変化(1)
――夢を、見ている。
真っ白なスクリーンに映し出される映画みたいに、鮮やかに蘇り再生される情景。
――これは夢。
わたしはそう思いながらも、目の前で再生される場面を食い入るように見つめ続ける。
わたしの中に眠る、無数に散らばる記憶の断片。
それらが無秩序に重なり合い、ばらばらに繋がっては次々と目の前で再生されていく。
わたしは何もできない。
声をかけることも、手を伸ばすこともできない。
だけど暢気に笑っている記憶の中のわたしは、傍観することしかできないわたしのもどかしさに全然気がつかない。
繰り返される記憶の再生。
何度も、何度も、何度も、何度も、何度も。
ずっと昔、小さい頃の場面もあるけれど、大半はここ数年――異世界に来てからのことばかり。
かつてわたしの目線で見た光景が、もう一度目の前で繰り返される。
今ここでそれを傍観しているわたしは笑っていないのに、記憶の中のわたしはいくつもの場面で笑い、嬉しそうに、楽しそうに過ごしている。
鮮明に繰り返される、記憶の再生。
その中に映るたくさんの人々の中に、一人。
どんなに小さな姿でも見つけることのできる人がいる。
少し硬質で、でも指どおりのいい綺麗な黒髪。
日に焼けた肌、筋肉質な逞しい腕、剣だこのある長い指。
小さな子どもにするみたいに、絵本を読んで単語を解説してくれるときの優しい声。
大丈夫ですよと、怯えるわたしに繰り返す穏やかな声。
冷たいようにも思える薄い青色の瞳が柔らかく細まって、薄い唇がふわりと緩む。
男の人に対する喩えとしておかしいのかもしれない。けれど本当に、花が綻ぶように綺麗に――優しく、とても優しく笑う顔。
手を伸ばして触れたいのに、もう届かない。
声の限りに名前を呼んで、たくさん伝えたいことがあるのに、もう届かない。
届かないけれど、鮮やかに繰り返される記憶の再生。
もう見たくないという思いと、ずっと見ていたいという思い。
どちらの思いが強いのかなんて、分かりきっていることで。
目を閉じることも耳を塞ぐこともできないまま、わたしはそれを見つめ続けた。
ぐるぐるぐるぐるぐるぐる、極彩色の記憶が何度も再生されては消えていき、そしてまた再生されていく。
どれくらいの時間が過ぎたのかなんて分からない。意識を飲み込まれそうになるほどに鮮やかな情景の中、一瞬の記憶を永遠に留めておきたくて、ただひたすらに見つめ続ける。
――そうして気がつけば、真っ白な空間で一人、ぽつんと座り込んでいた。
ここはどこだろう。
どこともわからない場所を、ぼんやりと見渡す。
視界に映るのは、空と大地の境もわからないほどの白、白、白。
視線を落とした先にある、自分の体。それが白の世界を犯す異物に見えるほど、静謐な空白だけが広がっている。
どうしてこんなところにいるのかは、わからない。
けれどこれは夢の続きだと、混乱する頭の中、何故かちゃんと理解していた。
そう思うのが何故なのか、その理由をわたしは知っているから。
一人きりだから。
誰もわたしに、わたしが望むような答えを返してくれない場所だから。
だからここは夢の中なんじゃないのかと、そう思うんだ。
わたしは弱くて、誰かに支えられて生きている、物を知らない子どもにすぎなくて。
本当の孤独を知らないから、誰も傍で支えてくれない場所なんて現実じゃないと思ってしまう。
目に痛いほどの白い世界は、本当に静かだ。
自分の行き先も居場所もわからなくて、わたしはぽつんとそこに座り込んだまま、動き出すこともできない。
起き上がり、向かうべき先がどこにあるのか分からない。
誰の声も聞こえず、自分の体以外に何も見えない白の世界。
立ち上がらなくちゃいけないのはわかっているけど、体にうまく力が入らない。
