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変化(4)


「体調はどうだ? また熱をぶり返してはいないだろうな」


 優しい声で、殿下が言う。整った顔に浮かぶ、柔らかな笑顔。カインさんが言ったように、激務に追われているような憔悴した様子なんてどこにもない、いつも通りの表情と声。

 それに曖昧に頷きながらも、頭の中でカインさんに言われた言葉が何度もリフレインする。


 ”わたしは何も知らない” ”殿下と話をしろ” ”二週間後までに” 


――花の名をもつ騎士を救ったように、殿下も救って差し上げてください――


 思えば先ほどまでの面会も、何の具体的な説明もされないまま、一方的に話しかけられる言葉に頷いていただけのやり取りだった。……カインさんが十分というごく僅かな面会時間を受け入れたのは、もしかして、わたしやサラさんに思考して質問する時間を与えないため? でも、サラさんはカインさんの言った何かに反応していた。どの部分だったっけ?

 ついさっきの出来事だ。それを思い出そうとすると、ずきりと一度、頭が鈍く痛んだ。


「っ……」

「ハルカ? どうした?」


 頭の奥から眼球の裏側にまで響くような、重くて鈍い痛み。最近、寝起きの一時間くらいはずっと、この頭痛に悩まされる。基本的に寝込むような酷い痛みではないし時間が経てば治まるけれど、時々目の眩むような強い痛みが襲ってくる。


「平気……。すぐ、治まるから」


 右手でのろのろとこめかみを押さえて、心配そうに覗き込んでくる殿下に小さく首を振った。でも殿下には平気そうに見えなかったのか、優しく肩を押されて身体を横えるよう促され、いいから寝ていろと諭される。大人しく言われたとおりにぽすんと横になると、ずきずきと響いていいた頭痛が少しだけ楽になったような気がした。


「今はあまり無理に薬を飲ませるわけにはいかないんだが……。ハルカ、あまり痛むようなら医者を呼ぶが?」

「ううん、大丈夫。いつもそのうち治まるから。寝すぎてるせいで痛いだけだし、お医者さまを呼んでもらうほどのことじゃないよ」

「そうか? ……それにしては、顔色が悪い」


 枕元に腰を下した殿下が、白い手袋に包まれた手で髪を撫でる。滑らかな触り心地のそれは、額には触れずにごく優しい動きで頭の形を確かめるようにゆっくりと動いていく。

 そういえば、頭にはいろんなツボがあるんだっけ。頭痛をとるツボがあったら押して欲しいなぁ。ああでも、この世界にはツボっていう概念がないかも。

 黙って頭を撫でる殿下の顔を見上げながら、一瞬、そんなどうでもいいことを考えた。

 それと同時に、横たわるわたしを見下ろす殿下の姿が、他の誰かの同じ姿と被る。ろくに動くこともできずに横たわるわたしを、優しく励ましながら頭を撫でてくれた誰か。あれはいつのことだっただろう。そう昔でもないような、とても昔のことのような。


「お母さん……?」

「――うん? ……なんだって? ハルカ」

「あ……。いや、あの、殿下の頭の撫で方が……ちょっと、誰かに似てたから」


 「誰か」と言葉を濁してみたものの、思わず呟いた呼び名に殿下がなんともいえない表情を浮かべた。それから小さく首を傾げて、「『お母さん』なぁ」としみじみした様子で呟く。


「せめて『お兄様』とか、ぎりぎり譲歩できる線で『お父様』あたりで勘弁して欲しいものだな。私はれっきとした男ゆえ、流石に母性は持ち合わせていないと自覚しているのだが。それとも私の自己認識に誤りがあるのかな?」

「え」

「『お母さん』のようだと言われるとは……。まぁ、別に構いはしないが。そうか、私の撫で方には男にはありえぬはずの母性愛が篭っているのか。よく覚えておくとしよう」

「え、いや、そうじゃなくって。殿下、曲解しすぎだよ」

 

