解決するほうが先決じゃないのか?」
「これは痛いところを突かれる…。」
「俺この前算数で40点取ったもん。その前のテストは30点だったから学力は良くなってるもんね。」
「成長してることは偉いぞ。だけど、40点のテストは自慢しない方が良いかもよー、アキラ。」
灯二が入れてくれたコーヒーを飲みながら、尾軽はこれまでの経緯を細かく説明しはじめた。
「こっくりさんとは、紙に“はい・いいえ”や五十音を書いて、十円玉を指にのせて呼びかける“降霊遊び”だ。遊び半分でやる子どもが多いが、精神的に影響されて錯乱する子も少なくない。今回の未来も、取り憑かれたと思い込んで心を病んでしまったんだ。最低2人で開始するが、4人でやってはいけない。四方向を塞ぐとこっくりさんが帰る道がなくなって誰かに取り憑いてしまうと言われているからだ。そして今回は…。」
尾軽はアキラに目配せをした。アキラは砂糖とミルクを3つずつ入れたコーヒーを混ぜながら俯いた。
「俺と、未来と他2人の4人でやりました。」
「なるほど。つまり、こっくりさんに怯えた少女の心を救い出せ、だからこっくりさんを倒せと。」
露伴灯二は、まったく心配していないような顔で頷いた。
「学校の先生は仕事内容が多岐にわたって大変だな。」
アキラは、椅子の上で拳を握りしめるようにして叫んだ。
「俺、未来のためならなんでもする!」
「ほう、ずいぶん強い意思表示だな。お前その子が好きなのか?」
灯二がすかさず切り込む。さっき傷つけられたからって、大人気ないぞ。
「す、好きじゃねーし!」
アキラは耳まで真っ赤になって視線を逸らす。
「アキラと未来は家がご近所さんで幼稚園児の頃からの仲なんだよ。」
尾軽が助け舟を出した。
「それよりも、なんとかできるのかよ!論破ニート!」
アキラの頭の上に手を置き灯二は口の端をゆがめ、薄く笑った。
「余裕で解決できる。正直、この程度の問題を解決できない大人達が何を子どもに教えられるのか甚だ疑問だな。」
「そこまで言わなくてもいいだろ。」
尾軽は少し傷ついた。
「当時の状況をできるだけ再現したい。アキラ、お前はもう一度こっくりさんと戦う覚悟はできているんだろうな。」
「え?ほんとになんとかしてくれるの?お兄さん、何も関係ないのに……」
「ふん。やる気がないなら帰れ。」
灯二は鼻で笑い、そっぽを向いた。
気まずい空気を和らげようと、尾軽が笑って補足した。
「灯二はな、こう見えてお化けが苦手なんだ。だからお化けがいないことを確かめたいのさ。」
「えっ!?」
アキラの目がまん丸になる。
灯二の眉間にしわが寄った。
「誤解を生む言い方をするな。俺は幽霊や妖怪、都市伝説や宇宙人……オカルトや超常と呼ばれる存在を否定したくてたまらないんだ。」
バチンッ!
その瞬間、部屋全体が暗闇に包まれた。停電だ。
「ウヒャぁぁ!!!」
アキラは耳を疑った。さっきまで冷静沈着だった灯二が居るはずの方角から、情けない悲鳴が飛び出したのだ。
数秒後、非常灯が点き、電気は復旧した。尾軽とアキラが目を凝らすと……部屋の隅で、雨に濡れた野良猫のように震えて縮こまっている灯二の姿があった。
「あのー……お兄さん?」
アキラがおそるおそる声をかける。
「はっ!」灯二は弾かれたように立ち上がり、早口で捲し立てた。
「これだから暗闇は嫌いなんだ!お化けなんかいないと分かっていても、本能が勝手に反応してしまう!大体、ポルターガイストや金縛り、寝てる間に首を絞める幽霊が実在するとしたら、それを証明できたらノーベル賞ものだ!物理法則を無視して世界に干渉できる、物体の消費無く物を動かせるなら、それは最強の再生可能エネルギーじゃないか!エネルギー保存の法則から考えたらそんなことありえない!なのに俺の体は暗闇を恐れてしまう!そんなこと許されない!金持ちになった、なのに不安は一向に消えない!だから俺は!!世の中の謎を一つでも解き明かし、不安を減らし、安眠できる生活を手に入れなければならないんだ!」
一気にコーヒーを飲み干し、立ち上がった。しばしの静寂の後、灯二は軽く咳払いをして姿勢を正した。
「……だから早く学校に行くぞ。時間が惜しい。マイルールで22時までに寝ると決めているんだ。」
カップを片付け始めたら灯二を見て、アキラはパッと笑顔を輝かせた。
「ありがとう、暇人のお兄さん!」
「調子に乗るなよガキが」
灯二はアキラの顔面にアイアンクロー…かと思いきや優しく撫でている。
門前払いをするかと思っていたが、結局は助けてくれる。尾軽は内心で苦笑した。
口は悪いけど、なんだかんだでこいつは親切なんだよな。
それにしても、22時に寝るのに17時前までコーヒーを飲んでいていいのだろうか。尾軽は思ったが、灯二がそろそろ本気で拗ねそうなので口には出さなかった。
——
尾軽の運転する軽自動車は、雨に濡れた都心の道路を静かに滑るように進む。後部座席の佐久間アキラは窓に額を押し当て、降りしきる雨粒をぼんやりと見つめている。助手席では露伴灯二が片手で顎を支え、外の景色を見ずに思索に耽っていた。
「……ま、俺はな、生き物として合理的な反応をしているだけだ。」
灯二が口を開く。
