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虚無


 アディートが遠征に出発する日の朝。

 彼は、わたしより後に眠ったはずなのに、わたしより先に起きていて、とっても優しい顔でわたしの髪を撫でていた。

 前日の夜。

 あの時、わたしが初めて体験した行為は、恥ずかしくて、痛くって、でも想像していた以上に、泣きたくなるほど幸せだった。

 アディート、やっぱり慣れてるな、なんてちょっと悲しいことも思ったけど、すぐにそんな考えはなくなってしまった。


「アディート、早く帰って来てね」

「ああ」

「怪我しないでね」

「わかってるよ」

「それとね、あんまり殿下と仲良くしちゃ駄目だよ。アディートは、わたしの旦那様なんだからね」

「もちろんだよ、奥さん」


 わたしの言葉に、アディートは優しく笑って頷いた。

 彼に「奥さん」と呼ばれて、とっても嬉しかった。

 わたしは力いっぱいアディートを抱きしめて、彼に口付けた。騎士団の姿が見えなくなるまで、ずっと王城で彼を見送り続けた。


 アディートを待つ間、わたしは彼のことを心配なんてしていなかった。

 アディートも、殿下も、とっても強いことは知っていたから。それに、騎士団の人たちだって、みんな強いのだ。

 

 だからわたしは、早くアディートに帰って来て欲しかった。

 もう2度と彼に会えなくなるだなんて、そんなこと、思ってもみなかったから。



***********************************



 アディートの葬儀は、他の騎士団の犠牲者たちと同じ日に、まとめて行われた。

 乱戦ではアディートのほかに、17名の騎士が命を落とした。重傷を負った騎士も、多かった。


 アディートは、殿下のすぐ側に控えていた古参の騎士が毒を塗った短剣で突然襲い掛かってきたところを、殿下を庇って応戦したのだという。

 その騎士は、アディートによって利き腕を落とされ、生きたまま捕らえられた。殿下が直々に、詳しいことを聞き出すそうだ。


 わたしはそういう事情を、ただぼんやりと聞いていた。


 アディートの遺体は、他の何人かの騎士と同様に魔法の炎で焼かれてしまって、灰すら残っていなかった。魔物に遺体を食べられることを防ぐために、魔物のいる戦場で死にかけた場合は、仲間に止めを刺してもらって、焼却するのが騎士団の決まりだそうだ。

 でも、それを拒む人もいる。そういう人に、無理強いはしないらしい。


 アディートは、自分から焼却を望んだらしい。

 そして、彼に止めを刺したのは、殿下なのだそうだ。


 そのことを最初にわたしに教えてくれたのは、殿下だった。

 周りの騎士や王城の人たちが止めるのを振り切って、彼は放心状態のわたしに、何度もアディートの死を説明して、言い聞かせた。


 もう、アディートがこの世に存在しないこと。

 もう、わたしがいくら彼を待っても、帰って来てくれないこと。

 アディートが死んだ原因は、殿下の命を狙った暗殺者である騎士から殿下を庇ったせいであること。

 暗殺は、王都近くの谷間で起きて、もうその時には皆兵装を軽微なものに変えていて、ふっと気が緩んだ瞬間に起きたことだった。だから、殿下は暗殺者の刃を避け切れなくて、でもそこにアディートが無理矢理体を割り込ませて殿下を庇ったから、アディートは普段の彼なら有り得ない重傷を負ってしまったんだ、ということ。

 他にも何人もの暗殺者――騎士の中に裏切り者がいて、その人たちと乱戦になったところに、血の匂いを嗅ぎつけてきた魔物が現れて、大乱闘になったこと。

 そして、アディートの心臓を止め、燃やしたのは殿下自身であること。


 そういった事実をちゃんと何回も聞いて、理解したつもりなのに。

 わたしの体は思ったように動いてくれず、心はまだ、アディートを待ち続けている。


 1か月だ。

 アディートを見送ってから、1か月が過ぎた。そして、アディートの葬儀の日からは2週間が過ぎた。


 わけのわからないまま、周囲に流されるままに葬儀に出て、王城の人々や騎士たち、神殿の神官さんや巫女さんに慰められた。

 レスティアナ様と彼女付きの温和な巫女さんが、葬儀の日から毎日わたしを訪ねてきては、何かと世話を焼いてくれる。でも、わたしは彼女たちに、ちゃんとした感謝の言葉を返せないままだ。

