騎士の死(5)
王都東部にある離宮は、緩やかな傾斜の坂を上った先にある、王都を一望できる小高い丘の上に建っている。
茨模様が彫られた高い壁の向こう側には、離宮全体を囲むようにして広大な庭園がある。
王都の環境で栽培可能な花や果樹は全て、この離宮の庭園に植えられている。
王城にある、洗練された造りの中庭や温室に比べれば雑多とも言える庭園だ。
しかし、俺には離宮の庭園の方が、王城の中庭や温室よりも心休まる場所に思えた。俺が生まれ育った土地にある、子どもたちの遊び場だった丘の上――そこにあった花畑に、よく似ていた。
観賞用の庭園ではなく、離宮の住人が自由に遊び、花を愛でることができる庭園なのだ。とても美しい場所だと思う。
王城にある中庭や温室も美しいが、あれは触れてはいけない美しさだ。あの中庭や温室は、国内最高の専門家が造り上げた至高の芸術作品なのだ。自由に花を摘むことも許されない。
俺だって王城の中庭や温室は美しいとは思うが、楽しい場所ではないと思う。美しく整えられすぎていて、人の手に馴染まない気がするのだ。
王都東部にある離宮の庭園は、今から約七百年前の国王が心を病んだ弟のために造ったものだ。それ以前は、王城のものと同様、美しく整備された庭園だったそうだ。
当時の王弟であった方は、自身の王弟という地位を厭っていた、温和な方だったという。権力闘争に巻き込まれた末に心を病んだ彼を守るため、当時の国王はこの離宮に弟の身柄を移したそうだ。
王城から遠く離れているわけではなく、けれど権力闘争の場からは離れた場所。国王の目が行き届き、安全に保護できる場所として、この離宮が選ばれたのだそうだ。
当時の国王は王弟に、王城から離れたこの離宮で、甘い花の香りに包まれて穏やかに過ごしてもらうことを望んでいたらしい。生来、体が弱かった王弟は、幼少期を王妃の実家である自然が豊かな田舎の領地で過ごしたそうだ。
国王は、偽りの笑顔や真意を隠した甘言ではなく、物言わぬ色とりどりの美しい花々に囲まれて、病んだ心をゆっくりと癒せるように、離宮の庭園を造り替えたと言われている。
王城内の醜い権力闘争によって心を病んだ弟を守るために造られた、色とりどりの花が咲き乱れる広大な庭園。そして、その中心に建つ、優美な外観の離宮。
いつからか、そこは当代の国王が最も愛する者を住まわせる場所になった。
あるときは王妃の一時の憩いの場所として、あるときは寵愛する側室の住まう場所として、あるときは権力闘争から逃れた兄弟姉妹たちを住まわせる場所として――王都東部にある離宮は、様々な住人を迎え入れてきたのだ。
離宮の明確な呼称はない。王都に住んでいる人々は『寵花の宮』と呼んでいるらしい。
騎士団や光の神殿にいる者、それに王城仕えの者たちは、単純に『王都東部の離宮』と呼ぶ。一般庶民のように、あそこに国王陛下の寵愛する者がいる、なんて意味がある呼称は使用しない。
王妃殿下のみが使われる離宮であるのなら『寵花の宮』と呼んでも構わないのだが、側室やら国王陛下のご兄弟やらがいる場合、王妃の一族に睨まれる可能性があるからだ。いらんことは言わない方がいい。沈黙も時には必要なものなのだ。
美しい宮殿だと思う。美しい庭園だと思う。
けれど、そこに住まう者たちも美しいかと言うと――そうではない。
王都東部の離宮に住まう者たちは、どの時代にも、大なり小なり、国にとって火種となる問題を抱えていることが多いのだ。
過去の文献をしらみつぶしに調査して、出てきた事例はたった二件だけだった。
今から約五百年前と三百年前に、一件ずつ。どちらも当代の国王陛下の側室と、その子どもたちが離宮の住人だった。
たった二件だけ、離宮の住人を捕らえるために、騎士団が花畑を踏み荒らし、離宮へ入った記録があったのだ。
「私は栄えある三人目の『花盗人』か。歴史に名を刻めるとは、ありがたい」
その報告を受けて、神々しいまでの美貌に皮肉な笑みを浮かべて、王太子殿下が呟いた。
『花盗人』――過去に離宮に踏み入った騎士団、その判断をした人物は、二件とも次期国王である王太子だった。
彼らは離宮の住人を国王陛下に無断で捕らえたため、当時の民衆たちには面白おかしく『花盗人』と呼ばれたのだ。国王陛下の寵愛する花――寵姫とその子どもを国王から盗んだ者と言う意味で。
現王陛下は寝たきりの状況――しかし、離宮に王太子殿下が騎士団を率いて踏み入れることは、絶対に許さないだろう。三人の王子たちの捕縛に必要な証拠は、未だ絶対的なものではない。証拠がない以上、現王陛下は三人の王子を捕らえることを許さない。
けれど、もう時間がない。
王太子殿下は賭けに出ることにしたのだ。そして、俺たち騎士はそれに従った。
カシムの作った記録用の魔法具の解析が終わり、俺が騎士団の副団長に任命された日から三日後の早朝。
騎士団の精鋭部隊と数名の魔法使いを率いて、俺は王太子殿下と共に王都東部にある離宮へ向かった。離宮に住まう三人の弟王子――王太子殿下暗殺未遂事件の首謀者たちを捕らえるために。
初めて間近で見た優美な離宮と、それを囲むように乱れ咲く花々、たわわに果実が実った木々――美しい場所だった。
一国の最高権力者が最も愛する者を住まわせるのにふさわしい、本当に美しい場所だった。
転移魔法で宮殿の前――花畑の中に立った俺たちは、さすがに数秒の間、離宮の美しさに見蕩れたが、王太子殿下は全く顔色を変えず、足元に咲く可憐な花を踏み潰して前へ進んだ。
俺たちは慌てて気を引き締めなおし、殿下を守るようにしながら離宮へと足を踏み入れた。
花を盗むために、ここに来たわけではない。
俺たちは罪人を捕らえ、人質を助け出すために、ここに来たのだ。
後の世で、王太子殿下は三人目の花盗人と呼ばれるのだろうか。今の時代の民衆たちは彼を敬愛しているから、そんな呼び方はしないだろうが――何百年か先の時代では、どういう風に評価されるか分からない。
けれど、殿下はどうか、賢王として歴史に名を残して欲しい。花盗人という下らない名前が歴史に残るなんて、あんまりじゃないか。
だから、殿下を亡き者にしようとする馬鹿共は、全員捕まえてしまわなくてはならないのだ。
「なんなんだ、お前たち!! おい、どういうつもりだエルリアス!!」
離宮の警備を任されていたのは、国王陛下が直々に雇い入れた衛兵たちだ。所詮は金で雇われた奴ら、王太子殿下にたてつくようなことはしなかった。手間が省けたからよかったが……こんなに質の悪い奴らを衛兵として雇うなんて、あの方は何を考えていたんだ?
