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教養としての日本近代文学史⑤ 森鷗外、夏目漱石

〇反自然主義 

自然主義の描く醜悪さへの反感。

森鷗外(高踏派)・夏目漱石(余裕派)


森 鷗外(おうがい) 

◇浪漫主義

於母影(おもかげ)

…訳詩集。西欧詩紹介。

「しがらみ草紙(そうし)

…鷗外が創刊した文芸雑誌。停滞する文壇の流れにしがらみをかける(じゃまをする)意味で誌名がつけられた。

「めさまし(くさ)」創刊…「しがらみ草紙」の後継雑誌。

舞姫(まいひめ)」・「うたかたの()」・「(ふみ)づかひ」

即興(そっきょう)詩人(しじん)」…アンデルセンの翻訳

◇反自然主義(高踏派(こうとうは)

「ヰタ・セクスアリス」・「青年」・「妄想」・「(がん)

◻️歴史小説

興津弥五右衛門(おきつやごえもん)の遺書」・「阿部(あべ)一族」・「大塩(おおしお)平八郎(へいはちろう)」・「山椒(さんしょう)大夫(だゆう)」・「最後の一句」

高瀬(たかせ)(ぶね)」・「寒山(かんざん)拾得(じっとく)」・「渋江抽斎(しぶえちゅうさい)」・「伊沢蘭軒(いざわらんけん)


□鷗外の生涯

1862年島根県津和野生まれ。本名・林太郎りんたろう。津和野藩主に代々仕える医者の家系で、幼い頃から学問に励んだ。東京医学校を19歳で卒業後、陸軍軍医に任官し、エリート軍医の道を歩む。


「舞姫」

<梗概>

早くに父を亡くした太田豊太郎は、大学法学部卒業後に国家公務員となり、法律研究のためにベルリンに留学する。ある日、父の葬式代が払えず教会前で泣いているエリスと出会い、太田が腕時計を貸すところから、二人の交際は始まる。エリスとの交際を同僚たちに中傷され、太田は職を失う。親友相沢の助けによって新聞社通信員の職を得た太田は、相沢とともに日本に帰ると約束する。うれしそうに懐妊を告げるエリス。太田は、罪悪感から錯乱状態となり、帰宅後、倒れてしまう。太田の意識がなくなっている間に相沢は、太田の帰国をエリスに告げる。卒倒するエリス。数週間後に意識が戻った太田の前には、狂人となったエリスの姿があった。



夏目 漱石(そうせき)

「吾輩は猫である」

高浜(たかはま)虚子(きょし)の勧めで、虚子主宰の雑誌「ホトトギス」に掲載。

冒頭「吾輩は猫である。名前はまだ無い。」


倫敦塔(ろんどんとう)」・「幻影(まぼろし)(たて)」・「野分(のわき)

「坊っちゃん」・「草枕(くさまくら)」・「虞美人草(ぐびじんそう)」・「坑夫(こうふ)」・「(ゆめ)十夜(じゅうや)

◻️前期三部作(人間のエゴイズムを描く)…「三四郎」・「それから」・「(もん)


「現代日本の開化」

…講演。明治の開化は、西洋文明を模倣した外発的で皮相(ひそう)上滑(うわすべ)りの開化であると批評。

◻️後期三部作…「彼岸過迄(ひがんすぎまで)」・「行人(こうじん)」・「こころ」


「私の個人主義」

…講演。自他両者の尊重の上に成立する「自己本位」の個人主義を説く。

硝子戸(がらすど)(うち)」・「道草」・「明暗(めいあん)」(未完)

倫敦塔(ろんどんとう)」 

…ロンドン留学中に見物したロンドン塔の感想をもとにした物語。


「坊っちゃん」 

…冒頭部「親譲りの無鉄砲で子供の時から損ばかりしている。」

□前半部分のあらすじ

 親譲りの無鉄砲と真っすぐ過ぎる性格で、子供の時から問題ばかり起こし、周囲からいつも問題児として扱われてきた坊っちゃん。唯一、住み込みの女中だけは立派な気性だと褒めてくれ、坊っちゃんのことを何かとかばってくれていた。

