掌の中の永遠(4)
灯りを消して、暗闇に包まれた室内。
ベッドの天蓋から垂れたカーテンを閉め切って、誰にも邪魔されない小さな世界を二人で作った。
暗い天蓋の中をぼんやりと照らしているのは、夜空に浮かぶ月の光よりもずっと暖かな、お日様のような淡いオレンジ色の光。アディートが、自分が持って来ていた小さなランタンをわたしと一緒に天蓋の中に引き入れたのだ。
小さなランタンの中には水が満たされていて、電球や蝋燭ではなく黄色いビー玉のようなものが浮いている。灯りを点けるときはランタンの蓋を開けて、中にもう一つ、赤いビー玉のようなものを入れる。すると、ふわりと淡いオレンジ色の光が点るのだ。
ビー玉によく似た二つの石は、この国では庶民の間にも広く普及している安価な照明用の『魔法具』の一つで、王城の各所に設置されている照明はそれの改良版らしい。
この世界と元いた世界とを比べてみると、科学技術は元いた世界の方が進んでいるけど、この世界には魔法を組み込んだ『魔法具』がある。それが立派に電気などの代わりを果たしているのだから、科学技術があまり発達していないのも、ある意味当然のことなのかもしれない。
そんな風にもやもやと別のことを考えながら、優しく触れてくるアディートの方をなかなか直視できずにいた。
「……暗いままでいいのに」
淡い光に照らされて暗闇に浮かび上がったアディートは、わたしの呟きを聞いてくすりと笑みを零した。
「明るい方がいいって、すぐに思えるようになるから」
そう囁いたアディートの笑顔は、いつもより少しだけ意地悪な気がした。
髪を梳いて頬を撫でる、優しくて温かな手が好き。
わたしの名前と、柔らかくて温かな言葉を囁く低い声も、好き。
指通りのいい黒髪には艶がある。薄い青色の瞳は、晴れた冬の朝の空みたいに澄んでいて、本当に綺麗だ。整った顔は無表情だと冷たそうな印象だけど、笑った顔は視線を惹きつけて離さない。
一緒にいると、すごくどきどきする。でも、それと同じだけ、アディートがわたしの側にいてくれることが嬉しくて、とても安心できる。
二人きりになったとき、優しくて甘い顔で笑ってくれるのも、砕けた喋り方をしてくれるのも、全部が心地良い。
大好き。愛してる。
それ以外の言葉も使って、もっとたくさんの気持ちを伝えたかったけど、うまく言えなかった。
でも、アディートはわたしの気持ちなんて全部お見通しだという風に微笑んで、優しく抱きしめてくれたから――わたしは結局、自分の気持ちをちゃんとアディートに伝えきれないまま、それで満足してしまった。
アディートとわたしには、たくさんの違いがあった。
生まれた世界が違う。人種が違う。性別が違う。これまで生きてきた人生の在り方が、全然違う。
でも、二人であったかい家族を作ろうと約束した。この世界で、一緒に生きていくために。
暖かな光が照らす、小さな世界の中。
一瞬だけ、全部融けてしまえばいいのにと思った。
身体も心も融けてしまって、アディートと混ざり合えたら、永遠に幸せなのに――そう思った。
でも、わたしとアディートは別々の人間で、別々の肉体と心と命を持っていた。融け合うことはできず、ただお互いを確かめ合うことしかできなかった。
身体も、心も、命も――言葉を交わして、色んな表情をして、たくさん触れ合って、そうして確かめ合った。
アディートとわたしには、たくさんの違いがあったけれど、同じ部分も確かにあった。
大好き。愛してる。――それ以上に、もっと、深く。
心の中にあって、命に繋がり、身体を支配していた想いは――確かに同じものだった。
別々の人間だから、手を伸ばして抱きしめた。違いがあるから、何度も確かめあった。
確かめ合って、そうして未来を作っていけばいいと思った。アディートと、二人で。
天蓋の中の暗闇を照らす淡いオレンジ色の光はとても優しくて、やっぱり明るい方がいいなぁと呟いたら、アディートは可笑しそうな顔をした。
