↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
31/32

暗闇の果て 眼窩に咲く花(1) 

 若干のぬるい暴力表現及び人間の尊厳を著しく貶める表現が出てきますが、これはあくまで創作上のものです。現実においてこれらの行為を肯定・推奨するものではありません。あしからず。

―― 一度だけ 一度だけでいいから 貴方の声で 私の名を呼んで欲しい――



”貴方に対する忠誠の証として、この《最も醜い女》を捧げよう”


 西から来たりし勇猛なるエイラームの末裔。かつての主であったヴィオリアの末裔は彼に跪き、五つの首と《最も醜い女》を捧げた。

 それは忠誠の証であり、降伏の証であった。

 エイラームの末裔はその降伏を受け入れた。そして《最も醜い女》エリツィアを――この地を支配下に置いたのだ。


 それはこの国の建国史の一端であり、とうに過ぎ去った時代に起きた一つの事実。


 かつてこの地を支配していたのは、ナハル大帝国最後の直系皇女エシェリスタ・クナターヌ・ヴィオリアを祖とする血族。

 大陸の約半分を支配下に置き栄華の頂点を極め、そして跡形もなく滅んだ大帝国。この地はそこから散って行った数多の血族たちが作り、統治していた小さな都市国家のひとつだった。

 小国同士の小競り合いが絶えなかった混迷と戦乱の時代においても、長く安寧を保っていた美しい都。『エリツィア』という名はエシェリスタ皇女がつけたと言われているが、確たる証拠はない。エイラームの末裔がこの地を踏んだ頃には、既に皇女が残していた大帝国時代の貴重な遺産はそのほとんどが失われ、曖昧な口伝と僅かな書物だけが残されているだけだったという。

 美しき都エリツィアが戦乱の中で滅ぼした国の数は、両手の数で足りる程度。戦を仕掛けてきた国に、あるときは水源に毒を流し、あるときは国一つを丸ごと焼ききって、そこに生きる全ての命を根絶やしにするかのごとき苛烈さでもって殲滅した。『征服』ではなく、『殲滅』。積極的に戦を仕掛けなかった代わりに、仕掛けられた戦には慈悲の欠片すら見せなかった。性別の差も年齢の差も貧富の差もなく、そこに生きる人々に対しては平等に滅びを与え、そして勝利した。


 多種多様な毒と薬、そして火薬。当時ですら既にいくつかが失われていたそれらの製法は、皇女が残した大帝国時代の稀少な遺産のひとつだ。他の都市国家の支配者たちが喉から手が出るほど欲しがった、皇女の有する血統の正統性と貴重な英知の結晶たち。皇女の末裔はそれら全てを、惜しみなくエイラームに捧げた。かつて自らの祖に跪いていた、格下の皇子と皇女を祖にもつ若者に。


 エリツィアという名はエシェリスタ皇女がつけたと言われている。エイラームの末裔はその名を改めることをしなかった。大陸の約半分、大帝国に支配されていた地域では帝国語が公用語とされており、使う言語に些かの差異が見られたとしても、人名や地名は同じ発音をするという場合も多々あったらしい。

 『エリツィア』

 それは大帝国において、本来ならば女性用の人名だった。皇女が何故都にその名をつけたのか? どうしてエイラームの末裔は征服の証としてその名を改めなかったのか? その理由は謎のままだ。

 

 では、エリツィアを支配していたヴィオリアの末裔は、戦わずして何故エイラームに下ったのか? 

 理由に関しては諸説あるが、きっと真実はこうだろう。

 最後の皇帝に最も良く似た性格をしていたと言われるエシェリスタ皇女。彼女の末裔たちも、おそらくその悪辣さを受け継いでいた。だからヴィオリアの末裔はエイラームの末裔に跪いたのだ。

 多くの民を率いて勢力を拡大し、西からやって来たアナテア・レガイア・エイラーム。建国王と呼ばれ今尚慕われ続ける男の、王となった後の苦悩はどれほどのものだったのか。

 少年時代から戦乱に身を置き、ついぞ戦をやめられぬまま死んでいった男の死。

 歴史は何も語らず、断片を識る小さき者たちは、私の問いかけに素っ気無く答えて消える。未練も後悔もない――彼の死は何も残らぬ、何処にでもありふれた一つの存在の消失にすぎない、と。


 未練も後悔もない人生など知らない私には、到底理解できない話だ。どうやったらそんな風に生きることができるのだろう。何を経験すれば、未練などなく死んでいけるのか。死にゆく人々はとても身近に存在するのに、その問いに対する答えはあいにく誰も持ち合わせていない。

 

 だから『目覚めなさい』と私は命じ、小さき者たちに問い続ける。人が答えてくれない問いかけの答えを、人ではない彼らに求めて問いかけるのだ。


 永遠の闇を孕み続ける地底の中。

 世界を流れる時間はまだまだ続いていくけれど、私に残された時間はあと僅か。 

 だから私は何度でも、『目覚めなさい』と命じ続ける。


 私は祈りの言葉を知らないから、神に答えを求めることができない。

 けれどたとえ祈りの言葉を知っていたとしても、私はそれを絶対に口にしないだろう。

 そして上手に足掻くこともできないまま、ただ残された生に怠惰にしがみついている。

 私は生きている。

 何の意味もない生ではあるけれど、生きているのだ。



――この愚かな花の願いを どうか どうか 貴方の声で――



 死を恐ろしいと思う気持ちはあるが、生きることを諦めることはできない。

 こんな私を「かわいそう」だと言い哀れむのは、そう親しくもない一族の者たち。

 「かわいそう」――なんて無責任で薄っぺらで、心地いい言葉だろうか。

 もちろん、「かわいそう」と言ってくれることには何の問題もない。他人に同情され哀れまれる、そんな不幸が私に在るというのなら、喜んでその言葉を受け入れよう。癒されることも慰められることもないけれど、奇妙な優越感を感じることはできるから。