 物理学校を卒業した坊っちゃんは、校長から松山の中学に教師の口があるが行かないかと勧められる。鎌倉より遠くに行ったことがない江戸っ子の坊っちゃんだが、特に就職のあても無かったので松山赴任を決める。

 着任早々、校長から生徒の模範になるようにと言われ、模範とはどういうことか聞く。校長の代わりに教頭が教えると「できません」と答えて、教師たちをあ然とさせる坊っちゃん。同僚の数学教師が坊っちゃんの下宿先を世話してやると言う。

 下宿先に向かう途中、坊っちゃんは同僚の英語教師が町一番の美人とひそかに思い合っていて、しかもその女性を教頭も狙っているという話を聞く。田舎にもいろいろとあるものだと思いつつ、いよいよ教べんを執ることになるも、生徒たちとはうまくいかない。

 団子屋で団子を2皿食べたこと、温泉で泳いだことが学校中に知れ渡り、生徒からからかわれる。初めての宿直の夜には生徒たちから蚊帳の中にイナゴを入れられるというイタズラを受ける。やった人間を問い詰めるも、認めようとしない。

「人にも自分にも、嘘をつくのだけは、まっぴらごめんだ」

 やがて、赤シャツの卑劣なはかりごとを知り、ずるいことが許せない坊っちゃんは大暴れする。


草枕(くさまくら)

(「草枕」は、旅先で、草で仮に編んだ枕の意から、旅先で泊ること)

<梗概>

 洋画家が山中の温泉宿に宿泊し、宿の「若い奥様」那美なみと出会う。「今まで見た女のうちでもっともうつくしい所作をする女」那美から、自分の画を描いてほしいと頼まれるが、彼女に「足りないところ」を感じ、彼は描かない。

 再度満州の戦線へと徴集された那美のいとこ・久一きゅういちの出発を見送るため、洋画家は那美と駅へ行く。その時、ホームで偶然に「野武士」のような容貌をした那美の元夫と出会う。元夫は、満州行きの金を那美に貰いに来たとのことだった。那美は発車する汽車の窓ごしに、元夫と一瞬見つめあう。そのとき那美の顔に浮かんだ「憐れ」に対して、洋画家は「それだ、それだ、それが出れば画になりますよ」と「那美さんの肩を叩きながら小声に云う」

□冒頭部「山路を登りながら、こう考えた。に働けばかどが立つ。じょうさおさせば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角とかくに人の世は住みにくい。」


虞美人草(ぐびじんそう)

…「虞美人草」はヒナゲシの別名。虞美人が自決したときの血が、この花になったという伝説がある。「虞美人」は、中国秦末のころの、()王項羽(こうう)の寵姫。劉邦(りゅうほう)と天下を争った項羽が垓下(がいか)で漢軍に包囲されたとき、頸部を切って自殺したという。


<梗概>  本文も紹介します。

 京都へ旅をした甲野欽吾(こうのきんご・27歳、哲学者)と宗近 一(むねちかはじめ・28歳、外交官試験に落第)は、東京への帰路、井上孤堂いのうえこどうとその娘・小夜子(さよこ・21歳)と乗り合わせる。孤堂は、京都の家をたたんで上京し、小野清三(おのせいぞう・27歳、詩人)と小夜子を結婚させるつもりだった。

小野は幼い時に父が死に、孤堂がその生活と学業の面倒を見ていた。大学卒業のとき、恩賜の銀時計を貰うほどの秀才で、甲野藤尾(ふじお・24歳)の家庭教師をしている。藤尾に眩惑される小野。五年ぶりに会った小夜子のみすぼらしさ。小野も小夜子も、以前とは違う位置にいることを感じる。

小野の詩は、一文にもならない。恩人である孤堂先生を世話するためにもと、藤尾との結婚を考える。

藤尾・欽吾・一・糸子(一の妹・22歳・欽吾に好意を持つ)は、連れだって博覧会へ出かけ、茶屋で小野・孤堂・小夜子一行を見かける。美しい小夜子に藤尾の心は揺れる。小野たちは、藤尾たちがいることに気付かない。


○久しぶりに家庭教師にやってきた小野を、藤尾は意地悪く問い詰める。

「夕べ博覧会へおいでに……」とまで思い切った小野さんは、おいでになりましたかにしようか、おいでになったそうですねにしようかのところでちょっとごとついた。(まごついた)