ほら、最初に言ったとおりになっただろう――というのは、そのときのアディートの意見。それはなんだかなぁと思ったけど、楽しそうなアディートの顔を見たら何も言えなくなってしまった。
いつだったか、アディートがしつこく注意した通り、男はみんなケダモノなんだなぁとちらっと思ったけど、わたしとしては、アディートに食べられるのは本望だったから。
左手の薬指にアディートが嵌めてくれた金の指輪が、時折ランタンの光を反射して輝いた。
天蓋の中の小さな世界で、精一杯お日様の代わりを務めていた小さなランタンは、外に広がる大きな世界が朝になるまでに消えてしまった。
アディートは翌朝の早い時間から殿下の元へ行って遠征の最終確認をし、昼過ぎには南部の国境地帯に向かって出発する予定だった。
遠征は三週間、あるいはもっと早くに遠征は終わる。そうすれば、またアディートに会える。
でも、まだこのままでいたい。アディートとしばらくの間離れ離れになるのは、やっぱり寂しい。
ぎゅうっとアディートに抱きついて、二人で作ったこの小さな世界の永遠を、密かに願った。
抱きしめ返してきたアディートの、筋肉のついた硬い腕の感触と、とくとくと内側から響いてきた鼓動を覚えている。
綺麗な薄い青色の瞳には、わたしだけが映っていた。薄い唇が動き、低い声がわたしの名前を紡ぐのを、いつまでも見ていたかった。
手を伸ばして触れるのは、柔らかく微笑んだアディートだけで――もう、他には何もいらなかった。
淡いオレンジ色の小さなお日様が照っていた、小さな世界の中。
少し熱くて、でも優しくて、嬉しくて。
泣きたいくらいに幸せな、最初で最後の夜だった。
本当はわかっていたのに、わからないふりをしていた。
ちゃんと向き合わなくちゃいけないのに、卑怯で臆病なわたしは目を瞑って耳を塞いで、逃げてばかりいた。
あの夜、わたしとアディートが作った小さな世界。二人で囁きあった、あったかい家族を作ろうという約束。これから何度も繰り返して、積み重ねていくと思った未来。
もう、全ては永遠に消えてしまった。
黒い髪と綺麗な薄い青色の瞳。強くてかっこいい、異世界の騎士。わたしの大好きな旦那さま。
アディートは、もう帰ってこない。彼は死んでしまった。ちゃんとしたお別れなんて何一つできていないまま、この世界の何処にもいない。
わたしとアディートが作った小さな世界は、あの夜に永遠に終わってしまったのだ。
伝えたい言葉があるのに、もう、会えない。
会いたい。
アディートに会いたい――――
* * * * * * * * * *
優しく髪を撫でる、誰かの手。その感覚に、ゆっくりと覚醒する。
重い瞼をのろのろと持ち上げると、手はピタリと動きを止めた。すっと離れていく温もりが、何故か少し寂しかった。
「……ハルカ? すまない、起こしたか」
ぼんやりとして焦点が合わない視界の中、すぐ傍で聞き覚えのある声がした。囁くような小さな声は、それでもはっきりと聞きとることができた。
「……でんか……?」
声のした方を見ると、ベッドの端に腰掛けた殿下が、心配そうな顔でわたしを覗き込んでいた。きらきらと光沢を放つ金色の髪がお日様のようで、殿下の美貌と相まって、少しだけ眩しく感じる。
束の間、いつもと変わらず綺麗な殿下の顔を呆けたように見つめた。瞼が少し腫れぼったいのは、どうしてだろう。声も掠れているし、手足に鉛でもつけられたかのように、酷く身体が重い。
ふかふかのベッドに横たわったまま、眠りにつく前までの自分の行動を思い返そうとした。今、何時だろう。天蓋のカーテンは開けられていて、部屋の中に日の光が差し込んでいるのがわかる。朝というには明るすぎる気がするから、ひょっとしたらお昼近いのかもしれない。
……わたし、寝過ごしたのかな。