衛兵を含めた離宮の使用人たちを一箇所に集めながら、離宮内を余すところなく捜索した。第一に人質たちの保護、第二に三人の王子たちの捕縛。それが目的だった。
王太子殿下の髪よりも淡い色の金色の髪と青い瞳をもつ、三人の王子たち。その日も仲良く三人一緒で固まっていたから、見つけるのは簡単だった。
「『お兄様』に対する礼儀がなっていないな、リュミシス。後でじっくり説明してあげるから、大人しく捕まっていろ」
「なっ……、おいっ、やめろ!!」
「放せ、無礼者!!」
「……やれやれ。全員捕らえろ。ああ、リュミシスには魔法封じの枷を嵌めておけよ。それと、自害されては困るから、口も塞いでおけ」
「はっ!!」
三人の王子たちの捕縛は、あっという間に済んだ。
所詮、実戦経験がほぼ皆無なひ弱な坊ちゃんたちだ。戦闘慣れしている騎士たち――それも精鋭たちの本気の前には、奴らの抵抗なんて児戯に等しい。
――そして。
「殿下……」
「――惨いことをするな、あやつらは。王城の地下牢にいる拷問吏ですら、ここまではしないぞ」
離宮の広い地下室――悪趣味な器具と鉄格子が並んだ牢屋兼拷問部屋で、暗殺実行犯たちの人質にとられていた家族や恋人たちが発見された。
全員、死んでいた。惨い有様だった。
俺と王太子殿下と共に地下室へ来た騎士たちの何人かが、その遺体の有様と悪臭に耐え切れず、すぐに地下室から逃げ出し、外で激しく嘔吐していた。
俺も本当なら逃げ出してしまいたかったが、騎士団の団長である王太子殿下が留まっているのに、副団長である俺が逃げ出すわけにはいかず、こみ上げてくる吐き気を必死に耐えて、人質たちの遺体を検分した。
「かろうじて人の形をしているようで助かったな。解体して焼却でもされていたら、まともに人数も確認できん。
――人数は失踪者の数と合っているか?」
「はい。三十四名、全員います。ですが、失踪者たち本人かどうかは……」
遺体の内の何体かは、男女の区別も付かないほど、めちゃくちゃにされていた。勿論、顔の判別もつかない。
「そうか。それは首謀者共に吐かせればいいだろう。
――いいか、間違っても奴らに自害などさせるな。拘束を一切緩めず、監視を怠るな。そして奴らの証言を一言も聞き漏らすなよ。
外にいる者にも後から伝えるが、お前たちは先に聞いておけ。
これから一気に首謀者たちの一族全員を捕らえるが、絶対に油断せず、情けをかけるな。赤子も年寄りも、全員だ。一人でも情けをかけて見逃した場合には、その者と一族全員、暗殺未遂事件の首謀者と同じ罪に問われると心得よ。――よいな!!」
王太子殿下の鋭い声に、俺を含めた地下室にいた騎士たち全員が声を張り上げて返事をした。
――ようやく、王太子殿下暗殺未遂事件の首謀者とその一族たちの、大規模な一斉捕縛が開始されたのだ。
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その日の昼過ぎ、俺は神殿の裏にある、広大な丘の上にある墓地を訪れていた。
王太子殿下暗殺未遂事件の首謀者たちを全員捕縛し、地下牢に放り込んで一週間が経った。
まだまだ捜査は続いているが、俺は王太子殿下から特別に休暇を頂き、行ける範囲で、死んだ騎士たちの墓参りをしていた。
王太子殿下暗殺未遂事件で死んだ騎士は全部で十八名。その後、傷の治りが悪く、そのまま死んでしまった者の数は五名。だから、実質的にあの事件での騎士団側の死者は全部で二十三名になった。
王太子殿下の執務室に呼ばれたあの日以降、俺は正式に騎士団の副団長として働いている。
意外なことに、想像していたよりも、俺が副団長になることへの反発は少なかった。
俺ならばダグラスのような裏切りを犯さないだろう、という信頼と、そこそこ腕は立つからいいんじゃないか、という評価、そして俺の実家のおかげで、俺は割とすぐに他の騎士たちに副団長として認められた。
俺のような若造がこんな重要な地位に就いてもいいのか? とは思ったが、古参で経験豊富な騎士たちは、上手く俺のことを補佐して、自分たちよりも上に立ててくれている。
その理由として、俺に対する信頼と評価もあるのだろうが、やはり根底にあるのは「副団長に俺を選んだ」方への信頼と忠誠心だろう。
まぁ、つまり、騎士団の皆が王太子殿下を信頼してくれているおかげで、俺はなんとか副団長としてやっていけているのだ。情けない話だが、仕方ないよなぁ……。
上官を立てるのが部下の仕事だと豪快に笑ってくれている先輩騎士たちには、まだまだ頭が上がらない。ううむ、問題だ……。早く仕事に慣れて威厳を身につけなくては。
でも俺、威厳とは無縁の顔と体格だからな……。髭でも生やすべきか……?