 なんでそうなるの……。ううん、わたしの言い方が悪かったのかもしれないけど。でもなんでそうなるのかな……。


 綺麗な顔に悩ましそうな表情を浮かべて何かを考え込んでいる様子の殿下に、もしかしてこれって殿下が疲れてる証拠なんじゃないかなぁと半ば本気で思いかけて、

 

「そうなのか? ……私は母親に頭を撫でられたことなどないからな。ハルカがどういう風に似ていると感じたのかはわからないが……不思議なものだな」 

 

 その言葉に、一瞬思考が停止した。

 考え込むのをやめて少しだけ嬉しそうになった、優しい笑顔。

 綺麗な殿下は、母親である今は亡き王妃様によく似ているのだと――サラさんや王城の人たちは、そう言っていた。確かに国王様は不細工というわけじゃないけど……なんていうか、少し厳つい感じ顔をした男の人で、殿下とはあまり似ていない。王妃様の顔は知らないけど、サラさん達がそう言うなら、きっとその通りなんだろうなと思っていた。

 ……よく考えてみれば、わたしは殿下のお母さんのことを何も知らないのだ。


「こら。なんて顔をしているんだ、ハルカ」


 自分がどんな顔をしているのかなんて、わからなかったけど。殿下は苦笑して、私の頬を指先で軽くつついた。


「殿下のお母さんって……」

「私とレスティアナを産んでくださった方。亡くなられて久しい、王妃殿下だ」


 殿下が誰かに敬語を使うのは、とても珍しい。わたしが知っている相手で彼が敬語を使うのは、今は病気で臥せっている国王様だけだった。

 自分の両親に対して敬語を使うのは、別にそこまでおかしなことではないと思う。そうは思うけど……でも、殿下が使う自分の両親に対する言葉遣いは、一般的な家庭の場合のそれとは少し違うような気がした。それでも今まではそんなにおかしなことだとは感じなかったけど、どうしてだろう。殿下のことをはっきり嫌っているらしい国王様相手ではなく、会ったことがない王妃様に対する言葉だったからだろうか。

 両親に敬意を表しているというわけでもなく、不思議な距離感というか……なんだろう? 酷く冷たい温度をもった、深い隔たり。そういうものを孕んだ言い方だった。


「こらこら。だからどうしてお前がそんな顔をするんだ? ハルカ」


 苦笑する殿下に更に頬をつつかれて、困ってしまう。自分ではどういう顔をしているのか分からないけど、殿下を苦笑させてしまうような顔になっているらしい。


「私とあの方の関係など、ハルカが気にするようなことは何もないよ。身体が弱い方だったから共に過ごした時間は短かったが、ごくありふれた王妃とその息子だったさ。

 ――さあ、この話はこれで終わりだ。ハルカ、カイン・ヴィリスはどうだった? そちらの話を聞かせてくれ」


 うまく言葉にできないわたしを気遣ってか殿下ははっきりとした口調でそう言いきり、その話題を終わらせるように優しく笑った。

 殿下の、王妃様や国王様との関係。それについて、何か言わなくちゃ……ううん、何か聞かなくちゃいけないような気がしたけれど、殿下はもうこの話題に関しては何も言わせないつもりのようだった。ちらりと扉の方を見やって、「サラは……まだかかるだろうな、カインが相手では」などと意味深なことを呟いている。

 これ以上突っ込んでも、多分殿下は答えてくれないんじゃないか。そう思わせる、いつも通りの笑顔。アディートが故郷についての話を笑顔ではぐらかし続けたように、殿下もきっと、わたしがいくら聞こうと笑顔で煙に巻くだろう。なんとなくそう思ったし、きっとその通りになるだろうという不思議な確信があった。

