三之十四
――どうしたというのだろう。
碧の目の前にいた巫女は、「ええい良いところで」などと何かをなじった直後、ふいに距離を取ったと思ったら、なにやらひとりごとをつぶやき始めた。
そうしてそれが終わったと思えば、今度はじっとこちらを見ているのに、けっしてその瞳には碧はうつっておらず、何も見ていないというよりも、まるで魂がどこかへ抜け出てしまったかのような虚ろな様子であった。
だからといって、碧を捕らえた触手はその力をゆるめるようではなく、しかし、捕らえているだけで、秘部をさすり舐めていた先端は意思を失ったように動きをとめていたのだった。
ちょっとの間、観察を続けていると、今度は、
「なんじゃこの娘は。かがみこんで何をしておるのじゃ」
などとつぶやいている。
――今しかない。
碧は、思った。
巫女は完全に意識が別の方向にむいている。
今なら、この不気味にうねる触手の緊縛から抜け出せるかもしれない。
碧は眼をつぶった。
「旋律の律動……」
唱えるようにつぶやいて、まるで意識を沈殿させていくように、精神を――魂心体の律動を整えはじめた。
この触手に流れる律動を碧自身が読み取り、読み取ったうえで、それと反発する律動を体内で生成し、放出する。
と……。
今まで身体中に絡みついていた触手が、何かにはじかれたように、束縛をいっせいにゆるめた。
碧はするりと地面に降り立って、ほっと吐息をつく。
気味の悪い感触の触手から離れられたのは云うまでもなく、純潔が奪われずに済んだことへの安堵の吐息であった。
だが、
「ぬ?……おぬし今、何をした」
触手へ抵抗したことに気が付いたようで、意識をこちらに切り替えたのだろう、巫女が驚き、
「おのれ、手加減しておればいい気になりおって……」
巫女――各務の妖麗な相貌が、見る間に悪鬼のようにゆがんでいく。
――恭之介様は、この女忍者を殺すなと云う。必ず役に立つ手駒になる、だから殺すな、と。だがしかし……。
各務の眼に、憎悪の炎が燃え上がった。
今この場でこの女を縊り殺してくれよう。でなければ、今後、我々の障害になり続けるに違いないのだ。殺してしまうべきなのだ――。
「怨魔閻羅様。この娘、殺めてしまいなされ。若い娘なら、ほかにふたりもおりますでな。こやつを始末してから、存分に味わいなさればよろしかろう」
そうして、背中からふさふさと真っ白な紙垂がつけられた大麻を取り出して、祝詞をあげるように、眼前で振りながら、
「かけまくもかしこき、高天原を追放されし八百万の邪鬼邪神たちよ、聞し召せ。諸々の禍ごと罪穢れ、祓いたまえ清めたまえ。かしこみかしこみ申す!」
対象が邪鬼邪神であるため、祝詞と云うべきか祓詞と云うべきかは筆者にはわからないが、ともかく、各務がその文言を唱えると、邪鬼邪神の一柱である、彼女を守護する怨魔閻羅が、その触手を激しくうごめかしはじめた。
霧のベールの向こうから、凄まじい速度で何本もの触手が碧にむかって走ってくる。碧に絡みついていた時の、蒟蒻のようだった質感は変化し、革の鞭のような硬さとしなりと破壊力をもって、次々に襲い来る。
槍のように突き出される触手を、碧はくるりと翻って躱す。上空から薙刀のようにうなりをあげて襲い来る触手を、横に跳躍して躱す。足元を打つものを飛んで躱し、胴を薙ぐものを後方宙返りして躱す。
「ぬう……」
各務が眉をひそめる。
――先ほどは虚をついたので、簡単に絡め取れたのであろうか。……いや違う。
先ほどとは確実に何かが違っている。
各務は、碧の纏う、妖気のようなものに気が付いた。
「魂心体の律動」
つぶやいた碧が背中の宝刀暁星丸と腰の忍刀を抜く。
「しゃらくさいわっ!」
各務の叫声とともに、さらに無数の触手が襲い来る。
碧は、それらを飛んで避け、地に転がって避け、避けつつも両手の刀を一閃、二閃、きらりきらりと霧の中で刃がきらめくたびに、触手が斬り落とされる。
「ぬうう」
各務は唇を噛んだ。その赤い皮膚をさらに血で赤くして。