威厳とは何ぞや、などと考えながら、俺は花束と酒の瓶を片手に、身寄りのない騎士たちの名が刻まれている大きな墓石のある場所に向かった。
俺が両手を広げても足りないくらいの横幅をした、ちょうど俺の身長と同じ高さの、大きな黒い墓石。整然と置かれた黒い群れの一番手前の端にある、年代的に見て最も新しい墓石の前に、俺は立った。
陽の光を反射して鈍く黒銀に光る滑らかな表面には、ここ五年の間に死亡した身寄りのない騎士たちの名前が、彼らの誕生年と没年と共に、純白の文字で刻まれている。
墓石の周りにはたくさんの花や酒瓶などが捧げられている。今は俺以外に人影は見当たらないが、葬儀の日から今日まで、多くの人々がここを訪れ、死者の安寧を祈っているのだろう。
俺は片手に持っていた花束を、既に捧げられていた大量の花束の海の上に、そっと重ねた。
そして、持参した酒瓶の口を開けると、琥珀色をした中身を全て、墓石の前にある地面の上に染み渡らせた。本当は盛大に墓石にぶちまけるのがいいんだが、この墓石は共同のものだからな。神殿の者が管理しているし、毎日巫女や神官が丁寧に磨いているはずだ。わざわざ彼らの手間を増やす必要もないだろう。
小さな光となった死者は、もう酒の味を楽しむことはできない。だから、長い旅路の心の慰めに、せめて酒の匂いだけでも楽しめるよう、こうして死者の名が刻まれた墓石の近くにある地面に酒を撒くのだ。刻まれた名前を追って、酒の匂いが小さな光に届くように。
昔、家に来た他国からの客人が、この風習を聞いて「酒がもったいない!」と叫んでいた。俺も当時は子どもだったから、客人の意見に賛成していたが……今になって考えたら、酒を捧げるくらい、別にもったいなくとも何ともない、ということがわかった。
名前をここに刻まれてしまった騎士たち。彼らとは、もう、共に笑いあって酒を酌み交わすことができないのだ。それなら、彼らの旅路の慰めに、酒を一本くらい地面に流してしまっても、もったいなくなどない。
俺は目を細めて、黒銀に輝く石の表面に刻まれた二つの名前を探し出した。
『ティタン・クラウス』と『アディート・ルクス』。
ティタンは二十歳で、アディート・ルクスは二十四歳で死んでしまった。
早すぎる――あまりにも、早すぎる死だ。
彼らには、得るものがまだまだたくさんあっただろう。
それなのに、こんな風に、たくさんの騎士の名前の中に埋もれて――彼ら二人は、死んでしまったのだ。
――ラッド・カルセ、ティタン・クラウス、グレゴリー・トラスト……――
王太子殿下は、あの事件で死んだ騎士の名前を全て覚えていた。彼らがどのような人物で、遺族や恋人がいたのかどうかまで。
数で言えば、そこまで多くの死者が出たわけではない。
三年前、魔物があちこちで跋扈していた際には、もっと多くの人間が殺された。
――けれど、人の死は数で全てが表されるものではない。
俺とはさして親しくなかった、あの事件で死んだ数名の騎士たち。彼らにも家族が、恋人が、友人がいたのだ。
多くの人間が、他者と関わりあいながら生きている。本人が気づいていなくても、見えない繋がりは出来ている。
ティタンもアディート・ルクスも、「家族」がいなかった。
しかし、ティタンの死は、彼の恋人だった下働きの少女や同期の新人騎士たち、それにティタンの出身地である領地ティレスにある孤児院の人々を嘆き悲しませている。
そして、アディート・ルクスの死は、彼に憧れていた多くの騎士や騎士を目指す平民たちに、大きな衝撃を与えた。
「光の旅路に、安寧の祈りを……」
墓石の一番上に大きな文字で刻み込まれた、祈りの言葉。
長く孤独な旅を終え、光の神の御許に辿り着いた小さな光――かつての生者はその場所で、真の安息を得るという。
小さな光となって長く孤独な旅路を往く者たちの、安寧を祈る言葉。
生きている者から死んでしまった者へと贈られる、「あなたが生きていたことを忘れない」という言葉。
彼らに、この言葉は、本当に届いているのだろうか。
そして、彼らの旅路の慰みとなっているのだろうか。
俺にはわからない。わからなくて、いいのかもしれない。
いずれ、俺も旅立つ時が来るのだから。その時になれば、きっと、俺にもわかるだろう。
だから俺は、瞑目して、死んでしまった騎士たちに、祈りを捧げた。
跪き、頭を垂れ、組んだ両手を額につける、正式な祈りの姿勢をとって。
俺は小さな声で、彼らに祈りの言葉を紡いだ。
――あなたの往く路は、長く孤独なものでしょう
――けれど覚えていてください、私があなたと過ごした時間があったことを
――私はあなたのことを忘れません、だからあなたも忘れないで
――私とあなたが、共に生きていたことを
――あなたの旅路が少しでも安らかなものとなるように、私は祈り続けましょう
――光の神の御許へと、あなたが迷わず進めるように
――あなたといつか、どこかで、また会えますように
――あなたの輝きが、くすまぬように……
全部で十五の句からなる祈りの言葉が終わったとき、俺は背後から近づいてくる気配を感じて立ち上がり、振り返った。
そこにいたのは――――
「レーミア?」
「ジャ、ジャン……」
両手いっぱいに大きな花束を抱えた、深緑に金糸で茨の刺繍がなされたローブを纏った、知り合いの魔法使い。
俺と目が合った瞬間、咄嗟に来た道を引き返そうとした彼女に慌てて駆け寄って、逃げないように捕まえる。
どうして逃げるんだ? しかも、俺と目が合った瞬間に。
その両手で抱えた大層豪華な花束は、墓石に捧げるために持ってきたんじゃないのか?
レーミアのこげ茶色の長いお下げを片手で掴んだ俺は、そのまま彼女を、騎士たちの名前が刻まれた墓石の前まで引きずって行った。俺に引っ張られるレーミアが何かぎゃーぎゃー言っていたが、気にしなかった。
「ほら。こいつらに祈りを捧げに来たんじゃないのか?」
俺の言葉に、俺にお下げを引っ張られて微妙に仰け反った体勢のレーミアは、何故か驚いたような顔をした。
「な、なんで……」
「他にいるのか? ここには他には、神官や巫女の墓石しかないぞ? お前、神殿の中に知り合いがいたか?」
そう言ってお下げを解放してやると、レーミアは俺に向き直って、それから気まずそうに視線を逸らした。
花束を胸の前で両手で抱きしめるようにしながら、視線を下に向けている。
沈黙してしまったレーミアにどうしたもんかと思っていたら、何かを決意したように一呼吸置いて、彼女は顔を上げ、淡い緑色の瞳でしっかりと俺を見据えた。
久しぶりに、真正面からレーミアと向き合って、俺は少しだけ戸惑いながら彼女を見返した。
俺の方が身長が高い分、どうしても上目遣いになってしまうレーミアは、こうして見ると可愛らしい。
ふと、そんなどうでもいいことを思ってしまった自分に、内心で首を傾げる。……なんで俺は、レーミアを気にしてるんだ。
「あの、ジャン。……ごめんなさい」
「……は?」
神妙な顔で、レーミアは花束を潰さないようにしながら、俺に向かって頭を下げた。
「わたし、ジャンに……ジャンだけじゃない、騎士の人たちに酷いことを思っていたし、言ってたから。今さら謝っても仕方ないことだけど、本当に、ごめんなさい」
泣きそうな顔で謝るレーミアに、俺は「ああ……」と生返事をしてしまった。
正直、レーミアがここまで殊勝になるとは思っていなかった。裕福な家で生まれ育った、素直すぎるお嬢さんだから。