「ええ、行きました」

迷っている男の鼻面をかすめて、黒い影がさっと横切って過ぎた。男はあっと思う間にせんを越されてしまう。仕方がないから、

「奇麗でしたろう」と付ける。

「奇麗でした」と女は明確きっぱり受け留める。後から

「人間も大分奇麗でした」と浴びせるように付け加えた。小野さんは思わず藤尾の顔を見る。少し見当がつきかねるので

「そうでしたか」と言った。

「奇麗な人間も大分見ましたよ」と藤尾は鋭く繰り返した。何となく物騒な句である。なんだか無事に通り抜けられそうにない。男は仕方なしに口をつぐんだ。女も留ったまま動かない。まだ白状しない気かという眼付をして小野さんを見ている。


○一のもとを訪れた欽吾だったが、一は不在だった。その妹・糸子との会話。

「面白かったですか」と甲野さんが聞く。

「ええ」

「何が面白かったですか。イルミネーションがですか」

「ええ、イルミネーションも面白かったけれども……」

「イルミネーションの外に何か面白いものがあったんですか」

「ええ」

「何が」

「でも可笑おかしいわ」と首をかたげて愛らしく笑っている。要領を得ぬ甲野さんも何となく笑いたくなる。

「何ですかその面白かったものは」

「言ってみましょうか」

「言って御覧なさい」

「あの、みんなしてお茶を飲んだでしょう」

「ええ、あのお茶が面白かったんですか」

「御茶じゃないんです。お茶じゃないんですけれどもね」

「ああ」

「あの時小野さんがいらしったでしょう」

「ええ、いました」

「美しい方を連れていらしったでしょう」

「美しい? そう。若い女の人と一緒のようでしたね」

「あの方を御存じでしょう」

「いいえ、知らない」

「あら。だって兄がそう言いましたわ」

「あの女はそんなに美人でしょうかね」

「私は美しいと思いますわ」

「そうかな」と甲野さんは縁側の方を見た。

鷺草さぎそうともすみれともつかぬ花が、ひそかに咲いている)

「美しい花が咲いている」

「どこに」

「あすこに。――そこからは見えない」

「あら」

「奇麗でしょう」

「ええ」

「知らなかったんですか」

「いいえ、ちっとも」

「あんまり小さいから気がつかない。いつ咲いて、いつ消えるか分からない」

「やっぱり桃や桜の方が奇麗でいいのね」

甲野さんは返事をせずに、ただ口のうちで

「憐れな花だ」と言った。糸子は黙っている。

昨夜ゆうべの女のような花だ」と甲野さんは重ねた。

「どうして」と女は不審そうに聞く。男は長い眼を翻してじっと女の顔を見ていたが、やがて、

「あなたは気楽でいい」と真面目に言う。「そうでしょうか」と真面目に答える。

ほめられたのか、くさされたのか分からない。気楽か気楽でないか知らない。気楽がいいものか、悪いものか解しにくい。ただ甲野さんを信じている。信じている人が真面目に言うから、真面目にそうでしょうかと言うより外に道はない。

そうでしょうかを聞いた時、甲野さんは何となくありがたい心持がした。

「いいですよ。それでいい。それでなくっちゃ駄目だ。いつまでもそれでなくっちゃ駄目だ」

糸子は美しい歯をあらわした。

「どうせこうですわ。いつまでたったって、こうですわ」

「そうはいかない」

「だって、是が生まれつきなんだから、いつまでたったって、変わりようがないわ」

「変わります ――おとっさんと兄さんのそばを離れると変わります」

「どうしてでしょうか」

「はなれると、もっと利口に変わります」

「私もっと利口になりたいと思ってるんですわ。利口に変われば変わる方がいいんでしょう。どうかして藤尾さんのようになりたいと思うんですけれども、こんな馬鹿だものだから……」

甲野さんは世に気の毒な顔をして糸子のあどけない口元を見ている。

「藤尾がそんなに羨ましいんですか」

「ええ、本当に羨ましいわ」

「糸子さん」と男は突然優しい調子になった。

「なに」と糸子は打ち解けている。

「藤尾のような女は今の世にありすぎて困るんですよ。気をつけないと危ない。藤尾が一人出ると昨夜のような女を五人殺します。あなたはそれで結構だ。動くと変わります。動いてはいけない」