「人間の本能として、暗闇に何かあると警戒した個体の方が、サーベルタイガーや毒蛇などの脅威を早く見つけられ、生存率が高かった。その子孫である俺が暗闇を恐れるのは当然だ。むしろビビリではなく、生存能力が誰よりも高いということになる。」
「また言ってる…。」
アキラは思わず吹き出しそうになり、尾軽も小さく苦笑いを漏らす。
「……生存能力が高いから、今日もこっくりさんを倒すってわけか」
と尾軽は呟いた。
アキラはスマホを取り出す。未来とLINE通話をつなぐためだ。画面に未来の顔が映ると、ほっとした表情を見せた。
「未来、もしもし。今から俺たちが学校でこっくりさんを退治するから安心してくれ。」
アキラの声は落ち着いているが、理路整然としていて、説得力があった。
「オカル先生と俺と、あと論破ニートさんっていう変なお兄ちゃんと3人で、今からこっくりさん倒すから!通話切るなよ!」
「おい、クソガキ。俺の名前は露伴灯二だと何度言ったら分かる。」
未来は少し震える声で答えた。
『そんな、危険じゃない?私、あの日からずっと家の近くで、こっくりさんがいつも私を見ている気がして……。だから家から出られなくて、とにかく怖いの。お父さん達が車に乗せてくれても、胸が苦しくて、ドキドキして、頭がぐるぐるして、学校に行けないの。』
アキラは画面越しに前のめりになり、力強く声をかける。
「大丈夫だよ、未来!俺たちがついてる。怖くないから!」
尾軽は淡々と付け加える。
「未来、俺だ、先生だ。今から俺たちがこっくりさんをやって、論理的に解明して倒す。倒すところをお前に見せるから、安心して。」
「未来、だからさ、全部終わったら、明日の朝迎えに行くよ。一緒に学校に行こう。」
未来の目に、ほんの少し光が宿った。
「オカル先生も一緒なの?……わかった。信じる。アキラの言う通り、私、勇気出す!」
車は信号を曲がり、学校の正門に差し掛かる。雨に濡れた校庭の向こうに、今日の戦場が待っている。灯二は顎に手を当て、冷静に計算するように視線を前方に固定した。
「よし、学校に着いたら、手際よくこっくりさんの作業を開始する。」
アキラと尾軽も、それぞれ覚悟を固め、車のドアを開けた。外の雨粒が冷たく肩を濡らすが、3人の決意は濡れずに燃えていた。
—-
雨粒が窓を叩く夕暮れの校舎。人気のない廊下に足音が反響する。
5年2組の教室に入ると、アキラはランドセルからコピー用紙とマジックを取り出し、机の上に広げた。手慣れた様子で五十音を書き連ね、はい・いいえ・鳥居の絵を描く。
「また書くの、面倒くさいなぁ。」
だが仕方ない、3日前に使用した紙は気味が悪いから早々に捨てたのだ。
「……どうして、灯二さんの家でこっくりさんをやらないの?」
未来の声がスマホ越しに響く。通話画面の中で、彼女は不安そうに唇を噛んでいた。
灯二は腕を組み、面倒くさそうに答える。
「できるだけ当時と同じ状況にしないと、俺の家で“こっくりさんが現れなかった”時、未来の心の呪縛が解けないだろ。【だって灯二さんの家じゃなく私の家の周りにいるから】と思ってしまう。場所も人数も道具も、可能な限り条件を再現する必要がある。そうでなければ“否定”にならない。」
尾軽が苦笑して付け加える。
「灯二は理屈っぽいからな。でも、確かに筋は通ってる。」
17時40分。三人は机を囲み、紙の上に十円玉を置いた。未来はスマホの画面越しに、固唾を呑んで見守る。
「……まさか、こんな子ども騙しを大人になってからやるとはな。」
灯二は冷ややかな声で言い、しかし自分も指を添えた。
「じゃあ、始めるか。」
尾軽が息を呑む。
「「「こっくりさん、こっくりさん、おいでください。」」」
その瞬間、窓を揺らす風の音が響いた。教室がひんやりとした空気に包まれる。
十円玉が、じわりと……動いた。
三人の指を引きずるように、「はい」で静止する。
「……動いた?」
アキラの声が震える。
灯二は淡々と、しかしどこか目を光らせて問いを投げる。
「アキラは、最近テストで40点を取った。」
十円玉が――はい、に移動。
「えっ……!?」
未来がスマホ越しに声を上げ、アキラは真っ赤になる。
「な、なんでそんなことを、こっくりさんに聞くんだよぉ!」
十円玉はさらに、はいに戻る。まるで肯定するように。
灯二は薄く笑みを浮かべる。
「“アキラは、答案を机の奥に隠して、まだ親に見せていない。”」
十円玉が……はい。
「ちょっ、ちょっと待てよ!なんで知ってんだよ!?俺、先生にも言ってねぇのに!」
尾軽は額に左手を添えて目を閉じた。
「アキラ、大人に隠してもいつかバレるぞ…。」
「ごめんなさい。」
尾軽は気まずそうに咳払いした。
灯二はすかさず、今度は尾軽に矛先を向ける。
「尾軽の初恋の相手の名前は……桜井美香、だったな。こっくりさん、合っているか?」
「ぶっ!!」
尾軽は椅子を鳴らして立ち上がろうとした。
「おい、尾軽。立ち上がって硬貨から指が離れたらどうする。まあ落ち着け。」
灯二が左手を見せて静止を促した。
「な、なんでそれを今言う必要がある!」
十円玉がゆっくり、はいに移動する。
『へぇー、先生の好きな人は美香さんって言うんだ。今も付き合ってるの?』