 何しろ不幸を知らない人々は、えてしてそんな不幸を夢見て欲しているらしい。多くの人にかわいそうにと哀れまれ、自分の境遇に憤ってもらえるような、そんな生々しくて鮮やかな不幸を。だから芝居は悲劇が流行るし、不幸を描いた絵は人の心を打つのだと――ああ、そう言っていたのは誰だったか? 名前も顔も思い出せない、私が『殺して』死んだ多くの中の一人だろうか。 



――貴方の声で 私の名を呼んで欲しい――



 暗闇には光がなく、ただ闇があるだけだ。そして幸せも不幸もない。それは冷たい檻の向こう側に在る。

 私の醜い指は何も掴まず、冷たい石床を撫でている。此処には柔らかくて温かいものは何もない。

 ああ、けれど――私は祈りの言葉を知らないから、神に何の期待もしないでいられる。それだけが唯一の救いだ。


 祈りの言葉は知らない。

 けれど、歌は知っている。

 暗闇が支配するこの場所には祈りの声は満ちないが、《時》が来れば歌声が満ちる。

 私も歌う。

 歌うことは嫌いではない。声の美醜、歌の巧拙は好き嫌いとはまた別の問題だ。だからそんな余計なことは気にせずに、私はただ歌うだけ。

 

 神のもとに届くかどうか分からない祈りよりも、確実に人間の耳へ、心へと届く歌を。



――朽ちてゆく愚かな花が ただひとつだけ望むこと――



 * * * * * * * * * * 



――深く、深く。

 長い長い石段を降りてようやく辿り着く、王城の最深部にある地下牢。最も重大な罪を犯した者を収容するその場所に、彼と彼の兄弟たち、そして協力者たちが収められている。

 暗闇の中、ゆらゆらと揺れる蝋燭の灯りを見つめながら、私は冷たい鉄の柵越しに彼と向かい合う。ぐったりと倒れ伏したまま、彼は身動きひとつしない。時折漏れるくぐもった掠れ声には苦悶が滲み、彼の受けた罰の痛みを教えてくれる。

 もっとも、所詮それは私の頭が考える『想像上の痛み』にすぎないのだが。私は眠れなくなるほどの痛みや空腹など、あいにくと体験したことがない。

 常人であれば全く視界の利かない暗闇の中、唯一つ在る固定された蝋燭の灯り。これで室内が無音であれば、それだけで簡単な拷問部屋の出来上がりだ。視界なき暗闇と無音は人の心を蝕む。そこに唯一つある固定された光もまた同じ。目を閉じても焼きついて離れない光――暗闇の中でどうしても注目してしまう固定された灯りは、否応無しに人の心に孤独と焦燥を与える。それが蝋燭のように、次第に消えていくものであれば尚のこと。何故か人間というものは、徐々に消えていく光と広がっていく暗闇に恐怖を覚えるのだ。

 長い間そういう部屋の中にいると、大体の人間は次第に気が狂っていく。

 大人しくなったかと思えば少しずつ忙しなく落ち着かない様子になり、突然喚き出し暴れるようになる。そして在りもしない物を見たと騒ぎ、無音の中で存在しない音や声を聞くようになるのだ。

 いつ見ても不思議なものだと思う。在りもしないものを見聞きする、その狂気。人は目の前の事象を目で見て耳で聞くのではなく、自らの想像でそこにはないものをさも存在しているかのように実感することができる。根底にあるのは死への恐怖か、痛みから逃れたいという切実な望みか。実に興味深い。

 しかし、幻覚や幻聴といった症状が表れてくると、最後の瞬間まではあっという間だ。喚き声は次第に人の言葉ではなくなっていき、理性や知性が剥落して、最後にはただ本能だけが宿る肉と皮と骨の塊ができ上がる。そうなれば、もう終わりだ。たとえば文字を書かせようとしても自分の名前すら書けないようになっているし、意味不明な行動ばかりをとるようになる。

 大体の場合はそうなる前に適当な処置を施すのだが……場合によりけりだな、と思ったりもする。


――いっそ狂うことができれば、楽だろうに。


 それはとても不幸で哀れで醜く、無様としか言いようのない状態ではあるのだけれど、苦痛を感じ、そして自らを『不幸で哀れで醜く無様だ』と認識することができなくなっているという点においては、これ以上ないほど幸せな状態だから。

 まぁ、それは私の極めて個人的な意見に過ぎない。実際、彼はそうは思っていないから、崩壊しそうな理性と自尊心、その他諸々をかき集めてまだ正気を保っているのだろう。


――いいなぁ。


 そう思う。

 底辺に落とされて尚足掻くことができる、その強さが羨ましい。無様と言えば無様、浅ましいと言えば浅ましい状態ではあるけれど、限りある生にしがみつく態度としては彼の姿勢は極めて真摯で強く、ゆえに美しいと思う。