 ……アディートと殿下は本当に、変なところが似ている主従で、親友だなぁと思う。

 その似ている部分に、何故かちくりと胸が小さく痛んだ。でも、表に出さないようにして殿下に問いかける。

 とりあえず、無難そうな……それでいて、かなり気になっていたこと。


「殿下、サラさんとカインさんって知り合いなの? なんだか仲良さそう……じゃなくて、親しそう? だった、ような……」


 あの二人のやり取りを「仲良し」とか「親しい」って言っていいのかよく分からなくて、疑問符だらけの質問になってしまった。でも仕方ないと思う。カインさんは笑顔でサラさんの神経を逆撫でするようなこと言ってたし、サラさんは今まで見たことないほど冷たいオーラを放出していたし。何なんだろう、あの二人の関係は。


「ああ、カイン・ヴィリスはどうも昔からサラのことを気に入っていてな。好意の表し方が多少人とずれてはいるが、別にサラに対する悪意などはないから気にするな。そもそもサラとサラの夫を結婚させたのもカインの采配だったし、なんというか……それとなく気にかけていた年上の田舎出の女性がいまや出世して立派な侍女になっくれて嬉しい、だからついついちょっかいかけてしまうという、親心のようなものの表れだとでも理解してくれれば構わないだろう。

 まぁ、基本的にカインは身分の別なく女子どもには優しい上、有能な人間が好きだからな。襟首つかまれて物陰まで引き摺りこまれて延々説教交じりの嫌味を言われようが、喜ぶことはあっても無礼だなどと怒ることもないだろう。その点、サラはカインを毛嫌いしているから本気で罵詈雑言をぶつけるだろうが」


 ……とりあえず、わたしには理解できない複雑怪奇な関係のようだ。サラさんにも色々な事情があるみたいだ……ほんとに色々と……。

 あれ? でも、その言い方だと……殿下。


「あの、殿下?」

「なんだ? ハルカ」

「カインさんの襟首掴んで引き摺っていくサラさん、見たの?」

「ああ、見たぞ。この部屋に来るときにな。サラは細身だがあれで腕力も体力もあるからな、見事な引き摺りっぷりだった」


 見事って言うか、止めなくていいの? サラさんを。ううん、問題にならないのならいいんだけど。カインさん、殿下の口ぶりでは相当変わった人みたいだし。

 でも、それならどうしてサラさんはあんなにカインさんを警戒していたんだろう。自分が嫌いな相手だから? それにしては、あの忠告。


――あの方は臣下の一人ではありますが、必ずしも殿下の味方というわけではありません。……ひいては、ハルカ様にとっても――


「でも、殿下。サラさんは、カインさんのことをすごく警戒してたけど……」

「サラが? ……ああ、なるほど。それはそうだろうな。今回の人事、カインはかなり嫌がったらしいからな。私に対して何かしら思うところがあるだろうから、そのせいだろう」

「それだけ?」

「それだけ、とは?」


 翡翠の瞳が真っ直ぐにわたしを見つめる。他に何かあるのか? と。

 視線だけで人を黙らせることができるのは、ある意味才能なんだろう。答えようとしても、強い視線に気が逸れてうまく頭が働かない。

 サラさんは、カインさんがわたしに対して何かを言うのを警戒していた? それは何だろう。


「……『二週間後』」

「うん?」

「二週間後って……何かあるの? 殿下」


 あの短い面会時間の間、最後に囁かれた言葉はきっとサラさんや殿下に隠しておきたかった言葉なんだろう。

 じゃあ、サラさんの前でも言われたあのことは?

 『二週間後』――それまでに、殿下と一度ゆっくり話をしてくれ、と。


「二週間後、ね。答える前に尋ねたいのだが、どうしてそんなことを聞く?」

「カインさんが……」


 言ったから、と。

 言い終わる前に、殿下が顔を俯けて低い笑い声をもらした。……殿下?