未来が画面越しに目を輝かせたが、尾軽は目を逸らした。10円玉はいいえに移動する。
「先生って現在彼女募集中じゃなかったっけ?」
アキラの質問に、10円玉ははいへ移動して答えを示した。
未来とアキラがクスクスと笑っている。
「灯二、覚えとけよ。」
「なんの話だ?こっくりさんが勝手に答えを教えてくれただけだろ?」
灯二はこうやって人の心をほぐすのが得意だ。
怖がっている生徒の過度な緊張を解くのが目的だろう。
まぁ、そのために、俺は大きなものを失ったが。
灯二はわざとらしく顎に手を当て、盤の上の十円玉を見下ろした。
「じゃあ聞くぞ、こっくりさん。あんたは普段どこに住んでいる?」
十円玉はすうっと滑り、「や・ま・の・な・か」と一文字ずつ指し示した。
「山の中?随分とワイルドな生活だな。じゃあ、何をして生活してる?」
今度は「ひ・と・を・み・て・い・る」と移動した。
未来が小さく「ひっ」と声を漏らした。
「人を見てる、ねえ。ストーカーみたいだな。じゃあ、日本中で同時にこっくりさんをやったら、どれを優先する?」
十円玉は「す・べ・て」と示した。
「ほう、万能だな。じゃあ――こっくりさんは複数いるのか?」
十円玉はためらいもなく「は・い」と動く。
灯二は肘をつき、盤を見下ろしながら矢継ぎ早に問いを投げる。
「じゃあ――あんたは何歳だ?」
十円玉が滑り「か・ぞ・え・て・い・な・い」と動く。
「ふうん。数えることができないくらいのバカか数えきれないくらいの年寄りってことか。」
しぃん。冷凍庫に閉じ込められたかのように空気が凍てつくのを感じた。
「お、おい灯二。何もそんな言い方しなくても良いだろ?」
「じゃあどんな姿をしてる?」
「き・つ・ね」
「狐か。なぜ狐の姿をしてるんだ?」
「だ・ま・す」
「ほぉ、狡猾さの象徴ってわけか。じゃあ狐から進化したらこっくりさんになるのか?」
「い・い・え」
「へぇ。神がわざわざ動物の姿にグレードダウンしたのか。たぬきのこっくりさんはいないのか?」
「い・な・い」
「なるほどな。じゃあ、なんのメリットがあって人間に呼び出されている?」
「た・の・し・い」
アキラが「遊びかよ…」と呟き、未来は画面越しに唇を噛んだ。
「で、普段何を食べている?」
「お・も・い」
「ほう。山から人里に降りてくる理由は?」
「よ・ば・れ・た」
「誰が最初にお前を呼ぶ方法を確立した?」
「わ・す・れ・た」
「未来に取り憑いた理由は?」
十円玉はゆっくりと「よ・わ・い」と示した。未来が画面の向こうで小さく悲鳴を漏らす。
「取り憑くなら男より女の方が良いのか?」
「は・い」
灯二は鼻で笑った。「スケベなやつだな。本当は狐でも神様でもなく小汚いおっさんなんじゃないのか?」
十円玉がぴたりと止まり、数秒沈黙したあと――「し・ね」と刻むように動いた。
教室の空気が一気に冷えた気がした。
「こっくりさん、お帰りください」
アキラが震える声で言うが、十円玉は「い・い・え」の上に居座ったまま動かない。
ぎぃ…と教室のドアが軋み、同時に窓ガラスがガタガタと震える。
床板までもがミシミシと軋み始め、未来は画面の向こうで両手を胸に当てて震えていた。
「と、灯二……!」
十円玉がじりじりと動き出す。
「こ・ろ・す」
「に・が・さ・な・い」
未来は泣きそうな顔で叫んだ。
『こっくりさん、もうやめて!私が悪かったの!もう学校行きたいなんて言わないから!』
未来の声がスマホを介して教室に響き渡る。胸の奥がぎゅっと締め付けられるような恐怖と焦燥が、体中を駆け巡る。
ああ、そうだ。3日前も同じような状況だった。
あの時も、私があんなことを言ったばかりに……アキラも、オカル先生も、灯二さんも、みんな、こっくりさんの手のひらの上で、いや、指先の上で踊らされていたのだ。
—-
3日前の放課後。
教室の中央に広げられた五十音の書かれた紙の上で、未来、アキラ、そしてサクラちゃんとシンジ君、計4人が指先を添えてこっくりさんを始めた。その周りにはさらに4人ほどの生徒が見守っていた。
「アキラの好きなアニメは何?」
こっくりさんのコインがゆっくりと動き、答えを示す。
「すげー、こっくりさん、俺のこと知ってる!なんで!?」
アキラは驚きと笑いで顔をほころばせ、みんなでゲラゲラと笑った。
未来はその横顔を目で追う。
幼稚園児の頃は私にくっついてばかりの、ちょっと人見知りなアキラだったのに……今はみんなに囲まれ、私から少しずつ離れていく。人気者になったアキラの姿に、胸がぎゅっと締め付けられる。
その瞬間、教室の一角から小さな声が聞こえた。
「アキラくんってさ、この前サクラちゃんと一緒にゲームセンターに居たよね〜。お似合いだなーって思ってた。」
声の主は取り巻きの女の子。未来を見て、口元に小さくニヤリと笑みを浮かべている。彼女はサクラちゃん派閥で、アキラとサクラちゃんをくっつけたくて仕方がないようだ。
「「えぇ〜2人できてるの?ヒューヒュー♪」」
くだらない冷やかしが教室中を包む。サクラちゃんは、満更でもなさそうな表情でアキラを見ていて…アキラは、照れくさそうにサクラちゃんから目を背けた。
未来の胸がぎゅっと締め付けられた。そんな……アキラは本当にサクラちゃんのことを……?