 私は冷たく太い鉄の柵に歩み寄り、しゃがみ込んで、柵の内側に囚われている《美しい》彼を見下ろす。


「痛いですか、殿下」

「…………」


 彼は答えない。答えることができない、という言い方が正しいのだろうが。


「その焼印はとても意地の悪い魔法なんですよ。酷いでしょう? 自分が魔法の失敗で大火傷を負ったからといって、他人にも同じ痛みを与える懲罰用魔法を考案するだなんて。しかもそれをわざわざ魔法使いの罪人に使う枷として作るあたり、考案した魔法使いの性格の悪さと嫌らしさが滲み出ていますよね」

「…………」

「ねぇ殿下、焼印を押されるのは怖かったですか? それに身体が焼かれる痛みが続くっていうのはどんな感じです? 私、火傷なんてしたことがないからわからないんですよ」

「…………」

「殿下のお師匠であらせられるレクシス様は、それは酷い苦しみっぷりですよ。それに比べれば、殿下はとてもお行儀がいいですね。やはり育ちの違いでしょうか?」

「…………」

「ああ、そうそう。どうやら殿下の処刑日が正式に決まったようですよ。寂しいですねぇ、もうすぐ殿下ともお別れです。ですが弟君たちもご一緒ですから、殿下は寂しくないでしょう? 羨ましいことです。それに喜んでください、殿下。幸いにして苛刑(かけい)ではありません。斬首刑だそうです。しかも――良かったですね、王族のまま死ぬことができるようですよ、殿下」


 やはりと言うかなんというか、彼は何も答えない。

 暗闇の中、聞こえてくるのは彼のひび割れた唇から時折洩れる、掠れた呼吸音と苦悶の声のみ。しかし私の声は聞こえているのか、ぎょろりと青い目が動き、倒れ伏した状態で私を睨んでくる。

 深く澄んだ、青い瞳。

 やつれていても、彼は十分綺麗な容姿をしていると思う。何より未だ正気の光を失わないその瞳が美しい。


――王城において召集された貴族と王家の者達が下した処断は、彼を王族のまま処刑するものだった。


 形式だけの、実に淡々とした裁判だった。二大公爵家を筆頭とする有力貴族たちはこぞって、あの美しい王太子の味方をしているから。内面でどういう策謀が蠢いているのかまでは知らないし興味もないが、表面上は次期国王の命を狙った輩を極刑に処すことに対して、何ら反対意見は出てこなかった。ま、あれだけ証拠が出揃っていれば仕方のないことだろうが。

 それはさておき、彼が斬首刑でよかった。裁判の結果如何によっては、下手をすれば苛刑に処される可能性だってあったのだ。あの女――『巫女姫』が彼を一度逃がしたせいで、脱獄の罪も追加されていたし。斬首刑で本当に良かった。

 囚人を拷問し責め抜いて殺す、この国の刑罰の中で最も重く残虐な刑とされている苛刑は、公式記録にはまだ八回しか執行されたことがない。執行された囚人たちは、どれも多くの被害者を出した賊や大火災を起こした放火犯など、罪が残虐且つ被害数が多いものばかりだ。

 それらに比べれば、彼の起こした事件の死者は少なすぎる。しかし事が事だけに、苛刑に処される可能性はあった。いや、苛刑でなくとも、死ぬまでに酷い苦痛を伴う刑に処される可能性は高かった。


 他者の苦痛は私の苦痛ではない。

 それゆえに、私にはどのような痛みを伴う罰がその罪と同等の罰なのか、その判断がつかない。ただ決まりとして定められているものだから執行する。それが残虐な刑であることを知識として知っていても、「やれ」と命じられれば従うだけだ。

 私の不幸は他者の不幸ではなく、他者の不幸は私の不幸ではない。

 そして、彼が感じているであろう、死への恐怖はわたしのものではない。

 しかし、死を恐れる気持ちは私にもある。彼と同じだけの恐怖を感じているのかどうか、それは分からないけれど。


「斬首刑でよかったですね、殿下。今でもそんなに苦しそうなのですから」

「…………」

「たとえば火あぶりの刑はもっと苦しいですよ。まずね、身体の体毛を全て剃ってしまうんです。人の体毛って、燃えると凄く嫌な臭いがするんですよ。だからそうなっているらしいんですけどね。それでね、全裸の状態のまま、油をたっぷり浸した藁を首から下の全身にぐるぐる巻きつけて、焼き場の上に縛り付けるんです。口と鼻は煙避け専用の布で覆います。知ってますか? 殿下。普通に拘束した状態で生きた人間に火を放つだけだと、焼けて苦しむ前に煙を吸って意識を失ったまま楽に死ぬことが多いそうなんです。だからなるべく苦痛が長引くように、煙を吸わないようにさせるんだそうですよ。ま、心配しなくても全身を油を浸した藁で巻かれていたら、あっという間に火に包まれて痛いどころの騒ぎじゃなくなると思いますけどね」

「…………」

「苛刑……、拷問死も嫌でしょう? 殿下は知らないでしょうが、我が国の苛刑って本当に惨いんですよ。こと細かく規定があるのでその通りにしなくちゃいけないんですが、針人形とか紅猫とか、とにかく囚人を延々と痛めつけて苦しめるように、でも死なないように、とにかく絶妙な具合で構成されているんです。やる側もね、色々と力量が試されまして。大変なんですよ、あれ」

「…………」

「ねぇねぇ殿下、人の悲鳴を聞いて吐き気を催したことってありますか? 耳にするだけで怖気が走り皮膚が裏返るかのような、そんな凄まじい絶叫を聞いたことがありますか? 苦痛と絶望と恐怖しか存在しないときに人間が出す声のおぞましさを知っていますか?」

