袖の雨
人間は自分が信じたいことを喜んで信じるものだ。
カエサル『ガリア戦記』
◇◇◇
雨が、薬湯の香り立つ湯船に吸い込まれてゆく。
涼多は湯に浸かりながら、雨に煙る山々をぼんやりと眺めていた。
りくたっぼたちと共に勾異紫陽花を見てから、半月ほど経った頃。
一路の里に到着した翌日の昼の話だ。
本来ならば、もう少し早めに来る予定だったのだが、結界台の交代や同行する者が増えたこともあり、数日遅れての出立となった。
※ちなみに、勾異紫陽花と塩は、アリの巣テーラーの店長である鸚鵡が運んだが、涼多たちは、徒歩で里までやって来た。
(……静かだなぁ)
視線を、山々から湯船に戻し、涼多は「ふぅ」と息を吐く。
耳朶に雨音は届いているが、時が止まってしまったかのような、不思議な感覚に襲われる。ゆっくりと息を吸えば、土と木々の匂いが鼻腔に広がってゆく。
ふと、涼多の視界の端を、透明粘土で作られた勾異紫陽花が掠めた。
小さな桶に入れられ、ぷかぷか、と浮いている。
お洒落でいいでしょ、と一路が浮かべたものだ。
梅雨雲の空の下、涼多は、涼やかな気分を味わっていた。
(……町を流れる時間もゆっくりだけど、ここは、輪をかけてゆっくりとしている気がするなぁ)
「ああ、眠らないようにしてくださいね」
岩に体を預けるようにして湯に浸かっていたルテが、微苦笑を浮かべた。
涼多は照れたように笑うと、欠伸を噛み殺す。
彼の言う通り、このまま眠ってしまいそうだったからだ。
「ふふ、そうなってしまう気持ちは分かります」
ルテはそう言うと、湯船に浮かんでいた木の葉を岩の上に置く。
その時、どこからか薄氷たちの笑い声が聞こえてきた。
続いて、晩稲の囃し立てるような声も。
「……ずいぶんと賑やかですね。さっきもそうでしたけど」
「そ、そうですね」
ルテの言葉に、十分ほど前まで繰り広げられていた、湯船での『宴会』を思い出し、涼多は苦笑いを浮かべる。
「兎火さんと音律さんも、参加したらよかったのに……」
「い、いえ。……僕は、ちょっと」
自分よりもよっぽど男子高校生然とした薄氷と晩稲を思い出しつつ、涼多は首を横に振った。
彼は、門火高等学校のクラスメイトを思い浮かべる。
楽し気に笑い合う姿を見て、羨ましく思ったことは幾度とあった。
だが、当時の涼多は、息を殺すことに専念していた。
同時に、自分は絶対にああなれない、と諦めてもいた。
(誰かに言われた訳じゃないけど、僕自身がそう決めつけていた……)
事情があったとはいえ、惜しいことをしていると感じた。
(今の年齢だからこそ、楽しめる事ってあるはずだよね……)
若年寄のような思いを浮かべ、涼多は心中で頷く。
(音律君たちと、はしゃいでみたい。……あんまり想像はできていないけど、こう、……なんというか、花火をぐるぐる回してみたり?)