「そんなんじゃねーし。別に好きじゃねーし。たまたまサッカー終わりに遭遇しただけだし」
アキラが声を強める。
「けどサクラちゃんはアキラの試合の日応援しに行ってたでしょ?」
シンジ君が口を挟む。
「え、サクラちゃんは俺を応援しに来てくれたんでしょ?それかメンバー全員、でしょ?」
サクラちゃんは奥ゆかしそうに口を開いた。
「アキラ君、頑張ってって思ってた。」
ヒューヒュー♪
風の吹く音と小学生の口笛が不協和音となって未来の脳内で反響し続けた。サクラちゃんはアキラに見えない角度で私に不敵な笑みを送っている。もういい、うるさい、黙って、もうやめて、もうやめて…
「もうやめて!」
思わず口に出たこと自体に未来自身が驚いた。教室を静寂が包む。
「はぁ、何?未来ちゃん、へぇ。ひょっとして、嫉妬してるの?」
「嫉妬なんか…私はただ、こっくりさんの続きをしようと..。」
「じゃあさ、アキラ君。未来ちゃんとは何もないの?」
取り巻きの女の子は続けた。
えっ。
なんでそんなこと聞くの。
息が詰まりそうになる。
お願い、何も言わないで。いや、サクラちゃんよりも私の方が大事だよね。だって小さい時からずっと一緒なんだし。けどサクラちゃんは5年生の中でも1番可愛いし。いや、やっぱり聞きたくない。怖い、怖い。
みんなが固唾を飲んで見守るなか、アキラはぶっきらぼうに答えた。
「未来とは何もねーよ!そんなんじゃねーよ!ただ近所なだけで……嫌々一緒に居るだけだよ!」
サクラちゃん達はさらに薄笑いを浮かべ、未来を見つめる。
「アキラ君さいてー、未来ちゃんかわいそう。」
棒読みで上部だけの心配。未来は視線をそらし、心の中で苦しみを噛みしめる。
その瞬間、シンジ君が未来に話しかけてくる。
「アキラって最低だね。ねぇさ、今度から僕と一緒に帰ろうよ。あんなやつほっといてさ。」
あまり顔を近づけないでほしい。シンジ君は距離感がおかしくて正直苦手だ。アキラは遠くなって、シンジ君みたいな人が近づいてきて、どうしてこんなことになっちゃったんだろう。
「は?未来と俺は家が近所だから毎日一緒に行き帰りするんだよ!」
アキラがシンジと私の間に手を差し込んだ。
「ちょっと男子やめなよ!」
誰かが叫ぶ。教室の音が遠くなる。誰も助けてくれない気がして、未来は頭を抱え、こっくりさんに助けを求める。これは、悪い夢だ。そうにちがいない。
「誰か……助けて、こっくりさん……。」
未来の小さな声が、湿った教室にかすかに響いた瞬間だった。
突如、窓の外から突風が吹き荒れ、雨粒が激しくガラスを叩く。遠くで雷鳴が轟き、教室のドアや窓がガタガタと揺れた。
何者かの声が、まるで静かな波のように響く。
『嫌ならさ、学校なんか行かなくていいよ。逃げちゃえば良い。』
その声が、今窓の外に見える黒い雲みたいな心のモヤモヤを、スーッと晴天にしてくれた。埃を掃除機で全部吸い取ったみたいに。
天気の激しさに応じるかのように、子どもたちの心拍も早まり、怯えた顔が次々と互いに映る。小学生たちは机を寄せ合い、湿った空気に緊張で固まった輪の中で、十円玉を指先でそっと触れながら、白い顔を突き合わせていた。
誰かが小さくつぶやく。
「これ……こっくりさんの仕業なの?」
「怖いよ、もう帰ってもらおうよ……」
雷鳴が一層近くに響く。ゴロゴロ!
稲妻が瞬くと、窓の外が白く光り、子どもたちの怯えた顔が一瞬、鮮やかに浮かび上がった。
「キャアァァァ!!」
湿った夕暮れの教室に、少年少女の絶叫がこだまし、緊張と恐怖が空気を満たす。
小さな輪の中心で、サクラは声を振り絞り、紙に十円玉を置きながらつぶやいた。
「こっくりさん、こっくりさん……もう、お帰りください……」
しかし、無情にも十円玉はじり、と動き出し、矢印は「いいえ」の方へ。
「うそだろ……なんでだよ!」
「誰か動かしてるんでしょ!?もうやめてよ!」
叫び声が重なり、教室の緊張は頂点に達した。雨と雷、風の轟音がさらに増幅され、空気は濃く湿り、子どもたちの怯えを容赦なく映し出す。
なんだ、みんな、弱いじゃん。
あの日、私の中に、別の私が生まれた。恐怖と絶望に覆われながらも、確かに心の奥で、何かが目覚めた瞬間だった。
その後、それぞれの親が迎えに来て、やっと解散になった。私はアキラのお母さんの車に乗せてもらった。いつもなら、車の中はおしゃべりが止まらなくて楽しいはずなのに、今日はなんだかちょっと変だった。静かすぎる。
「ねぇ、今日は二人ともあんまり喋らないわね。ケンカでもしたの?」
アキラのお母さんが冗談っぽく言ったけど、私たちは何も返さなかった。お母さんは「あ、しまった」といった顔をして、ちょっと困っていた。
でも、私は不思議と胸の奥が熱くなって、高揚しているような気分になった。まるで、世界の真ん中に立っているみたいな……そんな気持ち。
私の家の前で車が止まった。アキラが小さな声で言った。
「今日のこと、ごめん。みんなにからかわれたくなくて、お前といるの嫌とか言ったけど、本当は
「もういい、聞きたくない。」
私はアキラの声を遮って玄関を閉めた。閉めちゃった。
アキラの言葉は私の心に届く前に、おひさまの光が窓ガラスの中でゆがむみたいに、私の足元に落ちていった。届きそうで届かない、そんな感じだった。
違和感はその後も続いた。ご飯を食べているとき、体を洗っているとき、ベッドに入っても、誰かに見られているみたいな気がする。
学校、行きたくない。
みんなと話したくない、会いたくない。
寝たくない。だって、寝たら明日が来ちゃうから。
朝が来て、太陽がのぼるのが怖かった。
どうしよう、どうしたらいいんだろう……
こっくりさん、お願い……
それからの三日間、私は学校に行けていなかった。風邪って嘘をついたけど、こっくりさんのことが先生や親にも知られてしまって、何があったのか全部バレちゃった。
あの雷の日、みんながびっくりして怖がっていたのを思い出す。みんな、弱っちいなって思った。だけど、そんなみんなに傷つけられ、家を出るとき足がすくむようになった。そう考えると、私が一番弱いんだ。誰よりも弱い。だから、こっくりさんに守ってもらわなきゃ。家の外じゃ、誰も私を守ってくれないもの。
それなのに、この寂しい気持ちは……なんだろう。一番頼りになる存在は、ちゃんと私を守ってくれてるんじゃないの?
