掌の中の永遠(3)
――突然、目の前が真っ暗になった。
ここは何処だろう。
どうしてわたしは、こんなところにいるのだろう。
目の前には、切れ目のない暗闇が続いている。
視界に映る真っ暗な世界に、そのまま体ごと取り込まれてしまいそうだった。
――このまま消えてなくなってしまえば、そうすれば、わたしは……。
不意に蘇ったのは、いつか自分の手で喉元に突きつけた、鋭い刃物の感触だった。
わたしの肩から腕へと伝って、流れ落ちていった熱い真紅。背筋が震えるようなその感覚が、鮮明に思い出された。
むき出しの肩に触れた、傷ついた大きな手の感触。――あのとき、目の前には暗闇ではなく彼がいた。
必死に目を凝らすと、暗闇の向こうに誰かが佇んでいた。
怒りと――それ以上の悲しみを湛えた薄い青色の瞳が、わたしをじっと見つめている。
――どうして?
うまく呼吸ができず、声が出ない。
――どうして? わからない、何もわからないよ。
とても怒っているはずなのに、今にも泣き出しそうなほど悲しそうな顔をして、彼がわたしを真っ直ぐに見つめている。
暗闇の中、その姿は不思議とはっきりと見えた。
近いようで遠いその場所に、彼が静かに佇んでいる。
ずっと会いたかった。飛びつくように抱きついて、「おかえりなさい」と笑って迎えてあげたかった。
それなのに、歩み寄ることすらできないのはどうしてだろう。わたしに気づいているはずなのに、彼もまた、動かない。
互いに一歩も動かないまま、ただ、見つめあう。
――アディート、わからない。殿下の言っていることが、よくわからないよ。
声にならない声で、必死に訴える。
暗闇の中に立つ人は何も答えない。微動もせずに、静かにわたしを見つめている。
――アディート……どうして?
不意に視界が歪み、彼の姿がゆっくりと薄れていく。
消えていく。
暗闇の中に溶けていくようにして、彼の姿が消えていく。
もう一度彼の名前を叫ぼうとした瞬間、暗闇に亀裂が入り、軋むような音をたてて崩れ落ちた。
* * * * * * * * * *
「――ハルカ!」
強く腕を引かれて、次の瞬間、何かに勢いよく顔をぶつけた。
痛みはなかったけれど、強い衝撃があった。そしてその衝撃のおかげで、視界の中に広がっていた暗闇が払拭される。
咳き込みながらのろのろと顔をあげると――目の前に、心配そうな表情を浮かべた殿下の顔があった。
すっきりとした輪郭の中にバランスよく配置された、美しく整ったひとつひとつのパーツ。けぶる金色の睫の奥に、翡翠の瞳が輝いている。穏やかな風がふきつけるたび、長い金色の髪が光沢を放ちながら揺れていた。
「大丈夫か?」
殿下の白い手袋をはめた手の片方が、わたしの右腕を掴んでいた。痛みは感じない程度に、けれど簡単には振りほどけなさそうなほどの力で、しっかりと。もう片方の腕は、わたしを支えるようにして背中にまわされていた。
何が起こったのかわからなくて、少しの間、呆けてしまう。
ぼんやりする頭で状況を整理して、どうやら急に前方に倒れたわたしを殿下が慌てて抱きとめてくれたようだ、ということに思い至った。
頬を撫でる風は温かく穏やかで、空は蒼く澄み切っている。服越しに感じる殿下の体温は温かく、とくとくと一定の速度で脈打つ鼓動は、とても優しい音がした。
視界を塞ぐ暗闇はなく、アディートの姿もどこにも見えない。首を動かして振り返った先、整然と立ち並んだ大きな黒い石には、たくさんの名前が刻まれている。
それだけだった。
暗闇に閉じ込められる前と何の変化もない、静かで穏やかな光景だけが目の前にあった。
「……殿下」
小さな声で、呼びかける。
思った以上に掠れて震えた声が出たけれど、殿下の耳にはきちんと届いたようだった。
「どうした? ハルカ」
聞き慣れた殿下の声が、わたしの名前を呼ぶ。
よく通る、落ち着いた低い声。
ときどきとっても意地悪なことを言ったり、思わず聞き惚れるような演説をしたりする声だ。
毎日、殿下に会っていた。毎日、殿下が話す声を聞いていた。わたしが何も答えなくても、殿下は優しい声で『何か』をずっと話してくれていた。