「…………」

「知らないでしょう。まぁ、知らなくて当たり前ですけどね。良かったですよ、殿下のそんな声を聞かずにすむことになって」

「…………」

「ああでも、殿下の知らないところで人質をいたぶって殺していた人たちは全員火あぶりの刑だそうですよ。殿下が今味わっている痛みより、もっと熱くて痛くて苦しい思いをするんですよ」


 かわいそうですよね――という言葉は、心の中にしまっておく。実に薄っぺらで無意味な言葉だから。

 火あぶりの刑に処される彼らが味わう恐怖も苦痛も、彼らに殺された人々が味わった恐怖も苦痛も、私にとっては無関係で、どうでもいい。殺された人々と同じような苦痛を与えることが彼らへの罰となりうるのか、そんなことは分からない。

 恐怖と苦痛であがなうことができる罪など、私は知らない。だから死をもって完成される贖罪など、ひどく愚かしくて無意味なものだと思う。

 死が死でしかないように、痛みは痛みでしかない。それを与えることの何が罰だというのか。自分にとって特別な者が感じる痛みと、憎い相手が感じる痛み。決して同等になりえないだろう苦痛を基準として罰として与えても、何の意味もないだろうに。それでも多くの者が罪人にことさら重い罰を求める、その理屈がよく分からない。

 冷たいと言われればそうなんだろうな、とは思う。しかし他人の不幸に同情するのも、これでなかなか気力が必要なのだ。人間誰しも自分の不幸が一番なのではないだろうか? 少なくとも私は気分が乗ったときにしか、他人の不幸をかわいそうだと思えない。まぁ、かわいそうだなぁと思ったとしてもそれだけで、別に助けたいとは思わないのだが。

 けれど私の意見など誰も求めてはいないし、発言する権利もする気もないから黙っている。処刑が決定され執行を命じられたのだから、いつも通り私はそれに従うだけだ。


 王族に《飼われている》私たち一族は、彼らの作った法に従い行動するのみ。

 生まれてから死ぬまで。

 生まれる前から、そう決まっている。

 この暗闇の中で母となる女の腹の中に現われたときから、定めづけられた生き方。


「殿下、死ぬのは怖いですか? 首を斬られるのは恐ろしいですか? 反逆者としてこれから先、この国で悪し様に罵られていくことは悲しいですか?」

「…………」

「ねぇ殿下、黙ってないで教えてくださいよ。愛しい『お兄様』に処刑される気分はどんなものですか?」

「……れ、…………が」


 小さく吐き捨てるように呟かれた声。

 ぎらつく青い瞳に宿る強い光――ああ、なんて羨ましい。

 死刑が決まった今となっても尚、輝き続けるその瞳。

 最後まで足掻くのか? 絶対に殺されると理解しておきながら。


――面白い男。


 本当に面白い男だ。


 死でもってあがなうことのできる罪など、私は知らない。

 けれど私以外の他の人間たちは、死刑がふさわしいと言う。

 相手を殺してやりたいと思うほどの憎しみなど、私は知らない。

 けれど遺された者たちは、できることなら自分の手で彼らを殺してやりたいのだと言う。


 処刑も拷問も私たち一族の仕事ではあるけれど、それ以外は無関係だ。

 死にたくないと泣き叫ぶ者に刑を執行し、いっそ殺してくれと乞う者を死なない程度に傷つける。彼らの想いや彼らに対する他の人間たちの想いには興味がない。所詮彼らに降りかかった悲劇や不幸は彼らにとっての悲劇や不幸でしかなく、私にとっての悲劇でも不幸でもないのだから。

 私たちは正義を執行する者ではない、与えられた役割を執行するただの駒。それに何と言う名前をつけるのかは周囲が勝手にすることだ。


 王城の地下に在り、王族の命を受けて法に従い拷問と死刑を行なう者。

 『拷問吏』にして『死刑執行人』、または暗闇に棲む『不浄の一族』。

 そのどれもが私たち一族を指し示す名ではあるが、私たち一族自らが名乗った名ではない。大体の場合、私たち一族――特に私は、彼が吐き捨てたように呼ばれる……いや、罵倒されることが多い。


“だまれ、化け物が”


 けれど彼が吐き捨てた罵倒はあまりに小さく掠れていて、私の心に何の傷も負わさず消えていく。


「殿下、そう酷いことを仰いますな。貴方の愛しい『お兄様』も大切な『お父様』も、それでも私の価値を認めているのですから。

 でも……そうですか、悔しいのですね、殿下。悔しくて堪らないのですね。愛しい『お兄様』に完全に見捨てられたことが、悔しくて悔しくて――そしてとても悲しいのですね、殿下」

「…………!!」


 やつれていても尚秀麗な顔を歪め、怒りを顕わにして睨みつけてくる彼を哂う。もっとも私の顔は、彼には見えないだろうが。

 違う、ふざけるな――そんなことを言いたいのだろう。ひび割れた唇が何度も開閉しては、苦しそうな吐息だけが漏れる。


「ねぇ、殿下」

 

 ああ、かわいそうに。

 どんなに強い瞳で睨んでいても、それが潤んでいては台無しだ。

 かわいそうに、かわいそうに。

 明るく暖かな場所にいた高貴な存在が、今ではこんなに暗い所に閉じ込められて、嬲られ蔑まれ苦痛に喘ぎ、それでも尚正気のままでいる。

 