わたしはどこに行けばいいのだろう。
ここにいてはいけないような気がするのに、誰もその答えを与えてはくれない。
――…………んだ。…………から、…………――
遠くで誰かの声が聞こえた気がして辺りを見回したけれど、誰もいない。
それがどうしようもなく寂しくて、怖くて、悲しくて。
一番そばにいて欲しい人の名前を呼ぼうとしたけれど、喉をついて出たのは掠れた吐息だけだった。
焼けるように熱い胸の奥。
枷となっていた何かが砕けて壊れたかのように、視界を埋め尽くす白の世界の中、わたしは声にならない声で大切な人の名前を呼び続けた。
誰も答えを返してくれないことを、わかってはいたけれど。
――……………………――
また、遠くで誰かが何かを囁いたような気がした。
優しいその声は、わたしが聞きたい声ではないような気がした。
――それでも。
優しく頭を撫でられる感触がして、それが少しだけ嬉しかった。
* * * * * * * * * *
――子どもの頃。
熱を出して寝込むのが、少しだけ好きだった。
いつもは仕事に行っているお母さんが、わたしのためにお休みをとってくれるから。
『春香ちゃん、大丈夫?』
苦しい、熱いとぐずぐず泣くわたしを、お母さんは突き放すこともなく甘やかしてくれた。
氷の入った水枕。柔らかなお布団。脱水症状にならないようにと、枕元に置かれていたスポーツドリンク。その隣にちょこんと座っていた、お気に入りのウサギのぬいぐるみ。
熱にうなされてなかなか眠れないわたしの手を握り、寝付くまで傍にいてくれたお母さん。
汗ばんだ額を優しく撫でてくれた、その記憶は確かにあるのに、あのときのお母さんの掌の感触はもう思い出せない。
ある日突然見知らぬ世界に来てしまって以来、わたしの頭を撫でるのはお母さんではなく別の人だった。
子ども扱いされているみたいで嫌だなぁ、とか。
そんなことを感じることもなく、ごく自然にその行為を受け入れていたのは、きっとそれだけ人の優しさに触れていたかったからなんだろう。
――大きくなるにつれて、寝込むことが好きだとは思わなくなっていった。
わたしのために仕事を休むということが、お母さんの負担になっていると気がついたから。
それに、病気で寝ているよりは元気に学校へ行っている方が楽しいから。
やっぱり人間健康第一で、寝込むのはあんまりいいことじゃない。
そう思っていたし、だから異世界に来てからもそれなりに健康には気を遣っていたんだけど。
――自分が思っているほど、わたしの体は強くなかったみたいだ。
「ハルカ様、お加減はいかがですか?」
「サラさん。大丈夫、そんなに心配しなくてももう平気だよ」
「ああっ、まだ起き上がってはいけませんわ。昨夜もまた熱が上がったではありませんか」
「う……。そ、そうだっけ?」
「そうですわ。ですからハルカ様、起き上がるのはもう少し体が回復なさってからにしてくださいまし。ほら、少し歩くだけでふらついているようではいけませんわ」
「うう。ごめんなさい……」
寝ているばかりの状態に飽きて部屋の中を適当に動き回っていたところ、飲み物を持って来てくれたサラさんに見咎められ、あえなくベッドに逆戻りした。なんだか小さい子みたいで恥ずかしいなぁ……。
「わたくしなどに謝られる必要などありませんよ。もう少しの我慢ですわ、ハルカ様。今までの疲れが……少し、お体の中に溜まっているだけですもの。今はゆっくりと体を落ち着かせてくださいませ。
さ、ハルカ様のお好きなジュシュレの果汁をお持ちしましたから、どうぞお飲みください」