……いや、いい意味でも素直なんだよな、レーミアは。決して頑固ではない。自分のことを諭されれば、素直にそれを受け止めることができる。俺にはない素直さだ。
でも、別に俺に謝る必要はないんだが。王太子殿下……は、謝罪なんか必要としていないだろうからいいとして、あの事件で死んでしまった騎士たちに、その言葉を伝えてくれればいい。そして、レーミアがこれから、騎士たちを替えのきく『盾』として見なくなってくれるのなら、それで構わない。
「あー、その、あれだ。レーミアがそういう風に思ってくれるんなら、それはそれで、もういいよ。
それに、あのときは俺もいきなり怒鳴りつけちまって、悪かったし。怖かったよな? ……ごめんな」
俺の言葉に、レーミアは大きく目を見開いて、それから何度も首を横に振った。
いや、お前、かなり怖がってたじゃないか……とは思ったが、レーミアが必死に否定しているため、黙っておいた。
「……わたし、結局、捜査に協力できなくて。ごめんなさい」
呟くように言ったレーミアに、今度は俺が首を横に振った。
確かに、レーミアは王太子殿下の要請を断った。しかし、それはまぁ、ある程度は予想していたことだったので、こちらとしては問題なかった。
レーミアとセレスが回収してきたカシムの魔法具。そこに記されていた音声記録の内容で、人質たちの居場所が三人の王子たちが暮らす、王都東部にある離宮であることがわかったのだ。
それでもまだ、証拠としては、弱い。しかし、王太子殿下はここで賭けに出た。騎士団の精鋭部隊を率いて、三人の王子たちの住まう離宮に突入し、彼らを一気に捕まえたのだ。――離宮の地下室で発見された、絶対的な『証拠』を理由として。
相手は王族。捕縛するにも普通はまず、証拠ありきなのだが……これ以上、時間をかければかけるほど、人質たちが首謀者にとって都合のいいように『処分』されてしまう危険があったため、王太子殿下は人質たち――あるいはその『一部』が離宮から見つかることに、賭けたのだ。
賭けの結果は、王太子殿下の勝利だった。
人質たちを見つける前に捕縛された三人の王子たちや、その協力者と思われる者たち。彼らは地下室から運び出された遺体の数々を見て、自分たちの敗北を悟った。それでも、三人の王子たちだけは、殿下や俺たち騎士に対する罵詈雑言を元気に吐きまくっていたが。
変わり果てた遺体の詳細については、暗殺実行犯たちに告げられなかった。王太子殿下が、それは告げなくていい、と言ったからだ。
監獄に収容されている暗殺実行犯たちには、ただ、人質となっていた彼らの家族が既に殺されていたことだけが伝えられた。
「いや、いいよ。よく考えたら、お前は関わらない方がいい事件だった。
大方解決したが、あんまり……後味のいい事件では、ないからな」
三人の王子が住んでいた、王城よりは小さいものの、十分優美で立派な外観をした王都東部にある離宮、王都の民が『寵花の宮』と呼ぶ場所。
その地下から出てきた、人間としての尊厳を踏みにじられて惨殺された人質たちの姿を思い出して、俺は僅かに顔を歪めた。
王太子殿下は、暗殺実行犯の係累には処刑を行わない、と言っていた。彼らが首謀者たちに脅迫されていたことは、実行犯たちの家族にも伝えられていない。しかし、家族の一人が捕らえられ、別の者が行方不明であるこの状況――大方、ことの次第は予想できているのではないだろうか。それでも暗殺実行犯の家族たちは、沈黙を守っている。下手なことを言って騒げないように、騎士団の監視があるからな。
首謀者たちの裁判がある予定の一ヶ月後。そのときになれば、人質の件は確実に公式に発表されるだろうが、今はまだ秘匿されている。
王太子殿下としてはさっさと公表したいらしいのだが、クレイグ・スタンの身内――スタン伯爵家が揉めていて、まだ公にできないのだ。
あの家もなぁ……。そろそろけじめをつけてくれないと、伯爵家とクレイグの間に立っている殿下とシャイサース殿の堪忍袋の緒が、いい加減切れそうだ。まぁ、確かに醜聞ではあるがなぁ。
そして、レクシスとリュミシス王子が開発した、遠隔地から人の精神を操る効果のある魔法。
この魔法は使用禁止の魔法として、一切の情報について、王家が秘匿・管理することになった。無論、実行犯たちが首謀者に、ある程度操られていたことも完全に秘匿されている。知っているのは、王太子殿下と俺とシャイサース殿と宰相閣下、そして封筒や暗殺指示書の解析に関わった、二名の魔法使いだけだ。
あの魔法について話をしていたとき、俺たちと一緒に殿下の執務室にいたグイードやダグラスには、現在、口を利く権利も手段も与えられていないので、問題ない。あの二人はそのまま処刑されるだろう。
あの魔法の存在については、死んでも口にしてはいけない事実となってしまった。
あのような魔法が実際に存在し、そして今回の事件のような結果を出したことが公になれば、魔法自体が悪用される危険があるのは勿論のこと、それを作り出した『魔法使い』という存在を排斥する動きが起きかねないからだ。多少無理矢理にでも、誤魔化すしかない。
まぁ、魔法のことを抜きにしても、暗殺実行犯たちは処刑を免れることができない。王太子殿下の命を狙い、味方であった騎士や魔法使いに敵対した時点で、既に彼らの未来は尽きているのだ。
「……そう。
…………あの、ジャン。副団長に就任したんですってね? その……おめでとう」
「あ? ああ……。まぁ、お祝いされるようなもんでもないけどな」
元副団長であるダグラスが捕まっているせいで、仕事の引継ぎが未だにまともに行なわれていない。その上、一体いつ休息しているのか分からないほど精力的に動き回る王太子殿下に付いて行く俺は、正直、肉体的にも精神的にもかなり限界だった。
それを見かねて、殿下が今日一日、特別に休暇を下さったのだが……役立たずな副団長で、大変申し訳ない。
まだまだ若いつもりだったが、俺、そういや今年で三十路だよな……。働き盛りのはずなのに、この体たらく。駄目だ。この事件が完全に片付いたら、ちょっと基礎体力をつけ直そう。問題だ、これ。
そんなことを考えていると、緊張したような面持ちで、レーミアが俺に「本当にごめんなさい」と再び謝ってきた。
「わたし、何も知らなくって……。
――ジャンって、ヴィリス公爵家のご子息だったのね」
その言葉に、俺は表情を改めてレーミアを見た。
いつかはバレるかな、とは思っていたが、俺が副団長になったせいで、王城関係者に一気に実家のことが広まってしまったらしい。
レーミアは俺から視線を外して、俯き加減で呟いた。
「全然そういう風に見えないから……。わたし、たくさん失礼なことをしてしまったわ。初めて会ったときだって、ジャンはわたしが城の中で変な貴族に絡まれていたのを助けてくれたのに、わたし、きちんとお礼も言わずに逃げ出してしまって……」
「でも、その後、俺に会いに来てくれただろ?」
かなりびくびくしていたし、魔法使いの同僚を五人も引き連れていたせいで、何事かと思ったが。お礼も、何故か怒鳴りつけるようにして一方的に言われただけだったし。
当時のことを思い出したのか、レーミアは真っ赤になって視線を彷徨わせた。「あれは、その……違うのよ、ほんとはもっとちゃんとしたかったのに……」などと呟いている。何の話だ?