涼多は、『はしゃぐ』の具体的な想像ができず、疑問符を浮かべる。
自然と、「……難しいな」と腕を組んでいた。
(う~ん、無理にやろうとすると、かえって失敗するかなぁ)
火照った顔が熱く、視界が、一瞬ではあるがくらりと歪んだ。
「兎火さん、のぼせる一歩手前まできているんじゃ……」
ルテの不安気な声に、涼多はハッと我に返る。
彼の言う通り、先程とは違う、過ぎた熱さを感じた。
涼多は、これ以上は不味いと思い、額に浮かんだ汗を拭う。
(大変なことになる前に、出た方がいいよね……)
ルテに、湯から上がる旨を伝え、涼多は脱衣所へと向かった。
◇◇◇
「……さて、何はともあれ水を飲もう」
そう独り言ち、涼多は、宿泊客のいない(涼多たち一行を除く)『風の宿』の廊下を歩く。火照った彼の体を、ひんやりとした空気が撫でた。
ぎし、ぎし、と入り組んだ廊下を進み、渡り廊下へと差し掛かる。
渡り廊下の中央で、蛍が佇んでいた。
彼は涼多に気づいた様子はなく、眼下の川を見下ろしている。
涼多は蛍に近づき、「蛍君」と声をかけた。
「あ、涼多お兄ちゃん……」
無理に作られた笑みを見て、涼多は、胸が締め付けられる思いがした。
彼は蛍と視線を合わせ、「どうしたの?」と問う。
蛍はそれには答えず、先程と同じように川を見下ろす。
雨の所為で水かさが増した川。
涼多の記憶にあるよりも、少し形が変わっている。
(……もしかして、名月さんのことを思い出しているのかな)
蛍の横顔を見つめ、涼多は目を細めた。
病院のベッドに横になっている名月の姿は、記憶に新しい。
涼多自身は、『戦闘が終わった直後の名月』を見ていないが、蛍は違う。
見たかどうかまでは聞いていないが、……見たのだろう。
その時の記憶が、フラッシュバックしているのかもしれない。
涼多は僅かに目を伏せると、どう言葉をかけるべきか迷った。
が、彼が言葉を発するより先に、蛍が口を開く。
「……あそこに、ランさんとヤツデさんがいるでしょ?」
蛍はそう言うと、一本の新緑美しい紅葉を指さした。
涼多は立ち上がると、手摺から身を乗り出す。
蛍の言う通り、ランとヤツデが仲睦まじく歩いているのが見えた。
ヤツデの腰の痛みがなかなか取れない為、二人も涼多たちと共に、一路の里へとやって来たのだ。
ヤツデが微笑む度、ランの触角が嬉しそうに揺れている。
何を話しているかまでは分からないが、とても楽しそうだ。
(……ランさん、体の大半が濡れているけど、大丈夫なのかな)
ランは、雨合羽こそ羽織っているが、百足の胴体全てを覆えてはいない。
(でも、ああして外に出ているってことは、大丈夫なのかも)
涼多は自身を納得させると、蛍に視線を戻す。
「えっと、ランさんたちがどうかしたの?」
そう問いかけるも、蛍は硬い表情を浮かべて、俯いてしまった。
ぽつぽつ、ぱらぱら、雨の音だけが渡り廊下に響く。
不安を覚えた涼多は、「……蛍君?」と首を傾げる。
「……ちょっと前に、アリの巣テーラーの大掃除をしたでしょ?」
「う、うん」
「あの日から、春お姉ちゃんがおかしいんだ。……ううん、違う。本当は、もっと前からおかしかったけど、余計におかしくなっちゃったというか」
「著、ちょっと待って、おかしいって、どんな風に?」
早口になってゆく蛍を制し、涼多は不安げな表情で尋ねた。
「……その、一年くらい前は、お洒落をするっていっても、そこまで力を入れた感じじゃなかったのに、今は、凄い気合を入れている」
「う~ん、僕にはお洒落がよく分からないけど、そういう時もあるんじゃない?……ええっと、すごく、似合っているし」
ワンピース姿や華やかな着物を着た春を思い出し、涼多は言った。
答えが不満だったのか、蛍は頬を膨らませる。
しかし直ぐに、先程見せていた硬い表情に戻ってしまった。
彼は唇を噛み、小さな手を握り締める。
「…………でも、日が経つにつれて、お洒落をしながら溜息を吐くことが多くなったんだ。鏡を見ながら、何かを、思い悩んでいるような感じで。でも、僕には何も言ってくれない。何回も、どうしたの、って聞いているのにっ」
言葉を詰まらせ、蛍は目を擦った。
怒っているようにも、自身のふがいなさを嘆いているようにも見える。
「春お姉ちゃん、……なんだか、別の人みたいだよ」
蛍は小さな口から、悔しさを孕んだ声を吐き出した。