「…………なるほど、これがヴィリスの意趣返しか。随分と《らしい》ことだ」

「え?」

 

 笑いながら紡がれた言葉をちゃんと聞き取れず、聞き返す。顔を上げた殿下は小さく笑って、「なんでもないよ」と答えた。


「そもそも今日、私がカイン・ヴィリスの面会を許可したのはな? ハルカ。つい先だってのことだが、今回の事件、捜査を進めるにあたって警邏隊にも事件と関わりのある者が数名いてな、前総監が以前から内々に退任を申し出ていたこともあって、この際やる気のない者はさっさと辞めさせて新しい総監を任命して事件捜査にあたらせようということになったのだよ」

「それがカインさん?」

「そうだ。あれは性格には多少難があるが、能力は申し分ない。もともとヴィリスは法務関係に強い家系であるし、賄賂やら脅しやらが利かない性格と後ろ盾……実家の権力がある。これ以上ないほどの適任だよ。そういうわけで急なことではあるがカイン・ヴィリスを警邏隊総監に任命して仕事にあたらせたのだが……」


 問題がなぁ――と、殿下は苦笑気味に言った。


「期待に違わずカインは有能だったんだが、退任した前総監とその取り巻きという名の無能どもがな……。捜査の関係で警邏隊にある過去の資料やら何やらを引き出して追跡調査をしていくうちに、不審な資料が更にいくつか出てきた。主に経費関係で、な。直接事件とは関係がないのだが、どうにも怪しい。しかし困ったことに、今は通常の警邏隊の仕事と暗殺未遂事件以外の案件に配置させることができる人材が不足していた。そのためカイン・ヴィリスが内密で王城に応援を要請し、それを受けて数名の者を派遣したのだが、その中の一人……王家の直轄領を代理で統治させているハデロ侯爵。彼が怒りのあまり軽く発狂しかけて、倒れてしまったのだ」

「……は?」


 えーっと。殿下、話が見えないんだけど……。

 困惑して首を傾げると、殿下は小さく笑って頷いた。


「そのままの意味だ、ハルカ。もういい歳だからな、ハデロ侯爵も。いや、普段大人しく内側に溜め込んでいる分、爆発したら凄いというか……。

 ハデロ侯爵はカインの前任の警邏隊総監の弟にあたる男でな、学院時代から金勘定……いや、財務関係について徹底的に学び、こと経費の不正運用のからくりについては国内随一の知恵者なんだが、彼が調べに調べた結果、自分の兄が総監時代に不正をしていた事実が発覚してな」

「……え」

「前総監もな……。大してやる気のないふりをしていたが、あれはあれで有能な男ではあった。しかし弟には及ばなかったようだな。潔癖とは言わぬが良識あるハデロ侯爵は、自分の娘と同い年の愛人に貢物をするために経費を横領していた兄に、これ以上ないほどの怒りを覚えたようだ。そして怒りのあまり興奮しすぎて、昏倒した」

「こ、昏倒? 大丈夫なの?」

「ああ、無論命に別状はない。本人の年齢を考慮すれば、連日の激務と徹夜のせいで疲労困憊だったところに怒りが爆発して、気力がもたなくなったのだろう。今は王都の貴族街にある屋敷で養生しているから大丈夫だ」

「そ、そうなんだ……」


 王城以外でも、色々と大変そうだ。というか、カインさん……ほんとに忙しい人なんだ。全然そんな風に見えなかったけど……人は見かけによらないというか、なんというか。少し意外な感じだ。あの愚痴らしきものも、全部ほんとのことだったのかな。


「しかし、問題はその後だ。

 警邏隊の一件について、今現在はカイン・ヴィリスが総責任者として指揮している状況なのだが……ハデロ侯爵がな。あれは普段は温和で有能かつ良識ある人物なのだが、一度怒るとなかなか激しい上に迫力があるようだ。