「動くと?」

「ええ、恋をすると変わります」

女はのどから飛び出しそうなものを、ぐっと飲みくだした。顔は真っ赤になる。

「嫁に行くと変わります」

女はうつむいた。


○小野と結婚し、死んだ父から兄が引き継いだ財産をもらおうと藤尾は考える。欽吾は事あるごとに財産も家もみな藤尾にやるというが、藤尾からそれを催促するのも世間体が悪い。母と藤尾の望みは、兄が家から出て、自分たちは父の財産を受け取り、小野を婿として甲野家に迎え入れるというものだった。藤尾に気がある一だが、藤尾は気に入らない。


○母は、欽吾の部屋へ行く。

「おっかさん。家は藤尾にやりますよ」

「それじゃお前……」

「財産も藤尾にやります。私は何もいらない」

「それじゃ私たちが困るばかりだあね」

「困りますか」

「困りますかって。――私が、死んだおとっさんに済まないじゃないか。じゃ、どうしても家を継ぐ気はないんだねそれほどにお言いなら、仕方がない。じゃ、仕方がないから、お前のことはお前の思い通りにするとして、――藤尾の方だがね」

「ええ」」

「実はあの小野さんがよかろうと思うんだが、どうだろう」

「小野ですか」と言ったぎり、黙った。

「いけまいか」

「いけないこともないでしょう」とゆっくり言う。

「よければ、そう決めようと思うが……」

「いいでしょう」

「いいかい」

「ええ」

「それでようやく安心した」

「おっかさん、藤尾は承知なんでしょうね」

「無論知ってるよ。なぜ」

「宗近はいけないんですか」

「一かい。本来なら一が一番いいんだけれども。――おとっさんと宗近とは、ああいう間柄ではあるしね」

「約束でもありゃしなかったですか。何だかおとっさんが時計をやるとか言ったことがあるように覚えていますが」

「時計?」と母は首を傾げた。

「おとっさんの金時計です。ガーネットの付いている」

「ああ、そうそう。そんなことがあったようだね」と母は思い出した如くに言う。

「一はまだ当てにしているようです」

「そうかい」

「約束があるなら遣らなくっちゃ悪い。義理が欠ける」

「時計は今藤尾が預っているから、私から、よく、そう言っておこう」

「時計もだが、藤尾のことを主に言ってるんです」

「だって藤尾をやろうという約束はまるでないんだよ」

「宗近の方が小野よりおっかさんを大事にします」

「そりゃ、そうかもしれないーーお前の見た目に間違いはあるまいが、他の事と違ってこればかりは親や兄の自由にはいかないもんだからね」

(中略)

「兄さん、何か御用」

「うん。藤尾、この家と、私が父さんから受け継いだ財産はみんなお前にやるよ」

何時いつ

「今日からやる。――その代り、おっかさんの世話はお前がしなければいけない」

「ありがとう」といいながら、また母の方を見る。やはり笑っている。

「お前宗近へ行く気はないか」

「ええ」

「ない? どうしても厭か」

「厭です」

「そうか。――そんなに小野がいいのか」

藤尾はきっとなる。

「それを聞いて何になさる」

「何にもしない。私のためには何にもならないことだ。ただお前のために言ってやるのだ」

「私のために?」と言葉の尻を上げておいて、「そう」とさも軽蔑したように落とす。母ははじめて口を出す。

「兄さんの考えでは、小野さんより一の方が、おっかさんを大事にしてくれるとお言いのだよ」

「兄さん」と藤尾は鋭く欽吾に向かった。「あなた小野さんの性格を知っていらっしゃるか」

「知っている」と静かに言う。

「知ってるもんですか」と立ち上がる。「小野さんは詩人です。高尚な詩人です」

「そうか」

「趣味を解した人です。愛を解した人です。温厚の君子です。――哲学者には分からない人格です。あなたには一さんは分かるでしょう。しかし小野さんの価値ねうちは分かりません。決して分かりません。一さんをほめる人に小野さんの価値が分かるわけがありません。……」