 

 アディートを迎えるために起きて、食事をして、夜、眠る。

 無意味なことだとわかっているのに、体がそれ以外の行動をとってくれず、心も麻痺したまま、時間だけが過ぎていく。


 アディートの葬儀がどんなものだったのか、ちゃんと出席したはずなのに、何も覚えていない。

 わたしは座っていたのか、立っていたのか、それすらも分からない。


 遺体もないのに、なんでお葬式なんてするんだろう、とぼんやりしたまま殿下に尋ねた気がする。

 殿下はわたしが初めて見る表情をして、「すまない」と謝っていたけど、どういう意味だろう。

 わたしには、よくわからなかった。


 わたしの部屋の、勉強用の机の引き出し。その中に大切に仕舞いこんでいた、婚姻証書。

 葬儀の後、1人きりになった時にそれを取り出して、ぼんやりと眺めた。

 2人の男女が光の神に愛を誓い合う文句と、どんなときもお互いに助け合って生きるという言葉が印刷されている、たった1枚の紙切れ。

 1番下の欄に、わたしとアディート、2人の名前が署名してある。


 アディートの文字は、とても綺麗だ。本に印刷されているような、活字に似ている。個性はないけど、お手本みたいに整った文字。

 わたしの文字は、逆に変てこだ。よく、殿下に馬鹿にされた。

 悔しかったけど、確かに変な形の文字になってしまう自覚はあったから、何も言い返せずに、真っ赤になって彼を睨むことしかできなかった。

 アディートは、わたしにこの国の文字を教えてくれた。わたしは言葉は通じるのに、文字はわからなかったから。ううん、この国以外の国の言葉は、聞き取りもできなかった。どうなっているのかよくわからなくて、2人で首を傾げたっけ。

 この国の文字は、なんだろう……ロシア語に似ているかな。でも、ちょっと違うかな。書き難い、記号みたいな文字だ。おまけに前置詞とかの活用形がとっても多くて、その変化に規則性がない。そして、文法が面倒くさい。まだ、英語の方が断然わかりやすかった。

 文字の勉強はしんどかったけど、アディートが丁寧に教えてくれたから、楽しかった。

 わたしが変てこな字を書いても、アディートは馬鹿にせずに褒めてくれた。そのうち上手になりますよ、と言って、優しく笑っていた。


 『アディート・ルクス』と『ハルカ・ミタニ・レガイア』。 

 

 2人の新しい家名は、『ルクス』。

 

 そう署名された、婚姻証書。2人で一緒に神殿に出しに行くはずだった、たった1枚の紙切れ。


 これを出していなかったから、アディートは、他の家族のいない騎士たちと同じ、共同の墓地に葬られた。

 もし、婚姻証書を神殿に出して受理されていれば、『ルクス』家の墓石が立てられたらしい。

 アディートの名前は、たくさんの身寄りのない騎士たちの名前に紛れて、大きな墓石に刻まれた。 


 できることなら、わたしとアディートの婚姻証書を受理したい。でも、神殿に出す前に片方が死んでしまった場合は受理できない。そう『法』で決まっていて無理なんだ、とレスティアナ様がわたしに謝っていた。

 彼女は泣きながら何度もわたしに謝った。

 わたしを元の世界から呼び出してしまった、そのことについて謝ったときも彼女は泣いていた。

 でも、今回はもっと悲しそうだった。

 そして、苦しそうに、何度も「ごめんなさい」とわたしに言っていた。


 アディートが死んだのは、レスティアナ様のせいじゃないのに。変なの、と思った。

 そして、彼が死んだのに、全く涙が出ないわたしも、自分で変だな、と思った。

   