「こんな風に惨めで辛い思いをするくらいなら、生まれてこなければ良かったのにね。ううん、せめて生まれてすぐに死んでいれば、こんな思いをすることなんてなかったのに。貴方は本当にかわいそうな人ですね。ねぇ、自分でもそう思いませんか?」

「…………っ!」


 かわいそうに。

 本当にかわいそうにね。

 望まれて生まれてきたのに、幸せに生きることができなくて。

 処刑されて人生を終えるだなんて、本当にかわいそうに。


 ああ、気分が乗ってきた。今尚虚勢を張り続けるかわいそうな王子様を前にして、かわいそうだと彼を哀れむ感情が胸の奥からこみ上げてくる。

 私は彼を心の底から哀れみ、賢く気高い彼はそれを理解してより強い屈辱と羞恥を感じ、一人苦しむ。

 

「ああもう。泣かないでくださいよ、殿下。まだ終わりではないのですから。どうか最後までお気を確かになさっていてくださいね。見苦しい真似をしてはいけませんよ? 臥せったままであらせられる陛下が悲しまれるでしょう? 未だろくにお目ざめにならない死に損ないの陛下ではありますが、万が一にも容態が回復なさったときに『愛する息子』が『処刑を恐れて発狂し、牢の中で自殺した』ことを知ったら、驚きと悲しみのあまり心臓が止まってしまうかもしれませんよ」

「…………っ! …………!!」


 声にならない叫びを吐く、彼の涙は止まらない。

 羞恥、悔しさ、怒り。様々な感情で濁った涙がやつれて薄汚れた、それでも綺麗な顔を濡らす。

 しかし泣き顔を私に見せるのが嫌なのか、すぐに無理矢理俯けた頭を見ながら、今日はもうこの辺りで頃合かな、と思う。

 処刑までそう日がないとはいえ、あまり追い詰めるのはよろしくない。もちろん、正気を失わない程度に現実を思い知らせることは大事だけれど、やりすぎは駄目だ。

 彼の高ぶった精神と疲労した体を無理矢理にでも休ませるために、鎮静効果のある香でも焚くべきなのだが……もう少しだけ、泣かせておいてあげようかな。

 どうせもうすぐ、泣くことも傷つくこともできなくなるのだから。


 両親に望まれて生まれた彼と、彼の兄弟。もうすぐ死んでしまう彼らには、たくさんの未練と後悔と怒りが渦巻いている。

 私には、彼らの気持ちは分からない。当たり前だ、生まれも育ってきた境遇も全く違うのだから。

 父である男には必要とされている。けれど、母には――


“化け物”


 私の母は私のことを、彼と同じように化け物と呼んだ。そして一度も名前を呼ばないまま、死んでいった。

 特徴的な声と喋り方は覚えているが、抱かれたことなど一度もないから、その肌の感触や温もりは知らない。彼女は私が触れることを恐れ、嫌っていた。指先にほんの一瞬だけ触れることはできても、すぐに振り払われてしまった。今でさえ理解できない存在である母は、今より幼かった頃の私にとってもやはり理解できない存在だった。いつだって触れようと伸ばした手を冷たさや温かさを感じる暇もなく振り払われては、『汚らわしい』と特徴的な喋り方で喚く母の白い指先を、ただぼんやりと見つめることしかできなかった。

 もう既に死んでしまった女のことなど、とっとと忘れてしまえば楽なのに。何故か私は今でも母のことを覚えている。そして忘れたくても忘れられない彼女の滑稽な顔と美しい瞳の色は、何より一番よく覚えているのだ。

 私の母は、今、冷たい鉄の柵の向こう側に囚われている彼とよく似た色の瞳をしていた。深く澄んだ、青い瞳。ありふれた色ではあるけれど、とても美しい色の瞳だった。

 母の美しい色の瞳はいつも、私を見て歪んでいた。

 彼女の美しい色の瞳は、死ぬまでそこに私を映すたびに醜く歪み続けた。母が死んだ後、生気が抜けて硝子玉のようになってしまった瞳にはその歪みが何処にもなく、安心したと同時に何故か虚しくなったが――その理由は、自分でもよくわからない。

 私を見るたびに彼女の滑稽な顔に浮かんでいた感情の本当の名前を、私は知らない。あれは恐怖であり嫌悪であり憎悪であり、それらとは全く異なる感情でもあった。

 母に私を『孕ませて』そして『産ませた』という意味において私の父である男は、母が私に対して抱いていた感情の名を教えてくれた。けれどそれを実感し理解することができない私は、未だにその感情が母に存在していたと認めていない。


 それはもっと優しくて温かなもののはずだ。

 あの黒髪の騎士――顔に似合わない皮肉な花の名と闇に凝った瞳をもっていたあの男が、同じ闇を抱える美しい王太子と、闇によく似た色をした瞳をもつ女を見て浮かべていたような笑みのように。


――ウィルリィ――

――此処にいますよ。何の用ですか、クルクス――

――聞け。エルリアス王太子殿下の騎士、アディート・ルクスが死んだ――


 あの日。

 何の前触れもなく突然死んでしまった、花の名をもつ騎士。

 基本的に他者に無関心で淡々としていたあの男が、いつからか浮かべていた柔らかな笑顔。それを向けられて嬉しそうに微笑む小柄な女と……傍らにいた、美しい王太子。

 神殿に突如現われた、小さき者たちが認識しにくい不思議な女。『光の神の使者』だという彼女の正体に興味があって、一族の者たちに隠れて何度か覗き見た。もちろんこっそりと、水鏡を通してだが。