わたしが聞き取ることができない――聞き取りたくなかった『何か』をずっと、言い続けてくれた。
「ハルカ」と、わたしのことを呼び捨てにするのは、この世界ではたった二人だけだ。
見下したような言い方ではなく、優しくて温かな感情を込めてわたしの名前を呼び捨てにするのは、この世界ではたった二人だけなのだ。
「……ハルカ?」
何も答えないわたしを不審がって、殿下が再度わたしの名前を呼ぶ。
目の前にある、殿下の綺麗な顔。微かに香る、嗅ぎ慣れた甘い匂い。
心配そうな表情の殿下に、暗闇の中でわたしを見つめていたアディートの顔が被って見えた。
――あれは、わたしが自殺しようとした夜に見た、アディートの姿だ。
苦しかったことや辛かったことを何も相談せずに、一人で抱え込んだまま逃げ出そうとしたわたしにとても怒って――そして、とても傷ついていたアディートの姿だ。
ちゃんと向き合わなくてはいけないのだと――そう思い知った。
――アディートはそこにいる。騎士として、アディート・ルクスとして生きた男の生涯はそこに刻まれている――
アディートは死んでしまったから、もう会えない。わたしのところに帰って来てくれない。
理解しているけれど――理解したくなかった。
朝。昼。夜。
扉がノックされる。名乗りを受けてサラさんがわたしの意思を伺い、そして扉を開く。
入ってくるのは、見慣れた人ばかり。毎日食事を運んでくれる侍従さんや、わたしに会いに来る殿下。
毎朝わたしの部屋にやって来て、優しく笑って挨拶してくれた人は――あの遠征の日以来、一度もわたしの部屋を訪れていない。
心の中で、何度も馬鹿みたいに繰り返した。
アディート、早く帰って来てくれないかな。……ううん、彼は死んでしまったから、もう会えるはずがない。
でも――――
それでも、ずっと待っていた。
当たり前のように、わたしの傍にいてくれた人だから。
サラさんがいる。殿下がいる。レスティアナ様がいる。
どうしてアディートの存在だけが、わたしの傍から消えてなくなってしまったのだろう。
何度も話を聞いて、何度も理解していると心の中で繰り返して、それでも――どうしても信じられなかった。
「……殿下。アディートは、本当に死んじゃったの?」
震える声で、ゆっくりと問い返す。
わたしの右腕を掴んだままの殿下の手に、縋るようにして左手を重ねた。声だけじゃなくて、指先も震えてしまっている。
すっと表情を改めた殿下が、大きく一度、瞬きをした。
――怖い。
殿下の答えを聞くのが、すごく怖い。
耳を塞いで、悲鳴をあげて逃げ出してしまいたい。
でも、わたしの腕を掴んだままの殿下の手は緩まない。背中にまわされた腕も、離れていかない。
どくどくと心臓が大きく脈打っている。指先の震えは、徐々に全身に波及していく。
怖い。
嫌だ。
――言わないで。
吹きつける風に、捧げられた花束が大きな音をたてて鳴った。
その音にまぎれるようにして、殿下が囁いた。その声は決して大きくはなかったけれど、風にかき消されるほど小さくもなかった。わたしのように震えてもいないし、掠れてもいない。
聞き慣れた声だった。
落ち着いた、よく通る低い声。
「そうだよ、ハルカ。アディートは本当に死んだ。私があいつに止めを刺し、遺体を燃やして消滅させた。もう、何処にもいない」
風にふき飛ばされて空に溶けて消えてしまえばいいのに、殿下の声は言葉としての形を保ったままじわりと耳に溶け込んで、わたしの中にちゃんと届いた。
――アディートは、本当に、もう……。
わかってる。
何度も殿下の説明を聞いた。騎士さんたちからも、説明された。
わかってる。
わたしは、ちゃんとわかってる。
それでもわたしは、殿下に問いを重ねてしまう。
からからに乾いた喉の奥から、無理矢理声を絞り出す。
「……どうして?」
見上げる殿下の顔はとても綺麗で、無表情なわけではないのに、感情が窺えない。
笑顔ではなく、悲しそうでもなく、怒っているわけでもない。けれど、ひどく張り詰めている。