その時、アキラから電話がかかってきた。
『未来、もしもし。今から俺たちが学校でこっくりさんを退治するから安心してくれ。』
『オカル先生と俺と、あと論破ニートさんっていう変なお兄ちゃんと3人で、今からこっくりさん倒すから!通話切るなよ!』
『おい、クソガキ。俺の名前は露伴灯二だと何度言ったら分かる。』
その声を聞いた瞬間、私は思った。そうか、本当に頼りたかったのは……あのとき助けてほしかったのは、こっくりさんじゃなくて、アキラやオカル先生だったんだ。アキラってお兄ちゃんいたっけ?お姉ちゃんしか知らないけど。
「でも、危険じゃない?私、あの日からずっと家の近くで、こっくりさんが見てる気がして……。だから家から出られなくて、とにかく怖いの。お父さんたちが車に乗せてくれても、胸が苦しくて、ドキドキして、頭もぐるぐるして……学校に行けないの。」
もう遅いよ。だって、こっくりさんがずっと見守ってる……いや、監視してるんだから。狐のお面が浮いている。窓の外も、机の下も、天井の隙間も、どこにでもいるんだもの。
『大丈夫だよ、未来!俺たちがついてる。怖くないから!』
『未来、俺だ、先生だ。今から俺たちがこっくりさんをやって、論理的に解明して倒す。倒すところをお前に見せるから、安心して。』
バカじゃないの、こっくりさんは神様だよ。雷とか突風とか起こして、すごい怖いんだよ。
『未来、だからさ、全部終わったら、明日の朝迎えに行くよ。一緒に学校に行こう。』
なのに、どうして涙が止まらないんだろう。なんでこんなに心に響くんだろう。まるでお日様みたいなその光は、分厚いガラスを通り抜けて、私の心を温めた。
「オカル先生も一緒なの?……うん、わかった。信じる。アキラの言う通り、私、勇気出す!」
その声を聞いて、私は決めた。私も戦おう。応援しよう。怖くても、立ち向かおう。
—-
ごめんなさい、こっくりさん。もう二度と逆らいません。だから、アキラをオカル先生を、そして論破ニートさんを、私から奪わないで。
『もういいよ、ニートさん!こっくりさんを怒らせちゃったよ!謝ろう!やめようよ!』
未来の肩が画面越しに震える。アキラは固唾を飲み、尾軽は無意識に喉を鳴らした。
灯二は鼻で笑い、わざと冷たい声を響かせた。
「いいか、ガキども、覚えておけ。一度逃げ癖がついたら、残りの人生ずっと狭い世界で生きることになるぞ。」
「こっくりさん、お前の発言を振り返ろう。弱いものが好き、人の輪に混じらず遠くから見ている、呼ばれたら来る、それが楽しい。何年生きてるか分からない。
受け身で生きてて主体性が何もない、思考停止した空っぽな存在じゃないか。まるで味のなくなったガムみたいなつまらない生涯だな。将来の不安や目先の孤独感をかき消すため行きたくない飲み会に参加してマウント合戦に興じる社畜のようだ。そして自分は楽しい、幸せと言い聞かせている、違うか?」
「やけに例えの解像度高いな。灯二働いたことないのに。」
「なあ、こっくりさん。お前、生きてて楽しいのか?いや、そもそももう死んでるのか?」
十円玉が、かた、かた、と震えるように揺れた。
「さっき『逃がさない』って言ったな。でも具体的にどうやって?この教室に鍵はかかっていない。最悪、窓ガラスを割れば外に出られる。そんな俺たちをどうやって閉じ込めるんだ?」
返答を待つまでもなく、十円玉が一気に「こ・ろ・す」と動く。
アキラが青ざめ、未来が小さく悲鳴を漏らす。
灯二は動じず問いを重ねる。
「どうやって殺す?直接俺に触れられるのか?なら、全ての人間はお前に対して無力だ。弱い存在だ。ほら早くやれよ。死ねとか殺すとか、脅すくらいならさっさと手をくだしたほうが手っ取り早いだろ?
で、わざわざ未来みたいな少女を狙う理由はなんだ?お前のような“空っぽ”が寄りかかるには、一番都合がいい相手だからか?
ほらどうした?神様なら、下等でいつでも殺せる人間ごときの主張を論破してくれよ。じゃないと、下等な人間よりも自身の知能が劣ると言っているようなものだぞ。」
沈黙。十円玉は微かに震えているだけだ。
「何も言うことがないか?
ならいい加減帰れよ。その子から離れろ。」
灯二は迷いなく、硬貨を力づくで「はい」の上に押し込んだ。
ビリビリッ、乾いた音が教室内に響く。力を込めすぎて紙が鳥居を中心に二つにちぎれはじめた。
机がわずかに軋み、空気が張り詰める。
灯二は指先を見下ろし、冷ややかに言い放った。
「なぁ、お前、本当は何もできないんだろ。なぜなら、日頃本しか読んでない貧弱な俺の指先ひとつにすら抗えないんだから。」
ガタガタッ!
窓ガラスが一斉に震え、黒板のチョークがカタカタと転がり落ちる。机の脚までもが地響きのように揺れている。
振動はだんだん大きくなり、まるで古い校舎全体が怪物の腹の中でのたうっているようだ。窓枠が悲鳴をあげ、天井の蛍光灯がぶら下がって狂ったように揺れる。
そして、ピタッ。
教室はしんと静まり返った。
音が、止んだ。揺れも、消えた。
水面に石を投げ込んだあと、波紋が静まる瞬間のように。
まるで死にかけのセミが最後に泣き叫んで、そのまま命の灯を落としたかのように、あっけなく。
恐怖で固まった教室に、耳が痛いほどの静寂が広がる。
誰も息をしていないんじゃないかと思うほど。
「……終わった?」
尾軽がか細く呟いたその声だけが、やけに鮮明に響いた。
「強い言葉ばかり使うやつはな、大抵弱くて虚勢を張っているんだ。こっくりさん、お前何年生きてるか知らないが、所詮自分より弱いやつ相手にイキりたいだけの軟弱者なんだよ。」
さっきまで雲に覆われていた空が、徐々に裂けるように晴れていく。
西日が窓から差し込み、埃を浮かび上がらせた。
未来の呼吸が落ち着きを取り戻し、アキラは小さく安堵の息を吐く。
尾軽は無言で咳払いし、ようやく張り詰めた肩を下ろした。
――嵐は過ぎ去ったのだ。
『す、すごい。すごいよニートさん!カッコいい!』
画面の向こうで未来が身を乗り出すように叫んだ。目尻に涙が光っているのに、声は興奮で震えていた。
「俺はニートではない、投資家だ。」
だよな。ついさっき、日本のミライと呼べる若者2人に投資したばかりだ。尾軽はそう思った。
アキラは灯二の腰回りに抱きついた。
「本当にありがとう。未来を助けてくれて。」