いつもなら寝坊しても定時に必ずサラさんが起こしてくれるのに。ちゃんと決められた時間に起きて食事をとらないと、アディートが来る時間になってしまうから。
そう考えて、ふと思考が止まる。
……もうずっと、アディートに会ってない。だって、アディートは――
「でんか……」
掠れた声で言葉を紡ごうとした矢先、殿下に「待て」と言われた。思わず言葉を止めると、殿下は立ち上がって部屋の外に出て行った。そして、入れ替わるようにしてサラさんが部屋の中へと入ってくる。
「ハルカ様」
目が合った瞬間、いつもはあまり表情を変えないサラさんがほんの少しだけ顔を歪めた。まるで泣き出す寸前のようなその表情に、驚くと同時に困惑する。どうしたんだろう。
サラさん、と声に出して名前を呼ぼうとしたけど、喉の奥がヒリヒリと痛みを訴えてうまく声を出せなかった。代わりに何度も乾いた咳が出る。
喉、痛い。大声を出した後のように、声も割れて掠れている。
「ハルカ様、大丈夫ですか?!」
枕に顔を埋めるようにして咳き込むわたしを心配したのか、慌てた様子で駆け寄ってきたサラさんが、わたしの背中に片腕をまわしてさすってくれる。薄い布ごしに感じる温かさに、咳き込みながらも自分が夜着を着ていることに気がついた。
……わたし、いつ着替えたんだっけ。
痛む咳を繰り返しながら、小さく疑問に思う。
昨日。
いつものようにわたしに会いにきた殿下に連れられて、アディートに会いに行った。
神殿の奥に広がる、緑の芝生が生い茂った丘。そこにあるたくさんの黒い大きな石の一つ――アディートの名前が刻まれた石の前で、殿下と話をした。
そのとき、わたしは殿下に……。
――じくりと、こめかみが鈍く疼いた。
「落ち着かれましたか? お水をどうぞ」
ようやく咳が止まったのを見て、サラさんがサイドテーブルの上に置いてあった水差しからグラスに水を注ぎ、手渡してくれる。
小さくお礼を言って受け取るために体を起こそうとしたけど、
「……あれ?」
体に、うまく力が入らない。
上半身を起こすために肘をついたのはいいけれど、そのままがくんと崩れ落ちてしまった。どうしてだろう。もう一度やってみるけど、やっぱり途中でがくんと崩れ落ちてしまう。
「ハルカ様、どうかそのままで」
いつもより少し慌てた声で、サラさんが一旦グラスをサイドテーブルに戻し、すぐに近寄ってくる。そして「失礼します」という声と共に、片腕で背中を支えるようにして起こされた。
ようやく上半身を起こすことができた瞬間、ぐらりと頭が揺れて軽く眩暈がした。
あれ……なんだろう、これ。くらくらする……。
目を回したような状態になったわたしの背中を、ベッドに積まれたたくさんの枕を手早く背もたれになるように調節したサラさんがそっと押してくれて、ぽふりとそれにもたれかかる。それでようやく、眩暈を治めることができた。
「サラさん、おはよう……」
「はい。おはようございます、ハルカ様。お水をどうぞ」
「ありがと……」
まだ少しだけくらくらする頭に顔を顰めながら、掠れた声でなんとかお礼を言った。サラさんはいつも通り穏やかな声で挨拶を返してくれた後、先ほどの水で満たされたグラスを手渡してくれた。
両手で抱えるようにしてグラスを受け取り、ゆっくりと口をつける。ほのかに甘い檸檬水のような味の水は冷たくはなく、ちょうど飲みやすい温さだった。
干からびた地面に雨水が行き渡るように、じわじわと乾いた喉に潤いが満たされる。
ごくごくと飲み干して、ほっと一息ついた。相変わらず手足は重いし体調は良好とは言いがたかったけど、少しだけ楽になったような気がする。
「サラさん、今、何時くらいかな」
「お昼を少しまわったところですわ。いつもの昼食の時間は過ぎておりますが、何か軽いものを用意させましょう」
空になったグラスをサイドテーブルに戻した後、チェストの中から取り出した淡いピンク色のストールをわたしの体に巻きつけながら、サラさんがそう答えてくれた。