静かに見下ろしてくる翡翠の瞳には、わたしの顔が映っていた。――帰り道が分からなくなって途方に暮れた、迷子のような表情を浮かべている。
「殿下、どうしてアディートは死んじゃったの?」
ふと、殿下の表情が変化した。張り詰めていた何かが消えて、長い睫が伏せられる。
わたしの腕を掴んでいた殿下の手がそっと外されて、縋るように重ねていたわたしの左手を包み込んだ。
「……アディートは、突然襲いかかってきた裏切り者――暗殺実行犯の一人から私を庇って斬りつけられ、その傷が元で死んだ。
不意をつかれたせいで、私は斬り込んで来た者にうまく反応することができなかった。周囲の者も誰一人反応できなかったが……アディートは、動くことができた。
アディートが負った傷はそれ自体致命傷だったが、相手の刃に即効性の毒が塗られていたのと、敵味方が入り混じったところに更に魔物が加わって乱戦状態に陥ったせいで、助けることができなかった。
……アディートは、潔かったよ。近くに巫女も神官もいない、治療に必要な時間も解毒薬もない――だからあいつは、私に『友の手による最期』と『焼却』を頼んできた」
ゆっくりと開かれた瞼の奥――翡翠の瞳に映るわたしは、途方に暮れた表情のままだった。
わたしの左手を包み込む、手袋越しの温かな手。
この手が剣を持つ手だと知っている。魔物や人間と戦って、その命を奪うことができる手だと知っている。
とくとくと鼓動を刻む温かな体が誰かの命を奪って生きていることを、直接見たわけではないけれど、何度か聞かされたことがある。
でも、他の誰でもない殿下の手だから――彼がわたしに告げた言葉は、どうしても現実味を持たない。
殿下がアディートの心臓を止めて、彼の身体を燃やしてしまったということが――どうしても、信じられない。
「嘘」という声が、唇から勝手にもれた。
相変わらず掠れて震えていたその声を、殿下は聞き逃さなかった。わたしの手を包み込んだ大きな手に、僅かに力がこもる。
「嘘ではない。私はこんなことに嘘をつかないよ、ハルカ。アディートが死んだのは本当だ。私を庇って致命傷を負い……私が止めを刺して、殺した」
「嘘」
切り返すように小さく呟くと、殿下が僅かに眉を寄せてわたしを見つめた。
首を振って、何度も「嘘」と繰り返す。
殿下や他の騎士さんたちに、何度も説明された話だ。
わたしは、ちゃんと理解していたはずなのに。
向き合わなくてはいけないと思いながら、どうしても否定してしまう。
「……ハルカ」
「だって……だって、アディート、早く帰って来るって約束したんだよ。わたしと、ちゃんと約束したんだよ」
ぐらぐらと、体の奥底が沸騰するように熱い。
それなのに、頭の芯はいやに冷え切っている。
寒気がするほどひんやり冷たいその部分が、殿下の言葉に頷いていた。「その話は全て、本当のことだ」――そう何度も頷いていた。
熱く煮えたぎる部分を冷ますように、殿下は嘘なんてついていないと冷静な声で囁きかけてくる。
だから小さく首を振って、声に出して嘘だと繰り返した。言葉にすれば、あるいは現実になってくれるのではないかと、そう願って。
遠征に出発する日の朝。
部屋から出て行くアディートは、わたしの言葉に優しく笑って頷いた。
早く帰って来てね。怪我しないでね。
そのひとつひとつに、アディートは優しく笑って――頷いてくれたのに。
――あんまり殿下と仲良くしちゃ駄目だよ。アディートは、わたしの旦那様なんだからね――
――もちろんだよ、奥さん――
殿下と仲良くしちゃ駄目だよ、なんて馬鹿なことを言ったのは、アディートが本当に殿下のことが大好きだったからだ。
執務室から突然脱走したり小学生レベルのちょっかいをかけてきたりする殿下について、アディートがわたしに愚痴を零すときはいつも、気がついたら殿下に対する褒め言葉が山のように積み上げられていた。
アディートが殿下を叱るときはいつも、互いにどこか楽しそうにしていた。二人にはわたしが入り込めない空気があって、それがいつも羨ましくて、寂しかった。
――少しだけ、嫉妬していた。
