十日目の夜(二) 「肩こりも、腰も、ぜんぶ承りますから!」——逃げた夜
頭のなかが、真っ白になった。
なにか言わなくちゃ。こんなにまっすぐな気持ちを、まっすぐ差し出されたのだ。ちゃんと受け止めて、ちゃんと応えなくちゃ。でも、どうしたら。こんなときどんな顔でなんて言うのが正解なのか、私にはまるで分からなかった。
私は恋なんてものを知らない。教会では朝から晩まで祈りと雑用に追い立てられて、そんなものを覚える暇も相手もいなかった。前世でもだ。だからまっすぐ想いを向けられても、その受け取りかたを、私は知らないのだ。
それに——なにより、こわかった。
いまのこの名前のない時間が、私はたまらなく好きだった。十日ごとのこの夜も、手を取って祈る静かなひとときも、金貨を押し返すたびにむっつり不服そうな顔をするこの人のことも。ぜんぶ、いまのままでじゅうぶんにしあわせだった。だからもし、ここになにか名前をつけてしまったら。このあたたかい"いま"に手を伸ばして、それがもし壊れてしまったら。私はいまのしあわせごと、なにもかも失ってしまう気がした。
だったら、このままでいい。いまのままが、いい。
だから私の口から飛び出したのは、こんな言葉だった。
「だ、大丈夫です!」
我ながら間の抜けた明るすぎる声だった。
「呪いが解けてもぜんぜん大丈夫ですから! ほら、肩こりとか腰とか! お年を召せば、あちこち痛くなるものですし、ジークさまだけじゃなくて、領民のみなさんの健康祈願だって、これからずうっと承りますから! だから、いくらでもご用命ください! いまのまま、ずっと——」
まくし立てながら、私は心のどこかでしまった、と思っていた。
ちがう。この人は、そんなことを言ったんじゃない。肩こりの話なんか、ひとこともしていない。もっとずっと大切なことを、この不器用な人が精いっぱいの勇気をふりしぼって言ってくれたのに。私はそれをまるごと、健康祈願の話にすり替えてしまった。分かっているのに、口は勝手に安全なほうへ安全なほうへと逃げていって、どうしても止められなかった。
ジークさまは、しばらく私を見ていた。それからゆっくりと目を伏せて、ふ、と息を吐いた。
「……そうか」
たった、それだけだった。その短いひとことに、この人はなにもかもを、静かに飲みこんだようだった。責めもせず食い下がりもせずただ静かに。まるで、私がまだ受け取れずにいることを何もかも分かっていて、それでも待つと決めた人のように。
私は笑顔のまま固まっていた。
——いま私何かを間違えた。
胸の奥ではっきりとそんな声がした。それだけは分かる。せっかくこの人が大切なことを言ってくれたのに、私は致命的に何かをしくじった。……でも何を? なんて言うのが正解だったの? どんな言葉を返せば、この人は、あんなにさびしそうな目をしないですんだの? それが、どうしても分からない。銅貨の勘定なら目をつぶってでもはじけるのに、人の心の受け取りかただけは、私の帳面のどこを探しても、書いてはいなかった。
* * *
その夜私は渡り廊下を通って、奥の自分の部屋へと下がった。
ジークさまが、途中まで送ってくれた。並んで歩く廊下はいつもよりずっと長く感じられて、ふたりともひとこともしゃべらなかった。いつのまにかウンがうしろにとことこと付いてきていて、私たちのあいだを、行ったり来たりしている。中庭に面した廊下から見上げると、秋の月が冴え冴えと青白く光っていた。
「……では、おやすみなさい」
「ああ。おやすみ」
自分の部屋の前でぺこりと頭を下げると、ジークさまは小さくうなずいて、きびすを返した。
ジークさまと別れて、しばらくは何も考えることができなかった。
部屋に差し込む月あかりに、ふと我に返り窓を閉めようとして、私は中庭のほうを振り返った。
そこには大きな背中と小さな白いかたまりが、並んで立っていた。ジークさまと、ウンだ。ふたりしてそろって肩を落として、まんまるいお月さまを、じいっと見上げている。なにを話すでもなく、ただしょんぼりと並んで。