正直、あまり食欲はないけど、心配そうに少し眉を寄せたサラさんに見つめられて、つい頷いてしまった。途端に安堵したような表情で小さく微笑まれて、ずきりと胸が痛む。どうやら、すごく心配をかけてしまっていたようだ。寝過ごしたことも何も言われないし、もしかしなくても、たくさん迷惑をかけたんじゃないだろうか。
「あの、サラさん……」
「王太子殿下は扉の外でお待ちです。……お会いになられますか?」
心配かけてごめんなさいと言おうとして、口に出す前に全然違うことを言われてしまった。でも、その言葉ではっとする。
「殿下はいつから、この部屋に?」
「朝食の時間帯にもお見えになったのですが、そのときにはまだハルカ様はお眠りでしたので、少し時間をずらしてまた来ると仰いまして……。ハルカ様がお目覚めになる少し前にお見えになったばかりです」
「そうなんだ……。起こしてくれたらよかったのに」
言いながら、思わず俯いてしまう。
胸の奥から溢れてくる、殿下に寝顔を見られたという恥ずかしさや、二度手間をかけさせてしまったという申し訳なさ。――それに、昨日のこと。
殿下に酷い言葉をぶつけてしまった。子どもみたいに泣き喚いて、めちゃくちゃに。
胸に残る、後悔と罪悪感。――それなのに、何故か少しだけ心が落ち着いている。
自分一人で言いたいことだけ言ってすっきりするなんて、最悪だ。そう思うのに、昨日よりもずっと、頭の中が冷静になっている。
「……ハルカ様? 王太子殿下にお会いになるのは今日はやめておきますか?」
気遣わしげに言われて、はっと顔を上げて首を横に振る。
そのせいでまたもくらりとした眩暈を感じながら、どうにか持ちこたえてはっきりと答えた。
「ううん、会うよ。……会いたい、から」
――すごく、怖いけど。
サラさんは心配そうな表情をしながらも、頷いてくれた。体調があまり良くないからくれぐれも無理はしないようにと言って、殿下を呼びに扉へ向かう。
王太子を廊下に待たせるのって、問題かな。
ちらりとそんなことを思いながら、視線を自分の手元に落とす。ふんわりとしていて温かな毛布を握り締めた自分の拳は、とても小さくて脆いように感じた。
サラさんが出て行ってから程なくして扉が開き、誰かがこちらに歩み寄ってくる気配がしても、なかなか顔を上げられなかった。
ぎしりスプリングが軋む音と共に、俯けていた頭をそっと撫でられて、ようやくそっと視線を上げる。
「……殿下」
「よく眠れたようだな、ハルカ」
お日様の光を集めたような、綺麗な金色の髪がさらさらと揺れる。
わたしのすぐ近くに腰掛けた殿下は、優しそうな笑顔を浮かべて頭を撫でてくれた。
いつもと全く変わらない、透き通るような翡翠の瞳と視線が絡み、小さく体が震える。
――アディートを返して! 返してよ! ――
一度放ってしまった言葉は、どんなに取り繕っても元に戻せない。
どうしようもなくて、躊躇いながら口を開いた。
「殿下、あの、昨日は……」
「駄目だ」
静かな声と共に、謝罪の言葉を紡ごうとしたわたしの唇に白い手袋を嵌めた殿下の長い指がそっと当てられる。
唇を中途半端に開いたまま、戸惑って殿下を見返す。
「駄目だよ、ハルカ。言っただろう? お前は何も悪くない。謝る必要などどこにもないのだよ。だから、私に対してその言葉を言ってはいけない」
静かに微笑む殿下は、とても真摯な声でそう告げた。
その言葉の意味を理解するまで、少し時間がかかった。
わたしの謝罪を拒む、殿下の意思。
不意に、胸の奥をぎゅっと締め付けられるような痛みが走った。
「……でも」
「でも、は無しだ。私がお前に謝ることはあっても、お前が私に謝ることは何もない。何もないんだよ、ハルカ。……お前の大切な男を、私が奪ってしまったね」
