小春の失敗
けたたましい目覚まし時計の音と凍てつくような寒さで藤野慧は目を覚ました。
薄い掛け布団を体に巻き付けてゆっくり上半身を起こし、薄ぼけた視界の中部屋を見渡すと一瞬視界の隅に見慣れないものを捉える。
そこには羽毛布団の塊があった。
「…?」
慧にはそれがなんなのかすぐには分からなかった。
だがその羽毛布団がもぞりと動き、中から黒髪が覗いた刹那、昨夜のことが全てフラッシュバックし、それが何であるか一瞬にして理解した。
そうだ、自分はあの不思議な少年をあろうことか家に招き入れたのだ。
見れば、少年は小さな口を薄くあけ寝息をたてながらすやすやと寝ている。
寝顔だけみれば天使のようだな、と慧はらしくもないことを思ったが、なる程確かに少年は紛れもなく天使のように愛らしく無邪気な顔をしていた。
「はあ…」
慧は大きな溜息と共に昨夜の記憶をを吐き出した。
昨夜――
「大丈夫?」
抑揚のない声と瞳で覗き込まれ、はっとした慧は目の前の少年から目を逸らすほかなかった。
だが、この少年を放置し死体を片づけ始めるわけにもいかない。
いっそ殺すべきだろうか。
それにしても左目から流れる涙が止まらない。
少年に指摘されるまでもなく、慧は自分が涙を流していることに気付いていた。
とうの昔に失ってしまったと思っていた涙を。
今更になって、と毒づきこそするものの流れる涙をどうこうしようとは思わなかったが、やはり邪魔であった。
右手でそれを拭っている時、常に周囲に張り巡らせていた緊張がそれてしまったのか、慧は少年の接近を許してしまったのだ。
「お兄さん?」
「……君、名前は…」
「名前?小春、小さく春」
「こばる…?」
変わった名だ。
空に指をなぞらせて書いた漢字が形もなく浮いている。
見た目は変わったところはないが、普通その漢字なら“こはる”ではないだろうか。
心中で首を傾げながら、慧は続けた。
「なんで…こんな時間に…?」
慧の問いに腕を組んで悩む仕草を見せると、少し間をおいてから
「おれには家無いから。今日は無いから」
と、抑揚なく答えた。
その言葉の真意が掴めなかったが、これ以上の問答に果たして意味があるのか、慧にはそちらの方が重要だった。
時間かせぎをする必要などどこにもないのだ。
なにしろすでに、どこから小春が見ていたのかは分からないが、慧は見られてはならないものを目撃されてしまっている。
引き返すことなどもうできない。
「ねえ、お兄さん、おれのも答えてよ」
少し苛立たしげに小春は返答を促した。
だが、慧は答える義務はないしそんなことを考えている余裕もなく、一言だけ「これを殺しているんだよ」とだけ返した。
そう、まだ終わってなどいないのだ。
慧はまだ第一の殺人さえを終えていない。それなのに、訳の分からない子供の戯言にいつまでも付き合っていられなかった。
これ以上望まない殺人をしたいとも思わない。
「お兄さん、殺したんじゃないよね」
てきとうにあしらおうとし始めていた慧にどこか得意気に小春は何度目かの問いかけをした。
「おれには“食べてる”ようにみえたんだけど…」
みえたんだけど、のだけどの部分は殆ど聞き取れなかった。
言い終える前に小さなその口を慧が左手で押さえつけたのである。
勢いがついていたため、小春の軽い体はそのまま慧に押し倒されるかたちになった。
見られていた。
それすらも。
慧は焦りを隠せなかった。
どくどくと強く速く心臓が跳ねる。
額から汗が一筋涙と混ざって落ちた。
自分より倍はがたいのある大人が馬乗りになっているため、小春は内臓が潰れるような気持ち悪さを感じたが、明らかに先程までと様子の違う慧に怯えたのか大人しくしている。
2人を包む夜の間に沈黙が訪れた。
ざああ…
人間が騒がなければ、風はこんなにも健気に木を撫でる。
慧は小春を見ていなかった。
小春の頭の先、公園の出入り口の奥、ビールケースの詰まれた居酒屋の裏の路地、そのもっと先。
何も無いぼやけた視界の先をただ凝視していた。
左手の中で酸素を求め、小春が必死に手をどけようともがいているが気にしなかった。
一人殺すのも二人殺すのも同じか…
そしてやっと目線を下ろし小春と目を合わせたかと思うと、ぐっとその白い顔に己の顔を近付け触れるか触れないかの距離で自分の口の周りに付着した血液をゆっくり舐めとった。
乾きだしていたそれは、ひどいサビの味だ。
小春の大きな目と細い首がびく、と恐縮するのが分かり、慧は何故か歪んだ征服感に満たされた。
慧は血の味に飢えていた。
彼は重度のヴァンパイアフィリアだった。




