偵察のはずが(四) はじめて「サエ」と呼ばれた帰り道。門前町に、早馬が
日が、傾いていた。
王都の空が茜色に染まって、露店の灯がひとつまたひとつ、ともりはじめる。
噂の出どころも、つかんだ。教会の次の手も、見えた。"偵察"は、じゅうぶんな首尾だった。もう、帰らなければ。
それなのに。私たちはなんとなく、川べりの石垣に並んで腰かけて、暮れていく王都をただながめていた。
ふしぎな一日だった。偵察に来たはずが気がつけば串を食べて市場を歩いて大道芸の玉回しを、二人でながめていた。まるで——いいえ。まるで、なんだというのだろう。私はその先を考えるのをやめた。考えたらなんだかいけない気がしたから。
「……サエ」
「はい?」
ジークさまが、なにか言いかけた。
「お前は、」
その先を、待った。けれどジークさまは、口を開いたまま少しためらって——結局、ふう、と息だけ吐いて言葉をのみこんでしまった。
「……いや。なんでもない」
この前はあんなに追いつめてきたのに。今日は、飲みこんだ。
なんだろう。胸の奥がまたあのへんなふうにざわざわした。……きっと、王都の人いきれのせいだ。慣れない旅で、少しのぼせているのだ。うん、きっとそう。
でも。ひとつだけ、はっきりしていることがあった。
「ヴァルさま」
「なんだ」
「……ありがとうございました」私は、膝の上で手をそろえた。「今日はそのいろいろ。……ミレイユの顔を、見られたのも。ヴァルさまが連れてきてくださったから、です」
止めてくれたのも。隠してくれたのも。泣かせてくれたのも。ぜんぶ、この人だった。そのことだけは——なぜだか、鈍い私にもちゃんとわかっていた。
ジークさまはしばらく黙っていた。それから茜色の空を見たまま、ぼそりと言った。
「……ああ」
それだけ、だった。それだけなのに。なぜだか胸のざわめきは、いつまでもおさまらなかった。
* * *
帰りの馬車のなかで、ジークさまはあの触れ書きの写しを、もう一度ひろげた。
「これが動かぬ証しになる」ジークさまは、その紙を、とん、と指で叩いた。「大聖堂の写字生の手で書かれた、うちの社をおとしめる触れ。——教会が裏で糸を引いている、なによりのあかしだ」
「それを、どうなさるんですか」
「王へ、上申する。教会が越権を働いている、とな。ありもしない噂で、よその領の社を民ぐるみでおとしめる。それが教会の勝手ではないと、王の名において突きつける。……この写しが、その柱だ」
「あの、ジークさま。教会は……この先なにを、言ってくるんでしょう」
「……おそらく破門をちらつかせてくる」ジークさまは、静かに言った。
「破門……?」
「教会の圏ではそれがいちばん重い脅しだ。洗礼も弔いも婚礼も。生まれてから死ぬまで、ぜんぶ教会の手のなかにある。それを取り上げると脅すんだ。……遠くの信心深い者ほどこたえる」
「……そう、なんですね」私はうつむいた。うちのお守りを買いに、はるばる来てくれた、遠くの巡礼さんたちの顔が、浮かんだ。
「だがうちの町の連中には、きかん」ジークさまは、続けた。「あいつらの神様は、もう山の上にいる。——お前が、そうした」
「……戦うんですね」私は、少しおどろいた。「剣じゃなくて。書付で」
「ああ」
「なんだかジークさまらしくない、です」ついそう言ってしまってから、あわてて口をおさえた。「あいえ、その悪い意味では」
ジークさまはふっと口の端をゆるめた。
「……あいつらの土俵で、殴らない」馬車の窓の外へ目をやりながら。「力で潰せば、向こうの思うつぼだ。……そういう戦い方を、俺はお前に教わった」
私に?