よく見たらアキラは泣いていた。それがバレないように、灯二のお腹に顔を埋めていた。
「ふん、大人が子どもを助けるのは当たり前だ。」
アキラの後頭部を撫でながら灯二は微笑んだ。
「こっくりさんを倒しちゃった!思ってたのと全然違うかったけど!」
「ほう、じゃあ、俺がどんな方法を使うと思った?」
「えーとね、なんか式神召喚したり、『かしこみそうろう』って呪文唱えたり、氷の魔法弾をぶわーって出したり!」
灯二は深々とため息をつき、眉間を押さえた。
「ゲームのやりすぎだ。さっさと帰って算数の宿題をしろ。そして40点のテストを早く親に見せろ。」
「うぐっ。」
そして口元にうっすら笑みを浮かべ、スマホの画面を覗き込む。
「……たまたま、宿題を溜め込んでるやつが、お前の近所にも一人いるだろう?早く届けに行けよ。」
「….! うん、ありがとう、お兄さん!」
未来は涙声のまま笑い、頬をぬぐった。
『私、今ね……不思議と怖くないの。明日、絶対学校に行ける。ありがとう、アキラ、オカル先生、灯二さん。』
尾軽が未来の安堵した顔を見届けてから、立ち上がった。
「じゃあアキラ、俺の車に乗ろう。未来に宿題を届けに行こう。」
「分かった!ありがとう、トおじさん!」
その瞬間、尾軽の顔がピシリと固まった。
「おいクソガキ、俺はトおじさんじゃなく、トウジさんだ。名前を間違えた挙句に俺を“おっさん”にするな」
「じゃあ…おニートさん。」
「それはお兄さんの言い間違いか、ニートに敬称をつけたのかどっちだ。返答次第では俺がこっくりさんに代わってお前を懲らしめるぞ。」
「えへへー、強い言葉を使う人はね、大抵キョセイを張ってるんだよー!ニートおじさーん!」
そう言ってアキラは灯二から全速力で離れたが、灯二はとんでもないダッシュ力でアキラを追いかけ始めた。そうだ、忘れていた。運動部でないにも関わらず、灯二は運動全般が得意だ。
「ようし、大人の怖さを知りたいんだな分かった。」
灯二はアキラのこめかみに拳をぐりぐりと当て、アキラは舌を出して笑い、未来は画面越しにくすくすと笑った。
意外にも、灯二は子どもと相性が良いようだ。
—-
幼稚園のころ。まだ3歳のときに未来と出会った。
目がクリッとしてて、すごく可愛い子だなって思った。最初の頃の俺は人見知りで、教室の隅で黙って座ってるばかり。未来が声をかけてくれるたび、俺はただ後ろについていくだけだった。
未来は絵を描くのがうまくて、ピアノもすごく上手だった。俺は外で走り回るより、最初は未来の横でじっとしている方が安心だった。未来が描くクレヨンの色に合わせて、俺も鉛筆を真似して動かす。未来が鍵盤を叩くと、俺の手も勝手に動くみたいで、線がすらすら出てくる。
けれど少しずつ、未来と一緒に鬼ごっこやボール遊びをするうちに、外で走り回る楽しさに夢中になっていった。気づけば俺は校庭の真ん中で声を張り上げていたし、転んでも泣かなくなった。
それでも不思議と、未来のそばにいる時だけは机に向かうことも嫌じゃなかった。外で汗だくになるのも、静かに鉛筆を走らせるのも、どっちも未来と一緒なら楽しかったんだ。
ある時、未来のピアノの演奏会があった。
俺は親と一緒に見に行ったんだ。最初は上手に弾いてたのに、途中で指が止まって、音がぐしゃっと崩れた。会場にいた大人たちが少しざわついて、未来は最後まで弾ききったけど、顔が真っ赤になってた。
その日の夜、未来の家からピアノの音が聞こえなかった。
なんとなく窓から見えた未来は、布団に顔をうずめて泣いていた。俺はその姿を見て、胸がぎゅっと苦しくなった。未来ってなんでも完璧にできる子だと思ってた。でも、失敗して泣くこともあるんだ。俺には見せない顔をしてて、なんか……ドキッとしたことを覚えている。
家が近いから、家族同士でも仲良くてさ。
バーベキューとか川遊びとか遊園地にも行った。
でも姉ちゃんが未来をよく独り占めして、俺は悔しかった。だけど姉ちゃんには逆らえない。怖いから。
小学校4年生のとき、大雨が降って、俺と未来は長靴で水たまりをバシャバシャ跳ねた。
雨がやんで、夕日が差して、未来の笑顔が輝いて見えて……綺麗だなって思った。
あのとき、ずっと毎日がこうだったらいいのにって心の底から思ったんだ。雨の日も意外と悪くないじゃん。
でも次の日、黒板に「アキラと未来」って相合い傘が描かれてた。
みんなに冷やかされて、それ以来、未来は俺と毎日一緒に行き帰りしてくれなくなった。
そのかわりに、放課後は男友達と遅くまでサッカーする時間を増やすようにして、寂しくないって言い聞かせていたけど……。
未来が居ない時の心の穴は、未来以外の人では埋まらなかったんだ。
五年生になってから、なんとなく未来とは疎遠になった。
昔みたいに一緒に絵を描いたり、遊んだりすることはなくなって。
朝、たまたま同じ時間に家を出たときに一緒に学校へ行くくらい。週に一回あるかないか。
もしかして、あえて避けられてるのかな?
考えすぎだろうか。
そんなこと思いたくなくて、俺は朝早く学校に行ってサッカーの練習をするようになった。
だからもう、登下校で未来と会うことはほとんどなかった。
でも、女子は女子でいつもつるんでるし、高学年になればそういうもんなんだろう。
……それに、未来は初めて会ったときよりも、もっと可愛くなった気がする。
昔は「おとなしい子」って感じだったけど、今はなんだか“淑やか”っていうか、“品”があるように見える。
だからだろうか。未来と話すとき、心臓がちょっとドキドキして、うまく言葉が出なくなった。
それからしばらくして。
「最近未来ちゃんと遊ばないの、なんでー?」
姉ちゃんにそう言われることが増えた。姉ちゃんはちょうど高校生になったばかりで、急に大人っぽくなった気がする。
「もっとうちに連れてきなさいよ」
そう言ってくるけど、なんて答えればいいのか分からない。
俺は目をそらして、適当にこう言った。
「……別に元々仲良くなんてねーし」
そしたら姉ちゃんは、わざとらしく肩をすくめて、
「あらーそう。可哀想、ドンマイ」
って言いながら、意味ありげに笑って俺の肩に手を置いて部屋に戻っていった。
……何だよ、あれ。何を誤解してるんだよ。
腹立つ。だけど、もしかして誤解じゃなくて、本当のことなのか?