俺とレーミアが初めて会ったのは今から五年くらい前で、以来、それなりに親しくしていたんだが……やはり今回の件があるまで、俺が貴族だとは気がつかなかったようだ。
まぁ、俺は兄さんたちとは違ってガサツだからなぁ。気品も優雅さもない。顔の造りも母親似で美形とはいえないし、髪の毛も母親と同じ黒色だし。唯一、瞳の色だけが父親や兄たちと同じ色の紫だ。
騎士団の奴らもなぁ……。わざわざ俺を指差して「こいつが貴族とか詐欺だ!」って叫ぶ奴もいたくらいだ。いや、自分に気品とか優雅さとかが欠けてる自覚はあるから、気持ちはわかるんだけどさ……。詐欺とまで言われたら、さすがにちょっと傷つく。
真っ赤になってもごもごと呟いていたレーミアは、ふいに顔をあげると、出会いの話から話題を逸らすように、俺に疑問をぶつけてきた。
「それより、ジャンはどうして『デステュ』なんて家名を名乗ってるの?」
「ああ、『デステュ』は母親の実家の家名なんだよ。俺の母さんの実家は、レガイア西部の、ものっすごい田舎の領地の子爵家なんだ。王都にある商家の方が金持ちなくらいの貧乏貴族だよ」
俺の答えに、レーミアが目を丸くした。デステュ子爵家は本当に下っ端の貴族だからな。知名度なんて無いに等しいし、聞いたこともないんだろう。
あー、もう、しょうがないか。レーミアには事情を話しておこう。
「俺の母さんが若い頃、王都に遊びに来てたときに、王都の学院に通っていた父さんが道ですれ違った母さんに一目惚れしちまってな。なんていうか、父さん、頭はいいくせに自分のやりたいことに突っ走る傾向があるんだよなー。一目惚れした母さんのことを必死で口説き落として、何とか結婚までもってったんだよ」
俺の父さん曰く、人生には愛と情熱が必要なのだそうだ。
まぁ、父さんは頭がいいし腹黒いから、そこに若気の至りというか……『愛と情熱』が加わって、誰にも止められない暴走になったんだろう。華やかな王都を楽しそうに見学する母さんの後をつけて滞在先を調べ上げ、毎日毎日母さんに会いに行って口説くとか……俺には真似できないな。うん。
貴族と平民の間に超えられない壁があるように、貴族内にも壁がある。平民の中にだって、貧乏な農家の子と裕福な商家の子とじゃ、壁があるだろう。その壁は、婚姻や就職、仕事の昇進、友人関係に至るまで、様々な場面で立ちふさがるのだ。
血統を重視する貴族の場合、その壁はとても強大なものとなる。あまりに家柄に差がありすぎる貴族同士の婚姻は、その婚姻によって得られるものによほどの利点がない限り、周囲の圧力によって破談になることが多い。
ちなみに、俺の父さん曰く、母さんとの結婚で得られる利点は「私の人生の幸福」だったそうだ。実の父親ながら、意味が分からない。
その意味が分からない利点を力説して、父さんは渋る縁戚連中を黙らせて母さんと結婚した。
具体的には、父さんが幸せになる、よって毎日いきいきと仕事ができる、結果的にヴィリス公爵家は将来安泰――という説明だったらしい。はっきり言って滅茶苦茶な理論だ。それで縁戚連中を黙らせることができたのだから、本当に父さんは口がよくまわる……いや、優秀な人だ。
何度でも言おう、俺にあの父親の真似はできない。うん、絶対無理。
――それで。どうして俺が、敢えて『デステュ』を名乗っているのかというと。
「貧乏領地の弱小子爵家の娘と公爵家の次期当主じゃ、普通は結婚なんかできないんだが……まぁ、どうにか俺の両親は結婚できたんだよ。
でも、デステュ子爵家には母さん以外に子どもがいなかったから、そっちの後継者問題で揉めてな。本当は母さんに婿養子をとる予定だったんだよ。まあ、あんまりいい縁談がなくて、困ってたらしいんだけどな。
色々と話し合いをして、結局、デステュ子爵と子爵夫人がまだ若くて健康だって点に目をつけて、父さんと母さんの間にできた子どもを一人、デステュ子爵家に養子に出すことが決まったんだ。
――それが、三人兄弟の末っ子の俺ってわけ」
その言葉に目を丸くしたレーミアに、思わず苦笑する。
実際に俺が育てられたのは、デステュ子爵家なのだ。自然に恵まれた田舎の領地で、元気な祖父母――当時は義父と義母だったんだが――によって、領民の子どもたちと同じように奔放に育てられたおかげで、俺は兄さんたちとは似ても似つかない性格になってしまった。
俺に貴族らしさがないのは、多分子ども時代のせいだと思う。デステュ子爵は、領地では「ちょっと金持ちな領主さま」程度の扱いで、領民たちととても仲が良い。あそこは人も景色ものんびりした土地なのだ。
苦笑した俺を見て、レーミアは怪訝そうな顔をして、でも、と呟いた。
「騎士は爵位を継げないんじゃ……?」
「あー、それな。実は俺、とっくの昔にデステュ子爵家を離縁されてるんだよ。だから、今は正式にヴィリス公爵家の人間なわけ。
でも、それだと色々面倒くさいから、通称は『ジャン・デステュ』で通してるんだ。デステュ子爵家なんて、王都近辺での知名度は無いに等しいからな。騎士団の名簿に正式に登録されている俺の名前は、ちゃんと『ジャン・ヴィリス』になってる」
しかし、王太子殿下に命じられて、俺をあの日、殿下の執務室に呼び出しに来たシャイサース殿。
彼なら、俺の出自を知っていたはずだ。それなのに、敢えて俺の名前を『ジャン・デステュ』と呼んだ。その真意は――はっきり言って、よくわからない。別にシャイサース殿のことは嫌いじゃないが……なんというか、油断ならない人物ではあると思う。結構過激な性格してそうだし。
貴族連中は腹黒いのが多くて嫌になるなぁと思っていたら、レーミアがぎょっとしたような顔で「離縁?!」と叫んだ。
レーミアが驚くのも無理はない。貴族に限らず、跡取り用に養子縁組した人物が離縁されるなんてことは、よほどのことがない限りは有り得ないからな。
レーミアに視線で「何をしたの?」と問われて、俺は何ともいえない虚しい笑みを浮かべた。
俺に非があったわけじゃない。というか、誰にも非はなかったんだよな。当たり前のことをしてただけで。
離縁の理由は……もう、笑うしかない理由なんだな、これが。
「あー、実はさ。俺が十一歳のときに、母さんの弟が生まれたんだよ」
「……え?」
大きく目を見開いて、ぽかんとするレーミア。
うん、気持ちはわかる。当時、子爵は五十九歳で夫人は四十七歳だったからな。俺も驚いたよ。
「デステュ子爵夫妻は、本当に仲が良くてな。なんというか、まぁ……めでたいことに、母さんとはだいぶ歳が離れてるけど、弟を作ったんだよ。無事に出産できたし、夫人も子どもも健康そのものだったから、よかったんだけどな。
孫じゃなくて息子に家を継がせたいっていう子爵夫妻の主張があって、俺はその年にデステュ子爵家からお払い箱にされて、ヴィリス公爵家に戻ってきたんだ。だから、今の俺は『ジャン・ヴィリス』なわけだ」
「え……」
やっぱりぽかんとしたままのレーミア。
混乱させたか? すまん、でもこれ本当なんだよ。
デステュ子爵家の第二子出産騒動は本当に色々と凄かったんだが、それはもう語るまい。
子どもは授かりものだ。どんなに頑張っても、全然授からないこともある。だが、貴族の当主の妻は跡取りである男子を産むのが一番の務めだとされている。母さん以外に子どもが産めなくて、夫人は長年、かなり苦しんでいたようだ。おまけにその一人娘は名門公爵家の当主に見初められて、手元から離れてしまうし……。待望の跡取り息子が産まれるまで、父さんがデステュ子爵夫妻にかなり恨まれてたのも仕方ないよなぁ。