「じゃ小野にするさ」

「無論します」 言い捨てて紫のリボンは戸口の方へ動いた。細い手にノブをぐるりと回すや否や藤尾の姿は深い背景のうちに隠れた。


○一は欽吾の父親からガーネットの飾りの付いた金時計をもらう約束をしており、それは子供の時から藤尾のおもちゃになっていた。一の父と欽吾の父は、一と藤尾の結婚を約束しており、金時計はそれを暗示するものだった。外交官試験に合格した一は、藤尾への結婚の申し入れと、糸子と欽吾の婚約を目指して、甲野家へ向かう。


○小野は、友人の法学士である浅井に、孤堂先生と小夜子に結婚の断りの言葉を伝えるよう依頼する。


〇欽吾と宗近は欽吾の部屋に閉じこもる

「僕のうちへ来ないか」

「君のうちへ行ったって仕方がない」

「厭かい」

「厭じゃないが、仕方がない」

宗近君はじっと甲野さんを見た。

「甲野さん。頼むから来てくれ。僕やおやじのためはとにかく、糸公のために来てやってくれ」

「糸公のために?」

「糸公は君の知己だよ。叔母さんや藤尾さんが君を誤解しても、僕が君を見そこなっても、日本中がことごとく君に迫害を加えても、糸公だけはたしかだよ。糸公は学問も才気も無いが、良く君の値打ちを解している。君の胸の中を知りぬいている。糸公は僕の妹だが、えらい女だ。尊い女だ。糸公は金が一文も無くっても堕落する気遣いの無い女だ。――甲野さん、糸公をもらってやってくれ。家を出てもいい。山の中へ入ってもいい。どこへ行ってどう流浪してもかまわない。何でもいいから糸公を連れていってやってくれ。――僕は責任を持って糸公に受けあって来たんだ。君が言うことを聞いてくれないと妹に合わす顔がない。たった一人の妹を殺さなくっちゃならない。糸公は尊い女だ。誠のある女だ。正直だよ、君のためなら何でもするよ。殺すのはもったいない」

宗近君は骨ばった甲野さんの肩を椅子の上で振り動かした。


○浅井は、孤堂先生と小夜子に結婚の断りの言葉を伝える。孤堂先生は激高し、小夜子は袖の中に顔をうずめて泣く。


○浅井は宗近の家を訪ねる。その後、宗近は小野の家を訪ねる。

「小野さん、さっき浅井が来てね。そのことでわざわざやって来た。――とにかく浅井の言う通りなんだろうね」

「浅井がどう言いましたか」

「小野さん、真面目だよ。いいかね。人間は年に一度くらい真面目にならなくっちゃならない場合がある。上皮うわかわばかりで生きていちゃ、相手にする張り合いがない。また相手にされても詰まるまい。僕は君を相手にするつもりで来たんだよ。いいかね、分かったかい」

「ええ、分かりました」と小野さんはおとなしく答えた。

「君は学問も僕よりできる。頭も僕よりいい。僕は君を尊敬している。尊敬しているから救いに来た」

「救いに……」

「こういう危うい時に、生まれつきをたたき直しておかないと、生涯不安でしまうよ。いくら勉強しても、いくら学者になっても取り返しは付かない。ここだよ、小野さん、真面目になるのは。世の中に真面目は、どんなものか一生知らずに済んでしまう人間がいくらもある。真面目になった後は心持がいいものだよ。君にそういう経験があるかいーーどうだね、小野さん、僕の言うことは分からないかね」

「いえ、分かったです」

「真面目だよ」

「真面目に分かったです」

「そんならいい」

「ありがたいです」

悄然としてうなだれていた小野さんは、此の時居ずまいを正した。顔を上げて宗近君を真向きに見る。瞳は例になくしっかと座っていた。

「真面目な処置は、できるだけ早く、小夜子と結婚するのです。小夜子を捨てては済まんです。孤堂先生にも済まんです。僕が悪かったです。断ったのは全く僕が悪かったです。君に対しても済まんです。これから、すぐ行って謝ってきます」

