九之二十
この蜘蛛鬼は断崖など平然と這い伝って動くことができる。こんな状況で襲われれば、文字通り奈落の底まで落ちていくはめになるだろう。
ふたりは息を殺し、気配を殺し、自分を周囲の岩に溶け込ませるようにして蜘蛛鬼が去るのを待った。
嵐の喰い込ませるように岩をつかむ手の、力を込めた指先が徐々にしびれてきた。額から流れる汗が眼に入る。首筋を這う汗が胸元をつたい落ちていく。運動神経抜群の嵐も、腕が振るえはじめた。こうして岩につかまったままじっとしているよりも、息が切れるほど身体を動かしていたほうが、ずっと楽なくらいであった。
もう限界だ、と嵐は思った。
ひと息に崖を登って、鬼と闘おう。
そう決心した刹那、巨大な頭が崖の端から引っ込んで、草木を踏み分ける足音とともに気配が遠のいていった。
ほっと安堵の溜め息をついて、ふたりはふたたび岩登りを開始した。
そしてその時、左の崖の向こう、尾根に沿って西に二町半(二百五十メートル)ばかりの位置にある頂上の周辺が青黒い光に包まれたのが認められた。
――これは急いだほうがよさそうだ。
もうちょっと西へと崖をつたって山頂に近づきたいところであるが、この先はまた断崖が反り返っていて、ここで一直線に上まで登ってしまうより道はなさそうだ。
意を決すると、嵐は弾丸のような勢いで崖を登り崖の上に跳ねあがった。
そうしてそのまま、崖っぷちで両膝をついた。手で膝をつかみしめて肘をつっぱって肩で息をして、さすがの嵐も疲労困憊であった。
が、すぐにあえぐ息を、無理矢理にとめざるを得ない凶事が目前に切迫しつつあることに気がついた。
前方五、六間の木々の間に、先ほど立ち去ったと思われた蜘蛛鬼が、涎を垂れ流しながら獲物を待ち構えていた。しかもその後ろの藪のなかから同族が三、四匹、ずるずると這い出してきた。七、八尺もの巨体が並んで、まるで壁が押し寄せるように、重い圧力を持って迫りくる。
続いてひいひいいいながら登ってきた鬼巌坊が、嵐の後ろで、
「まったく、手ぐらい貸したらどうじゃ。年長者をいたわれと……」
のこりの軽口を、生つばとともに飲み込んだ。
「こりゃあ、突っ切るほかなさそうじゃのう」
マホシヒコの吸収した魂は、台の後方に精気なくでたたずむ陽女神子ことあぐり姫にむけてそそがれている。そしてその霊魂があぐりの全身を満たすとともに、その小さな身体がしだいに浮き上がってきているのだった。
「マホシヒコ!」
憎悪の塊のような叫び声をほとばしらせながら碧が信者たちの間を縫って、舞台へと近づいてくる。
舞台の片隅で、鶫は舌打ちをした。行動を起こす機をうかがっていたのに、これでは綿密に練り上げた計画が一瞬で瓦解してしまう。
怒りにまかせて無謀に突き進んでくるなど、やはり私がそばにいないとあの娘は判断に過誤をきたすのではなかろうか。
碧の身体は全身白く輝いている。
マホシヒコの槍から発せられる、青白い光と正反対の波動をもつ旋律の律動を発して、霊力が吸収されるのをふせいでいるのだ。
その突進してくる光球をみとめたカヌタヒトが、マホシヒコの前にまわって、碧を待ち受けた。奥底に意思の強さをあらわした鋭利な光を持った細い眼で獲物を捕らえ、線は細いがバネのような瞬発性を感じさせる身体の、その腰を落とした。その背には、長巻を負っていた。薙刀と刀の中間のような武器で、その柄は三尺半はあろうかという長いもので、刃も太刀のように反りが強く身の厚いものであった。カヌタヒトは右手でその長い柄を握った。
抜刀術の構えであった。
碧がその広大な間合いに入った瞬間に、彼女の身体は上下に分断されることになるだろう。
カヌタヒトの姿が眼に入らないのか、碧はずんずんマホシヒコへ向けて、放たれた征矢のように進んでくる。信者の群れの最前列に達すると同時に、その身体が跳ねた。跳ねた身体は弧を描いて、カヌタヒトの間合いへと落ちてくる。
落ちながら碧は後ろ腰の短刀に手をまわした。
カヌタヒトは確実にしとめようと充分に碧を引きつける。
鶫はふたりの間に割って入ろうと、短刀を手に飛びだした。
ふたりの持つ得物が引き抜かれようとした瞬間。
舞台の北方、つまり碧の左手のほうから大勢の叫声と何かが破壊されるような轟音があがった。
碧もカヌタヒトも、飛び出しかけた鶫も一瞬気がそがれた。
カヌタヒトの抜き打ちの一閃は空を切って、碧は舞台のうえに着地しそのまま彼の足元まで滑り込んだ。
鶫は飛び出した勢いをとめられず、そのまま碧のところまで走り込んで、転がる碧を両手でつかみ、渾身の力で放り上げた。
空を切ったカヌタヒトの刃はくるりと返って碧を襲ったが、斬り割ったのは舞台の床であった。
そうして、碧が放り投げられた先には……。
「どけどけっ!」
舞台に並んでいた幹部たちを突き飛ばしながら、嵐が走り込んできた。いや、逃げ込んできたと云ったほうが正確であろう。
その後ろには、数匹の蜘蛛鬼が、四つん這いに這って土煙をあげ地響きとともに追いすがってくる。