「じゃあ……ジャンは、どうして騎士になろうと思ったの? お兄さまが次期当主だとしても、ヴィリス公爵家の領地はいくつかあるんでしょう? 別に騎士にならなくても、どこかの領地の代理監督者として裕福に暮らせるんじゃないの?」
「あー……。まぁ、そうなんだけど。なんつーか、俺も若かったんだよ」
「……? ジャンは今でも十分、若いじゃない」
心底不思議そうに言うレーミアに、思わず脱力する。
いや、ぴちぴち二十代前半のお前に言われたら確かに嬉しいんだけどな、その台詞。でも俺、今年で三十路に突入するんだよ。童顔だけど、中身はおっさんなんだって。
……というか、そういう話じゃなくてだな。
「考え方が若かったんだよ。今なら公爵家の人間として、父さんや兄さんたちを支えるのも立派な仕事だと思うんだけどな。急にできた子どものせいで、十三年間生きてきた家から突然離縁されちまって、ちょっと……拗ねてたんだよ、俺も。
離縁についての事情は理解していたし、孫じゃなくて息子に家を継いでもらいたいっていう子爵たちの気持ちもわかってたけどな? ただ、それまでは年に何回か会うだけだった両親や兄さんたちがいる家に、急に連れ戻されてもなぁ……。正直、居場所が無かったと言うか」
そこまで言うと、レーミアの顔が強張った。なんとなく、当時の俺の気持ちが理解できたのかもしれない。
第二子の誕生によって、デステュ子爵家の後継者問題は円満解決できた。皆がみんな、笑顔だった。
――まだガキだった、当時の俺をのぞいては、な。
俺は苦笑して、言葉を続けた。
「父さんたちは優しかったよ。頭が悪くて粗野な俺のことを全然馬鹿にしなかった。
むしろ、公爵家の人間として頭に入れておかないとマズイような、貴族やら王城の事情やらを丁寧に教えてくれた。昔から家族仲はいいんだよ、うちの家」
「そうなんだ……」
「ああ。……でも、館の使用人とか、縁戚関係にある奴らは俺に冷たくてな」
今でも覚えている、奴らの目と言葉。
人を蔑む冷たい目、嘲笑、嫌味に嫌がらせの数々。無視されるってのもあったな。
俺は言葉遣いは乱暴だし、公爵家の子息としてはおおよそ「らしくない」振る舞いばかりしていた。
客観的に見れば、当時の俺はヴィリス公爵家の異端児だった。急な環境の変化で戸惑うことも多かったし、馬鹿にされるのがわかっていたから、社交の場になんぞ絶対に出なかった。
無事に結婚できたとはいえ、貧乏子爵家の令嬢だった母さんを侮る連中はまだ多くいた。でも、父さんや兄さんが目を光らせているせいで迂闊なことはできない。その分、ど田舎の貧乏子爵の跡取りとして十一年間育った俺に降り積もった鬱憤の矛先が向いたんだろう。
「散々嫌味を言われたり、嫌がらせをされたりしてな。俺以外の家族は忙しかったから、そこまで構ってもらえなくて、寂しかったし、辛かったんだよ。
それに、デステュ子爵家からあっさり離縁されたのにも落ち込んでたんだ。俺には何の価値もないのかー、とか思っちまってな。で、こんな家にはいたくないって思って、家族には内緒で十八歳のときに騎士団の入団試験を受けたんだ」
『ジャン・デステュ』の名前で、だが。
「何とかギリギリで合格できたから、俺はこれ幸いと騎士になったわけだ。
騎士になれば、少なくともヴィリス公爵家にいなくてすむからな」
軽く肩を竦めて言い終わると、レーミアは呆気にとられた顔をして俺を見つめた。
「え……。つまり、ジャンはご実家への意地で騎士になったの?」
身も蓋もないレーミアの言い方に、昔の自分の情けなさを誤魔化しながら、苦笑いして頷いた。
――あなたはどうして、騎士になったんですか?――
去年の冬、武器庫で会話したあのとき、俺がアディート・ルクスの問いにすぐに答えられなかったのは、なんとなく恥ずかしかったからだ。
昔の俺は、意地というか、自尊心というか……とにかく『ヴィリス公爵家の子息』以外で自分の価値を見出したかったのだ。それに、騎士という身体を張って民を守る仕事に昔から憧れていて、剣術だけはきちんと稽古していたから、騎士の道を選んだのだ。
騎士への憧れと、自分の居場所を作るため――家から逃げ出すために、俺は騎士になった。
アディート・ルクスの言っていた『騎士になるという約束』。俺の場合は、そんな立派なものではない。実に不純で情けない動機だ。だからあのとき、どうしてもそれをアディート・ルクスに言うことができなかった。
別に、あいつは俺のことを馬鹿にしたりはしなかっただろう。少なくとも、表立っては。
アディート・ルクスは礼儀正しい騎士だった。……度が過ぎて慇懃無礼だった場合も、多々あったが。
あのとき、あいつは俺に正直に騎士になった理由を教えてくれたのだから、俺も正直に言えばよかったと、そう思う。
情けなく笑いながら打ち明ければ、あいつは苦笑したんじゃないだろうか。苦笑して……何を言うのかまでは、わからないけれど。
レーミアは俺の長い打ち明け話を聞いて、ようやく今回の副団長就任の件に納得がいったらしい。ひとつ頷いて、何度か大きく瞬きをした。
「じゃあ、ジャンが副団長になったのって、もしかして……」
「ああ。今の騎士団にいる騎士たちの中で俺の実家の家格が一番高いことと、俺が保守派ではなく殿下寄りの考え方をしているからだ。
絶対に殿下を裏切らず、保守派の騎士たちが表立って文句を付けられない相手だからな、俺は」
身分制度にこだわっている分、保守派の騎士たちは俺に表立って文句を言うことができない。俺の後ろにはヴィリス公爵がいるからだ。ちくちくと嫌味を言われたりはするものの、その程度の害しかない。
レーミアには教えていないが、騎士団の名簿というのは、実は二つある。団長が管理しているものと、副団長が管理しているものだ。俺の『ジャン・ヴィリス』という名前が載っているのは団長――王太子殿下が管理している名簿で、前の副団長であるダグラスが管理していた名簿に乗っている俺の名前は『ジャン・デステュ』となっている。
父さんと母さんは結婚式を挙げず、婚姻証書の提出のみで無理矢理夫婦になった。だから、デステュ子爵家はあまり有名ではない。ヴィリス公爵家と縁を結びたい貴族や商人たちが、デステュ子爵家に取り入ろうと面倒事を起こすのを防ぐために、父さんは母さんの実家についての情報を巧妙に隠している。
だから、ダグラスを含む保守派の騎士たちは俺を公爵家の息子だと知らなかった。保守派の騎士たちは俺が公爵家の息子だと知っていれば、様々な手段で俺を派閥に組み込もうとしただろう。そんなのはごめんだ。
王都にいる威張りくさった貴族連中と、田舎で領地の子どもたちと一緒に自由奔放に育った俺とでは、価値観が全く合わない。俺は公爵家の息子の癖に、貴族連中がどうにも苦手なのだ。
だから、王太子殿下が行なっている、今のレガイア王国の身分制度を緩やかなものに変えていく政策には、かなり期待している。騎士団副団長として、一人の騎士として、微力ながら殿下を支えていくつもりだ。……殿下より先に、体力尽きたけどな。駄目だな、俺。
反省する俺をよそに、レーミアは納得した表情から次第に心配そうな表情に変わっていった。
なんだ?