 三人がいる光景を見ても、楽しそうにしている様子を羨ましいとは思わなかった。でも、綺麗な光景だとは思った。温かくて、優しいもの。言葉としてだけ知っていたそれを、頭ではなく心で理解することができるほどに。

 

 だから「壊れるだろうな」と思った。あの騎士が死ねば、彼に微笑んでいたあの女の心は壊れるだろうなと、漠然とではあるがそう思った。


 結局、そうはならなかったけれど。


 陽光の届かない地下にあってなお、輝きを失わない金色の髪。翡翠の瞳は本物の宝石以上の輝きをもち、強く美しい。

 初めて会ったときから美しかった王太子は、今でもやはり美しい。神々しいと人々が賞賛する美貌と非凡な才をもつ、選ばれた人。

 常であれば彼の傍らに立っていた、花の名をもつ騎士はもういない。顔に似合わない可憐な花の名前をもっていたあの騎士は、王太子を庇って死んだのだという。私たち一族の領域外の場所で、裏切り者の兇刃から王太子を庇って死に、遺体は残さなかったと――そう聞いた。

 『騎士』らしい最期であり、何よりあの男らしい最期ではないだろうか。

 私たち一族は限られた人間としか口を利く権利がないため直接言葉を交わしたことはないが、何度か互いに独り言を呟きあったことはあるし、王太子と一緒にいるところを覗き見たことや二人の《夜遊び》に同行したこともあるから、人となりは何となく分かっている。


《アディート・ルクス》


 顔に似合わないだけではない――実に皮肉な名前ではないか。

 けれど、あの男は自分の名前をそれなりに気に入っていた。美しい王太子がからかって遊んでいたときには不愉快極まりない表情をして「改名したい」とぼやいていたにも関わらず、ある一時からそういう反応をしなくなった。


――羨ましいのですか? エルリアス様――

――羨ましい、と答えたらどうするんだ? アディート――

――意地っ張りな貴方が珍しく素直に答えてくださったご褒美に、次回の脱走時は特別に優しく捕獲してあげますよ――

――そんな優しさいるか、馬鹿。と言うか、それは優しさとは言わないぞ――

――捕縛縄、鉄鎖製ではないものにしてあげますね――

――だからそれは優しさとは言わないと。お前最近ハルカに甘くなった分、なにやら私に厳しくなってないか? ――


 優しそうな笑顔で明らかに阿呆な方向へと会話を進めながら、よくもまぁ主である王太子に向かってあれだけ自慢げな笑顔ができるものだと思わず感心してしまうほどの満面の笑みを浮かべていた。それを見て、完璧に整った顔に心底呆れた表情を浮かべて、美しい王太子は溜息をついていた。

 あの騎士は複雑なようでいて、実に単純な男だった。闇によく似た色をした瞳をもつ『光の神の使者』。彼女が名前を褒めたから、だから自分の名前を疎ましく思うことがなくなったと、後でそう聞いて私も呆れた。俗に言う『お手軽な男』というのはこういう男のことを指すのかと、やたらと感心してしまったものだ。 


 花の名をもつ騎士は彼女が壊れることも消えることも望まず、美しい王太子は彼の望みを叶えた。

 そして私が綺麗だと思った光景は、永遠に失われた。

 美しい王太子の傍に最早花の名をもつ騎士はおらず、闇によく似た色の瞳をもつ『光の神の使者』しかいない。


 揺れる黒髪、とても健康そうには見えない蒼白い肌。身体の線を隠す造りの巫女服が、より一層彼女を小さく見せていた。

 不安定な光を宿した瞳は、闇によく似た色をしていた。闇に染まっているわけではない、ただ単に濃く暗い色をした瞳。大陸では珍しい色ではあるが、『闇色』と呼ぶには光を讃えた柔らかな色をしていた。

 深く暗く、底知れない闇を湛えた、美しくも醜い瞳。表面に表れる色としての黒ではなく、内部に凝る闇に染まった瞳こそ、『闇色の瞳』と呼ぶに相応しいだろう。

 美しい王太子が大切そうに抱きかかえていた彼女。身体は小さく、捻れば簡単に折れてしまいそうなほどに細かった。

 偶然の邂逅。本当ならあの日、王太子が用があったのは私の父である男の方だろう。嫌そうな顔が見たくて、ついつい私が命令を聞いてしまったが。

 それにしても……あのときは不安そうな顔をしていた彼女も、願うのだろうか?

 憎しみをこめて、怒りをこめて――大切な者の命を奪った輩には、できうる限りの苦痛を味あわせてやりたいと。

 そう願い、望むのだろうか。

 咎人に、最も苛烈な罰を下せと。

 

 

* * * * * * * * * * *



「アディート、返して! 殿下、返してよ! アディートを返して! わたしに返してよ!」


 私は命じた。

 精霊――万能なる小さき者たち、自我無き無垢なる者たちに。

 声を伝えよ、姿を映せ、と。

 覗き見はよくないし、盗み聞きはよくない。

 一応、そういう『一般常識』なるものを学んではいるし理解してもいる。

 しかし、私たちの棲家である地下が存在する領域内に存在する王族を危険から守ることは、私たち一族にとっては当然のことなのだ。他に護衛がいたのならばまだしも、あのときは王太子と女以外誰もいなかった。ゆえに一般的に『盗み聞き』『覗き見』と言われる行為であっても、それを行なう必要があったのだ。