言われて、顔が歪む。じくりとまた、こめかみが鈍く痛んだ。うまく力の入らない手で、それでも強く毛布を握り締める。
唇に当てられていた指が離れて、頬に触れる。汚れ一つない純白の手袋は、滑らかで心地いい。
その心地よさが苦しくて苦しくて、たまらない。
「……殿下」
「なんだ、ハルカ」
「どうして、アディートは殿下を庇ったのかな」
小さく呟く。
誰にも聞けない、答えが分かりきっている問いかけ。
「……あいつは騎士だ。だからだろうな」
穏やかな声で、殿下が答える。
その答えが予想通りで、なんだか可笑しかった。
可笑しくて、笑おうとしたけど、何故かぽたりと透明な雫がこぼれおちた。細かな花模様が描かれた毛布の上に、小さな染みができる。
本当はわかっているのにわからないふりをしている殿下は、多分わたしに気を遣っているのだと思う。その優しさが温かくて、少しだけ寂しかった。
だから、言ってあげる。
「殿下。あのね、アディートは殿下のこと、すごく好きだったんだよ」
無表情で黙っていると、少し近寄りがたい雰囲気のアディート。
整った顔をしている分、淡々とした対応をされるとあまり気安く振舞えない。
でも、笑うとすごく綺麗でかっこいいのだ。
もちろん無表情でもかっこいいけど、アディートの優しくて綺麗な笑顔の破壊力はすごい。
わたしの大好きな笑顔。
でも、他の表情も好き。
怒ったり、呆れたり、脱力していたり。おかしな話だけど、アディートは殿下といるときに一番気を緩めて、色々な表情を見せていたように思う。
「アディートは殿下のことがすごく好きだから、殿下が危ない目に遭ってたら真っ先に動いて助けるんだよ。アディートは、殿下のことが好きで大切だから庇ったんだよ」
「……ハルカ」
「わたしは、そんなアディートが好きだから。だから、そのせいで死んでしまっても、アディートのことを嫌いになんてなれない。……でもね」
ぽたり。ぽたり。
いくつも、雫が落ちる。
どこから溢れてくるのかわからない。温かい、透明な雫。
どうしてだろう。
どうして、わたしはちゃんと受け入れられないんだろう。
「でも、ほんの少しだけ、寂しくて……悲しい。アディートが殿下を庇うのは当たり前なのに。どうしてかな。少しだけ、それが寂しくて悲しいの」
笑おうとしたけど、うまく笑えなかった。
声が震えてしまう。
どうしてだろう。
どうしてわたしは、ありのままを受け止めることができないんだろう。
こんなことを殿下に言ってもまた傷つけるだけなのに、自分の気持ちを吐き出してしまう。
「……アディートのことが、好きなの。本当に、大好きなの。世界で一番好き、なのに……」
まだ、自分の気持ちをちゃんと整理できていない。
でも、これだけは、確かに本当のことだから。
そう伝えたい。
アディートに会って、そう伝えたくてたまらない。
わたしはアディートの遺体を見ていない。殿下や騎士さんたちが語った話の中でしか、彼の死を知らない。
殿下を庇ったアディートの姿。穏やかな顔で殿下の剣を受けたという、彼の最期。
話を聞けば、想像してしまう。――大好きな人の死んでいく姿なんて、想像したくないのに。
優しく微笑むアディートの顔から生気が抜けていき、魂の消えた、空っぽの身体だけが残る。そんな場面、見たくない。知りたくない。
でも。
それが真実なら、アディートは自分の行動を後悔なんてしていないはずだ。
だから、そのことを責めることはできない。
誰よりも最初に動いて、殿下を守るアディート。
そんなあなたが、とても好きだから。
ぽたぽたと流れ落ちる雫を、頬にそえられた殿下の手がそっと拭う。
滲む視界に映る殿下の顔は、とても優しい。
――そんな顔、しないで。
そう言いたいのに、言葉にできなかった。
「お前がアディートのことを誰より好いているのは知っているよ。アディートも、お前のことが好きだった。……他の誰よりも」
静かな声が、胸に突き刺さる。深く、深く。
