六之五
部屋に入って座った碧に、虎太夫がぼそぼそと小声で話し始めた。
忍屋敷と云っても、ただの民家にすぎない。
云ってみれば、藤林の忍たちが情報を持ち寄る集会所のような場所であった。一階は土間に三部屋ほどしかないし、二階にはふた部屋あるだけなので、ちょっと大声で話せばどこにいても聞こえてしまうような小さな町家だった。
ゆえに小声での会話になった。
特殊な訓練を受けた碧たちは、それで充分意思疎通ができる。
襖一枚向こうにいるお菜美には、何か会話をしていることがわかったとしても、話の内容までは聞き取ることはできまい。
虎太夫は、
「中を見るのははばかられますが、宛名などは確認いたしましょう」と碧から受け取った袱紗を開いて、「まず、お菜美さんの云っていることに嘘いつわりはないでしょう」
「では、どちらへの?」
「ひとつは公方様、もう一通は大坂の秀頼公宛ですな」
と彼は二通の書状を碧の前に並べて置いた。
「とすると、奪われた最後の一通は……」
「大御所様に宛てたものとみて間違いはありますまい」
碧は、大きな吐息をついた。
よりによって、肝心要の一通を持ち去られてしまったことになる。
この度の大坂合戦では、ほぼすべての決定権を大御所徳川家康が持っている。
将軍である秀忠でさえ、戦の進退を決する権限はないと云っていい。
「しかし、えらい拾い物をされましたな」
「ええ、私もいささか後悔しております」
「関わらねばすんだ話でしょうが、関わってしまった以上、公儀の末節とはいえ与力する我らとしては、放っておくことはできませんしな。なんにせよ、我らの独断でどうこうできる案件ではありません。頭領からお指図を仰がねば」
「独断になってしまっても、やはり最後の一通は取り返しましょう」
「気負いすぎじゃありませんか」
「気負ってなどおりません。取り返してから大坂に持っていくのが合理的だと思うだけです。市蔵殿が高台院様からどのようなお云いつけを持ち帰ってくるかにもよりますが」
「剣呑ではありますなあ」
「あの盗賊……、いえあの三人組は盗賊と云うより、用心棒か傭兵かと思われる雰囲気でした」
「やり手とみますか」
「まず、間違いなく。あの者らは、お菜美さんの風呂敷の中身が書状であることを知っていました。おそらく、高台院様がお手ずからしたためられたものであるということも、宛先がどちらかも知っていたとみてよいでしょう」
「裏で何者かが糸を引いているようですな」
「でしょうね」
そうこうしているうちに、探索に出た伊助が戻って来た。
彼が云うには、三人組は逃げも隠れもせず、堂々と港の一角に陣を張るように居座っていて、橋での騒動に加わった人足たち数人に喧嘩を売られるのを、追っ払ったりしているそうだ。
「どういう魂胆でしょう?」
碧は小首をかしげざるをえなかった。
「おそらく、夜を待って、検問を抜けて船で大坂に逃走するつもりでしょうな」と云って虎太夫はちょっと思案してから、「向こうには小吉を残してあるな」
「へい」
「よし伊助、お前も戻って監視を続けろ、何かあったらすぐに知らせろ」
「へい」
「よろしくお願いします」
と軽く頭をさげた碧に伊助は照れたように微笑んで、飛ぶように出て行った。
それから碧と虎太夫はあらゆるパターンを想定して作戦を練った。
「わしがもう少し若ければ、書状の一枚や二枚、たやすく取り返してみせますに」
「私がやりますので、虎太夫殿は支援をお願いします」
「お嬢は討魔忍でしょう、魔物とはわけが違いますぞ。こういう仕事には向いていますまい」
「ですが、小吉さんも伊助さんも、諜報専門です。私以外に作戦をこなせそうな者はおりませんから」討魔忍を見くだすような言動をした虎太夫に対して、碧はいささかむきになって云った。
「お嬢を危険な目に合わせると、わしが頭領から叱られます」
「兄には、私自身が謝っておきます」
そこへ、京の高台寺に使いに行った市蔵が帰ってきて、出された白湯を喉を鳴らして飲んだ。往復四里を駆けてきたであろうに、老年にあるにも関わらず、息ひとつあがっていない。
「やはり、高台院様の書状で間違いございませんでした」
「院様に、直接お会いできましたか?」
「いえ、お付きの方を通してでした」
「そうですか」碧はちょっと残念そうに眼をふせた。
「高台院様におかれましては、すべてこちらに任せるとの仰せで」
「決まりですね。虎太夫殿、手筈通りにいきましょう」
「いいんですね、お嬢、頭領に怒られても虎はかばいませんぞ」
「かまいません」
と云って碧はふと思い出したように、
「市蔵殿、鶫はまだいけませんか」
「本人はいつもどおりにしているつもりなのでしょうが、ところどころ気が抜けたような失敗をしていますよ」
「まさか、あの鶫が男に袖にされて落ち込むとは思いもよりませんでした」
「まあ、これに懲りて男に余計な色目など使わず、おとなしくわしの孫といっしょになってくれれば御の字ですな」
「うふふ、そうですね」