 わたしは小学校5年生の時に、初めて人の死を体験した。母方のおばあちゃんだった。

 大好きだったおばあちゃんが死んで、わたしは悲しくて悲しくて、一日中泣いていた。



 なのに、なんでアディートが死んで、わたしは泣けないんだろう。

 悲しくもならない。

 ただ、何も感じられないまま、ぼんやりと生きている。

 

 

 殿下も毎日、わたしの元にやって来る。

 男のくせに嫌味なくらい綺麗な殿下は、何度もわたしに話しかける。

 でも、それにうまく答えられない。

 わたしはぼんやりしたまま、毎日毎日、殿下の綺麗な顔を見つめている。

 

 ああ、『光の神の使者』としての仕事、しなくちゃいけないのかな。

 そう思ったけど、殿下はそのことには一切触れなかった。

 ただ、困ったような、悲しそうな顔で、わたしに毎日話しかけてきた。

 

 殿下のことを、責めたらいいのか、恨んだらいいのか、わからない。

 アディートは本当に殿下のことが大好きで、だから彼を庇って死んでしまったんだ。

 

 遠征に出ていた騎士団の人が葬儀のときにこっそり、わたしに教えてくれた。

 殿下はアディートを、最後までなんとか助けようとしていたって。

 乱戦の中、突然魔物が現れて、逃げなくちゃ危ないって別の場所にいた騎士が慌てて殿下に言って、彼を逃がそうとしたのに、殿下はその騎士を思いっきり殴り飛ばしたんだそうだ。「アディートがこんなところで死ぬはずがない」って叫んで。アディートが「焼却してほしい」って殿下に頼んだときも、はっきりと殿下は断ったって。――結局、アディートに押し切られたそうだけど。

 

 殿下に殴り飛ばされた騎士の人は、殿下のせいで頬骨を骨折していた。殿下、馬鹿力だから。

 

 アディートは殿下のことが大好きで、わたしはそんなアディートのことが大好きなんだ。

 だから、殿下を恨んだり、責めたりすることはできない。

 でも、どうしてって思ってしまう。

 どうして、殿下が生きてるのに、アディートはいないのって。 


 王族の人だけが嵌めている、白い、綺麗な手袋。絹のような、滑らかな手触りのそれ。

 殿下は手袋を嵌めた手で、何度もわたしの頭を撫でながら、優しくわたしに話しかける。

 わたしはまだ、彼にうまく答えられずにいる。 

 

 口を開いたら、殿下にとても酷いことを言ってしまいそうだった。

 殿下だって、アディートのことが好きだったのに。

 2人は主君と騎士だったけど、とっても仲の良い親友だったのに。

 アディートが自分のせいで瀕死の状態に陥って、殿下が悲しんだり、悔しく思ったりしていないはずがない。

 おまけに、アディートの望み通り、自分の剣でアディートを殺して、魔法で彼の体を燃やしてしまって。

 きっと、殿下はとっても辛いはずだ。

 でも、自分の悲しみを出さないで、国の仕事をして、わたしを毎日慰めに来る。 

 

 わたしは殿下に頭を撫でられながら、ぼんやりと自分の左手の薬指を見た。

 アディートがわたしに嵌めてくれた、金の指輪。彼がわたしに贈ってくれた、大切な指輪。

 精緻な花の模様が彫られたそれは、今もわたしの指で輝いている。

 アディートは、これと対になっている耳飾りを付けたまま、死んだ。 

 わたしはこの指輪を、どうすればいいんだろう。

 アディート、わたしの旦那様。でも、正式な婚姻の証である婚姻証書を出していなかったから、結局わたしとアディートは、正式な夫婦にはなれなかった。2人であったかい家族を作ろう、そう約束したのに。


 殿下は綺麗な翡翠の瞳を細めて、わたしを見ている。

 わたしの頭を優しく撫でながら、何かを話している。

 でも、何を言っているのかよくわからなくて、わたしは曖昧な顔をしたまま、彼を見つめることしかできない。

  

 わたしはこれから、どうしたらいいんだろう。

 誰かに助けて欲しかったけど、この世界にはもう、わたしを助けてくれる人は、いなかった。

 アディートのように、わたしを救い上げてくれる人は、いなかった。


 何も感じることができなくなる、悲しみについて。

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