 それでな? ハルカ。普段は大人しい弟の本気の怒りが怖かったのか自分が罰せられることが怖かったのかは知らないが、警邏隊の隊員たちに連行されてきた前総監が、倒れたハデロ侯爵に周囲の者たちが注目している隙に逃げ出そうとした。勿論すぐに取り押さえられたが……その際愚かにも、自分を救ってくれない神と神に仕える者に対する許しがたい暴言を吐いたそうだ。その場には警邏隊隊員の他に騎士と私の補佐官がいたため、カイン・ヴィリスはお前に対して謝罪をしたいと私に面会許可を請い、私は許可した。――わかったか?」

「……え」

 

 何度か瞬きをして、首を傾げる。カインさんの愚痴らしきものほどではないけど、一気に語られて少し混乱してしまう。

 ええと、つまり……カインさんはもともとわたしに謝りにきた、ってことだよね。でもそんなこと、一言も言ってなかったような。それにどうして、他人の暴言についてカインさんが謝罪するんだろう。


「意味がわからない、という顔だな」

「う……、はい」


 馬鹿にするというより、出来の悪い妹を見るような感じで殿下が笑った。なんだか居た堪れない。


「ハルカ、お前は『光の神の使者』、神の言葉を伝える者。この国では現在、巫女姫であるレスティアナよりも高い地位にあるのだよ。そして、既に退任したとはいえ王都の治安を守る警邏隊の総監だった男が、お前の口から語られた光の神の言葉によって魔物討伐遠征に出向いた騎士たちとお前の後見である私――王太子の補佐官の前で、神と神に仕える者を侮辱した。それはつまり、お前を侮辱したという意味でもある。謝罪としては無意味といえば無意味だが、カイン・ヴィリスは新しい総監として『現在自分が統括している警邏隊は光の神とそれに仕える者たちを貶め蔑む意図などない』という意思と態度を明確にしなければならないため、少なくともお前とレスティアナ、それに神殿の高位神官たちには謝罪せねばならないのだよ」

「……そうなの?」

「そうなんだ。カインは優秀だが気まぐれな男ゆえ、人望はあるが敵も多い。揚げ足を取る者は何処にでもいる。それゆえこと光の神それ自体に対する暴言であればまだしも、神殿に関係のあるものは用心しておくにこしたことがない。少なくとも自分と前総監の考えは違うということを明確に示さねば、『警邏隊は尊き光の神とそれに仕える方々を蔑視している輩の集りだ』などという碌でもない噂にまで発展しかねんからな。とはいえ聡いカインのことだ、悪意のある噂ほど深く根を張りやりやすいことなど当然理解しているだろうし、間違った認識が人々に植え付けられる前に色々と手は打ってあるだろうが」

「はあ……」


 なんだか、よくわからない世界だ。

 カインさんが至急わたしに面会して言わなければいけないことがあったという、その事実については何とか理解したし、殿下がカインさんの面会を許可した理由も一応納得はしたけど……。でも、疑問は残っている。

 どうしてカインさんは、全く違うことをわたしに言ったのだろう?


「……まぁ、カイン・ヴィリスは女子どもに優しいからな。たとえ今日お前に面会したとしても、謝罪はしないだろうと思っていたが」

「え?」

「体調を崩していることを理由に今日まで後回しにさせたが、それでも……」

「殿下? ……何の話?」


 独り言のように呟いた殿下は、小さく首を傾げて微笑んだ。長い金色の髪が、さらりと揺れる。


「謝罪するには状況を説明せねばならず、そうすればお前に愚かな男が吐いた暴言を聞かせねばならない。しかしカイン・ヴィリスは優しいから、きっと今のお前を見れば『それ』は言わないだろうと……そう思っていた。適当に別の話をでっちあげる程度のことはするだろうとな」

