幻夢
イツマデ
イツマデ
怪鳥が鳴く
イツマデ
イツマデ
赤銅の太陽
滅紫の空
妖雲はたなびく
赫い空は大地を侵し
大地は人を侵す
死者は血にまみれ
生者は血涙にまみれる
穿つ
また穿つ
小さな鍬が振られる
穴がひろがる
掌が血にまみれる
少年は鍬を振る
イツマデ
イツマデ
怪鳥は鳴く
――なぜ、いま、そんな記憶が蘇ったのだろう。
不安のせいだろうか。
それとも、この船に満ちた妖気のせいだろうか――。
男は、暗灰色の忍装束に身を包んで闇に溶け込んでいた。相貌を隠す覆面の間からのぞく切れ長の目をせわしなく動かして、間断なく周囲に注意を払いつつ、にじり寄るようにして、その扉の前に立った。
ガレオン船の下層の、奥の、また奥。
外はもとより暗闇に包まれていた。
三日月のか細い光を覆い隠してしまう厚い雲が天蓋を覆っていて、常人の眼では普通に道を歩くことすら困難な暗夜であったが、船内に入れば、おぼろな月影すらもなく、もはや修練を積み重ねた有能な忍である彼の眼をもってしても、部屋の構造や乱雑に置かれている積み荷の配置を完全に認識するのは困難だった。
右も左もわからない、ともすれば前進しているのか後退しているのかさえ判別不能なほどの闇黒、いつの間に冥界に堕ちたかと錯覚するほどの空漠――。
それでもこの扉にたどり着けたのは、部屋の内から発せられる異様な気配を男の鋭敏な感覚が察したからか、でなければ、この中で待ち受ける何かに引き寄せられたのか。
ここに来るまでに、配下が全滅していた。
手練れが三人。
みな、戦場で荒武者と対峙してもまったく引けをとらない、優秀な忍だった。であるのに、得体のしれない力をもった、妖異に取りつかれでもしたような南蛮の船員たちに殺されていった。あっさりと……。
船内は、肌にまとわりつくような湿気と、澱んだ空気が充満していた。
男は、汗ばんだ右手で船員の血の滴る刀の柄を強く握りしめ、もう一方の手のひらをゆっくりと顔の前にもってくると、覆面の隙間から指をいれて、額に浮いた汗をそっとぬぐった。
そしてその手で、静かに、慎重に、扉を開いた。
瞬間、眼がくらんだ。
部屋は群青の光に満ちていた。
いや、落ち着いた視線で見渡せば、光っているのはわずかに三カ所。
部屋の隅に、燐火のような火の玉が燃えていた。
それは、ほんのわずかな明るさで、不気味な蒼さで、薪とか油とか何を燃やしているでもなく、ただ燃えて宙に浮いていて、微細な火の粉が音もなく天井へと舞い上がっていたのだった。
蒼黒く染まった幽暗な八畳ほどの部屋の反対側で、かすかな人の、――おそらく人であろう生き物のわずかに身じろぐ気配がした。
男は、じっと目を凝らした。
その凝視を不快に感じるようすもなく、曇った鏡のように鈍い光を宿す、くすんだ瞳で、その生き物もこちらを見返してきたのがわかった。
眼が慣れてきた。
そこに、南蛮人の神父とみえる男がひとり。
衣服の前をはだけて、痩せて衰えた胸を見せていて、寝台に座って気怠そうに壁にもたれて、その身体からは生気のようなものはまるで感じられなかった。
透き通るような肌をして、死相の浮いたような顔をして、髭の生い茂った隙間からのぞく気力のない眼で、静かに忍を見返してくるのだった。
あきらかに死にかけていた。
生きているのが不思議なくらいの顔つきだった。
「ここに到達する者がいたのか」
ふいに神父の口から、流暢な日本語が流れ出た。
それはかすれて意思すら感じられないような無味な声音だったけれども、忍の男は、わずかに眼を揺らがせた。
胸のネックレスがきらりと燐光を反射して、忍の眼を射た。
左と下の端の部分が欠けた十字架の、銀のロザリオだった。
神父は忍の男を見つめていた。
何か品さだめでもするような眼差しだった。
神父は、ゆっくりと立ち上がった。
そして、緩慢に、一歩一歩、足をひとつ踏み出すのが精いっぱいとでもいうように、ひたひたと床を踏んで歩み寄ってくるのだった。
「力が欲しくはないか」
神父は、部屋の中ほどまで来ると、低く闇にしみ込むような声で云った。
「お前に力をやろう。世界を変えるほどの力を」
忍の男は、眼をそっと細めた。
冷笑とも苦笑ともとれる笑みを覆面の中で浮かべた様子だった。
――かつて、同じ言葉を聞いた。
あの日、この忍が少年だったころ、赤銅色の空の下で、同じ言葉を口にした老人がいた。
そして少年は力を手に入れた。
忍は身構えを解いて、すっと背を立てた。
南蛮人は、また数歩、近づいた。
忍の眼は、いつのまにか部屋の燐火を吸い取ったような光を宿して異様に煌めいていた。
顔の覆面を、決然とした態度で剥ぎ取った。
異様なまでに整った顔貌がそこにある。
その秀麗な眉目が、妖気を含んだ蒼白い燐光に照らされ、妖艶に、壮絶に、暗闇に浮かび、わずかに、――ほんのわずかに口の端をゆがめた。
その薄い笑みには、もしこの場に常人がいて目撃したならば、きっと背筋を凍りつかせたであろう、妖しさが滲んでいた。
そっと腕をあげて、掌を上に開いて、南蛮人に向けて差し伸ばした。
花神恭之介は、そしてまた力を手に入れようとしていた。