「いやだ……。どうして、約束したのに……。一緒に、あったかい家族をつくろうって……」

「……私もアディートも、いつも自分を優先させてしまう。あのときの選択も、お前を傷つけるとわかっていたのにな。……すまない、ハルカ」


 泣いて震える声。

 つつけば簡単に崩れ落ちそうなほど弱った体と心で、彼女はいつだって揺らがないあの美しい王太子を責めていた。

 責められている王太子は、否定せずにそれを受け入れる。受け入れるしかないだろう、だって《それ》こそを望んでいたのだから。

 

 どんなに心を砕いて言葉を紡いでも、それが届かなくては意味がない。

 差し伸べた手を拒むこともしない、けれど受け入れようともしない相手を前に、あの王太子といえど何ができたのか。

 

 闇によく似た黒い瞳から零れ落ちる透明な涙は、悲しみと怒りと、強い願いに濁っていた。

 会いたい、と。

 もうどこにもいないあの黒髪の騎士に、会いたいと泣いていた。

 

――では、西にお送りいたしましょう。到着地点はどこがよろしいですか? ――

――ああ。……アディートがいる場所だ――

――……アディート様の? ――

――そうだ。知っているだろう? ――


 あの騎士はもう、何処にもいない。


 私は知っている。

 美しい王太子も知っている。

 花の名をもつあの騎士も、知っていた。

 

 人を殺すのに、本当は刃など必要ない。

 たった一言でいい。

 たった一言で、人の心は簡単に壊れてしまう。

 心が壊れてしまえば、やがて身体も壊れていく。

 そして人は『死ぬ』――とても簡単に、実にあっけなく。


「いいんだ、ハルカ。お前は謝らなくていい。謝らなくていいんだ。お前が謝ることなど何もない。私もアディートも、本当にお前のことが……」


 囁いた声は風に掠れて消えた――否、消滅した。音を伝えていた精霊も、水鏡に光景を映していた精霊も。

 あの女が邪魔をした。精霊を永遠に眠らせるあの女が。


――けれど、ほっとした。あれ以上、あの二人を見ていたくなかったから。 


 穏やかな優しい声。力なく崩れ落ちていく華奢な身体を抱きしめていた、高貴な衣服に包まれた硬い腕。


 あのとき彼女の目には、美しい王太子の顔がどういう風に映ったのだろう。

 小さな子どものように泣きじゃくっていた彼女。どんなに責めても変わらない、王太子の表情。

 いつ見ても、あの王太子は美しい。

 けれど泣きじゃくる女を見つめていた、あのときの王太子の顔。陽光届かぬ暗い地下の中、水鏡を通して見た私の目には、ああ、私のこの目には、それはとても――――



* * * * * * * * * * *



「――さて、殿下。もう少し泣かせて差し上げたい気持ちはやまやまなのですが、そろそろ殿下の体力も限界でしょう。おやすみなさいの時間ですよ。どうか夢の中でいる間くらいは、心安らかでいてくださいね」

 

 そして目覚めた後、現実に絶望するといい。

 私は別にそんなことを望んでなどいないが、私以外の多くの者は彼の苦痛を望んでいる。


「……さま、…………め……」


 掠れた声の罵倒に可笑しくなって、小さく笑う。言うに事欠いて、まさかこの私にそんなことを言うなんて。


「嫌ですね、殿下。そんなわけがないでしょう? 私はあなたの『愛しいお兄様』のことが大嫌いなんですから」


 部屋の隅にある小さな戸棚から香炉を取り出し、魔法で小さな火を灯す。冷たく暗い地下牢には不釣合いな優しく甘い香りが、ゆっくりと漂い始める。


「ねぇ、殿下」


 鉄の柵越しに呼びかければ、抗いきれない睡魔に襲われているのだろう、とろんとした焦点の合わない目で、それでも彼が私を見上げてくる。

 深く澄んだ、青い瞳。彼自身のことは別に好きでも嫌いでもないけれど、私を見ても歪まないこの瞳は好きだと思う。彼は私を睨むけれど、母のように歪な表情を浮かべはしない。


 弱い男だ。

 だが、強くもある。

 彼のもつ弱さと強さはとても醜悪で、けれど真摯で――だから美しい王太子のもつ強さよりも、私にとって好ましく感じられる。


 未だ臥せったままである彼の父である国王陛下も、彼の母である死んだ側室も、彼の死など望んでなどいないだろうに。それなのに処刑されて死ぬ彼は、とてもとても不幸でかわいそうだ。


――けれど、それでも。


「殿下――リュミシス王子。私はあなたのことをかわいそうだとは思いますが、よくよく考えてみればあなたの『愛しいお兄様』もかわいそうな方ですよね。差し伸べるための手はあるのに、縋りつくための手はないなんて。だからあの方はいつも、大事なものを自ら手放してばかりだ」


“化け物”


 歪められた、深く澄んだ青い瞳。

 母が私を見つめるとき、そこに浮かんでいた歪な光が今も忘れられない。

 忘れてしまいたい、忘れることができたらと――そう思っているにもかかわらず、あれほど私のことを憎み蔑んでいた母のことを、完全に忘れることができないでいる。

 冷たい鉄の柵の向こう側で、痛みに苛まれながら意識を眠りの淵へと誘われていく彼も、あの美しい王太子も……きっと、忘れることができれば楽だっただろう。

 何もかも捨てて、まっさらな状態にしてやり直すことができたなら……そうであれば、きっと。

 けれどそれは不可能なことだった。だから現在、彼は地下牢の中に閉じ込められて、後は処刑を待つのみとなっている。


「あなたは魔法使いとしては私の足元にも及びませんが、そこそこいい線いっていますよね。もしも王族としての地位を剥奪されていれば、私はぜひともあなたとの間に子どもが欲しかったんですよ。けれど大罪人とはいえ、あなたは死ぬまで王族の一員のまま。だから私はあなたの子を孕めない。《最も醜い女》エリツィアの血は尊きエイラームの血と交わることが許されていないのだから」


