135 理想とは現実なくして存在しえない
ハーブティーを何とか飲み干してから、私は居住まいを正して室長に向き直った。
「あの。それで、梨佳のことなんですけど」
「ああ、そろそろ話しても大丈夫かな」
私の様子をじっと見てから、室長はうなずいた。
「うん、後醍醐さんなんだけどね……」
室長の表情はいつもどおりなので、良い話なのか悪い話なのか読めない。悪かったらどうしよう。
どんな言葉が続くのか、固唾を吞む。と。
「那須野さんっ!」
がっくり。肝心の話に入ろうとしたところで、誰かが部屋に飛び込んできた。
ん? 誰だこれ、見たことないぞ。ていうか、制服? 高校生? なんで高校生がここに?
研究室に飛び込んできたのは見知らぬ男子高校生そして…… そして、なんていうか、なんていうか、ものすごい美少年。色白の肌、ぱっちりした茶色の目、細くやわらかそうな髪の毛。
そこらの女子高生がはだしで逃げていきそうな美しさ。アイドルグループにだってこんな子、ちょっといないよ。少なくとも、『マニアック』で私が作ったプレイヤーキャラクターより数倍、いや数十倍はきれいだ。
イケメンというより美形という言葉が似合うその風情に、思わず私は見とれてしまった。いや、ショタ趣味はないんだけれど。
「あれ、久志さん。学校はどうしたんですか?」
いつもどおりのんびりと尋ねる室長。
「今日の午後から試験休みだから」
久志と呼ばれた美少年は早口に答える。
「学校が終わって、すぐこっちに来たんだ」
「試験休みだったら、おうちに帰って勉強しないとダメですよ」
「病人が出たって聞いたら、落ち着いて勉強なんかしていられないよ」
イライラした口調の少年を見て室長は頭をかいてから、
「その件は、私の管理が行き届きませんでした。ご迷惑をおかけして申し訳ありません」
相手に向かって、丁寧に頭を下げた。
なにこれ、何が起きてるの? なんで乱入してきた高校生に室長が敬語で謝罪を?
私がきょとんとしているのに気が付いて、室長はいつもの気の抜けた感じのほほえみを浮かべ、
「ああ、平群さんは初めて会うのか。久志さん、彼女がアルバイトでテストプレイをしてくれている平群咲さんです。後醍醐さんの紹介で入ってもらったんですが、真面目でよくやってくれています」
「あ、話は聞いてます。江守久志です。よろしくお願いします」
こっちもすごく丁寧に、私に頭を下げてくれる。なんだかわからないままに私もとりあえず頭を下げたが、ホントなんなの、この子誰なの、なんで私は紹介されているの?
「平群さん」
私の疑問をテレパシーで受信したのか、室長がニコニコしながら説明してくれた。
「久志さんは、ここの社長」
……はい?
しゃちょーってなんでしたっけ?
「代表取締役」
あれ、今、私、口に出して聞いたっけ? まだテレパシーを受信されてる? いやそれよりも、え、うそ、この子が社長? どういうこと?
「あ、僕はまだ高校生なので、気軽に久志って名前で呼んでください。江守だと、うちの親族が役員になっているのでややこしいので。お母さんとかおばあちゃんとかが……」
そこは『母や祖母が』と言うところだぞ、少年よ。と思ったが、まだ納得はしていないながら室長から告げられた『社長』という肩書が私の口をつぐませた。
「学校と兼業だけど、経営にはきちんと取り組んでいます。未熟でご心配をかけると思いますが、よろしくお願いします」
すごくさわやかに宣言されたけど、結局よくわからん。え、この子が私にバイト代を払ってくれてるわけ? なんなのこの子。石油王なの?
「平群さん」
室長がかんでふくめるような口調で私の耳元でささやいた。
「久志さんのおじいさんは、×××× のグループ会長なんですよ」
告げられたのは、日本で暮らして知らないひとはいないだろうトップ企業の名前だった。
「で、久志さんは後継候補のひとりでね。経験を積むためってことで、おじいさんが出資なさってこの会社を立ち上げて経営しているんです」
「あ、あの!」
何が話されているのかはだいたい察したのだろう、美少年社長は声を張り上げた。
「頼りないと思いますが、みんなが笑顔で働けて、夢を形にできるような会社を目指してがんばっているので。ブラックには絶対にしないので、安心してこれからもアルバイトしてほしいです」
なんか今、宇宙を見たような気がしたが。
話を整理しよう。
つまり、彼はある意味石油王だった。(以上)
そして…… つまり、何か。そんな、高校生の自由研究みたいな感じで立ち上げられた会社だから、ここはこんなにフワフワしてるのか。会社がもうけを一円も出していないのに、社員に給料を払い続けているというミラクルが起きているのは、そのせいなのか!
断言しよう。
この会社は、彼に経験を積ませただけで終わるに違いない。『売り上げを出さずに給料だけ払っていたら会社はつぶれる』という、積まなくても普通は想像がつくだろう経験を。
安心しろ、と彼は言う。甲子園で選手宣誓をするような美しい目でそれを言う。
だがしかし。それは無理な相談というものである。
彼の理想は確かに美しい。しかし、美しい理想とは堅実な土台の上になければ花開かないものなのだ。
そのとき私の目にはハッキリと見えていた、この研究室が近い将来、砂漠の蜃気楼のように消え去る光景が。