答えることができないのに、殿下は気にせず言葉を紡ぐ。
「ハルカ。お前が私を庇って死んだアディートを責めるのも、その原因である私を責めるのも、おかしなことではない。アディートを愛しているから憎らしく思うのだろう? だから、先に死んだことを責めたくなるのだろう? ――構わないんだよ」
ふわり。
柔らかく、抱きしめられる。
強い力ではない。優しく、包み込むような抱擁だった。
「……殿下、わたしは」
「構わないんだ、ハルカ。私もアディートも、お前にどれだけ詰られ責められようと、絶対にお前のことを嫌いになどならない。呆れることも、怒ることもない。お前のことを嫌ったりはしない。そんなことはできない」
「……殿下」
「拒みたければ拒めばいい。憎みたいのなら憎めばいい。泣きたければ泣けばいい。信じられないのならば何度でも言うよ。アディートも私もお前を嫌ったりはしない。……絶対に」
――言葉のひとつひとつが、胸に突き刺さる。
どうして、そんなことを言うんだろう。
どうして、そんなに優しいんだろう。
わたしは、自分がこれからどうすればいいのかもわからないのに。
「……殿下。アディート、本当に怒ってないかな……」
小さく尋ねると、「当たり前だ」という答えが返ってきた。揺らぐことのないその声に、少し心が落ち着く。
「アディート、わたしのことを嫌いになったりしないかな……。わたし、アディートが死んでしまったこと、ちゃんと理解できなかった」
暗闇の中でわたしを見つめていた、アディートの幻。
怒っていながらも、とても悲しそうな顔をしていた。
「アディートはお前を嫌ったりしないよ。大丈夫だ。それだけは、絶対にありえない」
「……そうかなぁ」
「そうだよ。当たり前だろう? ……アディートはお前のことを、愛していたから」
殿下が小さく笑う。
笑いながら、片腕を外してそっとわたしの左手を包み込む。
薬指に咲く、小さな『アディート』の花。
手袋を嵌めた白い指先でそっとなぞって、囁いた。
「ハルカ。お前は、私のことを嫌いになってもいいんだよ。アディートのことを憎むことはできないだろうが、私のことならどうとでもなるだろう。私を庇ってアディートは斬られ、私が止めを刺して殺し、遺体を燃やした。……アディートの死には私にも責任がある。私と顔を合わせるのが苦痛なら、王城を出て生活できるように手配しよう」
静かに告げられた言葉に驚いて、殿下の顔をまじまじと見つめる。
綺麗な顔に柔らかな笑みを浮かべて、殿下は諭すように言葉を続けた。
「お前の後見役は引き続き私となるが、お前が嫌ならば会うのはやめよう。生活には絶対に不自由させない。いくらかの制約はかかってしまうが、それでも王城にいるよりは自由になれるだろう。
……この世界はお前の生まれ育った場所ではないが、お前の居場所が何処にもないというわけではないんだよ、ハルカ」
「殿下……?」
「できうる限り、お前の希望に添うように手配しよう。……だから、ここからいなくならないでくれ」
一瞬だけ深みを増した翡翠の瞳に、どきりとする。
頭の中を一瞬、最近よく見る夢――家族がわたしの名前を呼ぶ夢が掠めた。
「殿下、あの……言ってる意味が、よくわからないよ」
夢の内容は、誰にも話していない。殿下だって、もちろん知らないはずだ。それなのに、どうしてそんなことを言うんだろう。
わたしの困惑をよそに、殿下は真剣な表情になってわたしを見つめてきた。
強い光を宿す翡翠の瞳は、何もかもを見透かしているかのようだった。
「……アディートに頼まれたのだよ。あいつが死んだ後も、王家の者がお前を庇護するようにと。そして、お前が……間違っても自分の後を追わないようにしてくれ、と」
呼吸が、止まる。
どくりと大きな音を立てて、心臓が鼓動を打った。
アディート。
最期にそんなことを頼んで、死んでしまったの……?