「だがね、今僕のおやじを井上さんのところへやっておいたから」

「おじさんを?」

「それで、こうしておいたんだがね、――もし談判が整えば、車で御嬢さんを呼びにやるからこっちへよこしてくれって。――来たら、僕のいる前で、お嬢さんに未来の細君だと君の口から明言してやれ」

「やります。こっちから行ってもいいです」

「いや、ここへ呼ぶのはまだ外にも用があるからだ。それが済んだら三人で甲野へ行くんだよ。そうして藤尾さんの前で、もう一遍君が明言するんだ」


○欽吾は甲野家の自室の整理をしている。そこへ母が来て、急な出立に対し「世間へ対して面目がない」からと止めようとする。やがて糸子が欽吾を迎えに来る。その後、宗近・小野・小夜子がやってくる。待ち合わせしていた小野が来ず、怒りの権化となった藤尾が帰ってくる。

「小野さん。なぜいらっしゃらなかったんです」

「行っては済まん事になりました」

小野さんの句切りは例になく明瞭であった。

「約束を守らなければ、説明が要ります」

「約束を守ると大変なことになるから、小野さんはやめたんだよ」と宗近君が言う。

「黙っていらっしゃい。――小野さん、なぜいらっしゃらなかったんです」

宗近君は二三歩大股に歩いてきた。

「僕が紹介してやろう」と一足小野さんを横へ押しのけると、うしろから小さい小夜子が出た。

「藤尾さん、是が小野さんの細君だ」

藤尾の表情は忽然として憎悪となった。憎悪は次第に嫉妬となった。嫉妬の最も深く刻み込まれた時、ぴたりと化石した。

「まだ細君じゃない。ないが早晩細君になる人だ。五年前からの約束だそうだ」

小夜子は泣きはらした目を伏せたまま、細い首を下げる。藤尾は白いこぶしを握ったまま、動かない。

「嘘です。嘘です」と二遍言った。「小野さんは私の夫です。私の未来の夫です。あなたは何を言うんです。失礼な」と言った。

「僕はただ好意上事実を報知するまでさ。ついでに小夜子さんを紹介しようと思って」

「私を侮辱する気ですね」

化石した表情の裏で急に血管が破裂した。紫色の血は再度の怒りを満面に注ぐ。――小野さんはようやく口を開いた。――

「宗近君の言うところはいちいち本当です。これは私の未来の妻に違いありません。――藤尾さん、今日こんにちまでの私は全く軽薄な人間です。あなたにも済みません。小夜子にも済みません。宗近君にも済みません。今日から改めます。真面目な人間になります。どうか許して下さい。新橋へ行けばあなたのためにも、私のためにも悪いです。だから行かなかったのです。許して下さい」

藤尾の表情は三たび変わった。破裂した血管の血は真っ白に吸収されて、侮蔑の色のみが深刻に残った。仮面めんの形は急に崩れる。

「ホヽヽヽ」

ヒステリ性の笑いは窓外の雨をいて高くほとばしった。同時に握るこぶしを厚板(あついた・帯の一種)の奥に差し込む途端にぬらぬらと長い鎖を引き出した。深紅の尾は怪しき光を帯びて、右へ左へ動く。

「じゃ、是はあなたには不要なんですね。ようござんす。――宗近さん、あなたにあげましょう。さあ」

白い手は腕をあらわに、すらりと延びた。時計は赤黒い宗近君のてのひらにしっかと落ちた。宗近君は一歩を暖炉に近く大股に開いた。やっと言うかけ声とともに赤黒いこぶしがくうに躍る。時計は大理石の角で砕けた。

「藤尾さん、僕は時計が欲しいために、こんな酔狂な邪魔をしたんじゃない。小野さん、僕は人の思いをかけた女が欲しいから、こんな悪戯いたずらをしたんじゃない。こう壊してしまえば僕の精神は君らに分かるだろう。なあ甲野さん」

