9. アルディ家の庭にて(2)
体の大きい狼が腹を見せて甘えている。
その腹を両手を使って懸命に、楽しそうに撫でるフィオナ……。
変わった娘だな、とフリオニールは思う。怖いもの知らずというか……。無礼とは感じさせないので、きちんと躾されているのだと分かる。
しかし、薄暗い地下神殿で動揺もせずに行動できるところといい、自分の前から走り去るスピードといい、フリオニールが知る貴族令嬢の範疇には収まらない。
今だって、大きな獣を怖がりもしないで撫でている。しかも、悪魔だという正体を知っているのにだ。関わりたくないのが普通だろう。
王宮に出入りする令嬢たちは、狼というだけでも避けてしまうのに……不思議な娘だ。
この娘が苦手なものは何なのだろう?
興味がわいてくる……。
きちんと身支度すれば、王宮にいる貴族令嬢と比べても見劣りしない容姿をしている。
華奢ではあるが健康的だし、蜂蜜色の長い髪にアメジスト色の瞳の組み合わせは華やかで、普段着のドレスを着ていても艶やかな印象を受ける。
性格も悪くない。内面の美しさと相まってとても美しい令嬢の部類に入るだろう。そういえば、フィオナの兄のウィルフレッドも整った容姿で、令嬢たちに人気のある青年だった。
美しいだけなら興味は抱かないはずだ。王宮で嫌というほどの令嬢たちを見てきている。しかし、何かがこの娘にはある。魔導士の勘というものだろうか。
答えがでるはずもなく、フリオニールは深く息を吐くと、じゃれ合っている二人に意識を向ける。そろそろ許してやるかと声をかけた。
「フィオナ嬢、ウォルスの触り心地はどうだ?」
皮肉を込めて聞いてみる。
こんな気分になったことはない。女性の気持ちを聞いてみたいなど初めての経験だ。
ウォルスの毛皮についての感想だったことは、まぁ置いといて……。
「温かくて……いい感じ。悪魔だなんて思えません。アルスカイザー様も触ったことがおありになるんでしょう? いつも触れるなんて羨ましい」
ウォルスが悪魔であることを受け入れ、「羨ましい」と屈託なく答えるフィオナに、フリオニールは目を瞠る。
お腹を見せることを止めたウォルスの頭や背中を名残惜しそうに撫でるフィオナの姿からは、やはり恐怖心は感じられない。素直に心の内を述べているようだ。
「側にいるだけで、撫でることはあまりないんだが……」
「そうなんですか? 温かくて気持ちがいいんですよ。それにとても綺麗だわ」
そう言って、フィオナがフリオニールの手をウォルスの背中に導く。
「「おわっ!!」」
フィオナに手を取られたフリオニールも、フリオニールの手が触れたウォルスも驚いて思わず声を上げた。
互いの手の感触が伝わり三人の視線が交差する。
少しの間、気まずい雰囲気となった。
「私ったら勝手なことを。申し訳ありません! 変なとこばかりお見せしてしまって……」
フィオナにも自覚があるようだ。
フリオニールの手を慌てて離し謝ろうとするフィオナを制するように、フリオニールは片膝をつくとウォルスの銀色の毛並みに長い指先を沈めた。
「いや。たまには撫でてやるのもいい。ウォルスも気持ち良さそうだったしな」
「アルスカイザー様……」
「腹まで見せて気持ち良かったんだろう。ウォルス、俺には見せてくれないのか?」
「見せるわけがなかろう」
ウォルスの機嫌も良さそうだ。
(貴族の令嬢たちにはすこぶる不評な狼なのに珍しい……)
日が傾きかけてきたのを確認するとフリオニールは立ち上がり、フィオナの手を取り立たせてやる。柔らかくて小さい手だ。
「そろそろ王宮に戻らねばならない」
「はい。……今日は本当にありがとうございました。アルスカイザー様の話題で、しばらく当家は落ち着きそうにありませんけど……」
石畳や草を踏みしめる音だけが響く。しばらく無言で歩いていたが、フリオニールは立ち止まるとフィオナを見下ろした。赤と金、紫の瞳が合う。
「フィオナ嬢、今日神殿であなたの身に起きたことは、誰にも話さないでくれ。ウォルスが悪魔であることも、私が悪魔と契約していることも。隠された地下神殿のことも……」
フィオナの瞳が揺らいでいる。何か迷いがあるのだろうかとフリオニールは思いを巡らす。
アルディ家の秘密を守っている娘だから信用できるだろうし、余計なことを言わない賢明なところもある。貴族同士の交流が少ないアルディ伯爵領にいれば、秘密をもらす心配はないだろう。
それに、フィオナは素直だ。感情を隠さない。短い時間であったが、王宮でのやり取りに慣れたフリオニールにとって、フィオナの人柄は分かりやすいものだ。けっして軽薄とは感じられなかった。
「誰にも言いませんわ、任せてください。アルディ家の娘ですもの。でも……。できることなら、いつか話していただきたいと思っています。ギードの森は私の大切な場所ですから」
「……今は何とも言えない。俺だけに関わることではないからな」
「はい。……いつか、でいいのです。ウォルスさんから悪いものは感じませんし、王国を守ってくれていることは信じられますもの」
フィオナは笑顔で頷いた。
「では、アルディ伯爵。世話になった」
「いえいえ、とんでもない。華やかな王都に比べると静かさだけが取り柄の土地です。アルスカイザー様、気が向いたらまたおいでになってください」
「ありがとう、そうさせてもらうよ」
フリオニールの言葉を聞いた使用人たちから密かに歓声が上がる。アルディ伯爵は苦笑を浮かべながら、フリオニールを送り出した。
列を成して見送ってくれる伯爵家の者たちのなか、伯爵の隣に立つフィオナと目が合う。フリオニールは一瞬だけ笑みを見せ、ウォルスも「ワオン」と狼らしい声をあげると、フィオナが手を振って応えてくれた。
その姿を目に焼き付け転移魔法を唱えたフリオニールは、ウォルスとともに一瞬で消え去った。瞬きする間もない時間だった。
魔法が当たり前に使われる世の中であっても、魔法を極めた魔導士や高度な魔法を目にすることは稀だ。
その高度な術を目の前で使われた伯爵家の人たちは呆然とし、そして姿を消した美しい青年と銀狼がもたらした出来事が、まるで夢であったかのような錯覚を覚えたのだった。