「どうした? レーミア」
「あ、うん……。
ねぇ、ジャン。ご家族と仲がよかったのなら、勝手に騎士になって怒られたんじゃない?」
「あー……。怒られたっつーか、呆然とされた。父さんと母さんには、青い顔で『騎士を辞めろ』って言われたし。
兄さんたちも、あんまりいい顔はしなかったんだが……それでもあの二人は俺の気持ちを分かってくれて、一緒に両親を説得してくれたんだ。おかげで、なんとか騎士を辞めなくてすんだ」
「そうなの……」
「ああ。でも俺、入団試験のときに『デステュ』の家名で試験を受けたから、それは『ヴィリス』に無理矢理訂正させられたな。だから、同期の奴らも俺の実家のことを知ってる奴は、ほとんどいなかったんだ」
俺の親友――ルークは例外で、相部屋になってすぐくらいに俺の実家のことを話したんだが。
平民から騎士になったルークは、俺が公爵家の息子だと知っても、ごく普通に接してくれている。そのおかげで、他の友人関係にあった騎士たちも、以前と変わらず俺に接してくれている。騙していた罰として、事件が完全に片付いたら酒を奢ることを約束させられたけどな。
「――わたし、ジャンのご家族の気持ち、少し分かるわ」
「は?」
突然、ぽつりとそんな言葉を零したレーミアを不思議に思って見つめると、彼女は悲しそうな顔で言葉を続けた。
「わたしは今回の事件があるまでちゃんと分かっていなかったけど、騎士って命懸けの職業でしょう? 危険な仕事なんてしなくても十分生活できるのに、大事な息子がわざわざ死と隣り合わせの職業を選んでしまったら……すごく、悲しい」
「…………」
……多分、レーミアの言うとおりなんだろう。
家族が俺が騎士になることを反対したのは、俺のことを純粋に心配してくれたからだ。
俺の家族は腹黒くて策謀が得意なくせに、出来損ないの末っ子である俺に対して、滅茶苦茶甘い。
騎士になると告げたとき、「そんなにこの家が嫌なのか」と両親に泣かれたのは、正直かなりきつかった。でも、父さんが権力を使って俺の合格を取り消そうとしたから、大喧嘩になって……。まぁ、色々あったな。うん。
俺のように全然貴族らしくない人間は、政略結婚や政治の手駒として使えない。腹芸なんてできないし、騙しあいの会話は苦痛だ。
誰に言われずとも、俺自身がよく分かっている。俺には、父さんたちのように振舞うことは無理だ。
だから、俺のあの家での価値は本来なら無いに等しいのだが――甘いんだよなぁ、あの人たち。俺なんてとっとと見捨ててしまえばいいのに、どうにかこうにか俺をヴィリス公爵家に留まらせようとしてくれた。
今でも毎回、遠征の前には大量にお守りの類が送られてくる。今回の事件が起きた日も、知らせを受けた兄さんたちが真っ青な顔をして、遠征から帰ってきた俺を王城の隅っこで待ち構えていた。過保護すぎるんだよなぁ、あの人たち。
だが、そういう家族だからこそ、俺も彼らが好きなのだ。
家族が俺の騎士としての昇進に口を挟まない代わりに、俺も家族の力を借りようとはしない。そういう暗黙の了解ができていたのだが、今回の副団長就任の件で、少し微妙になってしまった。
まぁ、政治的な権力関係云々とは無関係に、家族が俺の昇進を祝ってくれたのは、素直に感謝しておいた。父さんや兄さんたちがこれからどう動くのかはよく分からないが、縁戚連中には一応、気をつけておこう。俺相手に急に縁談が何件も寄越されたと父さんがぼやいていた。まったく、今はそれどころじゃないっての。
「わかってるの? ジャン。……本当に、心配なのよ」
眉を寄せてこれからのことに思いを馳せていた俺の意識を、レーミアの不満そうな声が引き戻した。
驚いてレーミアの顔を見つめると、淡い緑の瞳が微かに潤んで、揺れている。
……なんだ?