俺はベッドに寝転んで天井を見ながら、心臓が変にドキドキしてるのを誤魔化すみたいに枕を抱えた。
梅雨は嫌いだ。雨が多くてサッカーができないから。
三日前の大雨の日も、グラウンドで遊べなくて、みんなで親の迎えを待っていた。
そのとき、シンジが「こっくりさんやろうぜ!」って言った。
あいつは女子にいいカッコしたいだけだ。自分は怖くないけどって言いたいんだろう。
だけどみんなが「アキラもやろうよ!」って言うから、仕方なく席についた。
そのときだった。
未来が寂しそうな顔で教室を出ていこうとしていた。
……この大雨の中、一人で帰るつもりなのか?
気づいたら、口が勝手に動いていた。
「待って、未来も一緒にこっくりさんやろう」
自然に出た言葉だった。
その瞬間、胸の奥が少し熱くなった。
けど、誘わなきゃ良かったんだ。
俺は、未来の前で「こっくりさんなんていない」ってカッコつけたかっただけ。シンジと同じ、強いとこを見せたかっただけだ。
でも、取り巻きの女子が余計なことを言った。
「アキラくんってさ、この前サクラちゃんと一緒にゲームセンターに居たよね〜。お似合いだなーって思ってた」
「えぇ〜、二人できてるの?ヒューヒュー♪」
頭が真っ白になった。
あの日はサッカーの練習のあと、サクラが「この後ちょっと遊ぼうよ」って言ってきて。
俺は早く帰ってゲームしたかったのに、無理やり引っ張られただけだったんだ。
なのに、なんで未来の前でそんなこと言うんだよ。
「じゃあさ、アキラ君。未来ちゃんとは何もないの?」
……やめろよ。なんでそんなこと聞くんだ。
俺は多分、未来のことを……。
でも、未来は俺を避けてる。
答えを言わせないでくれ。
「未来とは何もねーよ!そんなんじゃねーよ!ただ近所なだけで……嫌々一緒にいるだけだよ!」
口が勝手に動いた。
未来は俺といるのが嫌なんだ。だから一緒にいる時間を減らしたんだ。未来に言われる前に、自分から言った方が傷つかないような気がした。なのに、未来は今にも泣き出しそうな、バケツいっぱいの水をかけられたような顔をしていた。
黒板に相合い傘を書かれなければ……。
今回もそうだ。雨が降らなきゃ、今日こっくりさんなんてやらなかったのに。周りが勝手に、俺たちを壊すんだ。
「アキラって最低だね。ねぇ未来、今度から僕と一緒に帰ろうよ。あんなやつほっといてさ」
シンジが横からそう言った。
ふざけんな。俺は嫌われたとしても、お前みたいなチャラチャラしたやつに未来を渡すかよ。
「は?未来と俺は家が近所だから毎日一緒に行き帰りするんだよ!」
……俺は何を言ってるんだ。
もう、そんな日々はとっくになくなっているのに。
その直後だった。
近くに雷が落ちて、みんな悲鳴をあげて集まり、震えていた。
俺も怖くて、体が動かなかった。
その時、未来は笑っていた。でも、つらそうだと思った。
だって、涙を流していたから。まるで、自分の体が別の何かに乗っ取られたように見えた。
それから、未来は学校に来なくなった。
多分、未来を壊したのは、俺なんだ。
全部俺のせいなんだ。
だから、だから!
変なお兄さん、ニートさんがこっくりさんをやっつけてくれた。あっという間に。
今度はもう離れない。勝手に進まない。
未来、お前を迎えに行く。これから毎日。
—-
インターホンが「ピンポーン」と鳴った。パジャマ姿のままでも気にしない。だって、未来の家の前にオカル先生の車が止まっているんだもの。胸の奥がふわっと軽くなった。もう、何も縛るものはない。怖さも、学校に行けない気持ちも、全部消えていくみたい。
ドアの向こうには、大好きなオカル先生と、もっと大好きなアキラがいる。ああ、こんなに安心できる瞬間があるんだ。もう2度と、そんな日は来ないと思っていた。
「未来、一緒に宿題やろうよ。昔みたいに勉強教えてよ。明日が提出日なんだよ。」
その笑顔に釣られて、私は思わず笑ってしまった。
「仕方ないなぁ!入って!」
お母さんがにこやかに先生に挨拶した後、私たちに向かって言った。
「アキラ君、よかったらうちで晩御飯食べない?その後、一緒に勉強してあげてね。」
幸せな音が、家庭の玄関いっぱいに響いた。笑い声やお皿の音が、部屋中に満ちていく。
テレビから流れる穏やかな音楽に包まれながら、私は思った。今日のこと、明日のこと、全部、なんだか夢みたいに感じる。怖かった時間も、泣きそうになった時間も、全部、もう大丈夫。
だって、私を守ってくれる人がそばにいるし、勉強面で頼りないアキラを、今度は私が支えるんだから。
見送った尾軽は、少し焦ったように言った。
「やべ、早く灯二を迎えに行かねーと、学校の警備員に不審者だと思われる!」
—
こうして、車に乗り込んだ尾軽とアキラを見送り、20分後。灯二は再び尾軽の車の中にいた。
「未来は明日、学校に来れそうだし、アキラが迎えに行くんだとさ。一件落着だ、助かったよ。」
灯二は尾軽の車に乗って港区の自宅へと送ってもらっていた。助手席に深く腰をかけ、腕を組んで外の夜景を眺めている。
「お前さ、学校の先生なんかより……タクシードライバーの方が向いてるんじゃないか?」
灯二の毒舌に、ハンドルを握る尾軽は思わず吹き出した。
「……だったら、料金請求してもいいか?」
「いいぞ。代わりにエコーカードに苦情を書きまくるがな。」
二人の笑い声が、夜の車内に柔らかく響いた。
「なあ灯二、結局、こっくりさんって本当に存在したの?」
「いや、いない。少なくとも俺の中にはいない。」
「ええっ、じゃあ今までのあの突風や大雨、雷鳴は?」