「……どういうこと?」

「そのままの意味だよ、ハルカ。……顔色が悪い。長話をさせたな、無理をせずに寝ていろ。そのうちサラが戻ってくるだろう」


 長い金色の睫の奥で、翡翠の瞳が柔らかく細められた。頬をつついていた指が離れ、もう一度頭を撫でられる。優しく、ゆっくりと。


「……殿下?」


 綺麗な顔に浮かぶ優しい笑顔はいつも通りで、だけど何か違和感を感じた。その違和感の正体が何なのか、わたしにはよく分からない。


「……『二週間後』」


 薄い唇がゆっくりと動く。瞬きをして殿下の顔をじっと見つめるけれど、優しい表情は変わらないままだ。


「二週間後……今回の事件の首謀者と実行犯たちを、順に処刑していく」


 そして優しい表情のまま、殿下はそう言った。まるで何でもないことのように。


「…………え?」

「無論、一度に全員を処刑するわけではないから、少し時間がかかる。全てが終わるまでは暫く会いに来れないが、大人しく安静にしていてくれ」


 二週間後までに、一度殿下と話をしてくれ、と。

 カインさんがわたしに言ったのは……処刑がある、から?


 『処刑』


 殿下の命を狙った人たち。

 騎士さんたちや……アディートを、斬った人を。


――処刑する。


 どくんと心臓が大きく脈打った。ぞわりと嫌な汗が湧く。


「言っただろう? 絶対に死刑は免れないと。あれらは全員処刑する。そして陛下が臥せっておられる今、処刑の実行を命じることができる王族は王太子である私一人だからな。全て終わるまでは……会えない」


 わたしの頭を優しく撫でる手は、白い手袋に包まれている。汚れ一つない、純白の。

 この手が魔物や人を斬ることを知っている。アディートの心臓に剣を突き立てたことも。

 

 最初に殿下を斬りつけようとして庇い出たアディートを斬り、彼に利き腕を切り落とされた人。

 その人はまだ生きていると……そう聞いた。片腕を失ったまま捕らえられ、治療されて収容されていると。


 でも、その人も処刑されるのだろう。殿下がそうはっきりと口にしたのだから。


 胸の中にもやもやとした、言葉にできない感情が渦巻いていく。

 アディート。

 少し硬質な黒い髪と、柔らかく見つめてくる薄い青色の瞳。

 硬い掌で、優しく頭を撫でてくれた。

 わたしの大好きな人。優しくてかっこいい騎士だった。


 ……彼を斬った人が、ようやく処刑される。

 殿下はアディートに乞われて彼に止めを刺して遺体を燃やして……そして今度は、事件の首謀者たちを処刑するのだ。


「……処刑することしかできない」


 胸の中に渦巻く感情に顔を顰めると、殿下が小さな声で囁いた。見上げた整った顔にはもう優しい笑みはなく、怖いほど静かな表情だけがある。


「元に戻すことも、補うこともできない。失ったものを取り戻すことはできないんだ。処刑は罰で、復讐ではない。……本当は……」

「殿下……?」


 事件の首謀者。そして、暗殺を実行した人たち。

 何人が処刑されるのかは知らない。どういう風に処刑されるのかも。そんなことを考える余裕がなかったと言えばそれまでだけど、殿下もサラさんも一言もそんなことを言わなかった。