 今にも閉じようとする瞼を必死にもちあげ、懸命に私の言葉を聞き取ろうとする彼に囁く。

 男とも女ともつかない、甲高く皺嗄れた私の声。人の身に余る魔法の才の弊害か、普通の人間とは異なる容姿。実年齢よりも遥かに早く成長していく私の身体は性の区分が曖昧で、自分でもあまり性別を意識していないせいか、よく男と間違われる。もっとも間違える相手はほとんどが死刑囚や拷問対象なので、特に問題などないのだが――彼はどうなのだろう。私を自分よりずっと年下の少女だと認識してくれているのだろうか。……無理だろうな、恐らく。

 しかし実際、彼が王族でさえなければ、私は彼の子を産むことを陛下かあの美しい王太子に望んだだろう。魔法の才は限られた血統にのみ現われるものではないが、魔法使い同士の子に魔法の才があることが多いのも事実だ。血の呪いであるかのように受け継がれているのか、それともただの偶然なのか? 年を経るごとに少しずつ数を減らしてゆく一族のため……というよりもその事実の根拠に対する興味から、『魔法使いの死刑囚との間に子どもを産み残す』という可能性についてはずっと考えていた。

 私の父である男は陛下の許可をいただき母を孕ませ、そして私が産まれた。ゆえに母は当初の予定よりずっと長生きすることができた。私を産まなければ、母はすぐにでも処刑されて死んでいた。

 私の母は罪人だった。死刑が決まっていた、それまでの人生で得てきたあらゆる全てから見放された女だった。

 《最も醜い女》を祖とする私たち不浄の一族は生まれたときから死ぬまで地下に在り、王家の命を受けて定められた通りの処刑と拷問を行い、そして死刑囚との間にのみ子孫を残すことが許されている。

 私たちの一族に『婚姻』という制度は存在しない。家畜と同じように『繁殖』が可能なだけだ。

 本来であれば子どもが産まれた時点で私の母は当初の予定通り処刑されていたが、どういうわけかその後も数年――病死するまで生き延びた。理由は知らない。一族の者は誰も教えてくれないし、唯一教えてくれそうな相手である陛下は今、会話できない状態にある。……まぁ、知ったところでどうにもならないし、何かするわけでもないのだが。


「…………」

「眠ってしまったのですか、殿下。残念です。……ではまた数時間後、明日という名の絶望をあなたに」


 沈黙した彼にそう囁いて、優しく甘い香りに満ちた冷たい部屋を後にする。小さく聞こえる、安らかな寝息。強制的に与えた偽りの平穏の中で、彼はどんな夢を見ているのだろう。できるだけ幸せなものであればいいと、他人事ながらそう思う。

 分厚い鉄の扉は仕掛けられた魔法によって容易く開き、私の姿を目にした見張りの者の表情が微かに強張る。遮音魔法をかけてある部屋だから盗み聞きされてはいないだろうが……この反応は、まぁ、仕方ないのだろう。

 耳を澄ませば、聞きなれたいくつかの足音。巡回騎士たちだ。顔を合わす前にと、彼らが知らない抜け道を行く。王城の地下は迷宮のように入り組んでいて、抜け道や隠し部屋も数多く存在する。特定の者だけが知る仕掛けもあり、そのためこの無数に枝分かれした長い長い地下通路の内部については公職に就いている者たちが知らない部分が多く存在するのだ。


 ごく限られた者しか知らない通路をひたひたと歩きながら、ぼんやりと思考する。

 母の滑稽な顔。

 そして、それ以上に特異な私の身体。他者と異なるその姿を隠すために巻きつけた包帯のせいで更に不気味になっているだろうこの格好は、私のことなどもう既に見慣れているはずの一族の者たちであっても、ふとした瞬間に表情を強張らせる。それほど不気味で醜いのだろう。

 陛下は私を正面から見ることはない。罪悪感からか、何なのか――記憶にある限り彼はいつも、私を見るとき僅かに顔を顰め、何かを堪えるかのような表情を浮かべていた。

 けれど、あの美しい王太子は初めて会ったときからずっと、私から目を逸らそうとしない。いつだってまっすぐに私を見つめてくる。


 だからあの男は大嫌いだ。本当に、心底大嫌いだ。


 エルリアス・ラス・レガイア。

 私の母である女。彼女が私を産み落とす――その原因を作った、闇色の瞳をもつ美しい王太子。

 半分だけ血の繋がった弟たちを、もうすぐその手で殺す男。



 

(私を救ってくれるというのなら、あなたに歌を教えてあげる。

 たとえ祈りの声が途切れても消えることのない、傲慢で浅ましい望みを謳った歌を。

 神さまに祈っているその心を、今ほんの少しだけ、私にむけてくれたらいいの。

 毎日毎日飽きもせず真摯に祈りを捧げるあなたはいつか、神さまに救われることでしょう。

 そして私は今、あなたに救われるの。

 ね、簡単でしょう? 神さまに”救ってくれ”と祈るより、人が人を救うために何かをするのは、実はとても簡単なことなのよ)

 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。