「そうだ」

呆然として立っていた藤尾の顔は急に筋肉が働かなくなった。手が硬くなった。足が硬くなった。中心を失った石像のように椅子を蹴返して、床の上に倒れた。


□明治四十年の六月二十三日、漱石は朝日新聞社の専属作家として初めての長編小説「虞美人草」の連載を開始した。「とにかくやめたきは教師、やりたきは創作」と、読売新聞、朝日新聞をはじめとする各社からの勧誘が相次ぐ中、漱石は専業小説家への道を歩み出していくことになる。第一作となった「虞美人草」は、それまでの知名度に加え、新聞の専属作家を選ぶことの話題性もあり、発表前から注目を集めた。連載に便乗する形で、虞美人草指輪や虞美人草浴衣が販売され、読者から「姉さんのやうに思ってゐる藤尾さんを、どうかうまく救つてやつて下さい」という助命嘆願のファンレターが届くほどの人気だった。


□明治40年7月19日 漱石から弟子の小宮豊隆宛の手紙

「藤尾といふ女にそんなに同情をもつてはいけない。あれは嫌な女だ。詩的であるが大人しくない。徳義心が欠乏した女である。あいつを仕舞に殺すのが一篇の趣意である。うまく殺せなければ助けてやる。然し助かれば猶々(なおなお・ますます)藤尾なるものは駄目な人間になる。だから決してあんな女をいいと思つちやいけない。小夜子といふ女の方がいくら可憐だか分りやしない」。


「門」 

<梗概>

 社会の掟に背いて結婚した二人がその後どのように生きたかを取り上げた話。主人公の野中宗助は学生時代、親友・安井と内縁関係にあった御米を奪い結婚した過去を持つ。道義的な問題から大学を辞めざるをえなかった宗助は、実家や親類ともほとんど付き合いを持たないまま、夫婦でひっそりと暮らしていた。

 宗助は丸の内の役所に通う勤勉な官吏で、勤務時間は朝8時から夕方4時まで。年齢は明示されていないが、30歳前後と思われる。大学中退の下級官吏の暮らしは苦しく、靴底に穴があき雨の日には鬱陶しい思いをしながらも、新調することもままならない。

 宗助の実家はかつて「抱車夫を邸内の長屋に住まはせて」いたほど裕福だった。学生時代は「相当な資産のある東京ものの子弟として」何不自由ない生活を送っていた。それが御米と結婚したために、社会からはじき飛ばされるように広島、福岡へと渡り、友人のつてで東京に職を得て、今は市電の終点駅から徒歩で20分近くかかる借家で、妻・御米と下女・清との三人で暮らしている。

 宗助夫婦は、三度子どもを亡くしている。最初は流産、二人目は早産、三人目死産。妻の御米は易者から「罪が祟ってゐるから、子どもは決して育たない」と言われ、このことが彼女の心に重くのしかかっている。宗助も、現在の家庭は自らの「我執」「エゴイズム」の上に築かれたものであるとの意識から、安息を見いだせないでいる。


彼岸過迄(ひがんすぎまで)

□冒頭部あらすじ

 歳末のある日、黄昏も間近い小川町の停留所にあわただしく降り立った田川敬太郎。この日の午後、友人の須永を介して就職を依頼していた田口から敬太郎が受け取った書状には、探偵の対象の特徴が記されていた。

「今日四時と五時の間に、三田方面から電車に乗って、小川町の停留所で下りる四十恰好(かっこう)の男がある。それは黒の中折(なかおれ)霜降(しもふり)外套(がいとう)を着て、顔の面長(おもなが)い背の高い、()せぎすの紳士で、(まゆ)と眉の間に大きな黒子(ほくろ)がある」。

田口が電車を降りてから二時間以内の行動を監視するようにと命じてきたこの紳士のもっともたしかな特徴は眉間の黒子だけで、師走の雑踏と黄昏どきの薄明かりのなかでそれを確認する困難は十分予測されたにもかかわらず、敬太郎は人物試験をかねたこの探偵の任務をほとんどためらうことなくひきうけてしまった。

