形而下の神 ――落ちてきた月――
閑話です。
――…………の
――……わたし の
わたし の
わたし の
なか の
わたし の なか の
あなた
わたし の なか の あなた
わたし の なか の あなた
あなた の なか の わたし
きえた あなた を なげく わたし の こと を
あなた は しって いる だろう か
わたし の さけび は かぜ と なり
なみだ は うみ と なって
あなた の からだ を みたそう と する
あなた の ため に えぐった
わたし の ひとみ
あなた を おおう わたし の からだ に こぼれ おちて
ゆるやか に めぐり つづける
わたし の ひとみ の ひとつ は
たいよう と なり
わたし の ひとみ の ひとつ は
つき と なって
あなた の からだ を てらし つづける
くちて いく あなた の からだ を
だきしめる ために のばした うで は
ちぎれて ちぎれて ちぎれて ちぎれて
ばらばら に なって
わたし が うんだ かぜ に のり
そら に まいあがり
ちいさな ちいさな たくさん の ほし に なる
あなた の からだ に ふれる こと も
あなた の すがた を みる こと も
あなた の こえ を きく こと も
もう えいえん に かなわない と いう の なら
わたし は わたし の なか に のこる
あなた の かけら を
あなた に かえし つづける
また いつか
あなた と ひとつ に なる ため に
そして つぎ に あなた と ひとつ に なれた なら
そのとき は
わたし の すべて を あなた に ささげたい
わたし の すべて を あなた に ささげたい
わたし の すべて を あなた に ささげたい
わたし の すべて を あなた に ささげたい
わたし の すべて を あなた に ささげたい
わたし の すべて を あなた に ささげたい
* * * * * * * * * *
もしも、と彼は呟いた。
多くの人間が好む清潔さとは無縁の場所で、汚濁に塗れた姿のまま、傍らに月と同じ色彩をもつ異形を置いて。
「もしもの話だけれど。
もしも、世界が美しくて温かくて優しいもの――愛や希望から生まれたのなら、滅びるときもそうでなければいけないとは思わないかい?」
外界から完全に遮断された空間。
ここからは見えるはずもない空を見上げて、静かな声で呟いた。
語りかけるというよりも独り言に近いそれに、しかし傍らにある異形は答えた。
「つまり、愛から生まれた世界は愛によって滅びるべきだと? なかなか幻想的な考えだね」
淡々としたその声に、彼は小さく笑っただけだった。肯定も否定もしない。声を出さずに笑ったまま、外界に広がる夜空のように光沢のある豊かな黒髪を白い指先で無造作にかきあげる。
動作の一つひとつが洗練されており優雅な彼は、何をしても生来もつ気品を貶めない。そういうところが、彼とよく似た顔立ちをしていた『姫君』にとてもよく似ている。
一応個体として存在してはいるものの、実際には母体から無数に広がる枝葉の一つにしか過ぎないわたしには、人間の美醜が未だにうまく判断できない。何かを美しいと感じる心が欠けているのだろう。
だが、美醜の判断に必要な最低限の知識はある。わたしの母体である存在が、誰よりも美しいと記憶している『姫君』。彼は彼女にとてもよく似ている。
顔立ちだけではない。光沢のある黒髪と同色の瞳、雪のように白い肌。その色彩も、また同じ。高く澄み深く響く歌声もよく似ている。はっきり違うと言い切れるのは性別と性格だけだ。
――逆に言うなら、だからこそ彼と『姫君』は全く異なる存在なのだが。
「……さて。僕はもう戻るけど、あなたはどうするの?」
「うーん。もう少しここにいるよ」
「そう。あんまり遅くならないようにね。あなたのことだから大丈夫だろうけど、月のない夜には性質の悪い奴が出てくるから」
「わかった、気をつけるよ。でもここは月の光が差さないのに、月の満ち欠けに影響される生き物がいるんだね。面白いな」