「ジャンがあの事件があった遠征から帰ってきたとき、わたし、カシム先輩が捕縛されたって聞いて、びっくりしてしまって。魔法使いは全員レクシスさまの部屋に集められて説明があったから、騎士団に行く機会がなくって、ちゃんと言えなかったんだけど……。
――あのね、ジャンがあの遠征から無事に帰って来てくれて、本当に嬉しかった。わたし、ジャンが怪我をしていないか、とても心配していたの」
今更だけど、お帰りなさい。
小さな声でそう言ったレーミアに、俺はゆっくりと目を見開いた。
……心配してくれてたのか。知らなかった。
そう思って、何か言おうと思ったんだが、何を言えばいいのかよくわからない。
もごもごと何回か口を動かして、それから、小さな声で、俺もとりあえず今更だが「ただいま」と言ってみた。
レーミアは、綺麗に微笑んだ。
柔らかくて、優しい笑顔だった。
レーミアはびびりで生意気な奴だが、顔はまぁまぁ可愛いし、素直で真っ直ぐだ。
そして、笑うと本当に可愛くなる。
――ああ、そうか。
ルークや家族以外にも、レーミアが俺のことを待っていてくれたのか。
そう思ったら、不思議と胸の奥が温かくなった。
レーミアは優しく微笑んでいる。
俺も、自然に頬が緩んでいた。
こういう風に自然に笑えたのは、暗殺未遂事件以来、実に久しぶりのことだった。
レーミアが抱えていた花束を捧げて、死んだ騎士たちに祈りを捧げているのを、俺は彼女の後ろでじっと見つめていた。
死んだ十八名の騎士のうち、身寄りのなかった五名の騎士の名が刻まれた墓石。
彼らにも、彼らの無事を祈って、帰りを待っていてくれていた人がいたのだ。
「お帰りなさい」の言葉を、彼らも聞きたかっただろう。
心配してくれていた人たちに、「ただいま」と言いたかっただろう。
痛みに苦しみながら――あるいは満足して、穏やかに死んでいった彼ら。
また、いつか何処かで、彼らと彼らの帰りを待っていた人々が、巡り会えたらいいのに。
祈りの文句にあるように、彼らの再会を願う。
――さらばだ、アディート。また、いつか会おう――
王太子殿下は、アディート・ルクスの死をどう受け止めているのだろう。
死んでしまった他の騎士たちとは、やや違った考えを持っているのではないだろうか。
事件以来、信じられない量の仕事をこなし続けている王太子殿下。
彼が仕事の合間に僅かな時間を無理矢理作って、毎日毎日、ハルカ様に会いに行っていることを知っている。
シャイサース殿は「そんなことに時間を使うくらいなら、仕事をするか寝てくださいよ」と呆れたようにぼやいていた。もちろん、殿下は聞く耳持たず、毎日彼女に会いに行っている。
王太子殿下がハルカ様を構う気持ちも分からなくはない。彼女は、恐らく――アディート・ルクスの、とても大切な人だったから。
――王太子殿下は、ハルカ様に責められたいのではないのだろうか。
なんとなく、俺はそう感じていた。
だから、殿下は彼女を立ち直らせようと、毎日二人で時間を過ごしているのではないだろうか。
ハルカ様はアディート・ルクスの葬儀の日以来、部屋に篭っている。遺品すら残らない状態の死だったから、その場にいなかったハルカ様がアディート・ルクスの死を受け入れるのは、中々難しいだろう。
彼女はまだ、待っているのかもしれない。もう永遠に帰ってこない、あの騎士のことを。
王太子殿下にとっても、アディート・ルクスの死は堪えがたいものだっただろう。
騎士たちに指示を出す殿下は神々しいまでに美しく、自身に満ち溢れていて――事件の前と、全く変わっていない。
臣下を不安にさせない絶対的な自信と力強さをもつ王太子殿下は、本当に立派な方だと思う。
――けれど、その強さが逆に恐ろしい。
親友のような関係だった側近を失って、心が折れない人がいるだろうか。しかも、相手は自分を庇って死んだのだ。
アディート・ルクスの死について、誰も王太子殿下のことを責めない。
あの騎士に身寄りは無く、友人と言えるほど近しい者も殿下以外にはいなかったから。
だから、殿下はハルカ様に責められたいのではないか。
アディート・ルクスを人間らしく変えていった、彼の大事な人だった少女。
王族に膝を折る必要の無い、尊い『光の神の使者』であるハルカ様にだけは、責められて、断罪されたいのではないのだろうか。
――私は替えのきく存在だ――
あの日、執務室で王太子殿下が言った言葉。
もしかしたら、殿下はそれほど王位に固執していないのかもしれない。
しかし、周囲の人間たちの手によって、生まれたときから彼には次期国王の道しか用意されていなかった。それだけのことなのかもしれない。
殿下は色々と常人離れしている方ではあるが、一応普通の人間なのだ。
乞われたからといって、『友の手による最期』と『焼却』を自分の親友であった男に行なって、平静でいられるわけがない。
――殿下も、救いを必要としているのかもしれない。
しかし、殿下がハルカ様の部屋に頻繁に訪れているというのは、確かに問題だろう。
シャイサース殿は、俺の前では王太子殿下のことを『筆頭補佐官』として心配しているが、王太子殿下の従兄弟――『フォルギオ公爵家の長男』としては、「王太子殿下が一人の女性の部屋に通い詰めている」という事実を危険視しているのではないだろうか。
アディート・ルクスが死んだ今、殿下がハルカ様と不用意に親しくしていると、彼女との関係を疑う者も出てくるだろう。シャイサース殿は、それを心配しているのではないか。
何せ、殿下のお妃候補の筆頭はシャイサース殿の妹なのだ。王太子殿下の妃にフォルギオ公爵家の令嬢が納まれば、あの家は二代続けて国王の外戚の地位につくことになる。
そうなれば、確実に王城内は荒れる。
三人の王子たちが捕らえられた今、王位継承権をもつ者は王太子殿下以外におられない。事件が片付けば、殿下の将来の妃の座を巡る争いは激化するだろう。
騎士である俺が口を出せる問題ではないが、できれば王太子殿下やハルカ様が傷つかないようにしてほしい。二人とも、まだアディート・ルクスの死から完全には立ち直っていないだろうから。
空は青く晴れ渡り、空気は澄んでいる。
けれど、今の王城を包んでいる空気は――多くの者が感じ取れていないだけで、危うい熱を孕んでいるのだろう。
俺も一応公爵家の息子だ。貴族や王族関係者の事情はそこそこ詳しい。
だから朧気ながらも、理解している。剣を使わないで戦う、永遠の戦場。それが王のいる場所―― 一国を統べるための権力が集まる場所なのだと。
「あなたといつか、どこかで、また会えますように……」
レーミアの真摯な祈りの声を聞きながら、俺は静かに目を閉じた。
自分にはどうにもできないことを考えても、仕方ない。
俺は騎士なのだ。
まだ、事件解決のためにやるべきことは多々ある。
今の俺にできるのは、事件解決のために動きまわり、騎士団と王太子殿下を支えることと、死んだ騎士たちに祈りの言葉を捧げることだけだ。
小さな光となって長い旅路を往く彼ら。遺された人々の悲しみを癒すことは、俺にはできない。
祈るだけ、見守るだけしかできないのだ。
俺は今回の遠征では無事だったが、次はどうなるかわからない。日常生活においても、王太子殿下の命を狙う輩は、まだまだ潜んでいるだろう。
あのときクレイグ・スタンを止められず、ティタンを救えなかった俺だが――俺は、まだ騎士なのだ。
次は王太子殿下を補佐しながら、騎士団をまとめていく。
お前たちの時間は止まった。もう未来には進めない。だが、生者である俺の時間は進む。
それでもいつか、終わりのときは来るだろう。
だから、俺もいつか何処かでお前たちとまた会えることを、祈っているよ。
騎士の死。
そして、残された一人の騎士の歩む道。