 敬太郎の注意を惹いた見知らぬ女は、彼と同じように東の停留所を人待ち顔に行き来する。

 敬太郎の前にようやく姿をあらわした紳士はこの女と連れだって、淡路町の洋食店に入っていく。二人のあとを追った敬太郎は、かれらの親しげな会話に耳を澄ませる。

敬太郎は夜来の雨が降りしきる闇のなかに、紳士(松本)を乗せた人力車を見失う。


「現代日本の開化」

明治の開化は、西洋文明を模倣した外発的で皮相(ひそう)上滑(うわすべ)りの開化であると批評。明治四十四年八月和歌山での講演。

「現代の日本の開化は前に述べた一般の開化とどこが違うかと云うのが問題です。もし一言にしてこの問題を決しようとするならば私はこう断じたい、西洋の開化(すなわち一般の開化)は内発的であって、日本の現代の開化は外発的である。ここに内発的と云うのは内から自然に出て発展するという意味でちょうど花が開くようにおのずから(つぼみ)が破れて花弁が外に向うのを云い、また外発的とは外からおっかぶさった他の力でやむをえず一種の形式を取るのを指したつもりなのです。もう一口説明しますと、西洋の開化は行雲流水のごとく自然に働いているが、御維新後外国と交渉をつけた以後の日本の開化は大分勝手が違います。」


「私の個人主義」

 大正三年十一月二十五日学習院輔仁会(学習院の学生組織)での講演。

「私はこの世に生れた以上何かしなければならん、といって何をして好いか少しも見当がつかない。私はちょうど霧の中に閉じ込められた孤独の人間のように立ち(すく)んでしまったのです。そうしてどこからか一筋の日光が射して来ないかしらんという希望よりも、こちらから探照灯サーチライトを用いてたった一条(ひとすじ)で好いから先まで明らかに見たいという気がしました。ところが不幸にしてどちらの方角を眺めてもぼんやりしているのです。ぼうっとしているのです。あたかも(ふくろ)の中に詰められて出る事のできない人のような気持がするのです。

 私はこうした不安を抱いて大学を卒業し、同じ不安を連れて松山から熊本へ引越し、また同様の不安を胸の底に(たた)んでついに外国まで渡ったのであります。しかしいったん外国へ留学する以上は多少の責任を新たに自覚させられるにはきまっています。それで私はできるだけ骨を折って何かしようと努力しました。しかしどんな本を読んでも依然として自分は嚢の中から出る訳に参りません。この嚢を突き破る錐は倫敦(ロンドン)中探して歩いても見つかりそうになかったのです。私は下宿の一間の中で考えました。つまらないと思いました。いくら書物を読んでも腹の(たし)にはならないのだと(あきら)めました。同時に何のために書物を読むのか自分でもその意味が解らなくなって来ました。

 この時私は始めて文学とはどんなものであるか、その概念を根本的に自力で作り上げるよりほかに、私を救う途はないのだと悟ったのです。今までは全く他人本位で、根のない(うきぐさ)のように、そこいらをでたらめに漂よっていたから、駄目であったという事にようやく気がついたのです。

 私はそれから文芸に対する自己の立脚地(りっきゃくち)(かた)めるため、堅めるというより新らしく建設するために、文芸とは全く(えん)のない書物を読み始めました。一口でいうと、自己本位という四字をようやく考えて、その自己本位を立証するために、科学的な研究やら哲学的の思索に(ふけ)り出したのであります。


□漱石の名言

・人間の目的は生まれた本人が、本人自身のためにつくったものでなければならない。「それから」

・おれの進むべき道があった! ようやく掘り当てた! こういう感投詞を心の底から叫び出される時、あなたがたははじめて心を安んずることができるでしょう。「私の個人主義」

・世の中に片付くなんてものは殆どありゃしない。一遍起った事は何時までも続くのさ。ただ色々な形に変るから、他にも自分にも解らなくなるだけの事さ。「道草」

・君、弱い事を言ってはいけない。僕も弱い男だが、弱いなりに死ぬまでやるのである。(弟子の森田草平宛書簡)

・運命は神の考えることだ。人間は人間らしく働けばそれで結構だ。「虞美人草」

・表面を作る者を世人は偽善者という。偽善者でも何でもよい。表面を作るという事は内部を改良する一種の方法である。「文学評論」


○なぜ漱石は恋愛をテーマとしたのか

漱石はエゴイズムを人間存在の原罪だと考えた。それを西洋文明が顕現化し、自己と他者を厳しく隔絶させるとした。

エゴイズムがもっともはっきりと表れる場面が恋愛であり、それは理性では押さえられない力を持ち、他を蹴落としてでも愛をつかみとろうとする。だからエゴイズムをテーマとした漱石は、恋愛、特に三角関係を描いたのだった。

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