その後ろ姿が、とても心苦しかった。
部屋にもどって、いつものように帳簿をひらいた。
一日の終わりにその日の売り上げを書きつけるのが、私のなが年の習わしだ。お守りの数おみくじの数御朱印の数。数字がきれいに並んでいくのを見ると、いつもなら心がすっと落ち着く。筆を取って今日のぶんを書き込んで——そうして、ふと手が止まった。
胸のあたりが、またおかしなことになっていた。とくとく、とくとく、と小さな太鼓が鳴りやまない。この音は夏のお祭りの晩、人混みではぐれないようにとジークさまに手を引かれたときにも、鳴っていた。あのときは、夏バテだと思ったのに。
「……ねえ。夏バテって、秋にもあるのかしら」
問いかけた先にいたのは、木彫りのウンだった。いつか宵宮の夜鈴当ての景品にとジークさまが大人げなく本気を出して取ってくれた、あの子だ。机の上にちょこんと座って、まんまるの目でじいっとこちらを見ている。まるでなにもかもとっくにお見通し、とでも言いたげに。
「……なによ、その目は」
私は木彫りのウンを、そっとうしろ向きにひっくり返した。それでも背中に視線を感じる気がして、私はふとんを頭からかぶった。今夜の私はたしかにこわかったのだ。あの暖炉の部屋でジークさまのまっすぐな目に見つめられたとき、逃げ出したくなるくらい、こわかった。どうしてだろう。あんなに、やさしい目だったのに。
* * *
あくる朝。参道を掃きながら私は内心そわそわしていた。
ゆうべの今日で、どんな顔をしてジークさまに会えばいいのだろう。あんなに気まずい別れ方をして、いつも通りに「おはようございます」なんて、言えるものだろうか。——ところが。
「変わりは、ないか」
「はい。おかげさまで」
いざ顔を合わせてみると、拍子抜けするほどいつも通りだった。ジークさまはいつも通りの仏頂面で朝の見回りに来て、私はいつも通りの笑顔でそれを迎えた。ゆうべのことなど、まるでなかったみたいに。ふたりともあきれるくらい、いつも通りにふるまえてしまった。
いつも通りにできてしまう。それが私たちのいいところで——たぶん、いちばんたちの悪いところだった。
ジークさまが山を下りていくのを見送っていると、参道の茶屋から遠慮のない声が飛んできた。
「ねえ、お社さま」
茶屋の縁台から、マーサさんがぐいっと身を乗り出している。その隣では、このあいだ棟梁の弟子と所帯を持ったばかりのリナちゃんが、にこにここちらをうかがっていた。
「当主さま、今朝も来てたねえ。……で、どうなんだい。まだかい」
「まだ、って。なにがですか」
「またまた、とぼけちゃって」マーサさんが、けらけら笑う。「もうこの町のみんなが、首を長あくして待ってるんだよ。ねえ、リナ」
「今朝も見てましたけど」リナちゃんが、くすくす笑いながら、耳打ちするように言った。「お互いびっくりするくらい、いつも通りでしたねえ」
「まだかい」
「まだ、みたいです」
ふたりそろって、それはそれは大きなため息をついた。
秋の空は、高く青くどこまでも澄みわたっている。胸の奥の小さな太鼓は、その日も、ときどき思い出したように、ひとりでに鳴っていた。
* * *
同じ夜。遠く離れた、王都の空の下。
夜も更けた市場の片隅で、店じまいの荷を片づけていた男が、ふと手を止めて空を見上げた。
「おい……今、見たか」
「ん? なにを」
「いや……空が、光ったような」
王都の夜空。街をぐるりと囲む大きな結界の光が——今度は、だれの目にも分かるほど、はっきりと大きくまたたいた。
「おい、今のは……」「見たか?」
あちこちで人が足を止め空を見上げる。ざわめきが、さざなみのように広がっていく。
けれどそのざわめきは、まだ祈りの形をしていなかった。
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