 ただ、首謀者については教えられた。殿下の……半分だけ血の繋がった、三人の弟王子。国王様と仲が良くて、殿下のことを嫌っていたという彼らが事件の首謀者だと。


「……いや。なんでもない。なんでもないよ、ハルカ」


 小さく微笑んだ殿下はとても綺麗で、優しかった。


「……アディートを斬った人も、処刑されるんだよね?」


 掛けられた薄手の毛布からそろりと出した左手に、頭を撫でていた殿下の手が重なる。


「そうだ。あの男は色々あったが……今は牢獄の中で、毎日神に祈っているようだ」

「何を?」

「さて、な。死後の安息か、自分のなしたことに対する後悔か。どちらにしろ、今さら無意味なことではあるが」

「……そっか。あの、殿下」

「うん?」

「この国の処刑って、誰が執行するの?」

「執行人がいる。いくつかの例外を除いては、執行人が処刑する」


 薬指に嵌まった指輪。小さく咲いた『アディート』の花を、殿下の指がそっと撫でる。


「処刑が行なわれるのは王城の地下にある処刑場だ。光の神は血と争いを厭うから、神の目が届かないであろう場所で非公開で行なわれる。処刑日には巫女姫のみが祭壇で祈り、それ以外の巫女や神官はその日は基本的に祈らない決まりになっている。処刑される罪人の死後の安息を祈るのは、彼ら自身と巫女姫と、罪人と関わりのある僅かな者たちだけだ」


 日本にも死刑はあったけど、それはわたしにとって、とても遠い世界にあるものだった。

 一番重い刑罰。残虐な罰だと言う人も、必要な罰だと言う人もいた。

 『刑罰は、復讐ではない』――多分、殿下の言うとおりなんだろう。


――でも。


「怖いのかな、処刑されるのって。……怖いよね、きっと」

「そうだな。ほとんどの者にとっては、恐ろしいだろうな」


 でも、許せないと思ってしまった。


「嫌だな、お祈りなんて。……許せない」


 殿下を庇ったアディート。毒を塗った刃で彼を斬りつけた人には、自分が処刑されるまで祈って後悔する時間が与えられている。

 その事実が、どうしようもなく許せないと思ってしまった。


「怖がって、怖がって……苦しめばいいのにって、そう思う。苦しんで死んでしまえばいいのにって。……酷いかな、殿下」


 祈りなんて、何処にも届かず消えてしまえばいい。

 後悔して神さまに縋る、その態度さえ許せない。


 どれだけ後悔しても祈っても、彼が斬りつけたアディートは、もう戻ってこないのに。


「……いや。酷くなどないよ、ハルカ。当然の感情だ」


 微かに震える左手を、殿下の手が包み込む。手袋越しに感じる体温は温かくて、ああ、生きているんだなぁと、そんな当たり前のことを強く思った。


 わたしも殿下も生きている。

 アディートを斬りつけた人も。

 当たり前のように、生きている。

 

 ……絶対に、同情なんてしない。同情なんて、できない。事件を計画した人たちも、実行した人たちも。彼らにも家族や友達や恋人がいて、処刑されることで泣く人がいたとしても、同情なんてできない。


 許せない。

 憎いとか、悔しいとか、そういうものじゃなくて。ただ、彼らに関する全てが許せないと思う。


「許せなくていい、ハルカ。私も……きっと一生、許せないだろうから」


 囁くように言って、殿下は微笑んだ。その笑みに、不意にどきりとする。

 いつもの笑顔とは少し違う……どこがどう違うのかはよく分からなかったけど確実に《何か》が違う、淡い微笑みだった。

 

「殿下?」

「……そろそろ時間だな。サラは……まだ戻ってこないか。仕方ない、呼んでこよう」


 わたしの手を離して立ち上がった殿下は淡い微笑みを浮かべたまま、わたしを静かに見下ろした。柔らかな光を帯びた翡翠の瞳。いつも通りのはずなのに、何かが違う。


「体調が悪いのに嫌な話をして悪かったな、ハルカ。カイン・ヴィリスについてだが、恐らく事件の処理がひと段落した後にもう一度お前に面会を求めるはずだ。今日行なうはずだった謝罪はそのときにするだろう。そのときには事前に連絡がいくようにするから安心しろ」

「あ、うん……」

「処刑が終わったら……」


 処刑が終わったら、もう一度アディートに会いに行こうか。神殿にも行かねばならないが、それは体調が戻ってからでいい。ああ、放置状態だった文字の練習もしなくてはな? 