飄々と答える異形に、彼は複雑そうな表情で溜息をついた。
人間の使う暦に従えば、今からおよそ二週間ほど前――この異形は、血族に代々伝わってきた貴重な書物の類を滅多に他者が寄り付かないこの場所でせっせと燃やしていた彼とわたしの『苗床』の目の前で、炎の中にどこからともなく落下してきた。
わたしの『苗床』が驚く間もなく、彼は異形を「邪魔だ」と炎の中から引きずり出した。そして、結局その日は異形を彼の住まいへと連れ帰ってしまった。
長いとも短いともいえないその間、異形と共に過ごしている彼が何を思ったのかはわたしには分からないが、彼がそこまで異形の心配をしているわけではないことは何となく感じ取れた。
その証拠に、彼は異形の言葉に溜息を吐きつつもひとつ頷くと立ち上がり、あっさりと身を翻した。
彼の動きにつれて揺れる長い髪と凛とした背中に、わたしの中に残る『姫君』の後ろ姿が被る。
「じゃあ、僕は祈りの間にいるから。戻ったなら声をかけてよ」
「うん。お祈り、頑張ってね」
異形は彼から視線を外し、わたしを見る。
地面に横たわったまま動けないでいるわたしの『苗床』ではなく、そこに宿るわたしを見つめる。月によく似た青白い光を帯びた銀色の目で、興味深そうに。
背を向けたままの彼は異形の様子には気づかないまま、「まぁ、ほどほどにね」と答えた。その声に微かにまじる、嘲りとも苛立ちともつかない何がしかの感情。
彼は『神』を厭っている。彼の血族は『神』の教えを人々に説く立場にあるにも関わらず、彼は心底『神』を厭い、嫌悪している。
容易く人を制御するくせに、逆に人から制御されることのない――と考えられている『神』という存在が、彼は本当に嫌いなのだ。
けれど彼は滅多にそれを表に出さない。淡々と、いかにも当たり前のように『神』の存在を肯定している。彼は『神』が嫌いだが、その存在がもたらす安定や団結が人々にとって必要なものだと思っている。
このことは彼が異形とわたしの『苗床』だけに打ち明けたことだから、他の者は誰も彼の内心を知らないのだろう。当然だ。彼の考えは、『神』を否定するに等しいものだから、聞いても誰も受け入れはしないだろう。
今にも生物としての活動を停止しようとしているわたしの『苗床』は、彼のそういう考えに納得してはいなかった。しかし、理解はしていた。わたしの『苗床』は自らの血族のあり方に疑問をもち、それを調べていく過程で彼と親しくなったからだ。
「――ああ、そうだ。その子の死体は放っておいて。後で適当にうちの連中が片付けるだろうから。あなたは絶対に触らないでよ」
数歩進んだ彼が、悠然と振り返る。光沢のある黒髪がふわりと舞い、彼の周囲に小さな夜空ができた。
彼は優雅でありながら餓えた獣のような獰猛さを秘めた、とても美しい笑顔で異形に釘を刺す。
獲物を弄びながら追い詰める、賢く気高い、それでいて優美な野生の獣のような――『姫君』と同じ笑み。儚さではなく屈強さを感じさせる、見る者に畏怖すら与えるその笑顔は、きっと誰よりも「美しい」のだろう。わたしの幹であり根である存在――わたしたち枝葉の根源にある、始まりの存在が宿す記憶が強く刺激される。
「わかってるよ、そう心配しないで」
「あなたのそういうところ、いまいち信用できないんだけどねぇ……。お願いだから余計な真似はしないでよ、本当に。――じゃあ、また後でね」
美しい笑みをあっという間に呆れ顔に変えて、彼はひらひらと白くしなやかな手を振り去って行った。
残された異形は、不思議そうな顔をしつつわたしの『苗床』に近寄ってきた。
灰色の石床の上に倒れて最早虫の息である、わたしの『苗床』。
それに触れるか触れないかくらいの位置で立ち止まり、しゃがみこんでぎこちない笑みを浮かべる。
「彼はああ言ったけど、どうしたらいいのかな? 君がそこから出るの、手伝ってあげようか?」
わたしは『苗床』を使って答えた。
「かまわない。すでに、つぎのなえどこにたねをうえつけてある」
ごぼごぼと内部から溢れ出る体液のせいで、うまく言葉を紡げない。しかし、異形にはきちんと伝わったようだった。納得したように頷いて、しげしげと見つめられる。