いつもは滅多なことでは表情を変えないサラさんが、本当に心配そうな顔でそう言って励ましてくれる。若々しくて綺麗だけど、実際はわたしのお母さんとそう変わらない年齢の女性にそんな顔をされると、世話をかけているという恥ずかしさと申し訳ない気持ちでいっぱいになってしまう。
大人しくベッドの中に入り、サラさんにお礼を言って、花模様が彫られた華奢なグラスを手に取りオレンジ色の果汁を一口飲んだ。地球にあるグレープフルーツに似た味の、ジュシュレという果実の果汁。どこか懐かしいその味に、ちくりと鈍く胸が痛んだ。
殿下にアディートの最期の言葉――彼の願いを聞いた日から、一週間。
その日からずっと、わたしは寝込んでいた。
自覚はなかったけれど、殿下やサラさんが心配してくれていた通り、どうやらわたしの体は相当参っていたようだった。
自分ではちゃんと食事を口にしていたつもりだったけど、本当はまともに食べていなかったようで、今は食事をするのにも一苦労だ。胃が受け付けないということもあるけど、何より食欲が湧かない。以前なら美味しそうだと感じていた食事の香りですら、体が拒否する。それでも食べなくてはと思い口に入れるものの、すぐにお腹がいっぱいになってしまうのだ。
……今日。
サラさんに見つかるまで部屋の中をうろうろしていたとき、ふと思いついて化粧台の鏡を開けた。そして久しぶりに鏡に映った自分の顔をまともにじっくりと眺めて――少し、驚いた。
痩せたかもしれない、とは何となく思っていた。けれど実際には痩せたというよりやつれていて、とても健康そうには見えない蒼白い顔のわたしが、ぼんやりと鏡の中から見返してきた。
病人の顔。
一言でそう言い表すことができる、虚ろでぼんやりとした顔だった。
確かに、ベッドから下りて少しの距離を歩くのですらふらついたのだから、サラさんに言われるまでもなく、さっさとベッドに戻るべきだとは思っていた。だけど、ただ寝ているだけの状態にもいい加減飽きたのだ。もう少しでいいから、体を動かしていたかった。
一口、もう一口。
ゆっくりと果汁を飲みながら、ぼんやりと視線を彷徨わせる。
殿下に泣きつき気を失うようにして眠って以来、もう家族の夢は見ていない。
寝込んでいる間も、ずっと何かの夢を見ているような気はする。でも、起きたら全て忘れてしまっている。寝起きにいつも鈍く痛む頭は、よく眠れている――むしろ眠りすぎている証拠なのかもしれない。
――それでも。
目が覚めて、朝が来たと思う度。
その度に胸が苦しくなって、一人、ベッドの中でうずくまるようにして体を丸める。
以前は定時にわたしを起こしに来ていたサラさんは、今はもうわたしが起きてくるまで声をかけないようになった。
だからそれに甘えて、一人、どうしようもない苦しさに耐えている。
毎日、一日が始まることがどうしようもなく苦痛に感じる。
ここで生きていきたいと思ったのは確かなはずなのに、一番会いたい人に会えないことが辛くて堪らない。
思い出と呼ぶには新しすぎる、アディートがいたわたしの日常。
彼の死に向き合わなくちゃいけないと思う度、あちこちに残るアディートの痕跡に、心が脆く崩れそうになる。
強くなりたい。
そう思う。
殿下が言っていたように、わたしがこの世界にいることがアディートが生きた何よりの証だというのなら、そう在り続けたい。
そのために、強くなりたい。
どんなに苦しくても、この世界で生きていきたい。
その決意どおりに動けない自分が――弱い体と弱い心しかない、ちっぽけな自分がとても嫌いで、悔しい。
優しい笑顔を浮かべて、泣きそうなわたしの頭をそっと撫でてくれたあの人は、もうどこにもいない。
いつも通りではないサラさんも、いつも通りではないわたしの体も――何もかもが変わってしまった気がする。
思い出と呼ぶには新しすぎる。それでも途切れてしまった日常に、どう心を整理すればいいのだろう。