 そう語る殿下は、いつの間にか普段と変わらない笑顔に戻っていた。

 だからわたしは殿下に何か言葉をかけようとして、でもできなかった。


「暫く会えなくなるが、大人しくしているんだぞ? 変に動き回ってまた熱をぶり返したりするなよ。食事もなるべく残さず食べてくれ。あと……あまりに頭痛が酷いようなら、サラに言って医者を呼ばせろ。我慢はするなよ。わかったな?」


 小さな子どもに言い聞かせるようにして言い、頷くわたしの頭を軽く撫でて優しく笑って、そして部屋から出て行く。

 凛として、綺麗な後ろ姿。殿下は顔が見えない後姿でも、とても綺麗だと思う。

 強くて、優しくて……でも、なんなのだろう。


――殿下も救って差し上げてください――


 頭の中で響くカインさんの声と、殿下に感じた奇妙な違和感。

 それがなんなのかわからないまま、わたしは左手の薬指に咲く『アディート』の花を見下ろした。

 殿下の手に包まれていたその花は、何も答えず静かに咲いている。


「……処刑……」

 

 それでひとまず、暗殺未遂事件の騒動は落ち着くのだろうか。落ち着いて……そこから先、どうなるのだろう。


 思い出と呼ぶには新しすぎる、アディートがいた日々。

 アディートが死んで、わたしはまだうまく立ち直れないでいる。

 でも……わたしの周りでは時間は進み、殿下は前に進んでいる。


 ……なんなんだろう。

 日常に戻ることが怖いと、そう思っていた。

 アディートがいなくなった日常を、当たり前に感じるようになることが怖いと。……アディートの死を受け入れるのではなく、乗り越えるのでもなく……忘れてしまうんじゃないかと。そう思ってしまう自分が嫌で、怖いと思っていた。

 でも、今は。


「……遠いよ、アディート。二人とも、なんだかすごく遠い……」


 アディートが嵌めてくれた指輪を殿下がしてくれたようにそっと撫で、祈るように唇で触れる。

 きっと一生許せないだろうから――そう言った殿下の、淡い微笑み。

 わたしと殿下とでは、立場が違う。アディートと過ごした時間も……色々なものが違う。違いすぎる。

 遠いと思った。最期を殿下に頼んだアディートと、アディートに最期を与えた殿下と。いつも目の前にいたはずなのに、二人とも、実際にはとても遠くにいたような……そのことを改めて思い知らされたような気分で。

 そこに在った日常が遠いのではなく、二人が遠い。二人の存在が、遠いのだ。


「一生許せないの……? アディート、わたしは……」

 

 小さな花は何も答えず、照明を反射して柔らかく輝く。


――まるで、自分自身に向けて言った言葉のようだった。殿下のあの言葉、あの微笑み。殿下『らしく』ないような。何かを諦めたような……そんな微笑み。


「アディート……。やっぱり、アディートがいないと駄目みたい。なんだか殿下も、苦しそうだった。でも、わたしは……わたしには……」


――殿下も救って差し上げてください――


 カインさんの言葉が何度も何度も頭の中でリフレインする。

 どうしたらいいんだろう。

 大切な人がいなくなった。そこにぽっかり空いた空白の埋め方も、取り戻し方も、わたしも殿下も知らないのに。


 不安になって泣いても、『大丈夫だよ』と、そう言って優しく励ましてくれた人はもう何処にもいない。

 ただ、じわりと心にしみこむように理解した。

 もう『元通り』にはならないのだと。

 アディートと出会う前のわたしには戻れないし、アディートがいた頃のわたしにも戻れない。

 先が見えない真っ白な暗闇が、手招きするようにしてわたしが歩き出すのを待っている。

 

――変わらなくちゃいけないのではなく、変わらざるをえないのだと。朧気ながらも、そう理解した。

   

 失くしたものの取り戻し方を、誰も教えてはくれないので

 立ち止まって困惑して、そして変わらざるをえない

 やり直すことができれば、元通りでいられるけれど

 伸ばした手の先には何もない 

 何もないから

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