「ふうん。それにしても、随分と窮屈な場所にいるんだね。そこは狭くない?」
「なえどことしては、ちょうどいい」
「そうなんだ。変わってるんだね、君」
異形に変わっているなどと言われる筋合いはないが、言い返すのも面倒なので黙っておいた。
この『苗床』は、確かに個としては矮小で狭いかもしれないが、わたしが存在するには十分な広さだ。しかし本当のことを言えば、これ以外の生物の方がわたしたちの『苗床』には適している。他の多くの枝葉はこれ以外の生物を苗床としている場合が多いが、わたしはずっとこれを『苗床』として選んでいる。
『苗床』に根を張り幹を伸ばして枝葉をもうけ、そして母体の命令を忠実にこなすことが、わたしたちの存在意義だ。それさえ遂行できるのならば、どのような生物を苗床にしようとさして問題はない。ならば、わたしが何を『苗床』に選んだとしても構わないだろう。
そんなことを考えていると、異形は首を傾げながら小さく唸った。何かを思い出そうとするように、片手で額を抑える。
「えっと……よく分からないけど、君はあれなのかな。彼らが探している人。君は人じゃないみたいだけど、そうなのかな」
困ったように首を傾げて問う異形に、さて、どう答えるべきか。『姫君』によく似た彼と、彼の一族が長い間探し続けている《女》。わたしは彼女ではないが、彼女の一部ではある。母体である彼女のごくごく一部――枝葉のひとつなのだから。
だから異形に対してはっきりと言えることは、ただ一つ。
「わたしに、こたいとしてのなはない」
わたしには個体としての名がないことだけ。
「ふうん。不便だね。仮にでも名前をつければいいのに。おしゃべりするとき不便でしょう」
「わたしにたしゃとかんけいをもつひつようはない」
「そうなの? じゃあどうしてそんな場所にいるのかな」
「おまえにこたえるひつようはない」
「そう。ならいいけどね。……でも、次の苗床とやらにはどうやって移動するのかな。その子、もうすぐ死んじゃうよ」
ぎこちない笑みを浮かべながら、異形はわたしの『苗床』を指差す。
『苗床』の意識は既にない。わたしの養分となって消えてしまった。
わたしが次の『苗床』に移動するのは容易い。植えつけた種はわたしの一部なのだから。意識をそこへ移せばいいだけだ。流石にそこまで異形に答える筋合いはないから、黙っておくが。
異形は興味深そうにわたしとわたしの『苗床』を眺めていたが、やがて立ち上がり首を傾げた。
「変わってるね、君。僕が何者か聞かないんだね」
「おまえのしょうたいなどきょうみがない」
「そう。じゃあさ、君の寝床の一部を壊してしまっても怒らない?」
軽く言う異形の正体に興味がないのは本当だが――全く把握しきれない、というのが正しい気がする。大体わたしは《小さき者》のように万能の力を持ってはいないから、怒る怒らないよりも前に、この異形を止めることなどできやしない。
「すきにしろ。わたしはぼうかんしゃにすぎない。めいれいいがいでたしゃのせいにかんしょうすることはできない」
「……ふうん。なるほどね」
半月状に吊り上がる唇を見つめながら、この異形の近くに彼がいても大丈夫だろうか、と思った。
別に、彼のことを心配しているわけではない。
ただでさえ安定しているとは言いがたいこの場所に異形と彼がいることが、何故か不安に思われた。
未来を予見することなどはできないが、何か良くないことが起こるのではないか――そう感じてしまう。
「まぁ、その話は置いておくとして。他にも君にいくつか聞きたいことがあるんだけど、いいかな?」
「……すきにしろ」
「ありがとう。じゃあ、まずはこの場所についてなんだけど――――」
異形の質問に適当に答えてやりながら、『苗床』の生が終わったのを感じた。
わたしは『苗床』の生命活動が停止しても、二、三日ならば器のみを動かすことができる。
異形もまた『苗床』が死んだことには気がついたようだったが、特に何も言わなかった。
さて、この質問が終わったら、次の『苗床』に移動しなくては。
名もなき《わたし》は、苗床を渡り傍観し続ける。
母体である《彼女》から命じられるままに。