アディートに自殺を止められたあの夜のことが、真っ白になった頭の中に唐突に思い出された。
死にたい、と思った。
そして、死のうとした。
孤独と絶望に耐え切れなかった。
一人だけ目の色や顔立ちが違っていて、習慣や礼儀もよくわからない、そんな世界が怖くて嫌だった。誰にも本心を曝け出すことができなくて、苦しくて辛くて、押し潰されそうだった。
わたしが自分で突き刺そうとした短剣。
それを止めたアディートの表情。
アディートは。
アディートは――――
「馬鹿なことを言うな、お前が絶対に助ける、とは言ったんだがな。絶対にハルカの元に連れて帰るからもう喋るなと言っても、あいつは全く聞かなかった。一方的に言いたいことだけ言った挙句、私に剣を抜くように脅迫までかけてきた。
……だが、アディートは最期までお前のことを考えていたよ。身勝手な望みなのはアディート自身承知していたが、それでもお前には生きてほしいと言っていた。辛くとも、この世界で生きてほしいと」
それは私の望みでもある、と小さく囁かれる。
どう答えればいいのかわからなくて、殿下を見る。
綺麗な顔に浮かぶのは、どこまでも真摯で誠実な表情だけだ。
嘘じゃない。殿下は、こんな嘘なんてつかない。
……アディート。
アディートがいなくなった世界にも、わたしはいていいのかな。
胸の中で問いかけても、答えはどこからも返ってこない。
「……ハルカ。アディートの生い立ちについて、あいつから聞いたことはあるのだろう?」
「え……」
心の中で考え込んでいると、殿下に突然の問いかけられた。
驚いて頷くと、殿下は「そうか」と呟いた。
「詳しいことは聞いていないだろうが、アディートの生い立ちは……本人はさほど不幸だとは感じていないようだったが、恵まれていたとは言いがたい。両親はおらず、孤児同然の身の上だった。自分は何の意味もない、何の価値もない屑同然の存在だと、そう思って生きていたらしい。
……私がアディートと出会ったのは、あいつが本当に生きることを放棄しかけていたときだった」
殿下の口からは初めて聞くその話に、思わず息を呑んだ。
優しくて、温かなアディート。
捨て子の孤児で、犯罪紛いのことをしながら生きていたと言っていた。でも、殿下の話だと、アディートはまるで……。
「あいつがお前に黙っていたことを私が語るべきではないから、詳細は言えない。だが、初めて会ったときのアディートは自身の生に無頓着だった。……自分は人間ではないから、壊れることはあっても死ぬことはないと、そんなことを言っていた。何をしても同じで、どうにもならないと。
だが、アディートは人間だ。今、生きる意味がないのなら作ればいい。今、生きる価値がないのなら付加すればいい。望むこと全てが叶うことはありえないが、それでも必ず、生きた証はどこかに残るはずだ。……そういう話をして、別れた。私とアディートが次に会ったのは、あいつが騎士になったときだ」
茫然と、殿下の話を聞く。
アディートの過去は、わからないままだ。
でも、わたしが思っていた以上に過酷な状況にあったのではないか。
詳しく聞きたいけれど、殿下の口から聞くことははばかられる。アディートがわたしに黙っていたこと。アディートが、わたしに知られたくなかったこと。彼がいない場所でそれを知るのは、とても失礼な気がした。――それに、殿下は絶対に話してくれないだろうと、なんとなくそう思った。
「……アディートは、自分が死んだら遺体は消滅させてくれと……私と二人のときによく言っていた。命が消えれば肉の人形しか残らない、そんなものはいらないと――そう言っていた。
だが、どうしても残しておきたいものがあったから、最期にそのことについて頼んだのだよ。そして、私はそれを受け入れた。……勝手なことばかりしてすまない、ハルカ。だが、アディートが死んでしまった今、お前がここに生きていることは、あいつの生きた証でもある」
流れ落ちる雫を拭っていた指先が、優しく頭を撫でる。
わたしが知らない、二人の絆。
胸が苦しい。ぎゅっと締め付けられるように、ひどく痛む。
「……いいのかな」
気がついたら、そう口にしていた。
「いいのかな、わたしがここにいても。わたし、アディートとそんなに長く、一緒にいたわけじゃないのに」