ぐるぐると思い悩み、あちこちにアディートの痕跡を見つけては途方に暮れる。
彼がわたしの部屋に置いていったままの、小さなランタン。
二人で出しに行こうと約束した、婚姻証書。
左手の薬指に嵌められた、『アディート』が咲く指輪。
手放せない大事なものはたくさんあるのに、一番必要な人がいない。
「――ハルカ様?」
突然かけられた声に、ようやく我に返った。
見上げると、ベッドの脇に立ったサラさんが心配そうにわたしを見つめていた。
グラスの半分まで飲んだジュシュレの果汁。それを手に持ったまま、ぼんやりと思考していたようだった。
「やはり、まだお疲れのようですね。一度お休みになられた方がよろしいでしょう」
「えっ。でも、まだ夕方だし」
「ですが、お顔の色もあまり良くありません。お食事の前に起こしいたしますから、どうか横になってくださいませ」
時計を見ると、まだ五時前。夕食はいつも七時半と決まっているから、二時間以上ある。
確かに手足は重くて身体全体がだるいけど、重病だってわけじゃないから起きていても大丈夫なのに。
「ハルカ様……」
「……わかった……」
サラさんに心配そうな顔をされると、どうにも反抗できない。
お母さんとは全く違う、でもどことなく似ていると感じる部分もある年上の女性。少し前までは王城にいるほとんどの侍女たちと変わらず基本的に表情が一定のままだったサラさんは、この頃わたしにちょっとずつではあるけれど、色々な表情を見せてくれるようになった。だからなのか、頼れる侍女さんというカテゴリー以上の、何か……年の離れたお姉さんのようにも見えるようになってきた。
自分のことを真剣に心配してくれる人のことを悲しませるような真似は、したくない。
わたしはグラスに残った果汁を飲み干すと、大人しくベッドの中に寝転んだ。
「では、ハルカ様。お食事の前にまた参りますので」
「うん、わかった」
ベッドの中から手を振るわたしに小さな苦笑らしきものを見せて、サラさんが優雅に一礼し、部屋を出て行く。礼をする姿も歩く姿勢も、凛としていてとても綺麗だ。
いつだったか、元は田舎の出身で山猿みたいな娘でしたから、なんて話してくれたけど、本当は礼儀とかの教育をしっかり受けて育ったんじゃないかな。ぎこちなさを一切感じさせない彼女の美しい所作を見ていると、自分にはとても真似できないと諦めにも似た溜息が漏れる。
そして、その溜息が思いのほか大きく聞こえ、少し驚いて周囲を見回した。
見慣れた室内は、もうずっとここで過ごしてきたにも関わらず、どうしてか他人の部屋のようによそよそしく感じられた。
「……寂しいな」
小さな呟きは、虚しく消える。
しんと静まり返った部屋の中には、わたし以外に誰もいない。
誰かがいても、安心して眠ることはできないような気がする。
でも、一人は嫌だ。
矛盾したことを思いながら、ぼんやりと天蓋を見上げた。
――ここに。
ここに、あの夜、一緒に眠ったはずの人がいない。
ツンと鼻の奥が痛んで、胸の奥の何かが音を立てて壊れた。
泣いたら駄目だと思う。
泣いたら、サラさんがもっと心配する。
殿下も……きっと、心配する。
泣いたらだめ。
わたしを慰めてくれた優しい手をもつ人は、もういないから。
そう思うのに、ふとした瞬間にわたしの心は決壊してしまう。
そしてまた、ぐるぐると答えの出ない思考の深みに嵌まる。
全部、ちゃんと受け入れて。
そして綺麗に笑えるように、強く生きていけるようになりたいのに。
わたしはまだ、小さな子どものように泣いてばかりだ。
綺麗な想いを抱えたまま、ただ強くあれたらいいのに。
まだ、上手に歩くことすらできないでいる。