アディートがわたしに教えてくれなかった、彼の過去を知る殿下。
生きる意味を見失っていたという昔のアディートを救い出した、殿下の言葉。
アディートと二人だけの過去をもつ殿下に、いつも少しだけ嫉妬していた。
わたしが何を言ったって、アディートが殿下を守らないなんてことはありえない。
そんなことはわかりきっていた。
一緒にいるときの、優しくて温かなアディートが好き。
でも、わたしは殿下と一緒にいるときのアディートも、とても好きだから。
殿下のことを大切に思っているアディートが、本当に――とても好きだから。
だけど、少しだけ嫌だった。
遠征の間、アディートの傍に殿下はいても、わたしはいない。せめてアディートの頭の片隅に、殿下以外にわたしのことも考えていてほしかった。だから、あんな馬鹿みたいなお願いを言ったのだ。
薄い青色の目を細めて優しく笑ったアディートは、わたしの言葉に頷いてくれた。
ちゃんと、頷いてくれたのだ。
――それなのに、どうして。
「ねぇ、殿下。アディートは、どうして死んじゃったの。わたしと、ちゃんと約束したのに。それなのに、どうして」
「ハルカ、少し落ち着け」
「だって、変だよ。アディート、結婚してくれないかって、わたしにそう言ってくれたんだよ。指輪もくれたし、婚姻証書も一緒に名前を書いたのに。あったかい家族を、二人で一緒に作ろうって……」
淡いオレンジ色の小さな太陽が照らす、閉じきった世界で、二人。
春の陽だまりのように、あったかい家族を作ろうと――そう約束した。
覚えている。
優しい温もりと柔らかな声。
泣きた出しそうなほどに幸せな、とても大きな感情に包まれたこと。
ちゃんと、覚えているのに。
「殿下……。どうして、アディートは帰って来ないの……?」
答えはもう出ているのに、途方に暮れて殿下を見上げる。
殿下の手に包み込まれた左手に咲く、小さなアディートの花。部屋に置き去りにしてきた婚姻証書。
二人で約束したことの証は形として確かに残っているのに、約束を果たすために何よりも必要な彼だけが、何処にもいない。
「……アディートは死んだ。だから、お前の元には帰って来ない。アディートはもう何処にもいないんだよ、ハルカ」
落ち着いた声が、はっきりと告げる。
けれど、真っ直ぐにわたしを見つめる殿下の表情は、ひどく優しいものだった。
それにうまく答えることができないわたしは、これまでのように曖昧に笑うこともできかった。
ただ、困り果てて途方に暮れる。
わたしは――――
わたしは、殿下の口からそんな言葉を聞きたくなかった。
何度も話を聞かされて、理解していたはずの内容。
それは、殿下の口から聞きたいものではなかった。
「……ハルカ」
何も答えないわたしの名前を、殿下が呼んだ。今までより、ほんの少し強い口調で。
綺麗な顔に浮かんでいるのは、相変わらず優しい表情で――わたしの中の何もかもが、崩れそうになる。
「ハルカ、私はお前の望む答えを返してあげることができない。……お前が望む通りに答えてあげたいが、それはできないのだよ」
ふわりと鼻腔をくすぐる、微かな花の香り。
殿下は墓石の周囲に捧げられたたくさんの花束のものよりも甘く、優しい香りを纏っている。
柔らかく細められた翡翠の瞳は、吸い込まれそうなほどに澄み切っていた。
「だから、お前が私に対して口を噤む必要はない。私に対してだけではなく……あいつに対しても。私もあいつも、それだけのことをしたのだから」
ハルカ、と優しい声で名前を呼ばれる。
殿下の手にすっぽりと包み込まれた左手が、小さく震えた。
「このような言葉で済むことではないが、言わせてくれ。――アディートを私の犠牲にしてしまい、すまなかった」
一瞬、呼吸が止まる。
大きく目を見開いて、殿下を見つめた。
殿下は優しい表情と声で、もう一度繰り返す。
「私はお前から、アディートを永遠に奪ってしまった。本当にすまない、ハルカ」
その言葉を、聞いて。
――――世界から、音が消えた。
ぐしゃりと、視界が歪む。
目の前にある殿下の顔が霞み、大きく揺らいで見えた。