きょとんとする私に、ジークさまはそれ以上なにも言わなかった。ただその横顔がほんの少しやわらかかった。
私に、教わった。……いつなにを、だろう。心あたりは、なかった。でもそう言われて、なぜだかわるい気はしなかった。むしろ少しくすぐったかった。
* * *
王都を出るとき、私は露店で小さな鈴をいくつか買った。
狛犬の子らへの土産だ。カイとネラとスズナに。それから留守番であんなにむくれていた、ウンにも。……機嫌を直してくれると、いいのだけれど。
十日かけて、辺境へ帰る。
行きの道は、あんなにぎくしゃくしていたのに。帰りの馬車の二人のあいだは——なんだか、ほんの半歩ぶん近くなった気がした。べつに、なにがあったわけでもない。ただ隣にいるのが行きより少しだけ、あたりまえになっていた。
ミレイユの笑った顔を、私はそっと胸の奥にしまった。だれにも言わない。言えない。でもあの子が元気だと知れただけで、ずっと重かった心の荷が、ひとつ軽くなった。
馬車が、見なれた山なみに近づいてきたころ。旅ももうおしまいだ。そう思うと、なんだか名残おしくて。私はついあの仮の名で呼んでいた。
「……ヴァルさま」
「なんだ」
「私今日——じゃなくて、今日もその道中も。とっても楽しかったです」私は、指をもじもじさせた。「……またいつか、行きましょうね。王都」
「偵察に、か」
「あっ。……そ、そうでした。偵察、でした」
あわてて言いなおす私を見て、ジークさまはふ、と笑った。それから窓の外へ目をやったまま、ぼそりと言った。
「……そうだな。またいこう、——サエ」
* * *
やがて辺境の鈴の山が見えてきた。私は、ほっと息をついた。……帰ってきた。
門前町の木戸をくぐると、マーサさんやガンツさんやみんなが出迎えてくれた。
「おかえりお社さま!」「当主さまと二人で、長旅だったねえ」
……なぜだろう。みんななぜだかにやにやしている。
「どどうしたんですかみなさん」
「いやいや、なんにも」「なあ?」「なあ」
「長旅で"身内連れ"とはねえ」マーサさんが、にんまりしてひじで私をつついた。「で? 二人きりの長旅で、なんにもなかったのかい」
「はい。なんにも」私は、きょとんと答えた。「宿屋では、ずっと相部屋でしたけど」
その、とたん。
みんなのにやにやがいちだんと深くなった。ジークさまがめずらしくごほん、と咳ばらいをした。
「……お社さまはほんに罪な人だねえ」
顔を見あわせてみんな含み笑いをする。……私にはさっぱりわけがわからなかった。
* * *
と、そのとき。
人ごみをかき分けるようにして、ロッコさんが血相を変えて駆けてきた。
「お社さま! 当主さま!」
そのただならぬ顔つきに、私たちの笑いがすっと引いた。
「王都から早馬だ」ロッコさんは、そこでごくりとつばを飲んだ。「……たった今、決まったってよ。教会が布告を出すと。『辺境の社への参拝は、破門に値する』——ってな」
破門。
馬車のなかで、ジークさまが言ったとおりだった。
さっきまでのあのあたたかいにやにやが、潮が引くようにみんなの顔から消えていった。マーサさんもガンツさんも、じっとこちらを見ている。
でも——だれも、うつむかなかった。
私の隣でジークさまが静かに前へ出た。門前町の、みんなの前へ。
「案じるな」低い、けれどよく通る声だった。「王都から、証しを持ち帰った。向こうが、先に手を出したんだ。——次は、こちらの番だ」
その広い背中を見上げて、私は胸の奥がじんと熱くなった。ひとりじゃない。この人がいて、みんながいる。
王都でジークさまがつかんだ、あの"次の手"が。もうこんなに早く動きはじめていた。
茜色に暮れかけた、鈴の山の空を私は見上げた。
——さあ。ここからが本当の逆風だ。
……でもふしぎとこわくはなかった。
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