「ただの偶然だ。でも、心理的に考えると人間には確証バイアスがあってな。自分が信じたいことや怖がっていることに都合のいい出来事を、無意識に『意味のあるもの』として解釈しちゃうんだ。例えば、雷鳴が鳴っただけで『こっくりさんが怒ったんだ』って思い込む感じだ。」
「ふーん……」
「それに、イデオモーター効果もある。手や指が無意識に動く現象で、心理的緊張がコインを少しずつ動かす。『これは危険な儀式だ』って信じるほど、手は震えて、コインや鉛筆が動きやすくなるんだ。」
「なるほど。つまり、人間が勝手に動かしてたのか。」
「そうだ。さらに集団同調圧力も加わる。誰かが怖がると、その感情が周りに伝染して、みんな緊張する。だから未来が怯えた瞬間、教室全体が張り詰め、風や光の揺れまで大きく感じたんだ。」
「うーん、でもあの後の記憶も変だよ。雷が近くに落ちたのは覚えてるけど、みんなが一斉に悲鳴をあげたかどうかは曖昧だし。」
「それが記憶の改変(偽記憶)ってやつだ。後で振り返ったとき、人は『あの瞬間、確かにみんな一斉に動いた』とか『風も吹いた』と脚色して記憶する。実際には普通の出来事でも、『怪奇的体験』として再構築されちゃうんだ。」
「なるほど……」
「さらに、責任の分散もある。複数人で指を置くと、『自分じゃない』『誰かがやった』って心理になる。これが、『これは人間じゃなく霊の仕業だ』という解釈を自然に生むんだ。」
アキラが疑問そうに聞く。
「でも、なんでこっくりさんって俺たちの秘密まで知ってたんだ?」
「それは、匿名性を利用して人の秘密を暴露したい心理と似てるんだ。匿名掲示板で誰かの秘密を暴露すると楽しいのと同じで、こっくりさんごっこでは誰かが指を動かして、他人の秘密を暴露してる気分になる。本人は自分がやったと意識してなくてもね。
他にも、詐欺師や占い師がよく使う手口でコールドリーディングと言うものがある。趣味はガーデニングの人に腰痛に悩んでいるよねと聞くように、既存の情報から相手を推察する技法だ。だかは、俺たちは勝手に自己開示しているのに、こっくりさんに丸裸にされたように感じてしまう。」
「まさか、俺の初恋相手をバラしたのはこっくりさんじゃなくてお前か!?」
「当たり前だろう、こっくりさんはいない。最初からそう言っている。」
「この野郎、子どもらに一生イジられるだろうが!」
灯二は尾軽のジャブを右手で受け止めながら例えを加えた。
「簡単に言えば、みんなでやると『怖い儀式』の演出効果が高まる。でも実際は、みんなの心理が自然に現象を作り出してるだけ。映画で主人公が危機に立たされるシーンに嵐の効果音を付けるようなものだ。雷や雨音は偶然でも、脳はそれをオカルトとして解釈する。」
「じゃあ、こっくりさんは結局何もできなかったんだな?」
「その通り。現象のほとんどは、心理学で説明できる。怖い思い、偶然の天候、感覚の補完、社会的影響、過去のトラウマ、そして人間の遊び心や秘密暴露欲が組み合わさった結果だ。オカルトに見えただけで、科学的にすべて説明できる。」
尾軽は少し笑った。
「今回こそ、オカルトの存在を証明できると思ったけど、ノーベル賞はまだ先だな。」
灯二も肩をすくめた。
「まあな。でも、怖かった体験が本当にあったことには変わりない。怖いことを乗り越えたと少女とクソガキに信じ込ませた、それが一番大事だ。」
「こっくりさんの紙を破いたのは計算か?」
「当然。紙を破く=神は戦いに敗れたというアピールだ。いい演出だっただろ?昔劇団にいた経験が活きたようだ。」
「え?演劇!?灯二いつそんなことをしていたんだ?」
「大学生の頃な。言っただろ、投資の元手を作るために色々な仕事をしていたと。」
灯二はいったい何人分の人生を過ごしているのだろう。
「灯二には敵わないな。」
解説を聞いていたらあっという間に灯二の家に到着した。
去り際、尾軽は灯二に声をかける。
「今日は助かった。……ほんと、助かったよ。」
「ふん、社畜はさっさと帰って仕事の残りでもしてろ。俺は作り置きした低温真空調理の鶏胸肉を食べて寝る。」
そう言うと、灯二は軽く片手を振っただけで背を向けた。
「別れる時も灯二らしさ全開だな。」
尾軽は車のドアを開けた時、小さな声が背中に聞こえた。
「また何かあれば、俺に相談してこい。なんせ、俺は投資家兼ニートだからな。時間はある。」
まるで「勝手にすればいい」と言わんばかりの無愛想さだが、尾軽は確かにその言葉を受け止めていた。
――――
翌朝。
アキラと未来は並んで学校へと歩いていた。
二人とも昨日の出来事などなかったかのように、元気よく笑い合っている。
「おはよう、オカル先生!」
教室に入ると、自然に声をかける。
しかし、その姿をサクラたちが鋭く見つめていた。
嫉妬と苛立ちを隠せない視線。
だが未来は、そんな視線など存在しないかのように明るく振る舞い、机に荷物を置く。
下唇を噛むサクラ。
未来にとってサクラ達は、ただの雑音にすぎなかった。まさに、2人の世界を彩るだけのサクラであると言わんばかりに。
――――
その頃。
灯二は自室で本棚に囲まれていた。
机の上には開きかけの専門書や、破れたコピー紙。
目を細めながらページを繰る姿は、静かな戦場に立つ兵士のようでもある。
この世界には、不可解なものが溢れている。
都市伝説、妖怪、幽霊、宇宙人、怪異、超常、呪い。
誰もが「ありえない」と笑うそれらが、実は日常のすぐ裏側に潜んでいる。
彼は独り言のように呟いた。
「答えのない問いほど、面白いものはない。」
これは、社会から降りた男、露伴灯二。
通称“論破ニート”が、
論理では切り崩せないオカルトと出会う物語である。
Fin.