冷えきっていたはずの頭の芯が、体の奥底から沸き起こる熱に焼き尽くされる。
ひゅっと喉の奥が鳴った。大声で叫びたいのに、声が出ない。
「いや……」
熱い。爆発しそうなほど、体が熱い。
歪んだ視界の中、それでも殿下は綺麗な顔に優しい表情を浮かべている。
感情を全て削ぎ落とした、ただ美しいだけの無機質な表情ではなく。
温かくて、優しい表情を浮かべている。
「いや……! いやだ、返して……!」
馬鹿だ。
わたしは、大馬鹿だ。
これ以上は駄目だと思うのに、溢れ出る言葉を止められない。
視界が歪む。体が熱い。
じわりと、言葉以外の何かが溢れて溶け出していく。
「アディート、返して! 殿下、返してよ! アディートを返して! わたしに返してよ!」
左手に咲く小さな『アディート』の花を守るように包み込む、白い手袋をはめた殿下の手。
汚れひとつないその手を乱暴に振り払って、拳を作って殿下の胸元を叩く。精一杯、強く。
「どうしてアディートなの?! 約束したのに、どうして!!」
ひび割れた声で、叫ぶ。
最低だ。
一番責めたくない人を、責めている。
わたしは大馬鹿で、最低だ。
「……ああ、そうだな。どうしてだろうな」
背中に、わたしが振り払った殿下の腕がまわされる。
わたしを抱きしめるようにして、殿下は淡く微笑んだ。
どこまでも優しい声と、表情で。
そうしないと、わたしが何も言えないのを――全部、見越しているかのように。
「ひどい……ひどいよ、殿下も、アディートも……」
「そうだな。……すまない、ハルカ。私たちは、お前を優先しなかった」
違う。
こんなこと、言いたいんじゃない。
言っていいことじゃない。だから、言いたくなんてない。
――殿下にこんな顔をさせたくない。そんなことを言ってほしくない。
――アディートのことを責めたくない。こんなこと、言いたくない。
殿下を守って死んだアディートのことを、否定したくない。
彼の選択を、間違っていたなんて思っていない。
アディートがどれほど殿下を慕っていたのか――アディートがどれほどわたしのことを愛してくれていたのか、わたしはちゃんと知っているのに。
――それなのに。
「ひどい、置いていかないでよアディート……!! どうしてわたしがいない場所で死んじゃうの……! ひどい、どうして……。どうしてなの……」
華美ではあるけれど、派手すぎない殿下の服。その下にある、脈打つ心臓や温かな血液が流れる体を何度拳で叩いても、硬い感触しか伝わってこない。
髪を振り乱すようにして暴れ、泣き喚く。
それでも、殿下はわたしを放さなかった。逆に、崩れ落ちそうになる体をそっと抱きしめられた。
「いやだ……。どうして、約束したのに……。一緒に、あったかい家族をつくろうって……」
もう大声をあげることもできなくて、縋りつくようにして小さな子どものように泣きじゃくるわたしを、殿下は何も言い返さないで受け止めてくれた。慰めの言葉ではなく、わたしを肯定する言葉だけを重ねてくる。
「……私もアディートも、いつも自分を優先させてしまう。あのときの選択も、お前を傷つけるとわかっていたのにな。……すまない、ハルカ」
歪む視界の中、必死に見上げた翡翠の瞳には、柔らかな光が宿っていた。
優しく包み込むようにわたしを抱きしめる殿下は、どうしてだろう――わたしの言葉に、少しも傷ついた様子がなかった。
それが何故かひどく腹立たしくて、殿下にたくさんの言葉をぶつけた。
殿下のせいで、アディートが死んだ。殿下のせいで、アディート以外にもたくさんの騎士さんたちが死んだ。殿下のせいで、仕事を続けられないほどの大怪我を負った騎士さんがいる。
どうしてもっと早くに、暗殺なんて考える人たちを捕まえておかなかったのか。殿下はとっても優秀なのに。そうすれば、誰も傷つかなくて済んだのに。
「そうだな。……すまない、ハルカ」
殿下はその全てに謝った。
優しくて柔らかな――けれど、とても真摯で誠意のこもった声だった。
わたしは――――
わたしは、大馬鹿だ。
大馬鹿で、最低で、一番酷い。