三年。
わたしとアディートが一緒にいた時間は、長いようで短い。
殿下の方がずっと長く一緒にいる。
それでもわたしはアディートとこれから先、ずっと一緒にいるつもりだった。
途切れた時間。
ほんの僅かな間しか一緒にいれなかったのに、どうしてそんな風に思ってくれたんだろう。
最期の瞬間まで、わたしのことを考えていてくれたことが嬉しい。
でも、わたしのいない場所で自分の最期を決めてしまったことが悲しい。
それなのに。
「アディートは、わたしに生きていてほしいの……?」
この世界で。
何のために召喚されたのかもわからず、何ができるわけでもないのに。
戸惑いながら呟くと、すぐ近くにある殿下の顔が、ふと柔らかく微笑んだ。
「言っただろう? ハルカ。アディートはお前のことを他の誰よりも好いていたし、愛していた。アディートにとって、お前はただ一人の存在だった。他に替えのきかない、大切な存在だったのだよ。
ハルカ、お前はあいつが初めて愛した存在だ。お前と出会って、アディートはようやく自分のことを人形だなどとは思わなくなった。墓石に刻まれた名前は騎士であるアディート・ルクスが生きた証。そして、お前がここにいることは、アディート・ルクスという一人の男が生きた証になる」
「殿下……」
「身勝手な言い分だとは思うが、アディートの最後の望みだ。これから先、お前の生活は全て保障する。やりたいことができるように手配しよう。……だから、いなくならいでくれ」
わたしを包み込む腕に、ほんの少しだけ力がこもった気がした。
見上げる殿下の顔は優しかったけれど、翡翠の瞳には懇願の色が宿っているような気がして、思わず顔が歪む。
死にたい、なんて思わなかった。
でも……もしかしたら。
気がつかない間に、わたしは心のどこかで少しだけ、死にたいと思っていたのかもしれない。
アディートがいなくなってしまったのなら、わたしも消えてしまいたいと――そう思っていたのかもしれない。
だけど、それは駄目なんだ。
アディートは、そんなことを望んでいない。
たとえ辛くても、わたしがこの世界で生きることを望んでいる。
……アディートの、生きた証。
わたしの大好きな人の、生きた証。
わたしは、それになれるのかな。
わからない。
わからないけど、でも――――
「殿下。……わたし、いなくなったりなんかしないよ」
「ハルカ……」
「殿下には迷惑をかけるかもしれないけど……。ここにいても、いい……?」
「……もちろんだ」
すまない、と謝る声が苦しくて、小さく頭を振った。
体中をたくさんの感情が駆け巡る。
元の世界にいる家族。
死んでしまったアディート。
……一度、どちらを取るかを選んだ。
そして、決めた。
アディートと一緒にこの世界で生きていくと、そう決めた。
アディートがいなくなった今、どうすればいいのかわからなかったけど。
でも、アディートがわたしにこの世界で生きることを望んだのなら――その通りにしたい。
アディートと過ごした王城で、アディートのことを忘れずに生きていきたい。
わたしが知っているアディートのことを、ずっと忘れずに――共に生きていきたい。
宥めるように優しく頭を撫でる殿下の手を感じながら、でも、と小さく心の中で呟いた。
でもね、アディート。
ほんの少しだけ、あなたのことを意地悪だって思わせて。
会って伝えたいことが、たくさんあるの。
会いたいと思う気持ちを止めることはできないから、遺体も残してくれなかったあなたのことを、少しだけ意地悪だって思わせてね。
体中を駆け巡る感情が今にもあふれ出しそうで、壊れてしまいそうになる。
多分、まだ、泣き止むことができない。あなたを思い出して、上手に笑うことができない。
だから。
体の中の水分を全て涙に変えてしまっても、心が泣くのを止めないから泣き止めない。
わたしの心は広くも大きくもない、掌におさまるくらいに小さく狭いものなのに。
きっと、わたしが終わる最後の一瞬まで、小さな心でずっとアディートのことを想っている。
わたしが消えればお終いだけど、わたしの心の中では永遠だから――もう永遠に会えないあなたを、ずっと想うよ――――
想いに期限はないけれど、ひとの命には限りがある。
それでも、彼女の中でそれは永遠だから。