こんな風に殿下を責めたくなんてなかった。
刺客から殿下を守って、アディートが負傷する。
別におかしなことではなく、むしろ当たり前のことだ。
騎士として、王太子を守ることも。アディートが、他の誰でもない殿下を守ることも。
それらは、至極当たり前のことなのだ。
アディートは殿下のことがとても好きで、彼に忠誠を誓っている。
わたしはそんなアディートが大好きで、でも、ほんの少し殿下に嫉妬しているから、複雑な心境になるけれど――アディートを困らせたくなくて、口を閉じる。
アディートは、殿下のことが本当に好きだよね。
殿下の前でそう言えば、アディートは「そうでもないですよ」と困ったように笑うのだ。
でも、二人きりのときに同じことを言ったら、アディートはいつも少し照れたようにして微笑んだ。
殿下は恩人だし、とても尊敬している方だから、と。
アディートは、殿下が即位するのがとても楽しみなのだと言っていた。
きっととても立派な王になるから、その姿を早く見たいと――なんだか、弟の成長を見守る兄のような顔をして言っていた。それからすぐに自分の発言に慌てて、照れて、誤魔化すように笑うのだ。その照れくさそうな笑顔が可愛くて、内心で殿下に対して嫉妬していたわたしも思わず笑ってしまい――殿下に対する嫉妬なんて、すぐに忘れてしまう。
いつだって、そうだった。
アディートと会話しながら。アディートと殿下のじゃれ合いを見ながら。
時々少し寂しくなって、悔しくなって――嫉妬して。
でも、いつだって最後は笑ってしまう。
アディートはとても真っ直ぐに殿下を慕っていて――そして、わたしのことを好きだと言ってくれるから。
そんなあなたが、とても好きなの。世界で一番――誰よりも大好きなの。
そっと心の中で呟いていた言葉は、きっと、アディートも殿下も知らない。
だから、わたしに謝らないで。
いちいち殿下に嫉妬したり、アディートの想いを否定するようなことしか言えない、何の覚悟もないわたしに謝らないで。
優しくしなくていい――呆れて見捨ててくれていいから。
ごめんなさい。
こんなこと、殿下に言いたくなかった。
アディートのことも、責めたくなんてなかった。
ごめんなさい。
わたし……こんなに弱くて、ごめんなさい。
誰かに頼って、甘えて、そればっかりで……一人で閉じこもったり、誰かを責めることしかできなくて。
ごめんなさい。
「いいんだ、ハルカ。お前は謝らなくていい。謝らなくていいんだ。お前が謝ることなど何もない。私もアディートも、本当にお前のことが――――」
内側から溢れ出した熱に、意識が徐々に溶け出していく。言葉がうまく紡げずに、曖昧な声が流れていく。
自分勝手に泣いて、責めて――わたしは、本当に最低だ。
ああ、でも。
アディートに会いたい。
死んだとわかっているけど――思い知ったけど。
それでも、会いたい。
会いたいよ、殿下。アディートに会いたい。
会って、ごめんなさいって言いたい。わたしはまた、アディートのことを拒絶しようとした。アディートが死んだこと、受け入れたくないから拒絶しようとした。
ごめんなさい。こんなことばっかり言って、どうしようもないことばっかり願って。
そんなあなたが、とても好きなの。世界で一番――誰よりも大好きなの。
いつものように、心の中でそっと呟く。きっと、殿下もアディートも知らない。
仲のいい主君と騎士で、親友で。
二人でじゃれ合っている姿を見るのは、嫌いじゃなかった。わたしが知らないアディートを、殿下はいつも引き出していたから。
そんなあなたが、とても好きなの。世界で一番――誰よりも大好きなの。
謝罪の後には、いつも心の中に閉じ込めていた小さな呟きを――殿下を守ったアディートに、ちゃんと伝えたいと思った。
――――けれど、わたしの意識は熱に溶かされて、緩やかに沈み込んでいく。
閉じていく歪んだ視界の中で、殿下が泣きそうな笑顔を浮かべた気がした。
とても身勝手な想いしかもてなくて、とても身勝手な行動しかとれなくて。
それでも、伝えたい想いがある。




